旅行8

 

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北    京

平成二十二年(二〇一〇年)

四月四日(日曜日)晴れ

 

五時半に目が覚めた。急いで朝を済ませ最後の点検をしていると早九時を過ぎる。MKさんは九時四十分の予約だった。荷物を引っ張って玄関ロビーで待っていると間もなくバスがやってきた。

十一時三十分関空到着。搭乗手続きを済ませる。

十二時過ぎに食堂街でうどんセットを食べ、十三時二十分中国航空CA九二八便に乗り込む。十四時前に離陸。席は窓際だったし、外はよく晴れていた。

十五時に時差を修正一時間針を進める。コーヒーが出て、まもなく(ついさきほど関空の食堂で食べたところだったが)機内食が配られた。肉か魚のチョイスだったが、「魚」と注文すると、片言の日本語で、「うなぎ」とささやいてくれた。確かに金糸卵を振りかけたうな重だった。十六時過ぎ北京空港に着陸する。入国手続きを済ませ、十七時頃ロビーで待っていてくれた現地のガイドさん(男性)に引率されて総勢三十人がバスに乗り込んだ。ガイドさんの名前は呂と一の下に文と書いてロビンさん。日本語はうまいが、低音で少し聞き取りにくい。空港から二時間ほど掛けて市内の新世紀日航飯店(ホテル)に十九時ごろチェックインする。「日航」は日本の「日本航空」とは無関係とのこと。一応五つ星で、外観もフロントも立派だった。客室は一七階まであり、私たちの部屋は五階の519号室。窓の景色もまずまずで、今日から五日間お世話になるわけだ。夕食はホテル四階の大食堂で、家庭料理と水餃子を戴く。まだみんなと馴染みがないまま、静かに食事した。

部屋の調度品はまずまずだが、風呂栓が壊れている。テレビは三十チャンネルあるが日本語放送は(NHK)一チャンネルのみ。室温調節が出来ない。夜中が寒い。五つ星ホテルだと言うがこれもあやしい。

真夜中まで寝付けなかった。

 

 

四月五日(月曜日)晴れ夜に小雨

 

五時半に起床。持ってきた梅干しでお茶を沸かして飲む。

六時半から食堂でバイキング朝食。品数は日本のように多くない。窓の外は少しもやっているようだ。

八時バス出発。ガイドさんに部屋が寒かったこと、バスの栓が故障していることをクレームしておく。すぐにフロントに電話してくれた。さて今晩どうなっていることか?

あちこちに、日本のカラスくらいの頻度でカササギを見かける。バスは、おととし北京オリンピックのメイン会場となった「鳥の巣」の前で止めてくれて各自写真撮影させてくれる。そこから十五分足らずで北京郊外の世界遺産頤和園(いわえん)を訪れる。人工湖のある西太后の離宮で、主に夏の避暑地に使っていたそうだ。元々歴代皇帝の庭園だったが、1860年英仏連合軍に破壊され、西太后が海軍の予算から膨大な費用を割いて再建させた。寝室から母屋まで700メートルに屋根つきの回廊を作らせている。我々はその片側に立って先を遠望するだけだった。

そのあと翡翠の店に立ち寄ってそこで四十分ほど過ごす。もちろん講釈を聞き展示即売である。

十時二十分に再びバスに乗り込み、十一時十五分ごろこれも世界遺産「殷の十三陵」に出掛ける。明時代十三代にわたる皇帝の陵墓群の一つ。1956年に定陵の地下宮殿が発掘され一般公開されている。そこで一時間ほど見物する。円形墳墓の地下に石造りの立派な墓所があり、十階建くらいの階段を上り下りする。

七宝焼きの店を見物したあと、十三時を過ぎにようやく「金殿餐庁」という店で飲茶料理の昼食を摂る。

食後またバスに乗り込んで小一時間走り、十四時四十分ごろ、すごいスピードで上下するロープウエーに六人ずつ押し込まれ、万里の長城に登る。全長八千八百キロの世界最長の建造物である。北方騎馬民族の侵入を防ぐ目的で造ったものを、秦の始皇帝がつなぎ合わせて完成させた。長城の中でも特に人気の高い八達嶺(海抜八百メートル)と呼ばれるところがロープウエーの終着点だ。先日訪中のアメリカのオバマ大統領は歩いて登ったとか。私にはとても無理だ。見物人が列をなして人並みに押されるようにして狭い道を上下する。遠方は少し黄砂でけぶって見える。

十六時にバスに戻って、そこから一時間半ほどかけて四川料理の店に行く。マーボ豆腐が付いているが、似たような料理だ。テーブルに着いた八人の一人から提案があり、それぞれ短い自己紹介をする。滋賀、奈良、大阪、兵庫、我々京都、と偶然出身地はばらばらだ。お蔭で少し親密になる。一時間ほどいて、バス出発。そのころから小雨がぱらつきだした。一行のうちオプションで雑技団を観る人を途中で下し、我々は二十時ごろホテルに戻る。万歩計を見ると一万二千歩を越えていた。風呂の栓は一応修理してあったし、寒さ対策として毛布を置いてくれていた。中国では今時分はどこのホテルとも夜の暖房は入れてないとのこと。

 

 

四月六日(火曜日)晴れ

 

六時前に起床。窓の外は雲ひとつない。

七時に朝食に降りる。

八時四十五分にバス出発。快晴である。昨夜の雨が黄砂を清め、流してくれたようだ。

先ず天安門広場に降り立つ。広場は観光客で溢れかえっていた。衛兵があちこちに立っている。とにかく広い。天安門の正面には人の三倍の高さの毛沢東の肖像画が掲げてある。門をくぐると、その先に世界遺産の故宮博物院がある。旧称の紫禁城である。歩けど歩けど長い一直線上に、門や宮や殿が立ち並ぶ様は一種異様だ。午門は歴史博物院、内廷は故宮博物館として一般公開されている。その一隅に案内されたところが掛け軸店で、ながながと説明されたうえに掛け軸の販売をする。中国で書道ナンバー2の先生が座っていて、最後に字を一字書き上げてみせ、実演販売である。うちのグループの一人が「無」を所望すると、即座に先生が書き上げた。表装してホテルに届けてくれるそうである。一字三万円なり。

見学を終わってバスに乗り込むまでの間、物売りとおねだりに付きまとわれる。大抵が北京の写真集とか十枚千円のハンケチなど。「焼き芋」も売っている。物貰いは、小さな子供とか、盲目で杖をついた男の子を連れた母親が寄ってきてひつこく中国語で訴える。ガイドさんは「無視してください。同情を示すとますます勢いを増すから」と注意する。

十三時半に「黒松なにがし」という日本料理屋で日本食を食べる。私はご飯に天婦羅の定食、桂子は焼き鯖の定食を摂った。天婦羅は日本式で上手にからっと揚がっている。焼き鯖も脂が乗っていてうまい。

そのあと茶房でウーロン茶の飲み方の講習を受けるが、そのあとは言うまでもなくお茶の販売である。

十五時二十分ごろ北京動物園に到着。パンダ館を見学。テレビでは見慣れているが、考えてみれば生のパンダを見るのは生まれて初めてだった。一頭ずつが二檻、さらに七頭が一棟に居住していた。

ここの出口あたりの木にオナガの飛ぶのを確認する。

続いて十六時半ごろ寝具の店に立ち寄り、ゴム製枕とベッドパッドの説明を受け、広い展示場に二十台ばかり並べられたベッドに靴のまま寝かされ、桂子が心地よいというので、枕二つを買うことになる。枕は圧縮機で空気を抜くと半分ほどの容量になり持ち運びには支障はなかった。

十八時、「天壇御膳」で清王朝の宮廷風料理なる夕食を食べる。どこが宮廷風なのか先からの飲茶料理と大してかわりがない。

そのあとオプションを申し込んだ我々は京劇を観賞する。五百席ほどの座席の八割ぐらい埋まっていた。外題は二つ。一つは男に追われている若い娘が、小舟の船頭に助けを乞う。銅貨で五文を値切ると娘を舟に乗せたまま自分は舟を降りて昼飯を食いに行くという。しかたなしにさらに二文追加で支払うとやっとこぎ出してくれる。船頭はオールだけしかもっていないのだが、娘との息の合った芸で小舟が動くさまがユーモラスに表現される。もう一つは孫悟空の立ち回り。決めどころで見栄をを切り、拍手が少ないと催促する。約一時間半。

ホテル帰着は二十一時十分だった。今日も一万二千歩を歩いた。

 

 

四月七日(水曜日)晴れ

 

七時に朝食を摂る。

昨日ほど空気は澄んでいない。やはり黄砂が再び舞っているのだろうか?

八時バス出発。まず真珠店に立ち寄る。ここの休憩も長い。結局ここでもみんなはめられて買い物をしている。

そのあとで九時半ごろ天壇公園に到着。明、清の時代に皇帝が五穀豊穣を祈った所だという。周囲約六キロに及ぶ広大な公園である。平日というのに人で溢れ、長い回廊のヘリに腰掛けてひしめくようにトランプをしている。将棋らしきもの、碁も打っている。ドミノをしている人もいる。賭けているわけではないらしい。暇を潰しているのだ。

昔、皇帝が天に祈ったと伝えられる天心石、声がこだまするように響くというの真ん中に立って我がちにみんなが記念写真を撮っていた。

ここでも物売りが何人も寄ってくる。羽子板の羽根の大きなのを巧みに足の甲でけり上げて診せて、四つで十元だと言う。日本円で百四十円だ。何人かが買っていたので桂子も買う。バスに戻ると、隣の人は七個十元で買ったとのこと。

「古代博物館」に入ったら、説明を聞いているうちに突然置物が十個ほど入ったガラス棚を「ワンセット百七十万円で買いませんか!」と商売を始めたのにはびっくりした。

十二時半、昼食。刀削麺や猫耳麺などの山西麺料理。

十四時ごろ溝公園に到着。ここも入口に柵があり入場料を取る。風がきつく黄砂除けにマスクを付けるように言われた。日中事変の発端となった有名な溝橋の下はもとは川が流れていたそうだが、今は堤防を作って水を貯め川のイメージだけ残している。欄干には獅子の石像が並んでいるが、一つとして同じ表情がない。バスの駐車場の近くに、爆弾型をした高さ一メートルほどの石碑が何十と並んでいる。その一つ一つに日中戦争の犠牲者のことが、「何々村で何人の家族が虐殺された」とか書かれているらしい。ガイドさんはあまり多くを説明しなかった。

そのあと、周口店の原人遺跡を見に行く。北京原人自身は戦時中に行方不明になったとか。採掘現場の崖にも降り立った。これも世界遺産に登録されている。

バスの中でロジンさんが翡翠の印章の商売を始めた、彫上げて磁器製の印肉入れも付いて百元というので緑色のを桂子が注文した。

夕食は「全聚徳」という料理屋で北京ダックと北京料理を食べる。身が薄くて特別にうまいものでもなかった。

あと、カンフーを観る人を会場まで送って、我々は七時半ごろホテルに帰ってくる。

明日は早朝にチェックアウトするので、トランクを整理する。

 

 

四月八日(木曜日)晴れ

 

五時に起床。五時四十分にはすべてを点検して、トランクを引っ張ってフロントに降りる。ガイドのロビンさんも間もなく降りてきて、朝食の弁当箱を一人ずつに配りながら、いつでもバスに乗り込んでいいと言った。弁当のケースはまるでショートケーキでも入っていそうな格好の良い物だったが、バスの座席で開いてみると、中身はバナナ一本、小さなパン三個、ジャムとバターに、水のボトルが一本と、味気ないものだった。それでも腹こしらえをしないといけないので、みんなさっそく食べ出した。

六時過ぎにはバスがホテルを後にする。

バスの中で、昨日注文した桂子の印章を受け取る。一夜で彫ったにしてはなかなかのものだ。

七時半には北京空港に到着した。

出国手続きにeチケットなるものが要るというので、我々は大騒ぎでトランクをかきまわすが、見当たらない。青くなっていたら、ロビンさん、

「なければないで、別段いいですよ」

とのこと。事実それなしで問題なくパスポートだけで検閲は終わった。ところがその次にもう一か所はパスポート、搭乗券、外国人出国カードの3点セットが必要というので、またまた出国カードが見当たらない。汗を掻き掻き探していると、またロビンさんが寄ってきて、

「なければ検査の前に用紙があるからもう一度書けばいいです」

と教えてくれた。結局そこも無事通過する。

やれやれ、あとは手荷物検査である。桂子はすいすいと行ったらしいが、私はなぜか止められて、身体検査を受ける。えらい時間が掛かってようやく解放された。服を着、リックを担げて搭乗口まで電車に乗る。電車を降りてからもかなりの距離を歩き、歩く歩道にも乗り、ようやく搭乗口付近に辿りつき、ソファーに座ったとたん思い出す。ビデオカメラの鞄がないことを!桂子といっしょに慌てて道を逆走する。途中でトイレに入ったので、そこも覗いてみる。もちろんない。思い出した。荷物検査が長引き、慌ててビデオカメラを置き忘れたのだ。さらに冷静に振り返ると、リックを肩に掛けた時、すでに他には荷物はなかった。その時すでに盗られていたに違いない。

「まあ、命がないわけでなし…しょうがない」

と桂子が慰めてくれた。

飛行機は滑走路が混んでいて約一時間出発が遅れたが、九時半頃離陸した。最後の最後でがっかりの旅だった。

北京の空で時計の針を一時間進める。

十三時過ぎに関空に到着。そこで念のため係員に聞いてみたが、

「お気の毒ですが、見当たらないようで、たとえあっても送り返しはできません。北京に取りにいかなければなりません」

との答えだった。

MKタクシーでマンションに戻ったのが十五時半だった。

トランクを開けてみて、書類袋にeチケットも出国カードも両方とも入っていた。

座敷机の上にゆき子のメモが載っていて、

「おかえりなさい。六日の夕方に庭に水を撒いておきました」

と書いてあった。

 

 

 

 

 

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