単身赴任1

 

 

 

 

 

 

単身赴任日記

第一章 冬から春へ

2005.03.11再編集 掲載開始 

 

1991年(平成3年)

一  月

 

「おめでとうございます。お早いですね。」

賄さんが笑顔を返してくれた。澄ましのお雑煮と濃口醤油の煮しめがあった。薄ぐらい社員食堂に数人が押し黙って食事していた。

事務所はまだあまり出勤していなかった。この二日間は販売用お節を総出で詰め、それぞれ分担して顧客に配送した。みんな疲れた顔をしていた。その売上金が合わなくて昨夜は経理が十時まで居残りしたがまだ合わないままだと下川係長が言った。晴れ着の彼女は今朝は十時から、宿泊客向けのお琴の演奏があるのでやきもきしていた。

十時から、本館屋上に祭られている稲荷神社への参拝行事に管理職一同は参加しないといけなかった。屋上は風が強かった。お供えの大根が転げ落ちる。総務部長が慌てていた。その騒ぎの最中に下川係長が、「お金合いました。」と報告にきた。これで何とか昼から帰れるとほっとする。京都の自宅に帰ることは昨夜から取締役に断ってある。十時半からはシャトルバスで五百メートルほど長良川を遡ったほとりにある当ホテル新館に移動しそこの屋上の稲荷神社にも参拝する。信仰厚い人達だ。安藤取締役の司会で、本館では社長が月初めの訓示を垂れ、新館では専務が社長の訓示をなぞって訓示した。さらにご丁寧にも、シャトルバスに乗って岐阜市内の伊奈波神社へ社長以下私も含め十二三人の有志が初詣でに出掛け、祈梼を受ける。

社に帰って十二時から七階サロンで、昨日作った当社のおせちを広げて品評会の名目で幹部だけで乾杯をするのが慣わしだった。一時半までうだうだとお節の品定めをして、終わりかけたところで、取締役が気をきかせて、

「沢村さん、もう帰っていいですよ。」と耳元で囁いてくれた。

お陰で十五時五分のこだまに乗れた。家の夕食に間に合い、子供の頃から身体が覚えている薄味のおせちを家族とともに味わった。

 

朝、目覚めるとそこは我が家だった。白味噌と中味噌をブレンドした味噌雑煮の香りが漂っている。輪切りのネズミ大根と小芋が入っていた。それに白いままの茹でた餅を入れて鰹節をふり掛ける。一年ごとの懐かしい味だ。やはりうちの雑煮が一番いい。

昼に客が来るので家内がばたばたしだす。見かねて私も家の中の整理の手伝いをする。我が家は正月でもあり、長男の婚礼が間近に迫ってもいた。

きっと疲れていたのだと思う。礼子が突然長女と言い争いを始めた。詳しい経緯は私にも分らないが、佐和子が沢村家のやり方を批判したとかで、二人とも次第に言い募り、佐和子は泣き出してしまった。よく分からぬままに私が宥めてなんとか娘夫婦をマンションに帰す。しばらくして引き返して来た婿が、渡すのを忘れてたと、短大生のすみ子にお年王をくれた。いやに気の利く婿だった。

あとで礼子に親子喧嘩の理由をただしたが、結局要領を得なかった。

 

翌日、九時に起き出したが、風邪気昧で気分が悪い。朝食後二階のベッドに潜り込んで少し寝る。

昼からは、婚礼当日の京都側出席者のために、新幹線の切符等を買い出掛けなければならない。礼子と京都駅に出向くつもりだったが、体がぐったりしていて、立ちあがるにも全身が気だるく感じる。家内が一人で行ってくれることになった。全部で十二人の京都東京間往復分二十四枚、しめて約三十万円なり。改めてびっくりしてしまう。

私はベッドに潜り込んだり、こたつにもぐりこんだりして、そのうち日が暮れ、夕飯は昨日のすき焼きの残りを食べた。食欲はまだあるから大丈夫だろう。

迷ったが、明日は新年互礼会があるので、やはり岐阜へ出掛けることにする。夜の帳の下りた八時に家を出て、ひかり60号で羽島に向かった。新幹線の車内はまだ正月気分が漂っていたが、羽島から名鉄に乗り換えると、雰囲気はがらりと暗く陰気に変わった。長良河畔ホテルに帰りついたら十時過ぎだった。着くなりパジャマに着替え風邪薬をコップの水で食道へ流し込み床に就く。そのとたん佐和子から電話が掛かってきた。私の風邪を気にしていたが自分も風邪を引いたらしい。昨日の喧嘩のことを、いろいろ弁解して私に、「ごめん」と謝るが、あまり深く聞かず、お母さんに明日にでも電話を掛けなさいと言って切った。

 

七時前から目を覚ましていて、ようやく八時に床を畳む。冬場でも寮室はカーテンが薄く、どうも夜明けが早い。テレビを点けると相変わらずイラクのクウェート侵攻がトップニュースで報じられていた。戦争のキナ臭い空気が拡散していた。

体が熱っぽい。もう一度風邪薬を飲もうかと思ったが、仕事中眠くなるので止めておく。社員食堂へ降りて朝食を摂る。食欲は普通だった。辛そうな煮しめがまだ大皿に残っていた。

「自由に食べてくださいよ。」

賄の小母さんが単身赴任の私に気遣って勧めてくれる。

十時半から七階グリルで新年の互礼会。正月早々から腹を立てているような口調の社長の挨拶が長々と続く。私はアルコールは口にせず、早めに事務所に引き上げた。椅子に座って仕事をしている方が気持ちが落ち着く。取締役は互礼会のあと役所廻りに出かけて戻ってこない。私にいっしょに来ませんかとは誘わない。どうせこの職場は二年間の「腰掛け」だから、と私は割り切り、取締役もそう思っているのだろう。

そのまま夜の九時まで残業する。

社宅に帰り、敷きっぱなしの布団に潜り込んで、すぐに寝た。

 

起き抜けの身体は心持ち軽かった。今日は土曜日、夕方までがんばれば家に帰れる。日曜ごとに新幹線で帰省することが、長良河畔ホテルとの間の約束事だった。私はその権利を忠実に行使している。

十時半から総務経理部会だったが、うちの太田課長は休みなので、特に私から発言することもなかった。会議の好きな会社だった。特に総務部と経理部は同じ事務所で机を並べて仕事をしているのだから、相談事ならお互いその場で声を掛け合えば事足りるのにと思えた。しかも、取締役も総務部長もあちこちへ正月の挨拶回りが多いので二人とも早々に中座してしまう。

「沢村さん、来年からは一緒に廻ってくださいよ。」

背広を引っ掛けながら、ガチョウのようにばたばたと、それでも楽しそうに飛び出して行く。こういう仕事を絶対手放すものか。私は私で、こんなとこ来年は「さいなら」だ、と心の中で呟いた。

私の司会で会議は一応進行したが、下川係長はしらけて横を向き、ろくに口もきかない。私も意地で五時五分前まで引き伸ばし、きっちり五時で仕事を切り上げた。

ユニホームを脱ぎ捨て着替えをすると、バスで羽島まで行き、六時五分のこだまに飛び乗った。

 

日曜日。

十一時半ごろ岩佐の叔父叔母と従妹が祝いに来てくれる。勝男からもお祝いを貰った。松茂のにぎりをとって皆さんに食べてもらう。従妹の上の娘が出席してくれるのは承知していたが、妹の方も行きたがっているという。「自前でどうぞ」とも、定員オーバーとも言えないので来てもらうことになった。切符が一枚足りなくなり、皆が帰った後、礼子と二人で京都駅に出掛ける。出たついでに、近鉄デパートの地下で事務所への土産に六方焼きを買い、食堂でしっぽくうどんを食べて帰る。

身体が重いので明日休む決心をする。長良川に戻る時間の午後八時が過ぎ、やっと落ち着いた。もう今からでは間に合わない・・・と、ゆっくりとテレビを見る。イラクのフセイン大統領がクウェートからの撤退を拒否した。ドイツが空軍をイラクの隣国トルコに派遣することとなったようだ。もう戦争は避けられそうもない。

 

八時過ぎに起き、朝食を摂ってから、九時に安藤取締役に電話する。

「ハイ!長良河畔ホテルでございます。」

彼の声は惚れ惚れする張りのある声だ。

「沢村ですが。風邪をひいて、少々熱もありまして・・・」

それに引き替え私の声は元々風邪引き声だった。

「それはいけませんね。ゆっくり静養してください。」

台所から出てきて礼子が指で丸を作り、「OK?」と聞く。私は頷く。

電話を切ったとたん、身体中の力が抜けて熱っぽくなってきた。本当の風邪の症状だ。二階のベッドに潜り込み、そのまま夕方近くまでぐっすり寝る。

 

今日も休む決心を固め、家内から海音寺部長に電話してもらう。昨日の安藤取締役の言葉とまったく同様に、「ご心配なく、ゆっくり静養してください。」との返事だった。

M医院に薬を貰いに行く。「インフルエンザがはやっとりますよ。」と、いつも先生は愛想がよい。長々と様子を聞いてくれ、私の説明に相槌を打ってくれる。私だけにではない。どの患者にもとことん話を聞くので、いつも診察時間が長引いた。

二時過ぎに佐和子がやってきて、母の手作りの雑煮を旨そうに食べた。この間の親子の争いはウソのようである。私は二階のベッドで夕方まで寝る。薬のおかげで、とめどなく豚のようによく寝られた。

晩は水炊きを食べ、少し汗をかき、八時二十五分のこだまで岐阜へ戻る。

 

寮室の万年床を片付ける気にはならない。六畳が二た間あるので別段困ることはなかった。買い置きがなくなっており、京都から持ってきた食パンをトーストして食べる。

二日間休んだので取締役と総務部長に頭を下げ、お土産の六方焼きの菓子折りを下川係長に手渡した。

「まあ!いつもすいません。部長の京都のお菓子、いつも心待ちしてるんだわね。」

と大げさに喜んでくれた。

風邪薬のせいで午前中ぼうっとしている。がんばるしかない。しかし皆黙って私の休みの空白を埋めてくれている。私は素知らん顔をして自分の仕事だけをした。

昼休みに、久しぶりに卵を買いに出た。市場は賑わっていた。みかんを、「おいしいよ」と勧められ、十個買ったら、「一つオマケ。」 どうしてか知らないが八百屋のご主人は私に愛想がいい。長良河畔ホテルに勤めていると言った覚えもないし、京都出身と打ち明けたこともない。分らないけど、悪い気もしないので、「ありがとう。」と貰っておく。ついでに少し足を伸ばしてクリーニング屋に寄りカッターシャツ三枚を受け出してくる。

 

ジュネーブでのベーカー米国務長官とアジズ・イラク外相の会議が物別れに終わったらしい。この寮室の共聴設備はなんと衛星放送が入る。アメリカのCNN放送を同時通訳でほぼ一日中放映していた。その同時通訳が美人だからよけい楽しい。

今朝もトースト。昨日買った卵を二つ目玉焼きする。風邪はほぼ収まったようだ。

今日は鏡開きで、ホテルのホールなどに飾られていたお鏡餅が小さく切られて、三時に社員食堂で食券いらずの餅入りぜんざいが振る舞われた。誘いに応じて私は二杯目をお代わりした。

従業員には一ヶ月分の食事用金券が月始めに支給される。私のように時に三食いただく者には追加の食券も売ってくれるし、食券が余れば、社員食堂で菓子類を食券で購うことができた。だから、仕事中にチューインガムを噛んでいてもあまり文句を言われない。むしろ売上に貢献していることになる。食事にも少し高めの特別メニューがあって、やきそば定食などが好評を博していた。食券の売上高は部課長会議で発表されるので、社員食堂の小母さんも、「社員を客と思って愛想よくしなさい。」ということになる。

 

今朝は目玉焼きと、餅を焼いて醤油につけて食べる。醤油餅は子供の頃よく食べた。四つも五つも食べた記憶がある。それが近頃さっぱり食べなくなっていた。でも食べてみると懐かしく旨いものだ。

昼、社員食堂へ行くと、「昨日の残りのぜんざいがあるけどいりませんか?」とすすめられる。しかし断った。朝に焼き餅を食べたので、そうは餅ばかりは胃腸によくない。

償却資産の明細表がやっと完成する。すべてが手作業だから数字合わせが大変だ。むろん昔はどこの会社も手計算だったが、ここ数年で大抵のところではパソコンが導入されていて、安いソフトも出回っている。それをここでは手書きで算盤計算なのだ。もちろん算盤は近頃卓上計算機に代わっていて、誰も彼も計算機の扱いは慣れたものだ。私は電卓は下手だし、そうかと言って算盤もうまくない。早く言えば生れつきにして不器用だった。いつも下川係長が私の手許をじろじろ見る。若作りで可愛い顔をしているが、内面はやはり子持ちの年増だ。それでもなんとか部長の面目に賭けて償却計算をやりとげた。

夜、部屋に帰ってテレビを点けると、フセイン大統領がクウェートからの無条件撤退を改めて拒否したと報じている。もう時間の問題だった。

 

夜、久し振りに風呂を沸かそうとして火を点けたが、二三分後ふと気が付いて慌てて覗きに行く。案の定水を張り忘れていた。危ないところで空焚きするところだった。ところが、失敗はそれで終わらなかった。今度は水を張りながらちょっとテレビのニュースを見ていたら、廊下を小走りに駆けつけたにもかかわらず、浴室の床まで水が溢れてしまっていた。水道を止め、新しいタオルを五枚も使って床の水を吸い取り、絞ってはまた吸い取る。ようやく床の水が拭き取れたので、やれやれと再度スイッチを入れたが、どうしたことか火が点かない。風呂釜がおかしくなったようだ。えらいことをしたものだ。報告しないでは済まない。明日営繕係に頼むのにどんな言い訳をしょうかと頭を巡らせた。

無い知恵を空回りさせたためか、頭が痒くてしようがない。そう言えば風邪を引いていたこともあってここしばらく風呂に入っていない。がまんできなくて、台所に行き、流しの湯沸かしで湯を出しながら頭を洗った。ついでに湯を溜めて身体も拭いたら、台所の板間がびしゃびしゃになった。

 

出勤したらN君だけだった。日曜日で取締役もお休みで、私はのんびりした気分で月次決算の準備に一日を過ごした。

一時ごろになって総務のK君と海音寺部長がやってきて、明日の成人式の準備を始める。この会社は、二十歳になった社員のために独自に成人式を行い、祝いの品を社長から贈呈して祝賀する。うちのT君も確かその一人だった。

今日は五時半に社員食堂へ行き、六時前には久々に早く仕事を終えて社宅に引き上げる。営繕は日曜で休みのため風呂の修理を頼めなかったが、一日伸ばしでもいずれ明日には事の次第を申告しなければならないのだから気が重い。ひょっとして、と期待を込めて風呂を点けてみたら、何と、ボッと火が点いて直っていた。多分、ガス管に少量の水が入ったのが一日のうちに乾燥して抜けたのだろう。胸のつかえが下りて、久し振りにゆっくりと風呂に浸かる。そのあと下着の洗濯もして、これ見よがしにガレージ側の窓の外にパンツとシャツを靡かせた。

飲めないくせに缶ビールの栓を開け、足利尊氏の大河ドラマをじっくり見る。九時のニュースで、デグエヤル国連事務総長がフセイン大統領と会談したが、不調に終わったと報じていた。

 

ゆうべ少し雪が降ったようだ。窓から見る屋根に雪が積もっていた。急いで昨夜干した下着を取り入れるが生乾きで凍っていた。窓の下は従業員用の駐車場だったが、ここにも周囲に雪が残っていた。岐阜というところは完全な車社会で、一家に三台とかは珍しくない。従業員用ガレージといえども京都では考えられないほど広く、アルバイトも車で通勤して来る。もちろん取締役も自家用車で通って来て下のガレージに駐車する。だから寮室にいて、彼が出勤して来たか否かがすぐ判った。車から出て、背広の袖に腕を通しながら事務所に向かう取締役を偶然二階から目撃することもある。すると、その背の低さと、せっかちな性格がことさら強調されて見えた。

長良河畔ホテルが出資もし、食堂を経営している谷汲カントリーは、雪が降ると休むことが多く、今日で十日間の休業である。

午後一時半から、成人式のあと部課長会議。会議場の暖房が効き過ぎていて、寒かろうと腹に巻いた「ドント」が熱くて堪らないので、途中でトイレに立って引き抜いた。相変らずの長談義。ほとんど社長の一人舞台だった。五時を過ぎてしまう。

昨日が日曜出勤だったので、その分明日は代休をいただいている。事務所に戻るやいなや、T君に「成人おめでとう」を言い、すぐに「失礼」して大急ぎにオーバーを着込むと、社を飛び出した。長良橋からタクシーを拾うつもりが、バスの方が早く来た。しかし岐阜駅に着いてからは、構内に駆け込んだのに名鉄に乗り遅れ、羽島発七時五分のこだまにやっと間に合った。しかし、そんなに急ぐ理由はなかったのだ。礼子の誕生祝いは十九日に延期になったのを新幹線の中で思い出した。八時過ぎにうちに辿り着いたところ、肝臓が悪いらしい礼子の目が少し窪んでいた。

 

朝の九時半にすみ子はお弁当を作ってボーイフレンドとドライブに出掛けた。今日は十五日の小正月なので、我々はお雑煮を食べることにする。これで正月行事もすべて終わりだ。

従兄が一時に来ることになっているので家内は準備に忙しい。掃除機を掛けて欲しいらしいが、立つのさえ面倒で断った。

一時十五分に従兄の健一郎が祝いを持ってやって来た。九十三歳の伯母からもお祝いを戴いた。お酒を出し、妻の手料理で二時ごろまで雑談する。彼は京大卒だが、今は塾の先生をやっている。「高砂」を当日謡いたいと申し出てくれた。

保雄に電話すると、案の定「高砂」がかち合った。長崎さんのお兄さんが謡うことになっているらしい。腹を据えて長崎さんにに電話する。恐る恐るこちらの事情を申し出ると、あっさり高砂を譲ってくれた。見積もりのこともこの際と率直に話をする。仲人のお礼、支払いの分担率もはっきり申し出た。

慌しい一日だったが、一山越えた気持ちで、いつもの「ひかり60号」に乗り長良川に戻る。

 

朝のニュースをひねるが、湾岸はまだ何の伸展もない。卵を二つボイルし、ミロを沸かし、餅を焼いて食べ、蜜柑も食べる。これが今日の朝食メニューである。

月次決算の様式を少し変えようと思い、安藤取締役に断ったら、自由にどうぞとのこと。まず表を作り、十一月分で数字を埋めて試作してみる。要するにここのやり方は「部門別収支方式」というか、全社収支から、それぞれの部門を引き算式に割り出していく。だから部門の貸借対照表は存在しない。それを通常の会社がやっている「本支店勘定方式」にまず直しておかないとコンピュータ導入は到底無理と思えた。

昼、スーパーに買い出しに行き、卵とグレ一プフルーツ、それからサラダ油を買い込んだ。

数字は夕方になってもまだ固まらない。皆一生懸命やっているのにこれ以上セカせるわけにもいかないし、といって、ぼんやり待っていても仕方がないので、償却資産税の申告の準備をする。みんな計算は速いのに仕上がりは遅い。どうしてなんだろう。とうとう今日も九時まで残ってしまった。また少し風邪気味で寮に帰って風邪薬を飲む。

テレビのニュースを点ける。もうとっくに国連安保理設定の、「イラク軍クウェート撤退期限」が時間切れになっているが、なんの動きもない。

 

目が覚めたら七時四十五分だった。昨日と同しメニューのブレックファーストを摂って、八時五十分、そろそろ出掛けようとした最中、テレビが臨時ニュースの画面に変わりバグダッドへの空爆が始まったことを伝えた。

昼過ぎにやっと数字が固まった。ただし、これからが大変だ。固まってからの手計算の手数がおびただしい。今日も九時まで残業する。

帰ってテレビを点ける。どれもこれも湾岸戦争の画面ばかり。まるで戦争映画だ。ブッシュ大統領が「砂漠の嵐作戦」開始をテレビで演説していた。一方、フセイン大統領も「聖戦開始」とテレビで応酬する。今やCNNばかりでない、NHKも民放もすべてが戦争映画館と化している。

九時半、礼子から電話が掛かってきた。長崎さんのお母さんからの電話の内容を報告してきた。まだ出席者の配列表のことや会場にピアノを入れる入れないで、ご主人が煮え切らない返事をしているようである。また、佐和子にさゆりさんから電話が掛かり、「大丈夫ですか、なんなら前日からいらっしゃい、部屋をお取りしましょう。」と言ってきた。意味を計りかねて佐和子は断ったらしいが、礼子が釣られて佐和子に、「そんなら泊まるか?」とつい言ってしまったところ、佐和子が怒りだし、話は一段とややこしくなってきた。我が家も静かな内戦状態である。佐和子も礼子も二人とも少し神経過敏症気味だ。

 

この事務所には大きなエヤコンが一台あるが、古くて非効率で、その上建て付けも悪く窓の隙間から冷気が入ってくる。部屋全体はとても暖まらない。だから、各自が電熱器を持ち込んで足元を暖めている。女性はさらに膝掛けを当てて寒さを凌いでいた。机の下を覗けばそれぞれの個人配線が入り乱れ、蛸足状態だったが、取締役自身も電熱を使っているので、見て見ぬ振りをしている。実際、電熱がなかったらとても冬は過ごせない。帰り際には各自の責任でコンセントを抜いて帰ることだけはみんなよく守っていた。

今晩は新館のナイトマネージャー勤務だが、決算が忙しいからと言い訳して十時のシャトルバスに乗った。三室で計七人の宿泊だからガラガラもいいとこだ。巡回もそこそこにして鍵を貰い、十一時には809号室に引き上げる。部屋のバスより八階の大衆浴場の方が気持ちがいいので、部屋に備えつけの丹前に着替えてそちらへ出向く。夜半だからもちろん客も入っていない。だだっ広い浴室を一人占め状態だった。総ガラス張りの湯舟からは長良川の夜景が見渡せた。風呂に大の字に浮かび、ちょっと泳いでみたりしてから、更衣室に設置してある無料のコーラを一杯いただき、大満足で部屋に戻った。ベッドに入り、テレビを点ける。イラクが移動式カッド・ミサイルでイスラエルを攻撃したとの情報があって、イスラエル全土に非常事態宣言が発令されていた。十二時半ぐらいまで見てから寝た。

 

ここの月次決算は、馬鹿ばかしいほど膨大な資料作りから始まる。しかも手計算。皆はそろばんばかりか、計算機の扱いも熟達していた。安藤取締役までが二十センチ角の中型計算機を机の右に置き、テンキーを見ずにすばやく「モーパイ」で打つことができる。その音がまたけたたましい。同型のを私にも支給してもらったが、どうしても馴染めないので、私は自分の小型の電卓で静かに打っている。皆は私を非難はしないけど、無言でお手並みを拝見されている感じだ。

昼から一時半からの総務経理部会議に三時半まで潰れ、その後で安藤取締役が経理だけ残して、太田課長下川係長を交えてハッパを掛ける。どう見ても人手不足なのだが、そのことは一言も言わない。

「沢村さん、あなたの部だからしっかり尻叩いてくださいよ!」

それやこれやで昼からは時間がなくなり、うちに持って帰って続きをやりますからと、五時十五分に切り上げて帰り支度に掛かる。

「どうぞ、どうぞ。あとは皆にがんばらせときます。」

取締役の皮肉を耳元で聞き流す。

 

結局八時ごろ京都に帰着する。まだ皆待っていてくれて、それから礼子と佐和子の分をいっしょくたにした遅れ馳せの誕生祝いが始まった。すみ子のアルバイト先である寿司バーから寿司をすみ子が取リ寄せ、すみ子の手作りのてんぷらと、今日はすみ子が大活躍した。

夜のニュースで、イラクがイスラエルに二度目のミサイル攻撃をしたと報じていた。

 

目が覚めたら八時を過ぎていた。テレビのサンデーモーニングもイラク一色だった。アメリカがイスラエルにパトリオット迎撃ミサイルを配備しイラクからの攻撃に援護する。一方イラク空爆は延べ四千回に達したことを米中東軍事司令部が発表。フセイン大統領も徹底抗戦を宣言した。

さて、我が家もてんやわんやだった。婚礼出席者の整理や祝い金の整理。持って帰った月次決算表の検算と訂正。

少し腹の調子が悪い。昼の雑煮も餅を一つにした。保雄の電話を待ったが結局掛かってこなかった。夕ご飯後、礼子と京都駅に行き、披露宴当日二月三日の帰りの指定をとる。京都駅で時間が余ったが、早い電車もないので、礼子にはそこで別れ、いつもの八時二十五分まで新幹線ホームで待つことにする。十年前にたばこを止めていたので、このごろ必ず駅の売店で「チェルシー」を買い求め、なめなめ時間待ちするのが習わしになっていた。新幹線車内で一粒、羽島から名鉄線に乗り換え、岐阜駅までに一粒を舐めた。

いつも通り十時十分に長良河畔の寮に着き、餅を一つ焼いて食べてから、礼子に電話したがまだ保雄からは電話はなかった。

テレビをひねると、イラクが今度は隣国サウジアラビアへミサイル攻撃を始めたらしい。シャミル・イスラエル首相がアメリカの要請を受け「対イラク報復自制」を発表する。

 

七時半に起きてトーストを焼くが、二枚持って帰ったのが一枚を焼き過ぎて真っ黒焦げとなった。

朝のうち大垣の「揖保電」に財務ソフトの見学に行く。向こうの迎えの車で、取締役と太田課長と私の三人で行った。片道一時間以上かかり、話も長くなって昼弁当も出してもらった。それでも帰ってきたのが夕方の四時過ぎだった。

「沢村さんに余計な時間をつぶさせてしまって・・・」と取締役。

「そんなことより、一日でも早く導入していただきたいです。」と私。

その気になれば一ヵ月で出来ますよと言いたかった。

帰社後月次決算の続きをやる。いつまで続くのか手計算。今日中に終える予定が、十時になってもまだ終わらない。その事務所の電話に礼子が掛けてきた。東京多摩の礼子の従兄弟が式に出席してくれるそうだ。私も家内も一人っ子で親戚が少なく、とても長崎家には太刀打ちできない。一人でも多いほうがいいにきまっている。

 

朝食のパンが無い。昨日買うのを忘れていた。最後の餅をオーブンで焼く。卵は二つボイルしたが口がもごもごして一つ残してしまった。

月次決算がまだ片付かない。五日目である。どうしても合わないのだ。二十日も過ぎて前月分の月次バランスが合わないなどとは、私も経験したことがない。

昼、ランドリーに行き、そのついでにスーパーでパンと牛乳を買う。みかんも買おうと思ったのだが、十個で七百円はいかにも高いのでやめた。

夜、九時に太田課長も今日は帰ってしまい、悪いと思ったが私も引き上げる。安藤取締役はまだ残って仕事をしていた。

風呂を沸かす。ふけだらけの頭を洗う。

テレビを点けると、赤十字国際委員会が、「人間の盾」作戦はジュネーブ条約違反と言明していた。イラクがサウジアラビアに三日連続でミサイル攻撃をしかけていた。アメリカ側もイラク空爆が延べ一万回に達したことを米中東軍事司令部が発表する。倍々ゲームのような展開だった。

 

ようやく月次決算資料が完成する。

昼からは経営企画会議。これには役員と関係部次長十名程度の構成だが、私は取締役のカバン持ちのような役目に徹している。ほとんど意味のない出席だ。なんやかやと会議ばかりがやたら多い会社だった。今日はそれでも四時過ぎに終わってくれた。

償却資産の申告書は九時前に完成。太田課長は八時半に帰ったが、まだT君が残って売掛の整理をしていた。彼に付き合って手伝ってやる。彼は一生懸命なのだが、いつまで経ってもラチがあかないので九時半に引き上げる。

礼子から電話。保雄から席次表を送ってきたとか。電話で聞いた限り問題もなさそうなので、めんどうなので、それでいいからOKするように言う。

 

翌朝十時から月次決算の役員への説明を社長室で行った。非常にスムースに事が運び、我ながら満足する。売上げも上がっていて利益も出ていたせいもあるが、社長も大した質問もしない。複雑な資料よりむしろ私の簡単な説明に皆一様に納得していたようだ、と自画自賛する。

昼からは修正表の整埋など後処理をしばらくやり、そのあと太田課長から源泉徴収税の合計表を引き継いだ。課長はしきりに難しい難しいを繰り返すが、私は毎年やってきたことだから、なんとかなる気でいる。今日は九時で引き上げる。

 

午後二時から、組合との労使懇談会(労懇)が五時まで続いた。みやびホテルの雰囲気とずいぶん違うところがある。みやびホテルの場合は、労働側と使用者側が立場をわきまえていて、逆の立場では決して物を言わない。ここでは、会社サイドからまるで組合的な発言があったりする。ディナーショーのリベートで部長同士で組合を前にして仲間喧嘩をしたりする。そうかと思うと、セールス手当ての解釈では委員長とセールス出身執行委員との間で見解の相達があったりもした。

あれ以来風呂釜は問題なかった。一風呂浴びたあと下着の洗濯をして部屋に干す。一週間後に迫ってきた披露宴の挨拶草稿をワープロで打つ。

 

CNNテレビが報ずる連日のイラクへの爆撃はすさまじい。いつか映画で見た未来戦争そのものだった。イラク側もイスラエル、サウジへのミサイル攻撃を散発的に行っているらしい。

今日は会議もないから仕事がはかどるだろうと思っていたら、昼前にコンピュータ導入に伴う下調べに、ソフト会社から人がやってきて時間を取られた。取締役もこれだけは私に任せっぱなしで、業者も私だけを頼りに相談をしかけてくる。

源泉合計表は下資料を太田課長に作ってもらったが、大丈夫です、きっちり合わしておきましたという割りにはあちこち間違っていて、てこずり、結局時間までに片付かないまま帰り支度となる。

「沢村さん、頼みがあるんですが・・・」と取締役が私の背中へ走り寄ってくる。「毎年は誰かにわざわざ京都まで足を伸ばしてもらうんですが、沢村さん京都だから、お願いできませんか。伏見稲荷で祈祷をしてもらって来てほしいんですが・・・」

「いいですよ。お安いご用です。」仕事以外ならなんでも軽い物だ。

秘書課の上坂マネージャーが車で羽島まで送りましょうと申し出てくれる。彼は今は社長の専属運転手を務めているが、二年前までは(つまり六十歳までは)総務部長だった人だ。それが今は若い海音寺部長の配下に甘んじている。土曜日の社長は大抵午後は早帰りで、上坂さんは用事がないから、自分の退勤に合わせて、同じ方角だからと時々送ってくれる。お陰で六時五分のこだまに間に合った。

帰ったら手巻き寿司の準備がたけなわだった。佐和子が来ている。どうしたと聞いたら、利武君ともども昨日から泊まりに来ているとのこと。

保雄の新しいマンションに電話が付いたのだが、電話番号は長崎さんから教えてもらう始末だった。その上、親戚代表挨拶もいつの間にか外されていて、そのことの連絡もしてこない。仕方がないので従兄に電話して断りを入れる。

 

イラクがクウェートの油田施設の原油をペルシャ湾に流し込み、その流出原油に火を点けたらしく、炎上している映像が流れている。

すみ子は明日から学期末試験らしく図書館へ出掛けた。

礼子と佐和子と三人で、十一時過ぎから、会社から頼まれた伏見稲荷の祈祷を受けに、散歩がてらに出掛ける。三条京阪でてんぷら丼をお昼に食べてから京阪電車に乗った。会社から預かった四万円で初午の祈祷、二万円二口を申し込む。結構たくさんの申し込み者があり、しばらく待たされて祈祷を受けた。会社の名前が祝詞の中で読み上げられるのを確認してから、カワラケでお神酒をいただき、お札とお供物を二た組拝受する。これは本館と新館の屋上にある稲荷さんにそれぞれ飾ることになるのだ。ちょうど神殿横の舞台で赤と白の衣装をまとった若い巫女が舞っているのを見物する。そのあと茶店で甘酒を飲んだ。

 

事務所に下りて、出勤してきた海音寺総務部長に伏見稲荷のお札と供物を手渡した。大阪生れで関西鉄道本社から出向してきている彼は笑いながら、

「すんまへん。去年まで私が行ってたんです。今年も行きたかったなあ。」と半ば本気のようだった。

正式に取締役に二月三日前後三日間の休みを申し出る。「やっぱり東京ですか。」以前にぜひうちのホテルで披露宴をと頼まれたのをうやむやにしてしまったので、少し気を悪くしているかもしれない。それでも社長名の祝電を打ちたいから詳しい場所を教えてほしいと、さっそく手もとの用紙にメモり始めた。

昼の時間に買い物に行ったが、スーパーはあいにく休みで、近所でトイレットペーパ一だけを買い込んで帰る。一ヵ月一個使う勘定だから一セツト四つ入りで四ヵ月分となる。

八時にやっと数字が合う。目途が付いた。

総務部付き運転手のお父さんが亡くなり、安藤取締役はお通夜に出掛け、九時過ぎに戻ってくるとのことだったが、私は九時に引き上げた。

 

朝の七時に寮から保雄に電話する。引き出物が一人八千円掛かると言う。相談もなしに親の懐を当てにして、すべて時後承諾でカタを付けようとしている。京都へ来る日取りもまだ未定とのこと。どうにも腹立たしい、一方的に電話を切った。すぐに礼子に電話して引き出物の単価のことを報告する。「しょうがないねえ。」と礼子も溜息まじりに了解する。

総務課に近々給料計算用のコンピュータがはいるので、午前中、事務所の模様替えをすることになった。それやこれやで源泉税の合計表が完成したのは夜の八時になった。

今日は本館のナイトである。八時過ぎに一度寮に帰って礼子に電話する。保雄から二度電話が掛かったらしく、言い訳をだいぶんしたそうだ。

今日も本館の泊まりは三十七人。606号室の小広い洋間に泊まる。チェック表をもらっているので、たまにアラ探しをしようと部屋の隅々まで入念にチェックした。カーテンのカンが一つ取れているのと壁の小さなシミをやっと見付けてメモった。

 

九時前にフロントに下りる。

昨晩ホテルに泊まっていた社長が、私のところへ寄ってきて、

「息子さんご結婚ですか、それは、おめでとうございます。」と祝いを言ってくれた。

「三日間休ませていただきます。ご迷惑をおかけしますが・・・」と断りを入れる。事務所に帰って九時半頃、社長から電話で、ちょっと来てくれと言うので上がって行くと、金封を用意していて手渡してくれた。

昼、スーパーヘ買い出しに行く。ミルクとパンとミロとタマゴを買う。

夕方六時過ぎになって、まだ明日持ち込む総合振込の依頼書が書けてないと分かり私も手伝うが、すごい分量である。太田課長にも手助けしてもらって、十時半まで掛かつた。

一泊二日の慰安旅行最終組が帰ってきた。気の毒にも、忙しくて経理の連中はほとんどが慰安旅行に参加出来ないでいた。私ももちろん不参加である。

 

月末の支払いもなんとか間に合わせ、午前中に源泉の合計表を税務署に持ち込み、償却資産税の申告書を市役所に提出する。夕方から、太田課長が掛かりっきりの未収売掛けの処理報告を二時間ほど取締役と共に聞く。常習の不払い先がいくつかあるのだ。課長も努力したと思う。「ご苦労さん」と言ってやりたい。にもかかわらず取締役はさんざっぱら小言を垂れ、「沢村さんもしっかりしてくださいよ。」と八つ当たりして、そのまま名古屋みやびホテルへ出かけてしまう。

夜、七時半ごろ皆で社員食堂へ行ったが、太田課長はそのあといつの間にか消えてしまった。

安藤取締役は昼から名古屋みやびホテルに出張中なので、私も八時半に帰ろうと支度したが、まだ残っている総務のK君がしきりに喋り掛けてくる。一人取り残されたくないのだろう。給料計算の過去の実績をコンピュータに打ち込まないと前に進まない、それは気の遠くなるほど大変な作業だった。

寮に上がったら、九時半ごろ礼子から電話が掛かってきた。少し疲れた声だったが、近頃ひんぱんに胃が痛むらしい。

 

 

二  月

 

本館と新館それぞれの屋上をバスに乗って移動し稲荷参拝の行事をこなすと一時間ぐらいの時間のロスとなる。社長は体の調子が悪いとかで欠席だった。

事務所に戻って太田課長とともに売掛滞納リストの整理をする。昼からは経営企画会議だった。毎日何かが予定されている。会議にあまり積極的でない私に気を使ってか、業を煮やしてか、安藤取締役が滞納整理の方が大事だから会議に出なくて結構ですと言った。常習滞納先に私も電話して督促するが、たいてい一筋縄では行かない。のれんに腕押し的な生ぬるい反応しか返ってこない。それでも二三軒支払いに応じてくれ、課長の車に乗せてもらって集金に廻った。

案の定五時になっても会議は終わらない。取締役も何時までも帰ってこなかった。でも、私は明日から三日間長男の結婚のため連休をとっている。太田課長にやり掛けの仕事を引き継いで寮に引き上げた。

大急ぎでバスに乗り込んだが、名鉄が朝方事故のためか発車時刻が変わっていて結局七時五分のこだまになった。それでも、新幹線に乗り込んだとたん、ほっと解放された気分に浸れた。

家に帰ると、すみ子は学期末テストの最中である。

 

翌日の二時過ぎ、長女がおろおろ声で電話を掛けてきた。佐和子が前日に東京に泊まることなったと聞いて、さゆりさんが気を悪くしていると兄からかなり強行に抗議してきたらしい。確かに二週間前にさゆりさんが佐和子に、「前日に泊かったらどうですか?お世話しますよ。」と言ってきてくれた時佐和子が断った経緯がある。私は保雄にはよく言っておくからとにかく出発しなさいと言い聞かせて電話を切る。

五時過ぎ、やっと保雄に連絡が付く。とにかく佐和子の東京泊まりは一切私の責任だから、もしさゆりさんが気を悪くしてるなら私が謝ると言って保雄を納得させる。

七時過ぎにやっと礼子が帰ってきて一件を報告する。いつの間に佐和子が東京泊まりになったかと聞きただしたが、礼子はしどろもどろだ。そのうち、「今忙しいからあとにして!」といらいらしだし、台所に消えてしまった。

 

翌朝七時前には従兄も子定通りやってきたので皆で打ち揃って出かける。大通りに出ると霜が降りていて足元が冷えた。新幹線には小川さん夫婦も新大阪から乗ってきていた。

十時半に京王プラザホテルに着く早々、保雄が紋付はかま姿で照れながら現れたのには驚かされた。十一時半ごろやっと控え室に案内されたが、長崎家の控え室がはち切れそうなのに、沢村家はひっそりしたものだ。廊下を白無垢のさゆりさんがやってきたので、すれ違いざま、「いろいろご免なさいね。」と声を掛けると、さゆりさんが角隠しの下でニコッと笑ってくれた。彼女が控え室の椅子に腰掛けたのを見計らって私と礼子で挨拶に入る。長崎さんのお母さんに皆さんを紹介してもらったが、とても覚えられる人数ではなかった。花嫁に近付いて「綺麗やねえ。」と声を掛け、写真を取らせてもらう。動き回ると汗が滲んでくる。

十二時半に結婚式が始まった。向こうは二十九人だから二列に並んでいる。長崎さん側の親戚紹介は傍目にも大変だった。よくも間違えないものだと感心していたら、姪の名前をど忘れしたりしていた。わが方は従妹の娘まで掻き集めての総勢十五人。名前を間違えようもなかった。

保雄は紋付き姿で雛壇に座って晴れがましそうだった。保雄の上司が主賓の挨拶をしてくださる。息子に六人の部下がいることを初めて知った。 

 

翌日の夜七時ごろ佐和子夫婦がやってきた。さゆりさんと仲直りできて晴れ晴れしているようだ。八時、利武君が京都駅まで車で送ってくれる。

岐阜の町はぼた雪が降っていた。

 

三日も休んだあとに仕事に戻るのは苦痛だ。

取締役は風邪で休むとの電話が入った。昨日も休んだらしい。太田課長と下川係長に祝電のお礼を言う。東京土産の花園羊羹は評判がよかった。とくに下川係長は甘い物に目がないので、この時だけは甲高い口調で大げさに喜んでくれた。留守中の伝票に目を通した上判子押しをする。手首が痛くなるほど溜まっていた。今日は初午の行事があり、稲荷寿司が皆に配られたので、それを頬張りながら皆仕事していた。

 

翌日、安藤取締役は出てきていた。

「長いこと勝手しまして・・・」私が披露宴で三日休んだことを断ると、

「いや、私こそ四日休んじゃって。」と相手が照れ笑いした。なるほど私の切り出し方も悪かった。

「いかがですか? 風邪のほう・・・」

「もう大丈夫です。」と返事もそこそこに、背広を引っ掛けて社長室に駆け上がって行った。

子算編成準備のため費用の分析を始める。これは格好な仕事だった。自分のペースでやれた。

昼からは一時半から経営企画会議。相変わらず結論のない討議が多く、よくも居眠りもせずに長々と耐えてられるものだ。五時半まで掛かった。

夕刻は安藤取締役が早く帰ったので、私も引き上げようと努力したが、今日も結局九時前になってしまった。

 

昨日早く寝たので、七時に起き出す。少し早いので寮を出て長良川沿いに護国神社まで歩く。とにかく歩行者が少ない。長良橋の車道はむろん車の洪水で、歩道にも自転車に乗った学生が次々とやってくるので、なんとなく直に歩いているのが後ろめたい気持ちになる。それでも神社には二三人の参拝人があり、それぞれ拍手を打って拝んでいるのを見ると、信仰心もないのに私も拍手を打って頭を下げた。

昼の休みに蜜柑を買いに出る。どうしたことか八百屋の小母さん近頃は「一つおまけ」はしてくれない。思いなしか以前より無愛想になっている。なにか気にさわったのだろうか。

午後も経費分析の続きをやる。薄明かりのトンネルをいつまでも歩き続けているような気分だった。

晩、安藤取締役らは社長とマージャンらしい。過去に二三度誘われたことがあるが、私はマージャンはしませんのでと断ったら、それ以後お誘いは掛からなくなった。

九時半まで仕事をする。

 

翌朝も散歩に出かけようかなとカーテンを開けると雪が降りしきっていた。ガレージを隔てた向かいの屋根が真っ白なので、今日も谷汲カントリーは売上ゼロだろうと想像した。

昼は昼で大型の宴会があり、自家用車の整理に人手が足りないからと、新館の駐車場にヘルプに走った。従業員の車はすべて長良川河川敷に移ってもらい、客の車を駐車場に誘導する。雪は降り止んでいたが、外気は冷たい。事務所を着の身着のままで飛び出してきたのでコートも羽織ってない。あと、二時から同じ新館で部課長会なので、一時半ごろ新館の社員食堂でみんな昼食を摂る。会議は、これがまた四時閉会の予定が五時半に伸びた。うんざりの一日だった。

 

朝のパンがなくなったので、「かるかん饅頭」を三つ食べる。ちょっと胸焼けした。慰安旅行に行かなかったのでお土産に貰ったものだ。

今日は快晴だ。しかしナイトのことを考えると少し憂うつだった。

午後八時にちょっと寮に戻って一休みしてから、八時半のシャトルバスで新館に出掛けた。フロントに着いて、ふと上着が変わっているのに気が付く。寮で一服した時普段着に着替え、そのまま来てしまったのである。電話して次のバスで送って貰う。バスで上着も来たが安藤取締役もやってきて、しばらく立ったまま喋ったが、話の中で私は人手が足りないことを暗に口にした。すると彼は急に不機嫌になってどこかへ消えてしまった。

今日は超満員である。フロント課長が申しわけありませんと頭を下げた。十一時半、案内されたのは物置きのような小部屋である。しかも隣が厨房で冷蔵庫のモーター音が耳に付いた。まるで三等船室のような感じだった。これは一晩中寝られないかなと思ったが、それが案外ぐっすり寝られた。

 

朝から婚礼客が早やばやとやって来てフロントが賑わっていた。若い頃、みやびホテルに入社早々のページボーイ時代を思い起こした。「いらっしゃいませ」の声が低いと副主任に叱られた。ナイトマネージャーの役目柄、私は自動ドア―まで歩いて行って、入ってくる客に、「いらっしゃいませ」と頭を下げた。我ながらなかなか板に付いていると思った。懐かしさもあった。

九時五分のシャトルバスで戻り、日曜出勤のT君に「頼むよ。」と声を掛ける。「どうされたんですか?」彼のびっくりした声を背中に寮に駆け上がり、服装を着替えコートを着て、新岐阜まで急いだ。家に帰る時はなぜか浮き足立つ。名鉄急行に飛び乗るが、新幹線は結局十時三十一分のこだましか間に合わなかった。十一時半に我が家に着く。岩佐の叔父叔母がつい先ほど来てビデオを受け取って帰ったらしい。北海道への新婚旅行から戻ったばかりの保雄から蟹と帆立貝を送ってきていた。礼子が礼の電話すると、佐和子とこと一緒に食べてくれとのこと。雪祭りが楽しかったそうだ。

 

翌日、昼前に佐和子夫婦がやってきて、やがて蟹すきが始まった。みんなよく食べて腹一杯になったところで、礼子は四国観音寺のおばあちゃんにも電話した。保雄の婚礼がとどこおりなく終わったことを報告していた。一人娘を京都に片付けた義母は糖尿を患って今入院中である。

夕食は引き続き佐和子夫婦と我が家の三人、計五人ですき焼きを囲む。満腹した上、ビールを少し飲んで私は眠くなった。このままぐっすり二三時間寝られたらと思うが、岐阜へ帰らなければならない。礼子が提げ袋に入れてくれたグレープフルーツとミロの大きい瓶が重かった。

 

目が覚めたら寮室だった。枕もとの目覚ましは七時半を指している。

朝食は社員食堂で摂り、事務所に出勤して伝票の整理から始める。

仕事の最中に長崎さんから電話が掛かってきた。請求書が来たので、割振りをしてみた、見て欲しいから、寮に送っていいかとのこと。随分せっかちで、少々礼を欠くなあと思ったが、断るのも大人気ないし、お世話になります、どうぞ送ってください、と返事した。

昼から、電話で礼子に聞いてみるが、我が家には請求書は着いてないとのこと。長崎さん側にのみ送られてきているのだろうか。

一月の月次決算の準備を始める。前年の数字を埋めるだけで半日掛かりだった。八時半に帰ろうとしたらT君が、課長とフロントの板挟みで自分の性格の弱さを嘆いて、なんかいい方法はないもんでしょうかと訊く。

「そんな時は自分ですべてを解決しようとせず上司に責任を転嫁しなさい、その方が気が楽やろ。」

と教えるが、T君には性格的にそれが出来ないから悩んでいるのだった。

礼子から電話で請求書がうちにも届いたと言ってきた。友の会割引きとかで料理飲料が割り引いてあるとのこと。とにかく長崎さんの手紙待ちである。

 

近頃まずまず熟睡出来るようになった。あまりの快晴に思わず布団を干した。昨秋ここに越して来て初めてのことだ。

昼休みにスーパーに出掛ける。卵と牛乳と玉葱を買う。朝とは打って変わってしぐれそうな雲行きに急いで寮に戻り、干してある布団を取り込んだ。

夕方になってようやく下川係長が、「お待たせしました。」と数宇を渡してくれた。ほっとしたが、これからが大作業なのだ。営業収入を合算したところで、九時になった。みんな帰ってしまって、安藤取締役と二人っきりの人恋しい事務所だった。

「本館の建替えの計画があるんですってね。」

私が言葉を掛けると、一と呼吸置いてから、新入社員に注意するような口調で念押しされた。

「ここで小耳に挟んだことは極秘ですから、漏らさないでくださいね。」

力が抜けて、早々に私は引き上げた。三日ぶりに風呂を沸かす。

 

六時半に起きて、昨日買った玉葱を剥いてスライスしハムといっしょに炒める。上皮をもう一皮剥かなかったからか、炒め方が足りなかったのか少し辛い。

今日も護国神社まで朝の散歩に出かける。神社の裏手に雑木林があり、奇妙な鳥の声がした。この前も一度聞いたことがある。「ぽーぽー」と人の声にも似ているが、立ち止まって聞き耳を立てると聞こえなくなった。

本格的に月次決算の作業を始める。取締役は新館建設の収支見込みなどの仕事に追われている。さて、今日はバレンタインデーである。ここはどうなんだろうと思っていたら、いずこも同じ、私も三個貰った。

今夜はとうとう十時までがんばった。安藤取締役に、

「チョコレ一トでも食べて疲れを癒して下さい。」と促されて、寮に帰って開けてみたら、一つはプチケーキ、それも十個もはいっているので、置いておくわけにはいかないから、寝る前にミルクを沸かして三個を平らげる。

 

どんより曇っていて起きたら七時半だった。玉ねぎを今日は少し時間を掛けて炒めた。最後にプチケーキを二個食べた。やはりその分腹がもたれてしまった。

昼前に長崎さんから速達が届いた。開いてざっと目を通したところ、花嫁衣装は長崎家に付いていて、我々の総額が○○十万円程度なので一安心。昼の休憩時間に礼子に電話する。○○十万円で礼子も安心して受け入れることに賛成する。その場で長崎さんに電話を入れるが、留守のようである。

昼からも決算事務に没頭する。日が暮れると背中が少し痛む。側で取締役が企画部長と「新新館」の話を立て続けにいつまでもしているのが耳についてわずらわしい。極秘なら別の部屋ですればいいのにと思った。十時まで仕事するつもりだったが九時で引き上げる。

長崎さんに分担受諾の電話をした。礼子にも電話で報告しておいた。テレビでは、イラクが革命評議会の決定として「条件付きクウェート撤退の用意」と発表したことを大ニュースの取り扱いで流していた。

 

六時に目が覚め、あと寝付かれなかった。少し風邪気昧である。体がだるい。鼻が詰まって喉がシカシカする。うがいをしておく。下を向いて仕事をしているとしばらくすると水鼻が垂れてくる。

五時過ぎ、九分通り月次決算を終りちょうど時間切れで机を片付けに掛かる。

「沢村さん、京都帰りは忘れませんね。」と取締役に冷やかされた。「いいんですよ、どうぞお急ぎなさい。」

六時四十九分の臨時こだまで帰る。八時過ぎ利武君が蟹のむき身を小坂のお爺さんに貰ったから皆で食べましょうと持ってきた。ビールを飲んだ精もあって、私は眠くなり、こたつに潜って一と寝入りしてしまう。利武君夫妻も気をきかして帰ったようだ。風邪薬を飲んで早く寝ることにする。近ごろ疲労気味で耐久力がなくなっている。風邪が移りやすくなっている。

 

ガラス戸越しの狭い坪庭に雪が降り込んでいる。寒いはずである。風邪がうっとうしい。夕べ寝しなに風呂に入ったのがやはり悪かったのだろう。風邪がひどくなっていた。自分でも顔の相が変わっているのが分かる。十一時過ぎに芋粥を食べ、あと三十分をこたつの中で一と寝入り。今日はみやびホテルチェーン会議に出席するので、その時間までに名古屋みやびホテルへ直接出向けばよかった。

十二時前にこたつから抜け出して十二時二十一分のひかリで名古屋へ向かう。名古屋みやびホテルに着いたのが一時二十分、ぎりぎりだった。議題は我々に無関係なことばかりだった。共通の経理規定といってもどうせ各ホテルでは事情が違い、空論に終わるだろう。

久し振りにみやびホテルの六本木次長らと帰り路一緒になったが、食事を誘う気になれなかった。早く帰って身体を横たえたかった。名鉄の特急がちょうど五時三十分なのでそれに飛び乗った。満員で立ちっぱなしで、しかも暑かった。汗が出てきてそのお陰で少し気分が爽やかになった。

事務所に帰り、八時まで仕事をする。取締役は大阪に出張中だった。

九時に風邪薬を飲んで寝る。

 

昨夜は豚のようによく寝た。八時に起き出して急いで朝食を済ます。

取締役は休みである。午前中伝票の判子押しやら、昨日のチェーン会議の報告書やらで終わる。

昼の休みに、下川係長の自宅の近くにある床屋へ出かける。以前に彼女から「腕利きの床屋」と教えてもらったところだ。腕利きと言えるかどうかわからないが、テレビを見ながら刈ってくれ、耳掃除、肩もみ、眼鏡のクリーニングまでしてくれた上に、散髪が終わったあとで、「まあお掛け」とブレンドコーヒーを入れてくれるところが味噌だ。下川係長の家の前を通って見たが、こじんまりした玄関先に仰々しい立て看板が出ていて、「お琴教授、生け花教授」と太い字で書いてあった。

帰ってからから月次決算の最後の追い込みに掛かる。案外時間を取り、すべてが終わってみたら七時を過ぎていた。

寮に引き上げてから風邪薬を飲む。チョコレ一トを三粒食べ、お茶を飲んで九時に寝る。寝付かれないまま、十一時ごろテレビを点けて湾岸情勢を見てみる。イラクは果たして本気で撤退するのか、はたまた地上戦に入るんだろうか。株は少し上がって来ているようだ。

 

夜中にバファリンを飲んだので頭痛は治まっていたが、風邪自体は一向によくなっていない。

昼からは一時半から新館で経営企画会議があるのでシャトルバスで出掛ける。経理からの報告事項をごり押しに早めに報告してしまった。案の定いつも通り長引いて、最後に回った連中はやきもきしていた。ウーロン茶を値下げするしないで、うだうだと三十分も話し合い、結局元のままになる。済んでみれば六時を過ぎていた。今日はてっきりナイトだと思っていたら私の勘違い、本当は明晩だと気付いた。一日助かった。安藤取締役は明日関西鉄道本社へ「新新館」の説明に行くので、その資料作りにねじり鉢巻きで苦労している。それを尻目に九時に引き上げる。まだ湾岸は動いてなかった。

 

ぐすぐずしていて、とうとう八時になってしまう。即席スープと卵とトーストの朝食を摂る。

取締役は十時五分の新幹線に乗るべく、ばたばたしていると思っていたらいつの間にかいなくなった。彼がいないと何となく気が落ち着く。今日は一日掛かりで償却計算をやり終える予定だ。風邪も峠を越したようで、夜八時には仕事も片付いた。ナイトまで間があったので、引き上げて寮で一休みする。

九時過ぎに本館フロントヘ出掛ける。今日は百七十人ほど泊まりがあり、かなりごった返していた。しかし私はそ知らぬ顔でフロントのナイトマネージャー席に陣取って向田邦子を熱心に読んだ。十一時まで過ごす。十一時半に部屋に引き上げてテレビを点けると、間もなくフセイン大統領がラジオを通し重大放送をすると予告している。ずっと起きて待つ。フセインは結局世界に激を飛ばしたに過ぎなかった。停戦宣言とはほど遠い内容だった。

 

六時に目が覚めて、部屋のテレビを点けると、アジス外相がモスクワに到着していてゴルパチョフと会談中らしい。会談は長引いている。解説は悲観的である。

程よく暖房の効いた客室の、ガラス戸の外は見事な冬景色であった。よく手入れされた庭木にこんもりと綿雪が積もっていた。こんなところに仮泊できる点はナイトマネージャーも悪くない。

フロント玄関は娠わっていた。ページボーイは道路の雪かきにせいを出している。寒いせいで宿泊客は部屋に篭りまだ降りて来ない。さして用事もなく時間が過ぎて、九時過ぎ社員食堂へ朝食に行くと、テレビが思いがけない展開になっていた。イラクがソ連の提案を受け入れたと言っていた。ただアメリカが渋っているようだ。昨夜の寝不足を引きずって仕事に掛かる。償却計算を一日でおおよそ完了する。経費分析を太田課長もやり出した。

昼間止んでいた雪が夜の七時ごろになってまた降ってきた。足元の電熱も尻には届かない。下川係長は、「寒い寒い。」と震えながら早々に引き上げた。雪が積もり始めたのを見て、太田課長も、「車が心配で・・」と七時半ごろ帰ってしまった。私も事務所の火の元を見て回ってから八時に引き上げる。

 

七時前に起きると、アメリカがイラクに最後通告を突き付けていた。

礼子から電話で、保雄は京都へは来ないらしい。どうせそんなことだろうと予想していた。

おおむね今日は雑用が多かった。取締役は「新新館」でばたばたしていて、予算は自分がまとめるようなことを言っていたが、手が回らなくて、どうやらこちらにお鉢が回ってきそうな雲行きだった。その上まだ余裕を見せれば手伝って欲しそうなので、時間ぎりぎリまで机とにらめっこして過ごす。五時二十分に、「お先に失礼。」ときっぱり挨拶して引き上げる。七時五分のこだまに乗れた。「土曜の夜に新幹線で帰郷、日曜日は自宅で過ごす」の約束事が私の健康を維持している。

礼子は町内の総会に出ていて、すき焼きの用意がしてあった。ちょうど大丸の花屋さんのバイトから帰ってきたすみ子と、二人きりですき焼きを囲んだ。八時半ごろ礼子は思ったより早く帰ってきて、次の会長にYさんが選ばれたと言った。うちは私が単身赴任中だからと申し出ていたので、今度は二年続きの会計からも開放されて無役となった。礼子は水鼻をずるずるいわせ風邪がひどいようだった。

 

八時半に起きる。家内には風邪がひどいので寝ているように言ったが、返って腰が痛いからと起きてきた。

とうとう多国籍軍が国境を越えて地上戦に踏み込んだようだ。どこのテレビも軍事評論家を呼んで、まるでゲームを楽しんでいるように成り行きを予測している。我々も戦火の影で人が死んでいると知りつつ、つい見ていて時間を忘れる。十時ごろ桂の叔母から電話が掛かり、今からこちらヘ来たいと言ってきた。慌てて私は礼子が風邪がひどいので今日は困ると断った。電話の向こうで叔父の大きな声が仕切りに行きたがっていた。

十時半に私は自転車で新京極に礼子のマスクを買いに出た。天気はよかったが自転車が風を切ると耳たぶが凍えた。こんな時叔父が来なくてよかったと思う。風邪に効くからと昼は鍋焼きうどんを食べる。午後は、夫婦してこたつでうたた寝してボヤッと過ごす。それでも時間の経つのは早い。この寒いのにすみ子は遊びに出かけて戻ってこない。晩は二人で水炊きを食べる。

保雄に電話する。長崎さんとこに今日行くはずが行ってないとか。でも、二転三転して、うちへは三月二日に来るらしい。土曜日である。日曜日には東京に戻っていたいと言う。ごたごたはもう嫌だからこちらが土曜日に休めばよいと諦める。佐和子に礼子がそのことで電話すると、佐和子がぷんぷん怒り出した。私が代っても私にも食って掛かる。時間がなかったので私は礼子に受話器を渡して急いでうちを出た。

岐阜は大雪だった。バスものろのろと走り、暗い長良川沿いの道にもう雪が積もっていて歩くのが困難だった。

 

七時半に起きると一面の雪景色だった。

みんなガレ一ジの雪かきに駆り出されたが、私はコンピュータ会社が来るので居残った。総出の雪かきは昼前まで掛かっていた。その間私は財務ソフトの打ち合わせを重ねていた。本支店勘定を使わないで現状の処理をこなす方法を模索した。応接間は暖房が入ってないので寒い。しかし外で雪かきするよリはましだった。

一時から役員応接室で一月分の月次決算説明をする。小一時間掛かったが何とか無事すり抜ける。

晩になって月末の支払い準備が残っていた。取締役は人と食事に出るから後をお願いしますと言い残して帰ってしまった。私は九時半まで支払いのまとめをやってから引き上げる。

風呂を沸かし冷えた身体を温めた。

 

ぐっすり寝てしまい、八時に起きて急いで朝食の用意をする。テレビがフセイン大統領のクエ一トからの撤退声明を報じていた。しかしアメリカは無視する構えのようだ。湾岸戦争はイラクの敗北と思えるのにアメリカはまだ停戦する意思がない。徹底的に息の根を止めるつもりなのだろうか。

月末支払い業務を取締役にバトンタッチして、私は予算の下準備に取り掛かる。

昼、牛乳を買いに出る。雪は止んでいたが、どこの店先にも掻き寄せた雪の小山が残っていた。道は泥水が流れ出して歩きにくい。

夜。安藤取締役は少し早いけど帰らせでもらいますと言い残して八時に引き上げた。私は九時十五分に引き上げる。いつも遅くまで残っている総務のK君も帰り支度をしだした。

テレビを点けると、案の定多国籍軍はイラクの撤退声明を無視して攻撃を続けていた。アメリカに真正面からブレーキを掛ける国はもはやどこにもいない。

 

七時に起き出す。まだ多少屋根に雪が残っていたが穏やかな朝だった。クエートはほぼ解放されたようだ。

今日は太田課長は免許の書き替えで休んでいる。私は朝から予算に取りかかる。昼からは経営企画会議だったが、取締役に欠席を申し出て予算の続きをやる。

三時ごろ礼子が事務所に電話してきた。従弟の岸辺高次が急死したらしい。彼は私より十歳ほど年下だ。伴侶も得ず最近はアル中気味で、母親に乱暴したり、親戚を逆恨みしたり、我々にとっても困り者だった。それでも叔母には腹を痛めた息子にほかならない。叔母が気が転倒しているので、礼子はこれから手伝いに行くとのこと。私は帰れそうにないから、とにかく家内に頼るしかない。突然死で警察が入っているらしい。予算編成会議の日取りが決定した矢先でもあり、もどかしいがどうしようもなかった。

晩に皆が帰った後、事務所から礼子に電話する。「信者の会」が葬儀の面倒は見てくれるらしい。叔母も少し落ち着いて来ているとか。電話の最中に池田常務が入ってきた。

「沢村さん、支障がなかったら直ぐに帰ったら?」

でも支障がないとは言い出せなかった。寮に帰ってもう一度礼子に電話するが、まだ叔母の家へ出かけたまま戻っていないようだった。

テレビを点けると、多国籍軍がクウェート市に突入し七ヶ月ぶりに首都を解放していた。

 

七時に起きる。イラクはさらに戦時賠償も受け入れると言っている。しかしアメリカはまだ停戦には応じない。ソ連までが条件が不充分だと言い出した。

しかし、昼のニュースでブッシュ大統領が停戦を発表していた。ついに戦争は終結した。それに元気づいたわけではないが、昼からの予算はスムーズに相当捗った。この分では土日の連休も気にしなくていいようだ。

五時ごろ、寮の電話から叔母さんに弔電を打つ。テレビは「停戦後」を模索していた。株も上がっている。ブッシュ大統領が勝利宣言した。イラクが国連安保理全決議を受諾、フセイン大統領が、自国軍に対し戦闘停止を命令した。これで二ヶ月間にわたる湾岸戦争は終結した。

 

 

三  月

 

昨夜はほとんど寝られなかった。従弟の死が気になったのだろうか。

時々夜中にテレビを点けた。湾岸はもう終わっていたが、気に掛かった。とうとう三時になり六時になった。七時には仕方なく起き出した。

今日は月始めで稲荷参拝で始まる。寝不足の一日を夕方まで耐えなければならない。それにしても去年の十月に長良河畔ホテルに赴任して以来丸五ヵ月を過ごしたことになる。我ながらよく頑張っている。

夕方までに収入予算の原案を作って取締役に渡し、一部手直ししたりしているうちに五時十分になり、大急ぎで支度をしてバス停の「長良川温泉」まで急いだが一瞬遅くバスが出たとこだった。グランドホテル帰りのタクシーに飛び乗って新岐阜まで飛ばす。千五百円も払って駆け付けたが、ここでも急行が目の前で出てゆき、結局ホームで長々と待たされ、新幹線も七時五分までなく、羽島の駅でカレ一ライスを食べる。すべてやることなすこと後手後手と回る。

八時に家に着くやいなやそのまま叔母のうちにお悔みに行った。それは我が家から百メートルほどのところだったが自転車で走った。叔母は少し落ち着いて来ていて、大きな声で経緯を話し涙も見せなかった。

保雄に電話する。明朝八時の新幹線に乗る予定とのこと。先日来朝一番で帰ると言っていたのと話が食い違っていたが、もうどちらでもよい。 

 

礼子はあちこち掃除をしたりして十一時ごろにはすっかりきれいになった。十一時過ぎ、佐和子がやって来たが、保雄はまだだった。「まあ十二時と思もといたらええ。」と佐和子は悟っている。十一時半には仕出屋がもう弁当を届けてきた。保雄は十二時になってもやって来ない。皆だんだんいらいらしだした。さゆりさんと喧嘩でもしたのか、と心配になってきた。一時になった。皆ぷんぷん怒り出した。一時十五分、やっと二人がやって来た。保雄が寝過ごしたらしい。電話ぐらいしてもいいのにと迫るが、のれんに腕押しである。とにかく食事をし、新婚の挨拶に近場の叔母(町田家と岸辺家)のうちに礼子が連れていく。一軒にはお悔やみを述べなければならない、新婦にはそぐわない気持だったろう。帰ってきて皆でケーキを食べていたら二時を過ぎてしまった。次にタクシーに乗り込み西大谷に沢村家の墓参りに出掛ける。売店で保雄は自分とさゆりさんに数珠を買った。片隅に呼び寄せて家内が彼女に当座資金にと五万円を渡していた。

続いて阪急に乗り、桂の岩佐の叔父のとこへ行く。分読みのスケジュールなので、部屋には上がらず玄関先で挨拶して引き上げる。保雄がやっと最終で帰る決心をする。六時半にうちで利武君を交え、総勢七人ですき焼きを囲む。少しは皆で話が出来た。九時前には慌ただしく帰って行った。

 

 

慌ただしかった昨日から一夜明けて少し気が抜けた。

慶弔とりまぜての慌しい二日間だった。後ろ髪を引かれながら、いつもの八時二十五分発のひかりで長良川へ戻る。

 

七時半に起床、散歩に出かける。今日は長良橋を渡らずに西に向かって歩いた。堤防沿いの道で車も通らず、いい散歩道だと思っていたら百メートルばかりで途切れてしまった。

十時からは労使懇談会。春闘の前哨戦と言ったとげとげしい雰囲気はなかった。懇談会という名前にふさわしいのかもしれないが、思いつきの話題が多くていつ果てるか見当が付かない。昼食時間をオーバーして一時ごろまで掛かった。おかげで予算会議は一時からの予定が二時に繰り延べになり、その会議が六時にようやく終わる。あげくに予算の手直しとなった。

 

今日はナイトだが一台遅らせて九時のシャトルバスに飛び乗る。新館は暇だった。全部で十三人しか泊まりがなかった。十一時に館内巡回を始める。たまには念入りにと、まず八階ロビーから宴会場、厨房、各階客室の廊下、最後にフロントに下りて終了だ。それでも三十分で終わってしまう。カウンターで仮泊室のキーをもらって引き上げ、いつもの通り大衆浴場に入り頭を洗う。整髪剤からドライヤーまで備わっているから、湯治に来た客の気分だ。最後に無料のコーラを飲んで部屋に戻り、ガラス戸を開けると、オリオン星座が京都の空よりくっきり見えた。テレビはイラク南部で反政府運動が起こりかけていることを報じていた。

 

目を覚ましたら七時四十分だった。急いで服を着てフロントに降りるが別段する仕事はなかった。九時五分のシャトルバスで事務所に戻る。溜まっている伝票を整理している間に昼になった。

昼食後外出して、カッター三枚クリーニングに出し卵を買ってくる。

大株主の一角である岐阜県庁に二月末までに提出しなければならない書類のことをすっかり忘れていたのでその資料作りに取りかかるが、思ったより複雑で時間を食われた。夕方からやっと収入予算の手直しに掛かる。当期の数字が予想より五百万円プラスしていることを告げると、こともなげに取締役は、「その分を売上予算に積みまししてくれますか。」と言い放った。ちょうどやって来た宴会課長こそいい面の皮だった。狐につままれた彼に五百万円をごり押しに押し付けて数字の入れ替えをする。それでも辻褄合わせになにやかやと手間取って九時半まで掛かってしまった。

夜テレビを点けると、イラクでは本格的に各地で暴動が起きていた。 

 

六時半に目が覚めてしまった。七時前には起き出して、天気がよかったので、久し振りに埃の溜かつた部屋を一部屋ずつ掃除機をかける。散らかっているものを押し入れに押し込んだらさっぱりした。それから布団をベランダの手摺りに掛けて干し、部屋の窓も開け放って空気を入れ替える。どうやら左右の部屋でもふとんを干し出しているようだ。風にも春の匂いがした。そもそも私の使用している寮室は家族用で、この並びに五所帯が住まっていた。子供のいるところが二軒あり、いつも八時過ぎには誘い合わせて廊下をばたばたさせながら子供たちが学校へ出かける。若夫婦のところ、姉妹で住まっているところ、様々である。職種、勤務場所、出勤時間もまちまちで、あまりお隣同士の交流はない。三階は1DKの独身寮で、そこには共同風呂がある。

 

翌朝は前日と打って変わってどんよりとした曇り空だった。部屋が暗く、お陰で七時半まで寝込んでしまった。急いで朝食のハムエッグを焼き、グレ一プフルーツを切る。

事務所に出勤した早々、私の背中から取締役が昨夜の管理課との打ち合せが十一時まで掛かったとぼやく。早く帰った私への当て付けのようにも聞こえた。

小雨が降り出していた。昼、傘をさしでパンとバターを買いに出掛けた。雨は降るが暖かい。市場の雰囲気も心なしか春めいていた。

昼からも時間は早く経った。近頃は散歩にも出かけず、ますます運動不足になっている。気持ちにゆとりがない。

今日は八時に引き上げる。早く帰ったところで何をするわけでもない。本を読む気にもなれない。出かけようにも車もなく、第一運転も出来なかった。外は依然雨が降っていた。

  

そろそろ春先なのか、よく寝られるのだが何時までも眠い。今朝はまた雨模様だった。

午後は、三時から組合の春闘要求書提出に部次長が立ち会わされた。べ一スアップは二万六千円、十五・六パーセントアップの要求だった。ー時金は年間五・五ヵ月分。しかし私には余り関係ない数字で、せいのない話である。

安藤取締役に退職引当金の計算を頼んだら夢中でやっている。年齢と勢いの差だとつくづく思う。九時半を過ぎたが、取締役はまだ一生懸命引当金の計算をしている。

「失礼してよろしいでしょうか。」

「どうぞどうぞ。今夜中にやっときますから・・・」とむしろ嬉しそうだった。

 

夜中にどこかで、雨垂れのような音がして、上の階の水もれでないかとあちこち見て回った。結局原因は分からなかった。そして、隣近所が水浸しになって大騒動の夢を見た。朝目覚めたら音も消えて平穏だった。

今朝は最高の天気である。朝日が眩しい。

昼から会議なので午前中に予算資料を揃えなげればいけなかった。十二時過ぎに何とか作り終えてほっとした。取締役は「新新館」の打ち合わせで役員室に上がったきりである。予定の三時を過ぎ、三時半になってやっと呼び上げられたが、肝心の安藤取締役がどこかへ行ってしまい、やってきたのが四時だった。「沢村さんどんどん始めてくれてればよかったのに・・・」

結局ろくろく進展せず、もう一度持ち寄ることで一時間足らずで解散する。気抜けがして、八時に「お先に」と引き上げた。

家に電話する。今日は岸辺の高ちゃんの三七日(みなぬか)だった。むろん私は行けないから礼子が代わりに出席した。

「本家もいざこういう時に頼りにならん。」というようなことを叔母たちが話し合っているのを小耳にはさんだと礼子は怒っていたが、もうとっくに「沢村」は本家などではない。「三代目」も一介のサラリーマンだし、哀れな単身赴任者だった。替わって佐和子が電話口に出てきた。胎児は充分に大きくなっていて、今度の日曜日が山とのこと。

 

七時に起き出す。今日もいい天気である。護国神社まで歩いた。先日も見かけた片足の不自由な老人が私の顔を覚えていたのか、すれ違いざま会釈をしてくれた。私も会釈を返したが、拝殿でも背中にその人の目を感じて、ことさらていねいに拍手を打った。

安藤取締役は関西鉄道本社に朝から出かけたし、海音寺部長も昼前から福岡に出張で事務所はひっそりしていた。下川係長は海音寺部長とは年も近く気が合ってよく喋るが、私とはウマが合わないらしくいつもツンとしている。私が来るまで損益計算も受け持っていたから、敵愾心もあるようだ。さて、支出予算は二十日の再提出まで中休みだし、月次決算の下準備に掛かる。とにかく作成する書類の枚数がおびただしく、そこへ前期の実績を記入するだけで半日がかりである。すべて手動だ。

夕方、安藤取締役から九時過ぎに帰るので、車のキーを警備に預けて置いてほしいと電話が掛かった。取締役が帰って来るのを待っているのもバカらしいので私は八時半に引き上げる。

風呂を浴び、あと下着の洗濯をする。この前下着を窓外に干したことがあるが、そのあとで(二三日してからだったが)、朝礼で総務部長が、「ご存知と思いますが、寮のベランダに洗濯物を干すことは規則違反です。とくに下着はみっともないから、見かけたら私に報告して下さい。」と注意を喚起した。多分私のことをだれかが申告したのに違いない。

 

このごろずっと、夜中に規則正しい、ドラムを叩くような音が耳につく。空耳にしてははっきりしているし、何かの機械音だろうか?二時間ほど目が冴え、その反動で八時前まで寝込んでしまった。それでもまだ眠い。

管理課に音のことを申し出たが、恐らく冷凍機のベルトの音でしょうとあまり取り合ってくれない。

今日はホワイトデーとかで、バレンタインデ一にもらったチョコレートのお返しをする日である。この前買っておいた鶴屋吉信のお菓子を二人に手渡す。目を輝かせているところを見ると思惑が当たったようだ。

昼から二時過ぎ、やっと元帳が締まり、数字が私とこに回ってきた。売上から固めに掛かる。

夜八時過ぎてから取締役が、三年前に交通事故で死んだ社員の保険のことで私にしきりに相談を仕掛けてくる。多分会社が社員対象で掛けている団体生命保険のことだろうと思う。とうとう帰りが九時半を過ぎてしまった。

家に電話を掛けるが佐和子はとくに変化はないようだ。利武君が大阪工業大学に合格したそうだ。働きながら勉強して建築の資格を取るつもりらしい。父親の自覚なのだろうか。それとも今の会社に不満でもあるのか。

 

昨夜は枕を逆にして寝た。お陰で音もほとんど気にならなかった。七時前に起き出して、ツーエッグで、プレ一ンオムレツを作り朝食を摂る。

思えば去年の今日は前の会社で全員解雇が告示された日だった。あれから一年、皆どうしているんだろう。

昼、卵と牛乳を買いに出る。

昨日風邪で休んでいたパートのMさんにもホワイトデーのお返しを渡す。彼女は「鶴屋吉信のお菓子」をおおげさに喜んでくれた。

 

今日も六時過ぎに目が覚めたが、ぐすぐずしていたら七時を過ぎてしまった。屋根や道路が濡れていた。どんよりと薄ら寒い日である。ふと、ベランダから「ぽっぽー」という声が聞こえてきた。ガラス戸に近寄ると、鳩が柵に止まって鳴いている。あっ!そうだ。この前護国神社の裏から聞こえてきた奇妙な声は鳩の鳴き声だった。なぞが解けた。

 

N君だけが日曜出勤していた。雑音がなく仕事は捗るつもりだったが、思ったほどは進まなかった。もっと早く帰りたかったが、結局会社を出たのは五時前だった。

新幹線のダイヤ改正で少しずつ発着時間が変わっており、羽島発十八時九分のこだまに改札からホームまでを駆け上がってようやく間に合った。

七時過ぎに家に着いたら、えらい騒ぎになっていた。すみ子が彼氏の車に乗っていて交通事故に会ったらしい。幸いすみ子の怪我は軽くて済んだようだ。相手の車がラインを越えてカーブして来て横っ腹に当たったとか。山形君もとっさに左にハンドルを切り道路の並木にぶつかった。相手は身障者の女の子で、若葉マークだった。からといってスピード違反は許されない。山形君が一時的に意識を失い、すみ子は安全ベルトをしていて助かったのである。すぐ外へ飛び出し、近くの公衆電話から110番したとのことである。安全ベルトに感謝したい。すでに戻ってきているすみ子本人からこの話を聞き、胸を撫で下ろした。

 

休みの後はいつも仕事をしたくない気分だ。

昼間頼んでおいたので、管理の係長がまもなくやってきてくれた。流しが詰かったのを直しに来てくれたのである。大したものも詰かつてなくて十分ばかりで通してくれた。

今日は現場からの経費予算が再提出されてくるはずの日だったが、一向に集まってこない。

取締役からまもなく電話が掛かってきて、今日は休みますとのこと。これで私も大手を振って連休を取れる。

経費予算の再提出分が出てこないまま、説明を書き始める。また書き直すことになるだろうが、見切り発車しないと先に進まない。K君が三時ごろやってきて、例の給料資料の打ち込みを始めた。非常に手間の掛かる作業のようだ。連日晩も遅くまで頑張っている。基礎データに関して海音寺部長は一切関わらないつもりのようだ。下川係長に、いずれ経理もコンピーター入力になるが、どう思うか聞いて見た。

「わたくしは存じません。関係ありませんので。」とそっけない。

夜八時前、K君を置き去りにして、私も引き上げた。

 

目を覚ましたら七時四十分だった。この二三日静かだった機械音、雨垂れのような音が夕べはひどかった。それにも関わらず私は八時間近くまで寝たことになる。小雨が降っていた。

今日も取締役は朝から関西鉄道本社に行っていて留守だった。今だに予算の再提出は出て来ない。

四時ごろに取締役は戻って来たが、そのまま社長室に上がったなり六時前まで降りて来なかった。土日としようか日月としようかと連休の取り方を迷っていたが、降りてきた取締役に、月次決算の社長説明を明日して欲しいと先回りされたので、今日帰るのを諦める。

太田課長は売掛の未収のことばかりに掛かりきりで、気持的に疲れているみたいだ。彼もやはり主計の仕事がやりたいのだろう。

 

かなりきつい機械音が聞こえるのに隣近所は感じないのだろうか。しかしまあ今のところはそれがための寝不足もなく、実害は被ってない。小雨が残っていた。ひょっとしたら雨と関係するのだろうか?

社長に月次の説明をしようとしてもなかなか掴まらない。結局来週に延期になる。経費予算も捗らない。こんなことなら帰れたのに。

売店で「柿巻き」を二箱買う。このあたりの名物だった。天気は回復していた。

五時過ぎ、今日は安藤取締役から逆に早く帰ったらと督促があった。六時五十三分の臨時こだまに乗れた。

 

翌朝十一時過ぎ、柿巻きをひとつ持って従弟の仏前にお参りに行く。早いもので四月二日には忌明けを勤めるというので、どうせ私は出席出来ないからお詫びのつもりである。叔母は腰の痛みも少しはましになってきたと言った。

夕食が済み、暮れてきて、八時に近付くにつれいつも気が沈んで来る。利武君も大阪に行ってしまったので、駅まで歩いて地下鉄に乗り込んだ。佐和子に借りた小川洋子の「妊娠カレンダー」を新幹線の中で読む。

     

いきなり社長が九時半から月次決算の説明を聞くと言い出した。次の予定があるので「簡潔に」と指示された。「早くて簡単」は得意中の得意だから三十分ほどで終わった。

六時ごろ礼子から電話が掛かってきた。佐和子が四時過ぎに女の子を出産したとのこと。昨日の感じからしてまさか今日とは思わなかった。あっけなくもある。しかし何より軽いお産でほっとした。偶然だろうが三月二十六日は佐和子と利武君の結婚記念日と重なった。

事務所に八時ごろにまた掛かってきた。利武君がビデオを取りたいがテープが見当たらない、とのこと。向こうは大分ごった返しているようだ。私はここでははしゃぎようがない。

寮に帰って十時半にこちらから家に電話する。三千三百グラムで、目がぱっちり大きいということだ。

 

七時半に起きてカーテンを開けると、どんよりして小雨が降っていた。

安藤取締役は昨夜最終の新幹線で帰ってきて、「あまり寝てないのです。」と遅刻してきた。

その彼が期末の当座預金の扱いを勘違いしていて、しきりに私に相談を掛ける。しかしやり直すしかなかった。気の毒と思ったが、私は十時半に切りをつけて引き上げる。

ちょうど礼子から電話が掛かってきた。一ヵ月後の宮参りの産着を嫁側が負担することになっているらしい。それが安くて十万円というから頭を抱えてしまう。

 

明日は土曜日だから今日が月末といっしょだった。朝からM君が銀行回りに出かけてくれている。

昼休みに玉子を買いに出る。先週二百七十円だったのが二百三十円と下がっていた。牛乳は、いつものが売り切れで二百八十円だと言うので止めて帰った。このごろ少し主婦の気持ちが理解できるようになった。

昼からは私も太田課長の車に便乗して十六銀行本店に出かけた。やはり混んでいる。えらいことだった。予定の振込みが入ってなくて資金不足に陥っていた。下川係長に電話して長良支店から現ナマを振り込んでもらって何とか間に合った。冷や汗をかく。余計な時間を取られて、戻ってきたら四時を過ぎている。取締役も三菱信託の名古屋支店へ出掛けてくれて四時半頃帰ってきた。決算伝票をいろいろ切らなければならない。取締役はなにかにつけていらいらしている。そのペースに巻き込まれないように用心するが、今日も遅くなった。九時半にようやく引き上げる。腹が減ってきて、食パンが一枚残っているのでジャムを塗って玄米茶で流し込む。

 

翌日はもう銀行は休みだから、外へ出てばたばたすることはなかった。五時までに仕上げられる仕事を作って、それ以外の余分な仕事が回ってこないようにガードした。五時きっかりに、「孫の顔を見てきますので。」と取締役に申し出たら、彼はきょとんとていた。

京都も雨が降っていて、駅前からタクシーに乗ろうと思ったが長蛇の列で、三十分待っても車にありつけそうになかった。地下鉄で四条まで出て阪急に乗り継ぐと大宮で降り、そこから雨の中を歩いて山元病院に七時半ごろ辿り着く。すみ子が山形君とエレベーターを降りてきたのと入れ違いだった。彼にこの間の事故のことを聞いた。「もう大丈夫なの?」

「はい、ありがとうございます。すみちゃんに怪我させてすいませんでした。」私におおげさに最敬礼して見せた。

赤ん坊は佐和子の側で眠っていた。その小さな生き物は、生まれたての佐和子をつい昨日のように思い出させた。それが自分の孫だとは実感が沸かない。礼子がまもなく来て、買ってきた寿司折りを二人で食べる。佐和子は顔が丸くなっていて、いやに落ち着いていた。食べ過ぎて脂肪がついていると寿司折りには手を出さなかった。すみ子が山形君と別れてまたやってきた。八時二十分になるとチャイムが鳴り面会終了の放送が流れた。三人でタクシーに乗って家に帰る。

 

八時に起き出す。雨は上がっていた。

朝食後、町内の会計帳簿を締切り、決算報告書を作る。利武君が九時半ごろやってきたが、私はまだ締め切りに追われていた。十一時過ぎにやっと完成して、すみ子も伴って利武君の車で山元病院へ出かける。

佐和子は寝不足の顔をしていた。夜中の三時ごろから赤ん坊が起きて母親を寝させなかったらしい。利武君夫婦は名付けに夢中になっていた。私の考えたいくつかの候補名は言い出せなかった。すみ子は赤ん坊に大層興味を示し、側に付きっきりだ。

利武君を待っていても一向に帰ってこないので、礼子と鰻丼を食べ、岐阜へ出立する。長良から電話すると、名前は「礼奈(あやな)」で二人は一致したが、小川家が難色を示しているらしい。女の児なら私にと名付けを依頼したことなど、みんなの頭から飛んでいた。

 

 

次回は2005.3.16に 第二章 掲載予定