単身赴任3
単身赴任日記
第三章 夏から秋へ
2005.3.21追加更新 七 月 八時に起き出したころは一時的だが陽が射していた。 稲荷参拝には社長は欠席した。理由は分からない。 一時半から、新入社員配属辞令交付式があり、経理係二名の配属者は私が事務所に引き連れて帰る。二人の内一人は、もともと事務希望でなかったためかもう一つ生気が乏しく長続きするか心配だ。 午後から取締役は社長と共に株主の岐阜市長を接待するため三島に出張した。隠密旅行である。 四時過ぎ新館の購買課長から棚卸し立会いの催促が掛かってきた。太田課長の車で新館ヘ出向くが、いわゆる月末棚卸しの感覚からほど遠く、実にいい加減なものだ。使用中のものや、いま捌かれている肉や魚は一切お構いなしである。月末という意識もない。いちいち注意してたら切りがない。一時間程で帰ってくる。 市長の接待で三島に行った取締役は翌日の夕方にしか帰って来ない。 私は新館へ棚卸しの再チェックに行くが、月初めの二日に棚卸ししても数は動いているのに何も疑問を感じない。 その後、関鉄本社への六月の概算収入を作る。特に急ぐ仕事もなく、のんびりとやった。 夕方と思っていたのに三時過ぎに取締役が早々と帰って来た。見た目にも疲れた顔をしていた。 ぐずぐずしていて九時前に帰りかけると、取締役も机を片付けて私より早くさっさと帰ってしまった。 朝早々に太田課長と取締役が応接室に入り小一時間話しをしていた。この前の「残業手当打ち切り」をいよいよ実行すると宣言したのだろうか。まさかと思うが・・・。海音寺部長も呼び込まれた。ひょっとすると太田課長がほんとに辞表を提出したのかもしれない。しかし、そのあと特に変わった様子はなかった。 夕刻六時半ごろ、取締役が、「ちょっと出掛けて来ます。」と出て行った。続いて海音寺部長、それから、太田課長も出て行った。下川係長に聞くと、太田課長とこにメモが回っていたから、 「三人で、きっとお食事に行きなさったのよ。」と言う。「部長にはお呼びがかからなかったのですか?」 彼女の顔が半分笑っていた。朝の出来事と関連があるような気がする。 夕刻七時。 「部長も早く帰られたら・・・」と下川係長が同情するような、軽蔑するような言葉を残して自分はさっさと引き上げた。私は意地になって結局九時前まで残っていた。 風呂上がりに扇風機に当たっていて、小指を扇風機の羽根に突っ込んでしまった。氷で冷やす。十時半過ぎ家に電話するが出ない。十一時にもう一度するがすみ子も出ないので、佐和子に電話する。佐和子が近所のYさんに電話してくれ、町内の寄合いでMさんにいることが解かった。すみ子も十一時半に帰ってきたようだ。人騒がせなことである。 朝、薄日が射していたので、なんとか昼まで天気は持ちそうだった。昨夜洗濯したので早く乾いて欲しい。 十時半からの労懇(労使懇談会)で委員長が、「社長室が七階グリルの近くにあるのでグリルの従業員が辞める原因になっている!」と厳しい口調で申し立てた。どういう因果関係なのか私には今一つよく分からなかった。ただし当の社長は今日は欠席している。 洗濯物は取り入れたが、やはり雨が降って来た。 下川係長が帰り際、置き傘がなくなったとえらい剣幕で総務に訴えてきた。海音寺部長があたふたして彼女と事務所を出て行った。私は傘をさして出勤しないからおかげさんで盗られることもない。やがて総務部長は白けた様子で一人で戻ってきた。それ以上私も何も聞かなかった。 朝から太田課長は滞納処理に精を出している。昨日N君に催促したのが課長に間接的に利いたようだ。私も釣られて、この前から私の担当になっている、沖縄トラベルに電話してみる。相変わらず居留守を使っているようだ。業を煮やして沖縄みやびホテルのK課長に電話して協力を依頼する。電話を切って三十分もしない間に沖縄トラベルの経理担当から電話が掛かってきた。二十四日に纏まった金が入ってくるから二十五日には必ず振込むとの返事。眉ツバだが信じるしかない。もし支払いがない時はそれなりの手続きをさせてもらいますよ、と強く言っておく。それがいつもの私にしては大きな声だったので、太田課長とN君がぽかんと私を見ていた。 午後一時半の約束が二時前になり、やっとM商事のHさんと情報システムのFさんが揃う。取締役とで社員食堂でひとまず業者サイドの話を聞き、その上で、機械化の経験がある私が現状の説明と希望を述べる。十月から本稼動を目標にするなら、今月十五日には勘定科目を確定しなければならないことを取締役に納得させた。 すぐに五時のチャイムが鳴る。うまくタイミングが取れなかったが、仕方がない、「これで失礼します。」と取締役に挨拶して、早々に引き上げる。 順調過ぎて七時前に家に着いてしまった。すみ子もいた。野菜の煮物、サラダ、野菜オンパレードである。私の野菜不足を一日で取り返してくれようという、礼子の大作戦である。 早朝六時ごろから、すみ子は山形君と鈴鹿サーキットヘ車で出掛けていった。去年、お向いの岡田君が鈴鹿サーキットに出掛けて交通事故で死んだ記憶が蘇り、礼子が心配していた。私はそれからまた寝てしまったが、礼子は目が冴えて寝られなかったらしい。 十時半ごろから、二人でサイクリングに出掛ける。加茂川のほとりを植物園まで走ろうということになる。天気は爽やかな部類だが、しばらく走るとやはり汗ばんで来た。 加茂川の土手に自転車を放置して、植物園に入る。園内にはバラや蓮が咲いていた。広い園内を適当に一回りする。アベックが多い。まあ我々もアベックの一種ではあるから別にうらやむことはない。帰りは下り坂で川風を切りながら気持よく走れた。 新幹線の切符を買うのに礼子に一万円借りて出掛ける。 羽島駅に降り立って、車内に上着を置き忘れたのに気が付いた。発車のベルが鳴る中を駆け込み、ハンガ一の上着を取るやドアーから飛び降り、タッチの差で間に合った。 相変わらずの月曜病、眠気が取れない。机の上には伝票の箱が三段重ねに積んであった。 十時半、空は曇っている。本館の防火訓練に私は模擬の宿泊客の一員に加わった。 五時半、鵜飼当番で出掛ける。なにが気に障ったのか、総支配人が私の傍へ走り寄って来て、 「沢村さん、もっと気を入れて誘導してください。いいかげんなことでは事故の元ですよ!」とどなられた。総支配人と下川係長は普段から仲がいい。なにか裏があるのだろうか? 九時半に本館ナイトに出掛ける。泊まり客は多かったが、宴会はすべて終っていて、特に何もすることはなかった。十一時半に客室へ引上げ、テレビを点けたら貴花田が大乃国に敗れていた。 時計が遅れていて、予め目覚ましを二十分早めておいたが、七時四十分にベルが鳴る。急いでフロントに下りたが、こともなく閑散としていた。 九時半から昨日の本館に引き続き新館で防火訓練があるので取締役は出掛けていく。私は免除されて、今日も伝票整理に追われたが、次第に虚しくなり、ろくろく見もしないで判子だけをポンポン押した。 あさっての「チェーンホテル会議」に出席するので、黒皮のカバンを久し振りに出してきて、帰る用意をする。 出勤早々、遅れていた月次決算の役員説明に応接室に上がる。社長が九時半に次の予定があり大急ぎの説明となる。こういう時はわざとゆっくり説明すると社長はいらいらしてきて、あまり質問もしない。 十三時半から新館で経営企画会議。毎日なにかの会議がある。一時のシャトルバスで出かけ、四時半に終る。すぐに五時になる。取締役はスィートルーム改装の出来具合を見に行って席にいない。でも私は躊躇することなくさっさと引き上げる。 七時過ぎにうちに着いた。私の顔を見るや礼子が、従兄の雅ちゃんが胃癌で入院したことを報告した。いきなりことで私もびっくりした。岸辺の叔母は相当ショックだったらしい。それはそうだろう。雅弘の弟、高次の百ヵ日が済むか済まないかで、今度は長男が下条病院へ今日入院したのだ。 午前中つまらないテレビを見ながらごろごろして過ごす。 一時過ぎにタクシーでみやびホテルヘ。人事へちょっと寄ったがだれもいなかった。 「チェーンホテル会議」は蘭の間で行われたが、ここは、我が社みやび幹線食堂会社解散のおり労働組合との団体交渉の場となったところだ。「チェーン会議」といっても、ただ親戚縁者の寄り集まりというだけで、大した意味はない。各ホテルは決定事項に拘束されることもなく自主的にやっている。それでもまじめっぽく、この前からの継続審議の共通経理規定の最終段階、「予算」と「決算」を大急ぎで審議する。四時過ぎに終った。帰りはうちまで歩いて帰った。 夕食後、礼子すみ子と三人で街へ出る。先斗町の甘党屋でかんてん菓子を食べ、四条大橋から鴨川の河原を歩いて帰る。沿線が地下にもぐったので、京阪電車の走る風景が見られなくなったのが少し寂しかった。祇園祭の鉾が立っているらしいが、見ずに帰る。 連休もあっという間に済んでしまった。長良川ホテルの事務所は、夜の十時過ぎ、まだ灯りがついていた。寮室に辿りつき、冷蔵庫を開け缶ビールを飲む。 昼の休憩時間にビール券を持って缶ビールを換えに行った。酒屋のおかみさんは計算が弱くて、何度も何度も計算をやり直す。いらいらしてきて私が電卓を取り上げて自分で計算してみせる。「こうと違う?」それでもまだぐずぐずしているので、「急ぐんやけど・・・」と私が京都弁でなじると、不意におかみさんがカンシャクを起こした。「そんなに言うならもう換えんから!」と机を叩く。それ以上事を荒立てないように気を付けて、なんとか缶ビールを貰って帰る。 夜は、太田課長とN君が滞納の整理に遅くまで残っていた。取締役はしきりに、「もう帰ろうよ」を連発する。N君は十一時前にやっと腰を上げた。続いて、十一時きっかりに、私も残りの二人を尻目に引き上げる。 外は雨が降っていた。うちから貰ってきたハムで缶ビールを飲む。またまた十二時になってしまった。 昨夜来の雨である。 M君に数字がいつ固まるかと聞くと、早くて今晩最終、明日の午前中には間違いなくやりますと言う。今日の午前中にやってくれれば連休前に仕上がると胸算用していたのだが仕方がない。滅価償却計算書の整理をする。急ぐ仕事でないので久し振りにのんびりやる。 ヨーロピアンレビューショーのチケットが売れ残っていて、その販売割り当ての会議を事務所の連中を集めて社員食堂の片隅でやる。一人五枚の割当だ。私もコンピュータ会社に電話してその五枚をなんとか売り付けることができた。 三時過ぎからはコンピュータ導入に伴う勘定科目の設定の打ち合せ。私の案を元にはしているが、取締役がいくつかを自分で作り替えてしまった。彼にはどうしても一からの発想の転換が出来ない。自分が培ってきたものに郷愁を感じているのだ。彼の気持も分からなくはない。基本的部分が認められれば枝葉は妥協するしかない。どうせ私は二年で帰る身で、使用するのは彼等である。準備から稼動までのスケジュールはほぼ私の案通りで決定する。十月からの本稼働が決まった。なんとしてもその日程をまっとうしなければならない。その後は私は解放されるだろう。そんな希望で胸がふくらんだ。 窓からガンガン朝日が射し込んでいた。考えてみれば今日は祇園祭の山鉾巡幸の日だった。しかしまるでヨソ事のようで、すぐに頭から消えた。 太田課長が滞納督促依頼書を昼頃やっと作って回してきた。私だけに説明すると言うから、やはり取締役を交えて説明してくれと促すと、「またぎゃあぎゃあ怒られますよ。」と挑んできた。しかし、やはり一応声を掛けないわけにはいかない。私は滞納状況をいつものようにまとめる。 夕方から雨になる。 六月の数字がやっと固まった。滞納督促依頼書を取締役にどうしますかと聞くと、やはり、「それでは見せてもらいましょうか。」とあっさり受け入れた。課長が鵜飼当番なので、結局、始まったのが九時前。終わったら十一時だった。しかし今日は取締役も機嫌がいい。 毎晩缶ビールを飲むのが通例になった。 目が覚めたら八時十分だった。ミルクも暖めずに冷たいまま飲む。ハムを切ってパンに挟んだら、最近食欲がなかったのが少しは食が進んだ。 朝から取締役の車で、太田課長と三人でMJSの岐阜支社まで行く。財務ソフトの実演を見せてもらい、向こう側とスケジュールの交換をする。打ち合わせたように私の案にそっくりだった。取締役が前もってコピーを渡していたに違いない。一時半で終わった。帰り道、取締役が中華そばを奢ってくれた。社に帰り着いたら三時だった。 夕方からは鵜飼当番である。この役目はいつまで経っても好きになれない。どう見ても道路工事脇の整理マンだ。それから引続き本館ナイトマネージャーの役目が待っていた。いつものように遅刻していこうと仕事を続けていた矢先に、外村常務から、自分は新館へ行くから直ぐに交替してほしい、と電話で要請してきた。しかたなく九時前にフロントへ急ぐ。実際ひどく混んでいた。九時四十分まで玄関先に立ちん坊をして、やっと事務所に引き上げる。広げたままの机に向い月次の続きをやるが、見てる間に時間が経つ。十一時過ぎ大急ぎで再びフロントヘ戻り、十一時四十分まで館内を巡回した。降りてきて、フロントクラークに、「部屋はあるの?」と聞くと、「ここしかありません。」とスィートルームのキーをくれた。 いい部屋なのだが時々天井の辺りで水漏れのような音がする。バルブの締まる音が猫が鳴くように聞こえる。フロントに電話しようかと思っているうちに寝てしまった。 八時にフロントに下りる。フロントは既にざわついていた。 副支配人に部屋の音のことを告げると、あそこは前から音がするんですよ、と平然としている。 今日は取締役は休みである。月次を作表まで完成して、説明だけを残して、ちょうど五時になる。太田課長に日曜と月曜の連休を告げると、「私も月曜日休ませてもらいます。」M君も休むみたいだ。誰が何人休もうと私は予定通り休むだけだ。 七時過ぎには京都にいた。 御池通りで町内の野々村さんに呼び止められる。 「Kちゃんが急死しましたんや。」 驚いた。確かまだ四十代のはずだ。脳溢血らしい。当の野々村さんも奥さんが病院に入院していて、今そこへ出掛ける途中なのだ。お向いの岡田さんとこの奥さんも入院中だし、一体この町内は何かに祟られているとしか言いようがない。 夕食後雨の中を隣の山中さんにおくやみに行く。 明日の朝、従兄の見舞いに行く段取りを礼子と相談する。 婿の妹、静子さんが先週流産したが、見舞いをどうしようと礼子が聞くので、流産の見舞いはあまり例がないので止めておこうということになる。 十時ごろ、礼子と御池通りでタクシーを拾って岸辺の叔母を迎えに行き、その足で下条病院ヘ。従兄は思ったより顔色もよかった。家政婦も愛想がいい。しかし叔母が話しかけると雅ちゃんは涙を堪えているように見えた。ベッドの名札には六十才と書いてある。彼は軽度の知能障害者だったので、この歳で妻帯はしていない。叔母だけを頼りにしていた。私は、元気を出すように言って握手をする。彼は私ににこっと笑顔を返した。 昼はすみ子と三人で阪急の鶴喜で蕎麦を食べ、そこから歩いて祇園の草わらび餅屋に行く。私は五色そばで腹がはちきれそうだったので飲み物にしておく。 礼子はその夜、お腹が痛いと言い出した。原因はどうやら岸辺家の将来のことを重荷に感じているらしい。今から先の事を今心配してどうなるものではない。寝るのが十二時を過ぎてしまった。 八時半に起きたが、もう表で葬儀の設営が始まっている。私は略礼服を長良に置いてきたので、黒っぽいスーツを着て会葬に行く。 その最中に岩佐の叔父がやってきた。勝男(従弟)からのお中元だと言って、私が持っても重い乾燥冷や麦を下げていた。 雅ちゃんの話になり、やはり五年しか持たないらしい。叔父は他人事ではなく、彼自身しんどそうだ。実際、「しんどい」と白状した。従兄弟を含めて岸辺家の今後の事を相談しようかと思ったが、山中Kちゃんの出棺を見送っている間に叔父は岸辺のうちへ行ってしまった。 蒸し暑い中、私は昼寝する。すみ子は学校の就職課に出かけた。 食欲がなく、すき焼きも断った。すみ子は帰ってきたが、大日本スクリーンは今日連絡がないということはダメと言うことらしい。長女の佐和子から電話が掛かってきた。なにを言うかと思ったら、私に人間ドックに入れと勧める。今日も礼子に地下鉄まで送ってもらう。 朝、「あじゃり餅」を持って出勤する。下川係長がこの時ばかりはニコリとするが、普段、彼女は日増しに私に敵対的になってきている。経理のコンピュータ化が気に食わないようだ。 出勤早々、「月次はどうなっていますか。」「原料率表はもう配ってもらいましたか?」と、安藤取締役はまるで、連休した分を返してもらいたいと言いたげである。月次の説明は今日中に仕上げますと言うと、明日の企画会議にコンピュータ導入の提案と原料率表の配布、それから月次決算の報告をして下さいと立て続けに注文を出す。前の二つはいいが、月次の報告を企画会議に懸けるのは始めてである。取締役は企画部長にさっさと議題の予約をしておいてから、私に、「月次の報告の仕方をどうしましょう。」と聞く。私は、 「収支の数字をナマで公開するのはどうかと思いますが・・・」と意見を述べた。結局報告は止めとこうということになる。いずれにしろ私は月次の説明を仕上げなければならないので、とうとう十一時までがんばってしまった。 夕日が入らないから涼しいなどと言っていられたのは、まだ本格的な夏でなかっただけだと分かった。咋夜はまさに熱帯夜だった。窓を開けておいたくらいでは解消しない。 午前中に月次の説明を書き終わり、コンピュータ導入の趣意書を作り、原料率表をコピーする。 一時半から経営企画会議。経埋システム導入の提案は十五分ばかりであっけなく承認された。しかし会議そのものは一時間オーバーして五時に終わる。 趣意書を太田課長と下川係長にコピーして配り、承認されたことを告げると、下川係長がこれについてまだ何一つ説明を受けたことがないと猛然と突っかかってきた。明日説明する事を約束する。 今日は久し振りに九時に引き上げる。風呂を沸かし洗濯をする。 出勤してすぐ社長に小切手台帳に判を貰う。引き返して六月分の月次決算の役員説明にもう一度役員応接室に上がる。脱線が多くて一時間半掛かった。お陰で健康診断に遅れてしまった。しかし取締役に、「沢村さん、だいぶ説明がうまくなりましたねえ。」といつになく褒められた。 昼からは新しい振替伝票の原稿を作る。 五時になって、下川係長が経理システムの説明を受けたいと言うので、M君と二人を応接間に呼んで二時間近く掛けて説明する。最後に、 「なにか質問は?」と持ちかけても、 「何を質問していいかもまだ判んない状態だわね。」と彼女はまだすねていた。 七時、夕食中にM商事のHさんが来る。最終見積りを持ってきた。さっそく「経理業務のコンピュータ導入」についての稟議を起こす。一山越えた。 十時に引き上げる。寮室は小型扇風機だけが頼りである。薬草茶をせんじて冷やしておいたのが以外とおいしかった。 カーテンを開けると曇っていた。その分暑さは少しましである。 太田課長は今日は町内の子供会で水泳に行くとかで休みだった。昨日受け損なった健康診断を受ける。胸のレントゲンから心電図、尿検査、目と耳の検査と問診、ごく簡単ではあるが一通りのメニューが盛られていた。最近心身を酷使しているように思うが、今のところ、とりたててどこが悪いという兆候はない。幼時は虚弱だったのに、今はそれを克服できたのだろうか。 コンピュータに入れ込む前年の数字を整理する。新科目に振り分けなおすのだ。 取締役も資金繰りのための科目設定に一生懸命だ。 私とほぼ同じ頃に入社した運転手のTさんが急死したとの報が入る。脳内出血である。四十八才とはいかにも若い。 また月末の支払い伝票が回ってきた。半分チェックして十時になる。力尽きて切り上げて引き上げる。 朝七時から花火が鳴った。そう言えば今夜は中日新聞社主催の花火大会の日だった。それでもうとうとして七時四十分にようやく起き出す。夜が花火というのに雨が降っている。道理で涼しいと思った。 運転手のTさんの通夜が今晩、会葬は明日の日曜日と知らされた。 「私はお葬式を遠慮させてもらってもよろしいでしょうか?」 「葬式はいいとして、花火はどうします。キャッシャーで皆残るんでしょう。経埋部の体制の問題ですよ。それでも皆さんが部長どうぞ帰って下さいというのなら私は何もいいませんが・・・」 安藤取締役がじわりと言った。それを押しきって京都へ帰るわけにはいかなかった。私が留まったので彼はその後は機嫌がよかった。夕方まで降っていた雨も止んで、花火が盛大に始まった。 皆はキャッシャーに駆り出されて、私と下川係長が留守番役となる。 「係長も見に行ってきたら?」 「そう?!・・・ありがとうごさいます。じゃあ、お言葉に甘えて・・・」 彼女が初めて私に本心笑顔を見せた。八時半ごろのクライマックスに、今度は下川係長が代わってくれたので、河畔へ見に行く。どこの花火も似たようなものだが、河岸道路が交通規制で歩行者天国になっているのが嬉しかった。帰ってきた皆にジュースを振舞った。 私はお通夜に行かなかったが、取締役らは九時半に参列して戻ってきた。 曇っていて多少涼しかったので、朝食に久しぶりにミルクを沸かす。ところがミロもインスタントコーヒーも瓶の底でカビてカチカチになっていた。 太田課長は十時半に出勤してきた。安藤取締役は午前中ずっと姿を見せなかった。十二時過ぎに会葬者のシャトルバスを仕立ててくれたので、それに乗って課長ともども私も出かけた。Tさんの家まで四十分も掛かった。禅宗の葬儀である。高校三年生を頭に三人の遺児が並び、まだうら若い奥さんは呆然としていた。 事務所に戻ったら三時だった。取締役は今日は休ませてもらいますと言って帰ってしまった。 私は五時に引き上げ、七時半には京都に着いた。保雄が八月三日に観音寺のおばあちゃんを見舞いに寄るとのこと。礼子もその日に合わせて帰観したいと言う。 すみ子はまだ就職が決まってなかった。寿司バーのバイトから十時半に帰ってきたが、何だか食欲がなさそうだった、少し痩せていた。 八時半まで寝る。朝方は少し涼しかった。 昨夜家に帰って早々にズボンを脱いだら股蔵に湿疹がかたまって出来ていた。礼子はこれはダニの仕業だと言って下着を脱がされ、掃除機をかけるやら、ダニアースを撒くやらてんやわんやだった。 十一時ごろF皮膚科に出掛けて見てもらう。天眼鏡で私の湿疹をつくづく眺めてから、これはダニではない、もっと大きな虫、例えは毛虫、あるいは毛虫の鱗粉によるものに症状が近い、覚えありませんかと聞かれる。身に覚えがないので、腑に落ちないまま薬を貰って帰る。 昼から、すみ子は月桂冠の役員面接に出掛ける。 我々は京都駅に行って、礼子が二日から観音寺に帰るのでその切符を買う。そのあと、新阪急ホテルで休憩してジンジャエールとミックスジュースを飲んだ。 五時前に家に帰るなり、同志社の就職課から電話で、すみ子の就職先に京セラが内定したとの連絡を受ける。家内は早速長女の佐和子に電話していた。 すみ子は七時ごろに、月桂冠で貰った吟醸酒をぶら下げて、やっと帰ってきた。早速ビールで乾杯する。すみ子は初めて体重が六キロ減ったことを告白する。 長良への足取りもいつもよりは軽かった。 寝しなに飲んだかゆみ止めの薬に睡眠剤が入っていたのか、目が覚めたら八時前だった。起きてもまだ眠くてしようがなかった。 午前中居眠りしそうになりながら仕事した。 取締役は、滞納リストの整理を自分でする、コンピュータの固定摘要の拾い出しも、「私がやります」と宣言し、張り切ってどこかへ出掛けた。どういう魂胆なのかよく分からない。私には大日本土木の売掛リストと官公庁関係の残高確認をしてほしいと言い残していた。とりあえずは溜まっていた伝票の整理をする。それだけでも半日掛かった。昼からは支払い伝票のチェック。ようやく三時ごろから大日本土木の売掛リストに掛かる。八時までかかって完成する。よくもこれだけ溜めてくれたものだ。 取締役がいつまでも戻ってこないので九時に引上げ、風呂に入る。 八時に目が覚めた。月末である。暑くなりそう気配だった。 昼から経営企画会議なのでその資料作りに精を出す。と言ってもこの前みたいにぎりぎりの、息も吐けないというほどのことはなかった。 一時半から始まる。売掛滞納リストの報告は自分でこなしていたので順調に終わったが、売掛販売基準は取締役が太田課長と相談して作ったものだから、私が提案してもしっくり説明できなかった。しどろもどろのところを取締段が助太刀してくれて何とか形をつける。 五時四十五分から鵜飼当番。客が少なく、すぐに済んだが、こんなこと毎年毎日繰り返し、道路をまたぐ「歩道橋」をつければ事が足りる。高い管理職の人件費も助かるのにと自由なアイデアを描いてみた。 ナイトマネージャーも泊まり客が少なくて、十時から出掛けて十一時半には部屋に引き上げる。寮室に比較して、やはり冷房のある部屋はいい。 八 月 目覚しで起こされる。いい天気で窓際が眩しい。 朔(ついたち)は稲荷参拝なので先に朝食を済ませ七階に上がる。屋上はうだる暑さだった。新館がまた暑かった。一社で二つもお稲荷さんをお祭りするのは変則だし、神様に文句をいいたい。 昼間買い物に表通りをさっと通り過ぎるだけで汗が吹き出た。 八時に引上げ、土曜日に娘が来るので部屋の掃除をする。風呂に入り下着の洗濯し、床に入るが暑くて寝苦しい。 昨夜は充分な睡眠がとれなかった。晴れていて今日も暑くなりそうだ。テレビの調子が悪く色が出なくなったが、かまっている時間がない。 昼の休憩時間に、予約係りに二人分の日本ライン号を申し込んだ。観光コースを当社と提携していて長良河畔ホテルの前からバスが出る。明治村にも寄り、十六時名古屋駅帰着だからお誹え向きである。日曜日なのでどうかと心配したが、うまくとれたようだ。後は天気を祈るだけ、すみ子に電話しておく。 とうとう我慢できなくなって扇風機を買いに行ったが、とっくに品切れだった。 九時に引上げて、一服した後、グラントホテル前で薪能があるというので見に行ったが、すでに終わっていて舞台の取り片付けの最中だった。川辺も今一つ涼しくない。今晩は半月が冴えている。 今朝はいい天気だ。八時半ごろすみ子に電話すると、寝ぼけた声ですみ子が出てきた。日盛りを歩くので帽子を被ってくるように言っておく。 段取りよく準備したので今日は急ぐ仕事は一つもなかった。午後からものんびりやった。時々昼の花火がポンポンと鳴る。 午後七時前にすみ子が事務所に現れた。あれだけ言っておいたのに帽子は被って来なかったようだ。 「父がお世話になってます。」末娘が人前で挨拶するのは初めてで、ちょっと照れた。まず「桃源」へ食事に行く。ちょうど寮でお隣の料理課長が、厨房から出て来て挨拶してくれた。海老のチリソース煮と八宝菜と五目そばをとった。味付けが少し辛かったが、すみ子はおいしいと言ってくれた。いったん寮に帰り、スポーツシャツに着替えて、長柄橋のたもとまで花火を見に行く。すごい人出だったが九時までちょうどいいところを見ることが出来た。今夜の外気は爽やかで、むしろ涼しかった。 寮に戻ってからすみ子は姉の佐和子のところと四国観音寺の母親に電話していた。私は家内と明日の帰りの打ち合わせを交わす。おばあちゃんを見舞いに行った長男の保雄とさゆりさんはどこか海岸べりの旅館に泊まったらしい。 六時半に目が覚めたらすみ子は隣の部屋に、敷布団から転げ出て、畳にごろ寝していた。暑くて寝られなかったみたいだ。 「この部屋冷房ないのん?」 「川のほとりで涼しい思たら、盆地やさかい返って蒸し暑いんや。」 扇風機もないことを弁解した。私も起き、二人でトーストとハムエッグの朝食を食べてから、時間があったので近くの河原に散歩に出る。いい天気だった。 八時三十分にやって来た観光バス「日本ライン号」にホテル前から乗り込んだ。途中関の刃物センターですみ子に花ばさみを買ってやる。 十時半ごろずいぶん立派な乗船場に着く。それでも保津峡下りの方が私には情緒があると思うが、すみ子は喜んでいた。 明治村に着いたのは十一時半だった。食堂できしめんを食べ、京都市電と陸蒸気にも乗った。駆け足プランで、名古屋経由の新幹線で六時頃にはもう京都に着く。アバンティーで観音寺から帰って来た礼子と落ち合った。泉仙で夕食を摂りながら我々は長良川の花火と明治村の話をし、礼子は保雄とさゆりさんの話をした。さゆりさんはおばあちゃんに気に入られたらしい。 八時半に起きる。庭の紅葉が元気がない。葉がちりちりと巻いて枯れている葉もある。葉の数が少ない。葉の裏を見たが、とくに虫は見当たらなかった。 すみ子は十時ごろ、迎えに来た彼氏の車でドライブに出掛けてしまう。 礼子は観音寺からの土産の入った宅急便を待っていた。昼頃には全部届き、礼子はそれをあちこちに配って歩く。 二時半を過ぎた頃から四国土産を持って二人で桂の叔父叔母を尋ねた。すみ子が京セラに就職が決まったことを報告するが、二人とも京セラという会社ををまるっきり知らなかった。 家へは戻らず、その足で京都駅に回り、いつもより一台早い新幹線に乗り込んで岐阜に向かった。羽島は霧雨が降っていた。 忘れていたが、今日は広島に原爆が落ちた記念日だ。八時からテレビが慰霊祭を写していた。毎年同じ場面の進行だが、そのまましばらく見続けていた。 午前中はもう眠くてしようがなかった。どうしようもなく元気がない。ガマンできずに昼食後、寮で十五分ほど転た寝する。 連休で云票が溜まっている。そのあと、コンピュータ導入準備の数字の整理をする。朝からずっと雨が降っていて、多少蒸し暑いが、四五日前からすると嘘のように過ごしやすかった。 九時前に、まだがんばっている取締役を尻目に引き上げる。 夜は凌ぎやすかった。缶ビールを飲みながら、何枚か暑中見舞いを書く。 朝起きがけに少し体操をする。快晴なのでがんばって布団を干す。 伝票が溜まっていた。盲判が多くなる。 昼買い物に行きたかったが、小切手台帳に社長印を貰うのに、社長の食事を待っていなければならなかった。 いろんな催し物のチケットを従業員が販売するとリベ一トが出る制度があった。その申請に疑問がある、調査してほしいと取締役が私に命じた。客からの電話で受けた分までリベートの対象にしていると言うのだ。なるほど私もこれは不正だと思う。ところが現場の課長や部長に問い質すと、慣習的に長年そうやっているとのこと。「どうなんですか?」と取締役に聞くと、いきなり怒り出した。やって来た販売推進の部長の前で、逆に私に怒りをぶっつけてきた。なんとも私はやり切れない気持ちだった。 私と取締役は夜まで口を利かなかった。しかし、私が折れなければやはりまずいと思った。干していた布団を入れ忘れていたのを思い出した。「ちょっと取り入れて来ます。」私が口を聞くと、取締役もほっとしたようだ。 七時半に目が覚めると、パンパンと音がした。手力男命(たぢからおのみこと)の祭りが長良河畔であるらしい。 昨日の反動で取締役は穏やかだった。 昼に買い出しにいく。ミルクとジャムとタマゴと缶ビールを仕込む。 私はコンピュータ用の新しいコード番号付きの科目を整理し、ゴム印を発注するまでに漕ぎつける。取締役は夜までワープロに首を突っ込んでいて、固定摘要の抽出をとうとうやり遂げた。彼は満足していた。私は私で今回のコンピュータ導入は私の主導で行われていると自負している。 手力男命祭りの花火がポンポンと上がっている。十時過ぎ少し川辺に出て見る。もう花火は終えていた。 礼子から電話が掛かる。月曜日に帰るむね伝える。 今日も涼しい朝だった。クーラーをレンタルせずによかったと思う。そのうち夏も終わるだろう。 午前中伝票の整理をする。七月末の伝票が、見終った尻から次から次へ新しいのが回ってくる。 昼休み、十五分ばかり転た寝する。昼寝のお陰でなんとか体力を維持している。 昨夜までに私の責任の月末伝票は切り終ったので、昼からはいよいよ月次決算の準備に掛かる。 今日は九時前に引き上げる。風呂を沸かす。 日曜の職場は静かで気分がいい。月次の準備も午前中に終った。 昼からはコンピュータ導入準備にとり掛かる。とくに急ぐ訳でなし、のんびりとやった。新館で夕方からジャズの演奏会があり、そのキャッシャーに太田課長が出てくるはずだが、今になっても来ないのは直接新館に行ったのだろう。 私は鵜飼当番に六時過ぎに出掛ける。その後はナイトマネージャーである。家族連れがたくさん泊まっていたが、別段気を配らなければならない事柄はなかった。 八時にフロントへ降りる。これから九時までの一時間が所在ない。 事務所に戻り机の前に座るとやはり落ち着く。コンピュータ導入準備でBS(貸借対照表)の前残数字を拾い直すのが今日の仕事だった。急ぐ仕事ではなかった。 三時の約束が四時過ぎにM商事がやって来たのでコンピュータ納入の打ち合わせをする。引き上げるのが三十分遅れてしまった。 名鉄にも遅れ、岐阜羽島に着くのに遅れ、新幹線も一台遅れに乗った。 八時半に家に着いたが、すみ子は風邪を引いて咳をしていた。 八時十五分からの朝ドラ「君の名は」を佐和子が気に入っているらしく、家内も釣られて自分も見ていた。 夕方から佐和子夫婦が泊まりがけで来るので、その準備に礼子が二階の掃除を始めた。 六時半にさやかを連れて若夫婦がやって来た。さやかは大きく重くなっていた。もう首が座っていて、抱いて歩いてやると機嫌がよかった。御池通りを烏丸通りまでだっこしてやる。 八時半に起きて、庭の植木に水をやる。 午前中は町内でさやかの顔見せとはなった。 昼から佐和子夫婦は佐和子の銀行時代の先輩のうちに遊びに出かける。 佐和子たちは五時過ぎに帰ってきたので皆で夕飯を食べる。 今度さやかに会うのはまた三ヵ月後か。利武君が八条口まで送ってくれた。さやかは車の中ですやすや寝入っていた。 ぐっすり寝たつもりなのに体がしゃんとしない。午前中ずっと眠かった。 今日はサマーフェアで太田課長は新館へ行っている。月次決算はスムーズにいかない。夜は取締役もサマーフェアに出掛けてしまった。N君だけは明日から連休なのでいつまでも残って仕事を片付けている。私も十時半までやった。事務所の片隅でこうろぎが鳴いている。冷夏で秋が早いのだろうか。 部屋にヤモリが入ってきた。新聞を丸めて頭を叩き付けるとぴょんぴょん飛び上がりながらベランダへ逃げていった。 薄曇りである。今日もそうは暑くはならないだろう。 朝から月次決算に取り掛かる。黙々とやる。この頃私は、コンピュータが軌道に乗ったら・・・とそんなことばかり考えている。 安藤取締役は夜は社長とマージャンに出掛けた。 お盆休暇を四五人がとっているので、ただでも少ない職場が閑散としている。取締役がいないので太田課長も下川係長も七時半には帰ってしまった。私だけが十時まで残る。 風呂の用意をしていたら礼子から電話が掛かってきた。嫁のさゆりさんが突然訪ねてきたとのこと。友達と大文字を見に来たらしい。そういえば今日は大文字の送り火の日である。暑い最中を礼子はさゆりさんを連れて清水界隈を案内し、道中保雄のことを尋ねると、いろいろ仕事のことで悩んでいるらしい。ファミコンに熱中しているとか、パチンコで七万円すったとか、かんばしからぬ話を聞く。 昨夜冷蔵庫に霜取りをセットしておいたら今朝台所の板の間に川が出来ていた。 下川係長が久し振りに連休を取っている。太田課長は和歌山の弟を送ってから出勤しますと十一時ごろにやってきた。安藤取締役は岐阜市の収入役を接待している時、部屋が寒くて腰が痛くなったと、昼から早引きした。そういえば世の中はお盆休みの真っ只中なのだ。 五時までに何とか月次の数字をまとめることが出来た。 五時半には上坂マネージャーの車に乗せてもらって揖保川の堤防を突っ走っていた。岐阜羽島駅の階段を駆け上がって臨時こだまに乗ることが出来た。 京都駅の改礼でひょっこりH君に会う。彼の結婚式には我々夫婦が仲人を勤めたのだが、三ヶ月ほどで離婚したと聞いた時には唖然とした。その後会社も辞めてしまったらしい。今彼は不精ひげを生やしていた。京都駅食堂の今後を聞いたが、我れ関せずと乾いた答えが返ってきた。 京都の夜はどうしてこう暑いのだろう。相変わらず、すみ子は寿司バーにバイトに行っていて十一時過ぎに帰ってきた。 六時半ごろ、すみ子が起きて襖の向こうから、「散歩に行ってくる。」と、まだ寝ている我々に声を掛けて出かけていった。 八時からテレビで沖縄水産と宇部工業の対戦を見る。沖縄が競り勝った。次の試含は松商学院と四日市、これが十六イニングまで、長々と延長、デッドボールであっけない幕切れ、松商の勝ち。 礼子が保雄に電話する。一時過ぎというのにまだ二人とも寝ていたらしい。保雄が、「いろいろさゆりがお世話になりました。」と堅苦しくお礼を言ったとか。 それやこれやで、暑い一日をごろごろと過ごす。夕方はすき焼きまがいを食べるが、あまり食欲がない。 京都駅の新幹線ホームはUターン客で混雑していた。しかし列車は遅れることなく十時過ぎには長良河畔ホテルの寮に辿り着いた。 取締役は今日は大阪の本社に行く予定だったが、体の不調で休んでしまった。 月次の説明文に取り掛かるが、数字の読み違いを今頃になって発見する。そのまま行くかどうか少し迷ったが、単純に訂正することにした。最小の訂正でも十枚近くの表の数字を書き直すこととなる。三時半にやっと数字を整え、ここから再び月次の説明をやり直す。 ソ連でクーデターが勃発したようだ。 太田課長がナイトを代わって欲しいと言ってきた。特に用事のない身だから請け合って、五時半からまず鵜飼当番に出る。今日は暇で鵜飼船も全部で五艘だけだった。泊まり客も二十二人。九時から三十分ほど館内巡視をして、後事務所に戻って仕事の続きをする。十一時までやって、また館内巡視を三十分ほどして部屋に引き上げる。 テレビはモスクワのクーデターで持ち切りでいつまでも見てしまった。 咋夜は寝られなかった。完全な寝不足である。 安藤取締役は出勤してきていたが、どこか弱々しい。太田課長は休みである。 十時過ぎから売掛滞納督促依頼の整理を取締役とN君とでやる。今回は奇妙なほどすんなり済んだ。 十時半からは総務経理合同会議。いつも通り私にはなんの意見もない。黙って皆の討議を聞き流していた。 六時半から事務所の新人社員歓迎会を本館の中広間でやる。いつものことらしいが女性社員は誰も出席せず、新入社員四人のうちの二人の女の子が輝いて見えた。九時過ぎから二次会に柳が瀬のカラオケバーに操り出した。取締役はなぜか付いてこなかった。太田課長は一滴も飲まないくせに歌はみんなをうならせた。私は「津軽海峡冬景色」を歌う。これしか知らない。それでもお愛嬌の拍手を貰った。十一時過ぎ、私は新入生を連れてタクシーで帰る。他の連中は三次会に回るはずだ。 昨日はさすがによく寝た。八時過ぎに起きる。 取締役は今日また休んだ。太田課長は連休である。 一時半から経営企画会議。私は七月の営業原科率を発表する。 Hさんから明日ハードを納入すると言ってきた。N君を従えて機械室の配置替えとか、その準備に取り掛かる。下川係長はまるでヨソごとのように涼しい顔をしている。 八時半に寮に引き上げ、風呂を沸かし洗濯する。九州沖の台風の影響だろうか、雨が降っていた。洗濯物は乾くだろうか、少し心配だった。 朝起きると、雨が止んで日が射していた。何とか洗濯物は乾きそうだった。 取締役は今日は出て来ていた。しかしどことなく力がなかった。「大丈夫ですか?」と尋ねるとますます顔を曇らせた。彼に今日ハードが納入されることを報告する。 朝一番に、コンピュータのデスクを二階建てに組み直してくれるよう管理に電話する。 十時ごろ佐川急便がコンピュータのパーツを配達してきた。荷下ろしの最中にM商事のHさんがやって来た。コンピュータの組み立てが始まる。 ついに経理のコンピュータ導入が具体的な形を取り出した。 昼の休憩にミルクとオレンジジュースを買いに行く。洗濯物は完全に乾いていた。 ゴム印が出来上がってきた。三時ごろコンピュータは一応組み上がり、Hさんは明日また来ますと、三時ごろ帰って行った。 五時過ぎから取締役に七月の月次の説明をする。「いいでしょう。明日朝社長に説明してください。」ということになる。取締役は八時前に帰り、私は九時に引き上げる。 ソ連のクーデターは失敗に終わった。首謀者達が逮捕されているらしい。 天気はよかった。台風は朝鮮半島の方向に逸れたようだ。しかし次第に曇ってきた。事務所は蒸し暑かった。 十時から七月の月次決算を社長に説明する。二三の質問はあったがうまく切りぬけて十一時で終わった。 M商事のHさんとSさんが来ていて、コンピュータに前期の実績を投入してくれていた。 昼からも私はコンピュータ用の資料を作り入力する。八時ごろ、投入した前期のBS(貸借対照表)とPL(損益計算書)が合ったとHさんが報告してきた。スムーズにことが運んでいるみたいだ。 九時に引き上げと、モスクワはエリツィンが次々と手を打っており、それに引き替えゴルバチョフは何となくもたもたしていた。 あちこち皮膚が痛痒い。やはり、ダニか何かがいるのだろうか。 M商事は今日は来ないので、私は模擬の伝票を切ってみる。なんでもやってみないと分からない部分がある。伝票を切ってみて初めて納得したり、切り方についての新しい発見をした。 五時のチャイムがなるやいなや、私は机の上を片付け始めて、取締役に挨拶して引き上げる。 七時過ぎに京都に着くが、礼子は地蔵盆で出払っていた。食卓に伝言がある。指示通りに冷蔵庫の刺身とシジミのみそ汁で夕食を摂る。 十時過ぎに礼子が町内から帰ってきた。あゆみさんが佐和子とこへ電話してきたそうだ。秋に保雄と奈良に行くので寄るかもしれんと言ったとか。 六時ごろ、すみ子が起きてきて台所でごそごそしていたかと思うと、やがて鈴鹿へ山形君と行ってくると出かけていった。 私たちは八時半ごろにやっと起き出す。ソ連ではゴルバチョフが書記長を辞任、共産党の解散を提案していた。 床屋へ行き、戻ったら、礼子が出かけようというので、歩いて阪急の鶴喜に蕎麦を食べに行った。礼子は帰り道サカエで岸辺の叔母さんに鯛の刺身を買った。 留守の間に岩佐の叔母が立ち寄ったらしい。窓から萄萄が差し入れてあった。 長良川を今年一杯で引き上げる計画を礼子に漏らす。ちょっとびっくりした後、一言も物を言わなかった。 夕食後、テレビでソ連の二ュースを八時まで見る。 礼子がいつものように御池駅まで荷物を運んでくれたが、道すがらもずっと礼子は浮かぬ顔をしていた。 長良の夜はちょっぴりしのぎやすくなっていた。 六時に目が覚めたまましばらく床の中でうつうつしていた。昨夜の礼子の浮かぬ顔が脳裏から消えなかった。 カーテンを開けると、外は晴れていた。その割には涼しかった。 海音寺部長は連休している。夏休みを取り損なった分をここへ来て調整している。部長がいないので総務のK君に申し出て、昼の休みに社宅でバルサンをたく許可を得る。ドアに目張りをしただけで煙は漏れなかった。 二時半からコンピュータ導入の打ち合わせ。その途中で四時ごろ部屋へ上がり、窓を開け放って煙を追い出した。特に問題はなかった。N商事のHさんSさんは六時に帰った。 今日は、太田課長下川係長を残して八時に引き上げる。ダニの死骸が散乱しているようで部屋に掃除機をかける。風呂に入り下着を着替え洗濯する。ようやく落ち着いて、礼子がくれた葡萄を食べる。 昨日と同じパターンで六時に目が覚めたが、再び寝込んでしまい、次が八時十分だった。急いでトーストとコーヒーで朝食をとる。 購買の海野部長、K係長を呼んで、コンピュータ導入に伴う伝票の形式変更を説明して協力を要請する。K係長は組合の委員長でもあるのでなかなか弁はたつ。海野部長も声が大きい。三対一である。しかし何とかこちらの言い分を聞き分けてくれてスケジュール通りやってくれることになる。 明日の企画会議に売掛け滞納リストを発表するのでそのまとめをやる。N君に聞きながらリストを八時ごろにやっと仕上げて、九時前に引き上げる, 虫の音がしげくなってきた。ベランダの風が涼しい。早く寝ようと思ったが、NHKのドキュメンタリー「旅順を売った男」を長々と見てしまった。 七時過ぎに目が覚め、くずくずしていたらまたもや八時を過ぎてしまった。 曇っていた。窓を開けていると、シャツー枚では涼し過ぎる。先日までの残暑はどこへ行ったのだろう。窓を閉めて食事をする。 十時四十五分から安藤取締役が作った関鉄本社あての資料五ヵ年計画および、見通しの役員説明に同席する。 昼は卵と牛乳を買いに出る。 一時半から経営企画会議。私は例月の売掛け滞納者リストを発表する。 そのあと、私には今特に急ぐ仕事はない。取締役に土日の連休を申し出る。どうぞと一言。月末の支払い伝票もいつもより早く回ってきた。ゆっくり念を入れてチェックする。八時半に引き上げる。 ベランダのすぐ近くでこおろぎが鳴いている。 昨夜半に雨が降ったようだ。今は曇っている。涼しいので窓を閉めた。 月割り経費の表を見直す。全面的に書き直す予定。今まで太田課長が台帳に手書きしていたのを表形式にする。いろんなところに私の痕跡を残して置こうと思う。 昼からは台風の影響なのだろう、蒸し暑かった。 支払い利息についても同じ見直しをする。 共済会のボーリン大会が今日明日とある。六時ごろからみんな出掛けて行った。私の組は明日なのだが京都ヘ帰るのでどっち道出席出来ない。気持は次第に長良川から遠ざかりつつあった。 八時過ぎに取締役が帰ってきて、先日新入社員の歓迎会に出なかった者がボーリング大会にはいそいそと参加すると、ちょうど帰って来たK君に当たっていた。 八時半に私は引き上げる。 十時半には電気を消して寝ようとしたが寝付かれず、結局十二時を過ぎてしまう。 朝方雨が降っていた。十四号台風の影響である。 昨日取締役からN君の放出を言い出されていたので、彼の顔を見るのが辛かった。しかし、経理で毎日残業しているより、むしろ営業の方が新婚にはいいかもしれない。 朝からM商事のHさんとSさんが来たが、一時間ばかりで帰って行った。あとは一日中、新しい私流の支払い利息月割り表を作って過ごした。 帰る頃には雨も上がっていた。 七時過ぎに我が家に着いたが、佐和子たちはまだ来てなかった。 十時半ごろやっと到着するが、さやかはもう寝ていてすぐ二階で寝かし付けられた。とりあえず皆でビールを飲む。淋しいだろうからと、さやかの大きな写真を長良川に持って帰るように佐和子に勧められたが、小さい方にしておく。 利武君も明朝が早いので佐和子ともども早々に寝てしまった。 六時に利武君は会社の慰安旅行に車で一人で出掛けて行った。 午後、礼子はバイトに出掛けたので、佐和子とすみ子と私はさやかを乳母車に乗せて植物園に連れて行く。陽射しは少し暑かったが、木陰にいれば風が爽やかだった。売店の前の広場にビニールを敷いて一時間ばかり休憩する。さやかも機嫌がよかったし四時ごろに家に帰る。 佐和子が久し振りに夕食の支度をしてくれた。礼子は六時前に帰って来た。 夜は世界陸上を見て過ごす。ルイスが百メートルで世界新を出していた。 九 月 佐和子と礼子は赤ちゃん用のバーゲンショップに出掛けたが、昼過ぎに、さやかが駄々をこねたと帰ってきた。 昼からは佐和子は友達のうちにさやかを連れて遊びにいく。礼子は買い物に出掛け、私は昼寝したりテレビの東京陸上を見たりして過ごす。三時半に利武君が帰って来たので二人でビールを飲む。四時ごろすみ子が戻ってきた。が、すぐバイトに行ってしまう。出入りの多い家だ。 利武君が京都駅まで送ってくれた。同乗していた佐和子が車の中で、「会社何時まで行くの?」と聞くので、「今年一杯や」とつい口を割ってしまう。後から、余計なことを娘に言ったと後悔した。 月曜の朝はいつも気が重いが、連休の後はなおさらである。 五日に物故者の合同慰霊祭があるが、略礼服着用とのこと。夕方礼子に電話して宅急便で送ってもらうことにする。 ところが翌日一日待ったが略礼服は届かなかった。礼子に電話する。 「四日必着にしてあるさかい大丈夫やろ。そのことだけ?」と素っ気ない返事。特にしゃべることもなかったので、私も電話を切ったが、蒸し暑くもあり、いらいらした。雨は止んでいた。 今朝はいい天気である。洗濯物はよく乾くに違いない。 夕方になっても略礼服はまだ届かない。再び礼子に電話する。驚いたことに私の服は神戸に向かっているらしい。運送屋が何とか明朝八時半までに届けるとのこと。礼子がパートに行ってなくてよかったものの、ひとつ間違ったら大事だった。 朝七時半にベルがなった。パシャマ姿でドアを開けると宅急便が略礼服を届けてくれた。ほっとする。十一時から会社のごく近くの専応寺で、社員物故者慰霊法要祭が執り行なわれた。慰霊は五人、参列家族は四家族だった。会社側は社長以下部長以上と組合幹部。三十分ぐらいで終わった。 昼からは、美濃カントリー食堂での不正の噂があるのでその対策を取締役、太田課長、下川係長と私で相談する。的にされている課長に私から電話で事実確認をしてみた。私には彼が非常に真面目な人柄に思えた。 昨夜はなんとも蒸し暑く寝苦しかった。目が覚めたら八時だった。夜中に雨が降ったようだが朝には日が射していた。 新入生を一本立ちさせるための指導で、太田課長は今朝は新館勤務である。 月末の伝票が次々回ってくる。一時間ごとに時計を見て、五時になるのをあと三時間あと二時間と待った。五時のチャイムの直後に帰る準備をする。 鵜飼屋からバスに乗る。いつも思うのだが、帰る時、来る時、同じ道とは思えない。もう二度と長良川の夏を過ごしたくはない。 少し日が短くなったようだ。七時の京都駅は暮れかかっている。我が家も蒸し暑かった。近頃食欲が衰えている。 風呂の後、一週間ぶりのビールを飲む。 昨夜は真夜中に三度も無言電話が掛かってきた。お陰で一時間以上も起こされてしまった。なんのためなのだろう。 午前中はごろごろと過ごした。昨日のクイズダービーで「新かみなり親父」という言葉を聞いた。どことも近頃の親父はごろごろと過ごすらしい。 昼から、礼子とすみ子と三人で五条の人形屋に雛人形を見に行く。来年早々にあやかに「初節句」を買ってやらなければならない。目移りがしてどれがいいのかわからなくなる。 台風の余波で雨が降り出した。しかし長良川に出掛ける八時前にはもう止んでいた。新幹線が止まっているかも・・・とちょっと期待したが、正常に動いていた。 起きたのは八時。台風一過でガンガンのいい天気である。今日も暑そうだ。 伝票が箱に一杯溜まっていた。昨夜、営業のコンピュータがダウンして、太田課長が真夜中に呼び出され、ほとんど寝ずに対応に追われたらしい。 昼、ミルクの買い出しに行ったが、あいにく月曜日は定休日だった。 夜は九時前に終り、珍しく遅くまで残業している下川係長を尻目に引き上げる。 「お先に・・・」と声を掛けたが返事がなかった。 昨日は十時半に寝て、今朝八時前に起きる。これだけ寝れば充分だろうと思ったが、いっこうにスカッとしなかった。 出勤すると卓上の電話に、「十日と十一日連休させてもらいます。下川」とメモが貼ってあった。昨夜遅くまで残業していた理由が解かった。 N君に代わって、購買からH君が今日から転勤してきた。 昼、ミルクと卵とジャムを仕込む。外は真夏と余り変わらない。いつになったら涼しくなるのだろう。 太田課長はN君が出て、H君が来た早々ですぐに役に立たず、一人で忙しい思いをしていた。私は黙って見過ごしている。手伝うと言い出せば限りなく手を広げてしまいそうだった。私は出来るだけ自分の仕事に没頭する。九時にさっさと引き上げる。夜は少しは涼しいようだ。 七時過ぎに目が覚めた。いい天気である。さらっとしていて余り暑さは感じない。昨夜は布団を肩まで掛けて寝た。窓からの空は秋晴れである。爽やかさだった。 夕方から天気予報通り曇ってきた。 下川係長が給料伝票に四苦八苦しているので、私も付き合って九時半まで残る。 「お先に失礼します。」と彼女から挨拶してくれたので、ほっとする。 少し蒸し暑い。台風のせいだろうか。 曇っていた。窓を開けっ放して、下着姿では少し肌寒かった。 昼から取締役は大阪の本社へ出掛けた。 月次の数字はなかなか締まらない。鵜飼当番に行く頃にやっと数字が固まった。台風はなかなかやってこないが、雨が酷い。 今日のナイトは新館である。九時のバスに乗り遅れたら、常務から台風が接近しているからくれぐれもよろしくと電話があった。久し振りに大浴場に入る。801号室は和風のスイートだが、涼し過ぎるので冷房を切って寝る。 朝、まだ風は吹いていないし雨も小康状態だった。何事もなく一夜が明けた。 九時のシヤトルで事務所に帰る。椅子に着くや着かずに取締役が、美濃カントリーの処理はどうなりましたかと聞く。何かと忙しかったのでその後のことは太田課長に任せてますと答えると、不満を眼鏡の底にありありと見せて、 「後は私がマニュアルを作ります。沢村さんは心配ご無用。」 私は黙って月次に掛かる。何とか原料率表を五時までに完成した。帰り際、明日あさってと連休させてもらいますと申し出ると、取締役は、 「どうぞ、私も連休しますから。」 雨は上がっていた。新幹線を一台乗り遅れたので家に着いたら八時だった。すみ子はバイトに行っていて、十一時になっても帰っで来ないので自転車で迎えに行く。 本丸御殿の特別公開があるので、十時ごろから礼子と二人で二条城へ出掛ける。たくさんの人出だった。広くて一回りするのに一時間半もかかった。そのあと池に浮かぶ白鳥を眺めながら城前の国際ホテルで一人前二千円のランチを食べる。 二時ごろ烏丸まで帰ってきたら御所八幡の子供御輿が町内を練り歩いている最中だった。折悪しく雨が降り出して法被姿の子供達はかわいそうに濡れねずみになっていた。 通り雨が止んだ頃、鯛の刺身とメロンを半分持って、従兄の退院見舞いに岸辺に出かける。叔母も従兄もなんとなく元気がなかった。 昨夜、すみ子の帰宅が遅くて寝不足した分、九時まで寝てしまう。起き出してもまだ眠むかった。すみ子が借りてきたビデオ「カクテル」を見る。その途中で畳の上で寝込んでしまう。 一時過ぎに昼食を取るが、余り食欲はない。昼からもごろごろして過ごす。いくらでも寝られる感じである。 すみ子は四時過ぎに昼ご飯を食べて、夜のバイトに出掛けた。私は食欲のないまま七時前に夕食を食べる。時間だけはどんどん経ち、やがて八時になった。出掛けたくはないが出掛けないわけにはいかない。礼子が荷物を自転車に積んで御池駅まで運んでくれた。 長良川鵜飼屋のバス停辺り、十時を過ぎるとなんとも寂れたいなか町の様相だ。 睡眠時間からいえば充分のはずが、午前中体が鈍っていて眠くてしようがなかった。M商事が来て数字の訂正をやってくれる。三時ごろからようやく伝票の打ち込みに掛かる。一日分を一時間以上も掛かっていた。慣れればもう少しましになるだろうが、予想以上に時間が掛かる。「またあさって来ます。」とM商事の二人は五時過ぎに帰って行った。 夜のテレビで、東ドイツの「存在不安」と言う新型の病名の紹介をしていた。途中から見て詳しくはよく分からなかったが、私自身の今の心情はまさしく「存在不安」のような気がした。 八時前に起き出す。雨が降っている。少し風もある。台風十八号の影響らしい。 安藤取締役は大阪の商品見本市に海音寺部長と二人で行くことになっていたが、新幹線は止まっている。それでも近鉄特急に乗り継いで出掛けていった。昼からはなんとか陽が射してきた。洗濯物もお陰で乾きそうである。 月次も夕方に一通り作表でき、後は説明だけになる。あと二日あるから充分時間はある。 今日も八時前に起きる。台風一過、快晴である。 朝出勤したら、机の上に滞納者リストが置かれていた。取締役といっしょに太田課長の説明を聞く。課長が書き上げた督促依頼を営業部次長に渡す。別に困った様子もなかった。 取締役に、息子が墓参りに来るからと連休を告げておく。 昼間はまだ残暑が厳しいが、朝夕は涼しい。 溜まっている物品購入伝票を取締役に回すと、その一つに彼が文句をつける。「沢村さんに納得いっても、私は納得いきません。」と突っ返された。 五時、躊躇なく私は引き上げる。 十一時過ぎ、まだ帰ってこないすみ子を自転車でキスリングまで迎えに行く。 昨夜から泊まっている利武君が写生に行くと言うので、六時ごろから二階ががたごとし始めた。我々も寝られず、七時過ぎに起き出し、朝食を食べる。久し振りに礼子と自転車に乗って御所に散歩に行き、御所の中は歩いて一回リする。朝の空気は冷んやりしていた。ベンチで持ってきた朝刊を読む。 九時ごろから利武君の車に皆が乗り込んで西大谷に墓参りに出掛けた。三十分余りの駐車に八百円取られた。そこから上賀茂神社までドライブする。 私が車から、「ここがええ思うけどなあ。」と指差した社家の井関家を写生に、利武君は佐和子とあやかを引き連れて出掛けた。 うちに帰るとみんなそれぞれにごろ寝する。皆疲れていて、あやかの守りに手を焼いた。佐和子たちは三時ごろに帰って行った。 八時、またまた礼子に荷物を運んでもらって長良川に帰る。 朝五時半に目が覚め、そのままついに寝られなかった。 今日は「中秋の名月」と称して社員対抗のゴルフ大会とマ一ジャン大会が開催される。私はどちらにも参加しないが、賞品だけは拠出させられた。 鵜飼舟も今日は休みである。と言うより鵜飼が休みだから皆も骨休みをするのである。たまたま私は今日がナイトだが鵜飼当番はせずに済んだ。今夜は従って泊まり客も少なかった。私は九時に一度巡回をしたあと、事務所に戻って仕事をする。十一時前に再びフロントに出掛ける。フロントは改装されたばかりの宴会ロビーに仮設されていた。十二時前に部屋に引き上げる。 今朝も六時前に目が覚め、それから寝られなかった。二日続きの寝不足で少し弱った。 しかし今日は昼から会議があるので、事務所に帰るや資料作りに精を出す。滞納者リストは太田課長の尻を叩いてもとうとう時間ぎりぎりになってしまい、私が会議場に入るともうみな集まっていた。今日は経理から滞納者リスト、原料率表、美濃カントリー食堂のキャッシャーシステムの変更、顧客リストと四つも議題をこなすことになっている。 今日は身体の隅々まで疲れた。皆が残っていたが、私は八時半に引き上げる。 |
次回は3月26日追加更新の予定です。