赴任4

 

 

 

 

 

 

単身赴任日記

第四章 秋から冬へ

2005.03.26追加更新

 

十  月

 

雨が降っていたので月初めの稲荷参拝は室内で行われた。

十一時半に昼飯を済ませて、名古屋へ出掛ける。鵜飼屋のバス停まで歩いただけでズボンの裾がずぶ濡れになった。地下鉄栄で降りて三菱信託までは大した距離ではない。確かこの前来た時も雨だった。この辺りは私がまだ独身のころ、角の日生ビルの地階にあった「栄町みやび食堂」出向の思い出の場所だ。手形の書換えをしてすぐ引っ返し、三時からの総務経理合同会議に間に合わす。

下川係長はコンピュータのこととなるとまるで悪臭を避けるような表情になる。こちらが指示したことをあとで確認しても、「へえ?聞いてなかったわ。」「無知な人間にもわかるように説明してくださいな。」などとどこかで仕返ししようと私のミスを待ち構えている。どうなるか内心不安はあったが、最後は自分一人で入力するだけだと腹を括っていたら、今日の夕方、ふいに彼女がコンピュータの前に座って、伝票の打ち込みを始めた。

「どう?不備なとこがあったら指摘してください。」

「・・・・・」私の呼びかけには答えなかったが、黙々と入力している。彼女の魂胆がどこにあるのかよく判らない。意地はあるみたいで、やりだすとなかなか熱心だ。逆にM君は一言も文句は言わないが、いつまで経っても進歩がない。

下川係長は十時半まで伝票の打ち込みをやっている。私も帰る訳にはいかない。なにか助言しようかと思っても、言葉を掛けるスキがなかった。

 

八時に起きたが相変わらず食欲がない。

昼頃、企画部長から電話が掛かってきた。

「正月に遊戯コーナーで折り紙をやってもらえませんか。」

撤退時期と重なり一瞬困ったが、「考えてみます」と答える。今計画を明かすわけにはいかなかった。

今日はもう下川係長は伝票入力をしていない。昨日のことは気まぐれだったのだろうか?

九時前に彼女は帰ったが、ふと私のケースを見ると、九月末の資金日計表が入っていた。今日はこちらに力を注いでいたのだと判った。

 

昨夜はナイト勤務だったが、夜中の三時に目が覚め、五時まで寝られなかった。睡眠不足で自分でも顔色の悪いのが分かる。

夕方六時から、十月の人事異動で出入りした四人の歓送迎会が予定されている。ボウリング場でやるのでみんな仕事は五時半で切り上げたが、下川係長はこういう催しはいつも欠席する。寝不足ということもあったが、ボウリングの私の成績は惨憺たるものだった。ブービーメイカー賞とかいって最下位を表彰してくれた。

 

八時に起きる。曇っている。体がだるい。

午前中は固定資産償却の資料整理をやる。これもコンピユータ導入でいずれ機械入力の予定だ。仕事中眠くてうとうとしかける。昼休みを待ちかねて、寮で三十分ほど昼寝する。

今日は太田課長は体の調子が悪いと言って休んでいる。下川係長は相変わらず愛想が悪い。課長がいれば多少話題のつなぎようもあるのだが、逆手の方ばかりと話をし私の方へはなるべく目を合わさないようにする。いつの間にここまでこじれたのか、修復の方法がない。コンピュータ導入のせいなのだろうか。

特に急ぎの仕事はなかったが、取締役といっしょに十時まで、居残ってしまった。口うるさい取締役が今では唯一の話し相手となっていた。

 

今朝も曇っている。

安藤取締役は今日明日と出張である。太田課長は出てきていた。

私は午前中、昨日と同じスケジュールで償却計算の整理をする。昼からはコンピュータへの伝票入力をやる。

夕方から私に代わってM君が十月の打ち込みを引き継いでくれる。彼はワープロの経験がないのでなかなか捗らない。一日分を三時間も掛かって八時過ぎにやっと打ち終えた。私がため息まじりなのを見かねたのか、総務部長が寄ってきて、

「なんと言うても長年の懸案がやっと実現したのやから、大したもんですよ。」と慰めてくれた。

九時に引き上げて風呂を沸かす。 

 

昨夜寝しなに本を少し読んだら、なぜか寝付かれなくなった。一時ごろウイスキーを睡眠薬がわりに飲んでみたが、利き目がなかった。

真夜中をうつらうつらするだけで、とうとうカーテン越しに空が白けてきたころやっと寝入る。八時過ぎに起きるが、完全に寝不足である。

取締役は今日も出張だ。月末伝票がどんどん回ってくる。

取締役から七時ごろに帰るとの連絡があったが、とうとう帰ってこず、私は九時に引き上げる。

 

昨夜はさすがに横になったとたんにコトンと寝込んでしまった。床に着いて間もなく礼子かららしい三点電話(夫婦間で決めた無事の合図)が鳴ったが、それも虚ろに眠りこけて起きなかった。目が覚めたら、八時半だった。

今日は体育の日、祝日である。三十分遅れで出勤する。下川係長と他に三人が出勤していた。

労組の委員長が腎臓の移植手術がにわかに決まり入院する。彼は身障者手帳を持ち、ずっと以前から血液の透析をやっていて、長年移植の順番を待っていたのだ。安藤取締役はそちらの方に見舞いに回り昼から出勤してきた。

私の机は仕事の山である。取締役も七時過ぎに帰り、太田課長も九時に帰る。私は十時までやる。

 

昨夜、またまた明け方五時までまったく寝付かれなかった。明日から連休で夜には京都へ帰るのだからそれまでの我慢だと自分に言い聞かせ出勤する。しかし朝のうち無性に眠かった。

その最中に社長からの電話が鳴った。

「関西鉄道本社への九月の概算売上げ報告を10%伸びと報告しておいてくれと頼んだのに、送られた書類には9.9%となっている。一体誰かがどんな数字を報告したのか!」と酷く叱られた。確かに社長からの依頼は聞いていたし、(現実の伸び率9.9%)自分でも10%で報告したつもりだったが、どこでどう間違ったのか、ただ謝るしかなかった。

昼からは部課長会議。これがまた眠かった。

五時過ぎ、情けない気持でいつもより少し遅く引き上げる。

羽島までバスで行き、六時三十五分の新幹線にやっと間に合う。

 

家で朝の八時半まで寝た。ぐっすり寝たので、少しはましである。

すみ子はテニスクラブに入会して初めての練習に出掛けた。

十二時半ごろすみ子が帰って来たので、リクルートの地下の寿司屋へ皆で食べに出掛ける。あとぶらぶらと四条通りを散歩して三時ごろうちに帰る。それから一時間ほど昼寝する。

 

連休二日目。八時に起きる。

すみ子は山形君らとびわ湖へ野外バーベキューに出掛けた。

我々は昼頃出掛けて、大丸の地下でラーメンを食べる。阪急で四条大宮まで行き、歩いて二条城の前の京郡国際ホテルに立ち寄った。ロビーに入ったとたん雨が降ってきた。今日は保雄の友人の結婚式である。保雄が招待されているが、「時間がないから家には寄れない」と言うから、こちらから少し会いに寄ったのだ。それがなかなかやってこない。二時半からの披露宴に十五分前にやっと現れた。うさんくさい顔をしていたが、お金を包んだのを母親から渡してやると、にわかに嬉しそうな表情に変わった。まさに現金なやつだ。そのあと、近くの広場で展示しているモデルハウスを見にいく。別段買うつもりは毛頭ない。ウインドショッピングだ。

夜はカレ一ライスを食べて長良ヘ。

 

朝礼で、私が当番となり、面白くもない「滅価償却」の話をする。なんとか無難に十分ばかり喋る。

今日は鵜飼客は一人もない。明日でしまいだから私の鵜飼当番は終わった。もう二度と(来年以降も!)やることはないだろう。

ナイトは久し振りに新館である。ところが明日百貨店の展示会があるので、その搬入と設営に十二時過ぎまで掛かり、寝たのは十二時半を過ぎた。

  

七時四十分の目覚ましに起こされる。九時のシャトルで事務所に戻る。

午前中総務経理合同会議。二週間ごとの会議だが、すぐに回ってくるような気がする。

企画部長が正月の折り紙を確認にきた。覚悟を決めて、こじんまりと、一回三十分、一日二回、二日、と決める。

昼からは伝票の入力をする。九時までやって一区切りを着ける。

風呂を沸かし洗濯する。

 

八時起床。申し分ない天気だ。洗濯物が乾くだろう。

昼からは経営企画会議だが、私は月次決算を理由に欠席する。

二時半頃やっと数字が合う。しかし今回はコンビュータとの照合をするつもりだ。私は伝票打ち込みを続けて十時までやる。十円の相違が出たが明日調べることにして引き上げる。取締役と太田課長はまだ残っていた。

寝しなに洗潅物を取り入れ忘れているのを思い出す。せっかくの天気だったのに湿ってしまった。

 

八時前に起きる。小雨が降っていて、薄暗い。

午前中月次決算準備に掛かる。

午後から取締役は社長と東京に出張なので、気分が楽だ。

伝票をコンピュータ入力する。

七時に打ち終わり、いよいよ表を出そうと、やってみたがたちまち工ラー。業者に電話したら幸いSさんがいて電源の落とし方を教えてくれた。明日来るというからそれまで待つしか仕方がない。手書きの資料を一部作って、九時半に引き上げる。

風呂を沸かすが、なぜか水が濁っている。二度流しては試してみるが濁りはとれない。仕方なくそのまま沸かして少し濁った温泉のような湯に入る。もちろん洗潅は出来ない。

 

明け方四時ごろに目が覚めてあとはほとんど寝ずに朝まで過ごす。しかたなく七時半に起き出した。

いい天気である。しかし気分は冴えない。

安藤取締役は午前中はまだ東京にいた。私は月次の手書きの部分を完成する。

昼、下宿に上って少し転た寝する。

取締役は二時ごろ帰ってきたが、すぐに会議だと七階の社長室へ上って行った。

二時半ごろ待っていたSさんがやっと来るが、なかなかてこずっている。三時過ぎにHさんもやって来る。二人して午後七時ごろまで掛かってやっと帳票が打ち出せるようになった。帳票の出し方をざっと説明して、そそくさと帰ってしまう。後、私は恐る恐る自分でキーボードを叩いてみる。どの表もどの表も、期待通り溢れ出てきた。久し振りの満足感を味わった。太田課長が寄ってきて、「これは沢村部長の作品のようなものですね!」といっしょに感激してくれた。これも長良を引き払う手立てだと思うと、少し後ろ暗い気がした。

月次の作業がいつもより遅れているので、必死で作業を始めるところを、ボタンーつでもうほとんど出来てしまった。あとは「収支説明」だけである。

十時前に引き上げる。

 

昨夜の夕飯に茶碗蒸しの熱いのを急いで食べたので、胸が焼けている。

昼から、なんとか帰る前に説明を書き終えたい一心に懸命にがんばった。

五時きっかりに経費部分の説明を終え取締役に見せると、意地悪くいろいろ聞いてくる。受け答えをしていたら二十分ばかり遅れてしまった。

しかもバスを新岐阜で降りるのところをうっかりJR岐阜駅まで乗り越した。時刻表に六時八分発の急行を見つけ飛び乗ったが、急行といっても新幹線からするとみすぼらしく、車内はがらがら、四五人の中年女性が乗り合わせているだけだった。ところがその一と塊が声高におしゃべりするものだから、京都までずっと悩まされ続けることとなる。二時間がかりで八時前にやっと京都に着いたら、例の女性たちもがやがやとそこで降りた。

 

すみ子は十時ごろに山形君が誘いに来てドライブに行ってしまった。

私は昼までごろごろとテレビを見て過ごす。礼子は布団を干したり、洗濯したりで忙しい。

昼から、どこかへ出掛けようということになり、礼子の友達のTさんが河内長野の病院に入院しているからそこへ見舞いに行こうと出掛ける。

帰りは南海で難波へ、そこから地下鉄で梅田へ出て、阪急二十八階の吉兆で大阪の夜景を眺めながら夕食を食べる。一刻の清涼剤だ。

阪急の特急で、家に着いたら九時半だった。すみ子はまだ帰ってなかった。

 

2005.04.01追加更新

 

八時前に起き出し、急いで朝食をとり、九時四十四分京都発のひかりで博多ヘ向かった。自由席だったが運よく座れて、広島を出たところで駅弁を食べる。一時過ぎに博多に着いた。

博多みやびホテルでの経理委員会の会議は、チェーン共通経理規定草案の審議。いつものことだか、あまり意義を感じない。

皆は泊まりがけだが、私と名古屋みやびホテルの部長が帰るので、五時きっかりに終わってくれた。十七時三十六分発のひかりに乗り込む。家に着いたら九時半だった。

 

今朝は今朝で九時十七分のこだまに飛び乗る。十一時半に長良河畔ホテルの事務所に戻ることが出来た。博多土産の「陣太鼓」を係長に渡すが、「いただきます。」と頭を下げただけだ。とうとう土産でも彼女の表情を和らげることが出来なくなった。

「下期の予算修正を早くやってください。」と取締役にいきなり言いつけられた。

二時過ぎにやっとM商事のSさんがMJSを連れてやってきた。四時ごろにHさんも来たが、あまり捗らなかった。また来週来ますと、六時過ぎに帰ってしまった。

 

今日は下川係長が珍しく休みである。身体の具合が悪いようだ。そういえば、昨日お土産を受け取るときにも、いつもの感激調の言葉がなかった。

昼からの経営企画会議は、私は欠席するが、取締役も気分が悪いと言って会議の途中から帰ったらしい。

  

安藤取締役は今日は休むと連絡してきた。困ったと思った。月次の修正を早く決めないと前に進めない。しかし、もう少し丹念にやっておこうと取り掛かってみるといろいろやり残していることが判明した。お陰でじっくり一日仕事が出来た。太田課長も休みである。M君も休んでいる。申し合わせたように、どうしたのだろう。八時には皆帰ってしまった。私は本館のナイト勤務だ。十一時半に部屋に引き上げ、ソ連の経済危機のテレビを十二時半まで見てしまう。

 

七時四十分に目覚ましに起こされ、急いて身ごしらえをして八時にフロントに降りる。

九時に事務所へ帰ったが、取締役が出勤して来ていたので、ほっとした。

まず、月次の修正案を見せて承認を得る。と言うより、もうこれしかないと押しの一手である。

予め用意しておいた伝票にも判を貰い、すぐにコンピュータに打ち込むと、三十分と経たないうちに修正された諸表が次々と出力されてくる。下川係長とM君の手書き作業は全く当てにしなくていい。

しかしこれからが大変である。中間決算の資料作りが待っている。コンピユータと中間決算を軌道に乗せた時点が辞める潮時でもあると心に決めている。

 

次の朝起きてみると、小雨が降っていた。

午前中は月次の説明の書き直しで過ぎてしまう。午後からいよいよ中間決算の資料に取り掛かる。

やがて五時のチャイムが鳴ったので、私はタイミングよく仕事の切りを付けて帰り支度をする。略礼服と夏の下着を持って帰ることにする。

七時過ぎに家に着いた。車が止まっていた。

中に入るとさやかの声がした。上着を脱ぐ間もなく利武君が「おじいちゃんに抱っこしてもらい。」と言う。「まだまだ」と私。

さやかはもうホームこたつの縁に掴まり立ちをする。来るたびに一段階成長している。

 

翌日の日曜日は案の定雨だった。昨夜はさやかが夜中によく泣いたので、皆寝不足していた。我々も八時半まで寝る。

雨でどうしようもなく、テレビを見ながら皆でさやかの子守りをする、

私が会社を辞めることを礼子は佐和子にもすみ子にも打ち明けたらしい。

夕食後、誕生日のプレゼントを礼子がくれた。開けてみたらいい感じのセーターだった。すみ子はまだ帰ってこない。とうとう顔を見ないまま長良へ帰る時間になる。

 

七時半。寮で目が覚めた。まずまずよく寝たと思うがまだ眠い。

出勤早々安藤取締役が畳み掛けた。

「本社へ説明に行く日が十一月十一日と決まりました。なるべく早く資料を揃えて下さい、出来れば今週中に・・・」

N課長が今晩のナイトを変わってもらえないかと言ってきた。私は異存なかった。次のナイトが連休の最中の三日だったから、もっけの幸いである。

昼頃、今度はY課長がナイトを新館と変わってくれないかと言って来た。本館に団体が着くので自分が見たいと言う。新館は今夜は暇だから、これも儲け物だった。

私は新館のフロントに電話して十時のバスで出掛けると了解を得て仕事をこなす。

新館は暇そのものだった。人の気配が全くない。十一時半に引き上げて、大浴場に行き、頭を洗う。無料のジュースを二杯飲む。

 

九時のシャトルバスで事務所に戻る。中間決算の資料作りに取り掛かる。その合間に売掛滞納リストを整理しなれければならない。

「社長が夕方に来ますから今日中にざっとしたところでも何とかなりませんか。」と、また取蹄役ががっつく。

私も連休が掛かっているので、がむしやらにでも、やってやろうと精を出した。辞表提出まであと一ヵ月だから、少々無理をしてもやり通さなければ。

滞納リストのワープロを打ってくれるように逆に取締役に催促する。

「一度に三つの仕事をすると頭が変になりますよ。」と言いながら、それでも彼は嫌と言わずにすぐさま机にワープロを据えた。私も意地になって十時過ぎまでねばる。

「もう止めましょうよ。」とうとう取締役が音を上げた。

  

曇っていた。

そう言えば昨日は私の五十九回目の誕生日だった。

今日も中間決算の資料作りをする。

昼から経営企画会議があり、売掛け滞納報告をしなければならないが、何とか後は中座したいと思っていた。すると取締役の方から、

「沢村さん今日は太田課長に代わってもらって、残って仕事を続けで下さい。」と持ちかけてくれた。

昼休みに、卵と牛乳を買いに出る。

会議に出た太田課長はすぐ帰って来たが、会議は六時ごろまで掛かっていた。

資料作成は思ったよりハイペースに進んでいる。土曜日までに出来上がるのは確実である。取締役に連休を申し出る。「いいですよ」と言ってくれた。

十時で引き上げる。

特に寒いわけではなかったがホームごたつを出す。

十時半にこちらから礼子に電話ずる。連休のことを連絡しておく。

  

七時四十分に起きる。今日も曇り。

十時ごろにSさん、しばらくしてMJSのF課長がコンピュータの調整に来た。一時半まで掛かる。

昼からは中間決算の資料作り。ラストスパートである。と言っても、もう目途が付いているので、表面は大変そうに振る舞うが内心気楽にやる。

今日は九時に引き上げた。風呂を沸し洗濯する。天気予報は、明日の午前中は天気とのこと。明日はいよいよ十一月である。

 

 

2005.04.06追加更新

十一月

 

曇っていて洗濯物が乾くか心配だ。礼子から電話で、手塚山の友達とこへ行くのでと電話番号を教えてくれた。

今日は月初め恒例の稲荷参拝。次の十二月一日は日曜日だから、稲荷参拝も今日が最後となるかもしれない。事務所へ戻り際、取締役が寄ってきて、

「沢村さんも一年経って大分判ってきてもらいましたね。」

そう頼られると、今月末の辞職が彼を裏切るようにも思えてきた。

 

昨日はまずまずよく寝られた。窓から薄日が射し込んでいる。

九時から役員説明の予定なので八時四十五分に出勤する。

「さあ、出掛けましょう。」と取締役。

「ちょっと待って下さい。資料をセットしなければ・・・」

「そんなこと前もってしといて下さいよ。時間がないんだから。」

説明は三十分で済んだが、手直しが残った。まあ先は見えているから慌てることはない。続きは来週やることにする。五時過ぎに引き上げる。

七時二十分に家に着く。明日は天気よさそうなので、久し振りにどこかへ出掛けようと、地図を引っ張り回して、結局生駒にいくことに決定する。

連休となると余裕がある。寝たのは十二時過ぎだった。

 

天気は上々。朝食後ひとまず散髪に行く。

急いでやってもらい、家に帰ると礼子が弁当を作って待っていた。十時にうちを出て、地下鉄から関鉄に乗り継ぎ、生駒へ向かった。ケーブルカーで山頂に辿り着いたが、そこは有料遊園地の入り口。自然の環境を期待していたので少しがっかりした。仕方がないので柵の外のわずかな緑地でお弁当を広げる。箸がない!でも、幸い握り飯だったから、手掴みでも困らなかった。見晴らしもよく、その分余計に旨かった。

帰り道は歩いて降りようと単純に考えて、降り口を探し、人にも聞きながら山道に分け入る。

「まだ時間もたっぷりあるから、眺めのいい、歩きよい道をお行きなさい。」と私たちの服装を見て、年配者が忠告してくれる。この言葉を採用することにした。確かにいい道で、車一台通らない、なだらかな道だった。しかし行けども行けども地上に近付かない。そのはず、われわれは「暗(くらやみ)峠」を縦断していたのである。やがて急激な下り坂に掛かる。しかも暴走族の溜まり場を一時通り抜けることとなった。四時ごろにやっと枚岡という関鉄の駅に辿り着いた。

難波に回り、久し振りに心斉橋をぶらつき、そのあと梅田に出て、いつも通り阪急三十二番街の吉祥で夜景を眺めながら、和定食を食べる。

家に辿り着いたら九時半だった。

 

翌朝も天気はよかったが、礼子も私もくたびれていた。

三時になってやっと腰を上げ、大丸から高島屋、河原町をぶらつき、礼子の化粧品を買うのに付き合った。

五時ごろに風呂に入る。

寒くなってきた。背広の下にセーターを着込んで岐阜に戻る。

 

いい天気だったが、寮の朝は眠かった。

朝礼が済んだ途端に、取締役がまた仕事の催促をした。

午前中は伝票の整理やらに追われてこれといった進展はない。途中眠くて仕様がなかった。午後は午後で一時半から総務経理合同会議。

三時ごろからやっと本格的に資料作成に掛かる。取締役自身は会議やら何やらでじっと座っていない。晩もどこかへ出て行った。

 

今朝も多少睡眠不足である。天気はいい。

先日思い付きで出したホームごたつのスイッチをすぐに入れてしまう。ハムと野菜入りの手製ホットドッグと牛乳の朝食。

中間決算の資料作成は昨日で終わる予定だったが今日も続く。これは十五日までにやり終えねばならない。

 

目が覚めたら雨が降っている。天気予報通りである。

中間決算のまとめは私から取締役の手に移った。私は下期の修正予算に取り掛かる。

昼過ぎから食堂係長の父親の葬儀があったが、私は雨も降ってるし、香典を託けて仕事を続ける。今日は天気も悪く冷え込むようだ。

 

昨日と打って変わった快晴である。

取締役は月曜日に本社へ説明に行くものだから、なにかと私に手伝わせたがる。

何とか五時すぎに切り上げて急いで帰り支度をした。しかし名鉄の六時四十二分に乗り遅れてしまった。これに乗り遅れると新幹線を二台乗り遅れることになる。それでも六時五十二分の臨時こだまには乗れた。

八時すぎに家に着くと礼子は待ち兼ねて水炊きを一人で食べかけていた。風呂に入ってビールを飲む。

すみ子は十時半にバイトから帰ってきて水炊きを一人で食べ出す。近頃母親と食事を共にしたことがないと自分で言った。我々の残したビールを飲んで赤い顔をしてさっさと寝てしまった。

 

翌朝六時半ごろすみ子が起きて来て、台所でごそごそお弁当を作り始めた。しばらくして表に車の音。鈴鹿に行って来ると言って出掛けてしまう。

我々は昼ご飯を食べてから、鞍馬へでかける。

長良への帰途は少し肌寒かった。

 

夜半、午前0時過ぎ、本館312号室でぼやがあったらしい。私が事務所に降りていくと、皆その話題で持ち切りだった。お客さんの寝たばこが出火原因のようだ。総務部長は消防署との応対に追われていた。もし日曜日でなかったら寮の住人の私も刈り出されるところだった。ナイトでなくてよかったと胸をなでおろす。

その最中に取締役は関鉄本社に中間決算の説明に行った。

とうとう取締役は帰って来なかった。引き上げる頃になって太田課長がナイトを代わってほしいと申し出てきた。断れないので本館のフロントヘ出向く。火事の後なので一時間置きに巡回してくれと副支配人に言い付かる。312号室の辺りはまだ焦げた匂いがした。

 

九時までフロントにいたが、事務所に帰るなり取締役が、中間決算の修正をしなければならないから頼みます、と言う。

売上値引きを売上から引かずに経費立てしたものだから売上が嵩増しになってしまった。どう考えても変な処理だが、私はこれも本社の指導かと思っていた。ところがそれを当の本社が「まかりならぬ」と指摘したのだから、当然といえば当然である。やれやれとしか言いようがない。

昼からは部課長会議。当然先日の火災が議題に上った。当日の担当者九人の機敏な働きに対する表彰に始まったが、聞けは聞くほどうまく行き過ぎた。一つ違えば大変なことになったと思える。

 

正月の催し物の稟議が回ってきた。私の「折り紙教室」が載っているので急いで営業部長に断りの電話を入れる。

「どうしてですか。」腑に落ちないようだった。私の煮え切らない返答に業を煮やしたのか、面倒くさくなったのか、

「どうしてもだめなら仕方ないです。」と納得してくれたので、ちょっと気が楽になる。そのうち分かってもらえるだろう。

取締役は夕方帰ってきたが秋闘の解答日なので、労使協議会にすぐまた出掛ける。

九時ごろ帰ってきて、疲れたと言って帰ってしまった。私も九時半に引き上げる。

ガスストーブを出す。風呂を沸かし洗濯をする。

礼子は昨日から観音寺である。いつも十時半にベルを鳴らしてくるのだが、そういう事情だから無言である。すみ子に電話しようかなと思っているうちに十一時を過ぎてしまった。

 

七時前に目が覚めたが、うとうとしているうちに、つぎに起きると八時十分。慌てて起き出す。

今朝はガスストーブがあるので起きるなり火を入れる。昨日までストーブなしでよく我慢できたものだと不思議だった。

昼休みに寮で転た寝するのが日課になる。

十月の伝票がまだ揃わない。新館和食課の棚卸しが出ていない。電話で督促するが、どこも人手が足りなくてどうしようもない状態なのだ。

事務所は夜は冷え込む。九時半に引き上げる。

部屋に戻ったとたん電話のベルが鳴る。観音寺から礼子だった。すみ子が今日は佐和子の家に泊まっているらしい。

 

七時前に目が覚め、そのまま起き出す。今日もいい天気である。

売上値引きの計上修正の作業に掛かる。太田課長に訂正の基準を割り出すように言い付けてもなかなか埒があかないので自分で作表してしまう。

九月の月次から直さなければならない。私の方から「九月から修正しましょう。」と申し出たのでそれは仕方がない。コンピュータが稼働してるからこそ口にできたせりふで自信はあったが、それにしても手間の掛かる話である。

今日は関鉄本社での人事異動日。池田常務が異動するようだ。塩田部長、海音寺部長は結局沙汰なしで、二人とも少しがっかりの様子だった。だれしもこの地に骨を埋めようとは考えていないのだ。

来月初めの慰安会の欠席を申し出ておく。

 

株主である岐阜市の収入役が来るから、至急に中間決算の数字の作り変えをしてくれと取締役に言われ、午前中ばたばたする。私以上に彼はカッカしていた。一呼吸置かないとまた訂正することになりますよと私が助言しても取締役は聞かない。私も時間内になんとか作りはする。

収入役が帰ってから取締役も少し落ち着いたらしく、やはり沢村さんのいうとおり数字に矛盾があると言い出し、結局再訂正の羽目となる。五時までになんとかやり遂げ引き上げる。

今日は六時九分のこだまに間に合い、七時過ぎにうちに着くと、すき焼きの用意ができていた。観音寺の礼子の従兄弟にもらってきた特上の肉である。久し振りにすみ子と三人で夕食を取る。

すみ子は明日早朝からまた鈴鹿にF3を見に行くらしい。入場料は四千四百円とのこと。車がぐるぐる回るのがそんなに面白いのかなあと世代を感じる。

 

五時半ごろすみ子が、「行ってきます」と出て行った。

我々は九時前まで布団の中でぐずぐずする。

昼から紅葉を見に高雄へ行く予定が、東京国際女子マラソンが気になってとうとう三時まで動けず、日本の谷川の優勝を見届けて、ようやく腰を上げ自転車でサイクリングすることにする。

午前中に百五十枚頼んだ年賀葉書の印刷をもう五十枚追加するので、印刷屋に途中立ち寄り、そこから御所に回るつもりが、ふいに礼子が思い付いて北野神社へ行くことにする。上七軒のお茶屋街を見たいと言うのだ。神社は七五三の子連れが多かった。屋台で蛸焼きを食べる。

 

岐阜の朝は、少し曇っている。

昼前、N次長に二十三日土曜日のナイトの交替を申し出る。快く引き受けてくれた。これで連休が確保できて、ほっとする。

中間決算の修正を今日中にやってしまおうと、懸命でやる。しかし、二時から消防訓練の説明会、そして夜の九時から消防訓練である。私は仮想客になって部屋で待機していて指示に従って非常階段から避難する役目である。

部屋の検索が一部屋抜ける。消防署から係官が来ていて、不合格となった。誘導班とナイトマネージャー、取締役らは解散後も残って反省会をやっている。

 

昨夜は少し寝付かれなかった。その上今朝は早く目が覚め、七時半に仕方なく起き出す。

この二三日、取締役は中間決算のやり直しのことをしきりに謝る。

「沢村さん済みませんね、余計な二度手間をさせて。私が処理を早く説明しておけばよかったのに・・・」

一週間後の辞表提出を秘めている私には何だかこそばゆい言葉だった。

今日はナイトである。社長が十時半に帰ってきて客室に宿泊した。おかげで寝たのは十二時を過ぎていたが、さらに一時間ほど寝付かれなかった。

 

寝不足が重なっている。それでも七時半にフロントに下りたが、社長は八時半に早々とゴルフに出かけた。

今月は帳簿がないので少し不安だったが、コンピュータを少しづつ使いこなすにつれて、私は安心した。何一つ問題のないことが分かってきた。今のところ経理コンピュータは私のためにあるようなものだ。取締役は手計算で資金繰り表を作っている。

「沢村さん、コンピュータで資金繰りはどうしてもできませんか?」となんども問いかける。

「今までの話を聞くかぎり無理なようですね。」

取締役は残念そうである。そのくせ、

「こんなもの手計算で二三分で出来ますがね。」

と自慢する。資金繰りなぞ私はあまり関心がない。

九時前に引き上げて風呂を沸かす。十時過ぎ家に電話して、明日帰ることを告げる。みやびホテルの野原社長への手紙は結局まだ全然書けていない。

 

さすがによく寝られた。七時五十分に起きる。今日もいい天気である。

月次の資料はA4で三十枚に上る。ただしその内の二十四枚が機械で打ち出せた。

七セットをコピーし製本するのに一時間もかからない。

それから月次の説明に取り掛かり、それも昼までにおおよそ完成する。

昼からは昨夜太田課長が十二時までかけて書き上げた売掛の滞納リストのチェックをする。

帰る間際になって取締役が売店の年間経費をすぐ計算してくれと言い出す。その上小切手台帳に社長の判を貰いに行ったりしたので、引き上げる時間が遅くなった。

うちに着いたら八時前だった。

佐和子がさやかを連れて来ていた。もうつかまり立ちが出来る。ただ人見知りの時期で、母親の姿が見えないと不安をあらわにした。風呂に入れてやるが泣かれてしまった。

 

朝食後、野原社長への手紙の下書きを始めるが、なかなか気が乗らないので進まない。

そのうち佐和子がさやかを連れて下りてくる。さやかは常に誰かにかまってもらいたいらしい。

私は丸太町黒門の山形印刷こ年賀状を取りにいく。

昼からも手紙の下書きを繰り返す。

佐和子に言いそぴれていたことを佐和子の方から言い出した。

「お父さん今年で会社辞めるの?」

娘に口を切られて私はむしろほっとした。

四時半ごろ利武君がやってきた。今夜学で通っている大学の宿題は結局出来ずじまいだったらしい。

すみ子はバイトに行くとか休むとか言っていたが、七時ごろからやっぱり遅れてでも行くことにしたらしい。そこで急遽すみ子の誕生祝いをやることになる。

外は小雨が降ってきた。

 

さやかが起きた気配なので我々も八時前に起き出す。

今朝はもう晴れていた。私は昼前に罫紙を買いに出る。近頃罫紙など置いている店は少ない。運よく京極の文房具店で売っていた。

私は少し昼寝をしてから、退職届を書く。五六枚書き直した。

礼子が食パンや蜜柑や柿を袋に詰め込み始めた.連休が瞬く間に終わってしまった。手紙の方は結局清書するまでに至らなかった。

大相撲も千秋楽を迎え、小錦が優勝して終わった。

次の日曜日は十二月一日、その時は退職届を提出しているはずである。

八時に夜空を仰ぎながら長良へ向かう。

 

八時前に起きる。

今朝は慰安会の三班が出発したはずだ。よく晴れていたが寒かった。

十時に県税事務所が特別消費税の諏査に来た。私は挨拶だけして事務所へ戻る。後は太田課長が引き受けてくれた。

池田常務が今日付けでK工業へ配転する。社長が六時ごろやってきて、辞令を交付した。それやこれやで安藤取締役はほとんど席にいない。

池田常務が私のとこにもお別れの挨拶をしに来てくれた。

「ご栄転おめでとうございます。」と私も頭を下げる。一週間後を考えて何だか空虚な気がした。

九時前に寮に引き上げ、野原社長への手紙をもう一度見直す。

 

七時半に起きる。起きるか起きないかに礼子から電話が掛かってきた。みやびホテルの野原社長にはやはり前もって断って置くべきだと言う。私はあいまいな返事をして電話を切った。

昼休み、野原社長への手紙の清書に取り掛かる。一ページをやっと書き上げた。

昼からは下期予算の見直しに掛かる。

安藤取締役は池田常務の転任であたふたとしていた。その姿が少し気の毒に思えた。

夕方から事務所に暖房が入った。

取締役は夕方から出て行って帰ってこないので、私は八時に引き上げる。

風呂を沸かし、手紙の清書の続きをやる。思った以上に時間が掛かった。十二時前にやっと書き上げる。もう一度最初からとも思ったが、その気力はもうなかった。

 

朝、もう一度社長への手紙を読み返してみる。まあこんなもんだろう。

事務所に持っていってコピーする。

昼の時間に寮から、みやびホテルの広部常務に電話する。東京出張中で留守だった。なぜかほっとした。

もう月末の支払い伝票が回ってきた。

夜、九時四十五分に思い切って広部常務の家に直接電話する。幸い常務は出張から戻り在宅されていた。退職のことを口にする。常務は案外快く聞いてくれた。そしてやはり野原社長には直接会って事情を説明する方が筋道だとアドバイスしてくれた。京都での就職のことも率直に頼んだ方がいいんじゃないかとも言った。私もその通りだと思った。

その後、すぐ礼子に電話する。「私もそう思う。」と、礼子もちょっと安心したようだった。

 

薄暗いので六時ごろかと思ったら七時三十五分だった。

どんよりと重い空から小雨が降っていた。二日前の洗濯物がまだ乾かない。

十時過ぎに寮から野原社長に思い切って電話を入れる。席におられた。この際正々堂々と話すべきだと、声に力を入れ、澱みなく、手短かに理由を述べた。一度お目に掛かりたいと申し出る。社長は、了解とは言わなかったが、十二月二日十一時を約束してくれた。

礼子に結果を電話する。

その後再びみやびホテルの広部常務に電話するが来客中だった。

昼の時間にもう一度広部常務に電話する。今度は席におられ、社長との約束の日時を報告する。来年春の決算日まで延期出来ないか?と持ち掛けられたが、それはお断りする。「分かった。」とうなずき、当日の昼、食事を一緒にしようと言ってくれた。

昼からは経営企画会議。売掛滞納状況の報告と、下期の収支予算の見直しの提案を私が発議する。

引き続いて五時からは退職する池田常務と新任のS副総支配人の歓送迎会に望む。七時に終り、その後、部長以上で賞与の査定会議。あと事務所に戻って九時まで仕事をする。取締役に月曜の臨時休暇を願い出る。あまり快く許可してくれたので少し気がひけた。

 

昨夜は二時半ごろまで寝付かれなかった。と言っても決心がにぶったわけではない。

八時前に起きる。やっと雨も上がって日が射していた。

昨日の企画会議で承認された下期の修正予算に従って枝葉の修正に入る。仕事も差し迫ったものはない。

昼、寮に上って二十分ばかり転た寝する。

安藤取締役も少し仕事が一段落したようで、今日は早く帰りましょうと私を誘った。それでもとうとう九時まで雑談していてやっと帰った。

そのあと私も引き上げる。

 

晴れていた。

七時三十分に起きて、久し振りに布団を上げる。万年床の周囲に白く埃が溜まっていた。二ヵ月ぶりに掃除機をかける。ついでに便器と洗面器を洗う。少し気分も爽やいだ。

下期の収支予算の組み替えを作表し、それをコンピュータに入力する。プリントアウトしてみたがまったく問題はなかった。

五時のチャイムの音を聞いて、すかさず引き上げる。

次に出勤する時は辞表を懐に出勤することになるだろう。

家に帰ると礼子が一人で待っていた。明日からグァムに旅行するというのにすみ子は彼氏と外食らしい。

連休と思うと気持ちがゆったりする。

佐和子から電話。すみ子に対する躾が甘いと母親の礼子が叱られていた。

九時半ごろ帰ってきたすみ子に、我々の餞別を家内から渡してやると、わっと声を上げて喜んだ。すみ子が姉に電話する。何かー言注意を受けてるみたいだったが、妹はさらりと受け流していた。

 

十二月

 

朝食後歩いて四五分のところまで散髪に行く。ここのマスターはいろいろ話のネタをかかえている。京都ホテルが仏教会の圧力で建物の高さを低くする設計変更に応じたことを、京都市は市庁の高層化の計画があるため困惑しているとか。市庁舎は京都ホテルを隠れ蓑に高層ビルを建てるつもりだつたらしい。

手持ち無沙汰で時間を持て余したので、年賀状の宛名書きを少しする。

近頃、グアム程度では海外旅行のような気がしないのだろう。すみ子は旅行の支度をしている様子もみえない。

そのあと我々は二人で散歩に出て、鴨川を少し歩く。夕食は阪急七階の「ちんみん」で五目ラーメンとチャーハンをそれぞれとって食べた。

 

なんとなく落ち着かない朝だった。

なぜか礼子が仏壇に線香をあげ、私にも礼拝するように勧めた。

十時十五分に家を出て、パスで三条京阪に。そこから京津線で蹴上まで乗る。何十年通いなれた道だった。

役員秘書室には十一時前に着いた。たまたま、年中行事、お火炊きの最中で、十一時過ぎ社長が上って来た。会議室に通され、森脇専務も同席する。私は、観音寺の義母が二年にわたり入院中で、夏以来弱ってきている状態、家内が看病疲れでこれまた胃潰瘍に悩まされていることやらを切々と述べ、京都へ帰して欲しいと訴えた。

話の内容は十分に通じたと思う。ただ社長、専務は答えを用意していたようだ。長良河畔ホテルと円満に事を運ぶには今年一杯というのは無理だ。決算をやり終えた時点が一番いい。後、京都で仕事がしたいならぜひそこまでがんばってくれ。君にはむしろ我々の方が期待している。それまでの間の条件ならいろいろ考えてみよう。例えは週休二日とか。十三日に湧原社長に会う予定があり、そのおり、こちらから沢村君を帰してくれと頼んでみるとも言った。私は妻と相談して返事をするとその場を別れた。

広部常務の部屋に立ち寄る。いっしょに中華料理店「四川」で食事をする。

「やっぱり社長も同じことを言うたか。」

と広部常務は私に諭す振りをするが、恐らく、常務が社長に入れ知恵したのだろう。しかし京都へ少なくとも五月末には帰れることが確定したことだけは進歩である。ただ、正月は自由の身と思っていたのが、あとまた半年と考えると、どっと疲れが出た。

うちに帰るなり、私はホームこたつに潜って小一時間昼寝をする。

目を覚ますと礼子はいなかった。

しばらくして礼子から、今、島津で雛人形を見ているから至急に来てくれとのこと。気を取り直して自転車で出掛ける。七段飾りを見せられた。孫の初節句が来春に迫っていた。私も面倒になって、二十万まで負けるなら買ってもいいと妥協したところ、店主が、「わかりました。二十万にしておきましょう。」とあっさりこちらの言い値を受け入れた。ついサインしてしまう。

家に帰ってから、礼子の方がもう一度考えたいと言い出す。

佐和子から電話が掛かってきた。

「会社どうやった?」

と訊くので私が口ごもると、

「私には言うてくれへんの?」と笑っている。仕方なしに社長の話を佐和子にもかいつまんで告げる。

「半年くらい直ぐ過ぎるて。がんばり。」と励まされた。

 

岐阜の朝、八時起床する。頭が疲れていてまだまだ眠い。

十時過ぎ、寮室からみやびホテルの野原社長に電話する。

「基本線は了解しました。」その上で思い切って条件をつける。「二つあります。」一つは辞める時期を四月末にしてほしい。もう一つは二月三月の冬場に月二週間の連休を取りたい、と。

「四月末というのは条件としては持ち出さない方がいい。」

社長がばさっと言い放った。「二週間の休暇については十三日に湧原社長に会うから申し出てみよう。」

とりあえずは賞与支給日の十日までは波風を立てないのが利口だ、と私も思った。

十三日以後きっと湧原社長が聞いて来るだろうから、そこがもう一つの勝負所である。「短縮のチャンスはある・・・」私は胸算用した。

四時から総務経理合同会議。そのあと管哩課と修理費予算の見直しをやる。三分の一に大鉈をふるうこととなる。

夜十一時ごろ礼子に電話し、結果を報告しておく。

 

太田課長は今日明日慰安旅行に出掛けている。

昼から企画会議。原料率予算の見直しを提案する。そのあと修繕費、食器費、備消品費の購入予算を見直す相談をする。出席者が少なくて、結論出ず。いつまで経っても下期の予算は片付かない。

事務所に戻るとコンピュータ会社のHさんが来ていた。少しずつ不備な所が修正されてくる。

海音寺部長が経理のコンピュータ導入を私の手柄だとまた言った。確かに、私もそう思っている。

 

この二三日六時ごろに目が覚める。やはりどこかで緊張気味なのだ。そのまま床の中でぐずぐずしていたが、七時二十分にやっと起きる決心をする。

今日もいい天気である。

社長は朝からゴルフである。昨日私を呼び付けて四十万円を支出させた。宴会部長がお供である。ナイトを代わってくれと言った理由がこれであったか。

そこで私は今日はナイト勤務となる。九時に全館を一回りしておいて、泊まり客も少なかったので、事務所に戻り、十一時まで仕事をする。

十一時から三十分もう一度館内を巡視。十一時半に部屋に引き上げた。

 

七時半にセットしてあった目覚ましの鳴る前に起き出す。フロントに下りたが、ひまだった。

九時、事務所に戻って、今日は前払いと未払いの整理をする。 二ヵ月間ほおっておいたのでなかなか合わなくて、てこずった。

夕食後に償却台帳の入力を開始する。コードナンバーを入れると約八百項目あった。一日四十ずつ打ち込んで二十日掛かる勘定だ。指の動きがにぶいのはナイト明けで、やはり疲れているからだろう。

九時十五分で引き上げて、明日帰る荷物の整理をやりかけたが、今年で終いとはいかなくなったので、つまらなかった。

 

曇っている。

朝一番に来るはずのHさんが十一時ごろにやっと来たので、いろいろメモしておいたソフトの不具合を一部修正してもらった。

昼からは伝票整理。つまり「判押し」だ。

五時のチャイムが鳴り終わると同時に机の上を片付け、「お先に。」と引き上げる。七時過ぎに家に帰着した。

すみ子はバイトに出掛けていて、待っていた礼子と夕食を摂る。

この前みやびホテルの四千株券の大部分を売り、分割した千株券が届いていた。

風呂のあと、すみ子のグアム土産のナッツでビールを飲む。

 

ずいぶん寝たつもりだったが、枕元の時計を見るとまだ七時半だった。

朝食後、正月の準備だと言って礼子はあちこちの片付けを始める。気がひけたわけではないが私も少し手伝った。

十時過ぎ、岩佐の叔母がやってきたが、いとこの勝男からのお歳暮だと塩鮭を下げて来たのである。玄関ぎりで少し話して帰っていった。

十一時過ぎに浄光寺さんが来てくれる。今日は祖母の五十回忌である。時は昭和十七年、戦争の最中に祖母は死んだ。礼子とすみ子と私の三人でお勤めする。四十分程お経をあげたあと、昔の土葬の話しなど雑談をして、十二時半にやっと帰ってくれた。正座のお陰で私はしばらく足が立たない。

すみ子は昼食もそこそこに山形君の車で越前まで遠出すると言し残して出掛けてしまった。

あと五ヵ月は長い。ついつい礼子にぐちをこぼしてしまうが、

「五ヵ月くらいすぐえ。」と彼女はそっけない。

長良への帰りの荷物が重くて手に食い込んだ。

 

匠寿庵の最中を持って事務所に降りるが、下川係長は近頃京菓子にも奇声を上げなくなった。

私自身だんだん明るさがなくなってきている。我ながら困ったことだと思う。

昼の休み時間に寮室に戻り十五分ばかり昼寝をする。

四時からフロント改修工事の竣工式が行われた。式は十五分ばかりで終わって、我々は職場に戻るが、招待客はその後グリルで宴席が設けられたようだ。

九時に引き上げると、ニュースがソ連の崩壊を伝えていた。私は列車会社の終末をふと思い出す。我々役員の指導力が見る見る抜け殻になっていったように、ゴルバチョフの権力も今は抜け殻である。

 

朝、七時のニュースをつけると、なぜかソ連解体は少し先送りになったらしい。

十一時から賞与の支給式が銀扇宴会場であった。事務所へ帰って開けて見たら中身は思いのほか少なかった。関西鉄道からの出向者には特別賞与が出てることも知っている。

寮で休憩していたらT君が駆け上がってきて、「取締役が呼んでおられます。」とのことだった。特別賞与でもくれるのかとちょっと期待したら、一時半からの部課長会議の資料を至急作ってくれと言い付かった。会議に遅刻して、それでもなんとか用意して持っていく。しかしそれに関してはほとんど議題に上らなかった。

 

辺りが暗いので、ふとんの中でぐずぐずしていたが、ふと時計を見ると八時十分前だった。慌てて起きる。小雨が降っていた。

秘書の上坂さんの話の端々から、社長はどうやら十三日は大阪には行かないみたいだ。みやびホテルの野原社長が十三日に逢うから話してみようと言ってくれていたのが実現しない可能性が高い。退職への手順が次々に崩れていく。しかし今強行突破するわけにはいかない。来週と十七日(火曜日)が臨時株主総会なので、それ以後ということになるだろう。

 

今日から三日間、年末恒例のディナーショーである。初日の今日は和田アキ子だったが、彼女がベッドから転落して肋骨を折ったとかで休演のため、代役にトランペットの鈴木章司がやってくる。和田アキ子は改めて一月二十日に変更された。今日のお客はすべて食事付きの只見である。私は早く引き上げたかったが、課長以下が新館へ出向いているので、ショーが終わるまで帰れない。償却の入力をして時間を潰す。結局十時二十分まで仕事をした。

 

小雪がちらついていた。しかしすぐ晴れてくる。

十時過ぎに寮に上がってみやびホテルに電話する。しかし野原社長は奈良のお宅から神戸大阪へ直接出掛けていて、湧原社長の欠席を伝えられなかった。

まだ購買の最終伝票が出てこない。仕方なく私は償却計算の入力をしたり、源泉所得税の年度報告の準備をしたりした。

今夜は新館では研ナオ子のディナーショーがある。私は本館のナイトである。

本館も超満員だった。九時に出向いて館内を一巡する。その後宿泊部の事務所で文庫本を読んで時間を潰していたら、十時四十分非常ベルがなる。外へ飛び出すと、「五階東!」と管理のE君が叫んで駆け出したので、私も続いて階段を駆け上がる。五階廊下は煙もなく部屋を特定出来ない。私が持っていたマスターキーで各部屋を開けて中を確認する。十五分ですべてを終り、十一時前に異常なし、誤報と認定する。寮からも数名が応援に駆け付けてくれた。何事もなくほっとする。誤報の原因はわからない。

念のため〇時からも全館を巡回して、床に着いたのは一時だった。

 

七時過ぎに起きる。九時が過ぎ責任時間が経過してやれやれである。支配人に咋夜の誤報の件を報告する。事務所に戻り、取締役にも一応報告しておく。取締役は誤報の原因を追究に管理室にすぐさま出掛けた。

未だに購買の伝票が揃わない。M君がいらいらしている。四時ごろにやっと最後の伝票が出る。

今夜もキム・ヨンヒルのディナーショーがある。太田課長に断り、取締役にも了解を得て、五時に引き上げる。こんなに神経を磨り減らして、とても五月までは持たない。

家に帰ったら、かしわのすき焼きが待っていた。

 

朝早くから、すみ子はまたデートである。

十時ごろから礼子と二人でお歳暮を送りに駅前のデパートへ出掛ける。いつもながら、私はこういう混雑は苦手である。何もしないのにひどく疲れた。昼は六階で中華そばを食べるが、あまり食欲がない。

クリスマスに佐和子夫婦が来るのでさやかにプレゼントを買う。

夕食は全く進まなかった。生卵で流し込む。

またまた出がけに礼子が愚痴をこぼし、辞めることをなじるのだ。いらいらをキャラメルでごまかしごまかし岐単に帰る。

 

ひょっとしたらと思っていたら、今日は社長は連休を取っていて出て来ない。明日は臨時株主総会というのに落ち着いたものだ。これで野原社長からの電話の期待があっさりあわと消えた。

取締役や総務部長は朝からも昼からも、明日の準備でばたばたしている。

私はあまり気が乗らないまま、十一月の月次決算準備を片付け始める。

夕方、東京へ転進しているみやび列車食堂会社の森中元常務から電話があった。みやびホテルの寺内元専務が亡くなったとその連絡である。寺内さんは私がまだ独身時代、労組役員(教宣部長)をやっていた頃、彼が労務担当重役だった関係でよく知っていた。でも私は、弔電を打つほどの気持ちにはなれなかった。

さて森中さんは今の会社で賞与もそこそこ出たらしく、満足そうである。一方私は満足とは言えなかった。彼は個人的に弔電を打つと言っていた。

午後九時、まだ机にへばりついている取締役を残して私は引き上げる。

 

薄曇りの空模様である。

今日は新館で臨時株主総会があるので取締役を筆頭に総務部の連中は早々に出掛けて行った。私は特に役割はないので、事務所で月次に取り掛かる。

午前中眠くてしようがなかった。昼の時間を待ち兼ねて寮で昼寝をする。三十分程度うたた寝した。

総会は二時過ぎに終わったが、取締役はその後も動き回っていた。

夕方からは今回で転任する池田常務に代わる新任の松野常務と出掛けてしまい戻って来なかった。

太田課長は営業のコンピュータが故障してあたふたしていた。業務用コンピュータは彼以外には手が付けられない。

私は八時半で引き上げ、風呂を沸かす。

 

早くから目が覚めていたが結局起き出したのは昨日と同じ七時四十分。屋根が濡れていて夜中に雨が降ったみたいだ。

私のいらいらは募るばかりである。十時過ぎに思い切ってみやびホテルに電話する。しかし野原社長は会議中で、一時前に掛け直して下さいと秘書が事務的に告げた。またその時間に掛ける。ところが社長は会議が遅れて今食事中で、そのあとすぐ上京する予定と、多少気の毒そうに秘書が言った。結局あさって金曜日でないとコンタクトが取れないとのこと。将があかない。果たして金曜日にこちらの湧原社長が在席してくれるかどうかが心配だ。

昼からの経営企画会議の後で、洋食部の次長が原料率修正予算は自分は聞いていないと言い出す。取締役の所へ直訴に及ぶので、私の根回しが悪かったことにしてなんとか収まり、来週再提案することになった。

 

太田課長が親戚の葬式で急に休んだ。今朝は税務署がコンパニオンの支払いを調査に来るが、これは太田課長の責任分野だった。弱ったと思ったが、仕方がないので自分で伝票などを揃える。九時半に税務署は時間どおりやってきた。何とか無事に応対し、一時間ばかりで帰ってくれた。

夜は取締役がいないので九時前に引き上げる。

りんごを剥く時間があった。十時二十分ごろ礼子からの電話のベルが鳴る。受話器を取ろうかどうしようかと迷ったが、まだ私には報告に値するほどのことは手元になかった。

 

今朝も早く目が覚める。それでも起き出したのは七時四十五分。晴れていた。

今日こそうまく両社長が話を通じてくれるようにと祈った。

しかし、まず湧原社長が朝から留守だった。

めげずに十時ごろみやびホテルの野原社長に電話する。まだ来ていないとのこと。

その次は十一時半に秘書室に掛ける。「まだお出でになってません。」

今日もまた裏切られてしまった。

月次決算の説明をやる。夕食までには説明を書き終わった。取締役への月次説明も近頃はスムースにいく。九時十五分に引き上げる。

 

近頃六時ごろになるとばっちり目が覚める。

七時過ぎに思い切って起きる。いい天気であるが、今日またみやびホテルに電話をせねばならないと思うと気が重かった。

出勤すると、まず、「取蹄役はお休みです」と書いたメモが目に付いた。秘書の上坂マネージャーも休みのようだった。ということは湧原社長もいないということである。

気合を入れ直して、十一時過ぎにみやびホテルに電話する。あいにく社長は会議中であった。それでも秘書が、再度のことで気の毒に思ったのだろう、呼びに行ってくれて、一二分後社長が電話口に出た。

「やあ、すまんすまん。なかなかスケジュールが合わんでなあ・・・」

「できたら、電話で長良川の湧原社長に一言話してみてもらえませんか。」

それには社長はちょっとむっとしたようだった。

「電話でいきなりは失礼に当たるよ。急ぐんなら自分で言い出してみたら?その方が順序がいい。それで湧原社長の出方をみてみよう。」

そんなことならもっと早くそう言って欲しかった。

今日は土曜日である。取締役が休みなので五時のチャイムと同時に机を片付け引き上げる。

帰宅すると、佐和子とさやかが来ていた。さやかは来るたぴに目に見えて成長している。利武君も十時過ぎにダンボール入りの生えぴを持ってやって来た。

 

夜中に二三度さやかが泣いた。寝不足のまま七時半に起きる。

昼前岩佐の叔父から電話。一時ごろ寄りたいとのこと。岩佐家は来ると言ったら人のうちの事情にお構いなくやってくる。昼にクリスマスパーティーを予定していたので、はっきりと二時以降にしてくださいとに念を押す。

十二時半に山形君も来て賑やかにパーティーを開幕する。

叔父夫婦は二時半ごろやって来た。先日私の祖母、(つまり叔父の母親)の五十回忌を営んだので、そのお詣りとばかり思っていたら、叔父が不意に、日赤に入院中だと言い出した。膀胱にポリープが出来ていて、その摘出手術を年明けに受けるらしく、今日明日は連休の外泊なのだそうだ。驚いた。皆でクリスマスケーキを食べ、叔父たちは四時ごろ帰って行った。

 

八時半まで皆寝てしまった。

朝ご飯も昨日の残りのサンドイッチで済ます。大量に作ったものだ。

十時過ぎに荷物をまとめて佐和子たちは帰って行った。

いると騒々しく疲れる思いだが、いざ皆がいなくなるとにわかに静まり返ってしまい、物足りなかった。

昼前にすみ子も山形君と出ていってしまった。晩はロイヤルホテルでクリスマスのお食事らしい。

我々は狐うどんで昼食をとり、寺町に石油ストープのガードを見に行った。這い這いしだしたさやかが火傷でもしたら大変だと思ったのだ。ストーブのガードは近頃はあまり使用しないらしく、数軒を探し回ってようやく取り寄せならとのことで、発注した。

雨が降っていた。しかしクリスマスムードで河原町通りは人が溢れていた。

家に帰り、慌しく用意して、六時半にまた家を出る。

長良河畔ホテルの寮に九時前に着き、急いでユニホームに着替え、本館フロントに急ぐ。今夜はナイトだった。泊まり客は超閑散で、たった十七人しか泊まっていない。宿泊係長が、「今日は早く寝て下さい。」と、十時過ぎにキーをくれた。でもなかなか寝付かれず、一時半まで起きていた。

 

七時半、フロントには全然客の気配がない。京都ならクリスマスイブはほぼ満員だった。このあたりの土地柄というのだろうか。

九時に事務所に戻る。まだ朝礼の真っ最中だった。屋上には上らず欠席しておく。その後も取締役は右往左往していて言い出す間がない。

十時半にようやく、

「ちょっと時間を・・・」

「今社長に用事があるので、そのあとにしてくれますか。」

結局、十一時過ぎにやっと応接間で一月末での退職を申し出る。

「え?!」 取締役はかなりびっくりしたようだった。

この前みやびの社長を前に切々と述べた退職理由をこの場でも繰り返した。人情味厚い取締役はやがて納得し同情してくれた。

「・・・三月までなんとかりなりませんか。」

押し出すような声で言った。

「二月以降休職というのはどうでしょう・・・」

もはや主導権は私の側にあった。結局お互いじっくり考えましょうというところで一旦別れる。とにかく一山越えた。

 

目が覚めたら八時十分だった。

朝一番に十一月分の月次決算説明を役員応接室で行った。いつも通り社長以下七人のメンバーに説明する。あまり突っ込みもなく順調に約三十分で終わった。

昼から安藤取締役は叔父さんが亡くなったとかで帰り、明日も休むと言い残していった。

彼がいないとみんな何となく緊張が緩むようだ。

八時前には太田課長も帰り、私も八時半に引き上げる。

礼子に電話して、ホテルのおせちを今年は買わないことに決めると念を押した。

十時四十分、家に電話する。佐和子が帰っていた。さやかはもう這い這いしているらしい。早くストーブのガードが到着しないと間に合わない。

 

朝方、曇っていた。ゴルバチョフがとうとう辞任した。この一年世界の変わり方は目まぐるしい。

今日は取締役は休みである。私はマイペースで仕事をやる。

昼に寮室に上がり三十分ばかり昼寝をし、夜は八時半で引き上げた。

 

起きてカーテンを開けると、降り出しそうな空模様だった。薄暗い。

出がけに礼子から電話が掛かってきた。

「自転車が出てきた!」声が弾んでいる。半年ほど前に自宅の前で盗まれた自転車が近くの中京郵便局の前に放置されていたらしい。しかし新しい自転車はすでに買ってしまっていた。

やがてみぞれまじりの雨となる。

月末の支払い伝票が回ってくる。マイペースでじっくりチェックする。

帰りぎわ取締役に正月休みのことを願い出ようとするや、向こうから五日まで休んだらと言ってくれた。私も、少し気が引けて、「四国へ義母の見舞いに行って来ようと思ってますので・・・」と言い訳する。ついでに、

「月曜日の朝、一軒寄るとこがありますので昼から出勤します。」

と断る。私も図に乗って厚かましく嘘をつくようになっていた。

「どうぞ。」と取締役はいつになく優しかった。

九時半に引き上げて風呂を沸かす。

 

七時半に起きる。小雨が降っていた。

皆忙しそうだったが私にはもうあまり急ぎの仕事はなかった。

午後は二時から事務所の大掃除が始まった。天気はよかったが、次第に風が強くなってきて、窓を全開すると部屋の中がたちまち冷え込んだ。窓ガラスをはずして外で洗うのはかなり寒かった。年に一度の行事だし、取締役から率先して雑巾を絞っているので、誰も手を抜くわけにはいかなかった。

五時半から足洗いをするというので帰るに帰れず待っていたが、寿司の到着が遅れて、とうとう六時半まで付き合ってしまう。上坂マネージャーが車で送ってくれたので、なんとか七時三十五分のこだまに間に合った。

新幹線の中で、一月末の退職を決意する。三月以降はバイトで行こうと……

家に帰ると、床の間にはもう鏡餅が飾ってあった。

すみ子は十時ごろ帰ってきた。東京の兄がすみ子にお年玉を送ってきたらしい。保雄は今頃ハワイかもしれない。

 

七時半に起きる。寒いと思ったら雪が降ってきた。雪の中を小走りに突き切って散髪屋に行く。その間にすみ子は山形君とデートに行ってしまった。

昼は礼子がすき焼きにしようと言い出し、二人で昼間から肉を頬張る。

雪は一向止まなかった。

ひと寝入りしたあと、三時ごろから大丸に行く。草履と和装バッグのセットの売り出しをやってたので、思い切ってすみ子の成人式祝いに一つ買ってやる。

錦市場に寄り、今年は会社のおせちを買わないので、礼子が二三ネタを仕入れていた。八百円の「う巻き」も買う。

雪はさらに降り増して来た。家に着くと傘に雪が積もっていた。

晩は私の要望で雑煮を作ってもらう。一年振りの雑煮の味は格別だった。飲めない夫婦が熱燗で一杯やりながら、八百円の「う巻き」も二人で平らげてしまった。今晩は帰らなくていいので、気が和んだ。

 

雪は止んでいた。しかし暖房前の部屋の寒さが身にしみた。

朝も雑煮を食べる。

十時過ぎに出掛けようと思い、もうひと寝入りしておこうとホームごたつに潜り込むが、結局寝られなかった。

いい天気になっていた。

それでも新幹線は米原あたりを徐行する。関ケ原は真っ白だった。三十分遅れで羽島に着き、事務所への出勤は一時を回ってしまった。

しかし誰も何もとがめない。私にかまってられないほど皆ばたばたしていた。

取締役は頭が痛いから早く帰りたいようなことを独りごちていたが、なかなか帰らない。

晩の八時半に私はきっかけを掴んで彼に例の話を持ち出す。

「・・・一月で退職、二月は有給消化。三月以降で必要ならバイトとしてお手伝いしましょう。」

取締役は観念したように、「分かりました。」とうなずき、

「できたら、四月に二週間程手伝ってもらえますか?」との条件を提示した。「社宅もそのままにしておきましょう。夜具やテレビ冷蔵庫なんかも置いておいてください。」とも言った。

「はい・・・ご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いいたします。」

おおよそこちらのペースで事が決着したようだ。後はみやびホテルがどう出るかだが、そう無碍なことは言わないと思う。

取締役は疲れたような顔で帰っていった。私も八時に引き上げ、電話で妻に結果を報告しておく。

 

六時四十五分に目覚ましを掛けていたのに六時前から目が覚めてしまった。

七時半に大宴会場に顔を出すと、もうかなり進行していた。「長良河畔ホテル特製おせち」がこの広い宴会場一杯に並べられていて、一段高いところから総支配人が拡声器片手に指揮を取っていた。皆で一斉に風呂敷で包んでいくのである。風呂敷は三色あり、和風と洋風と中華風の三種類に仕分けられている。九時過ぎには用意万端整い、約四十隊に別れて自分の車なりで、岐阜県内はもちろん、名古屋方面まで配達に出発する。みごとな統率力と行き届いた規律には脱帽するばかり。壮観であった。

三時を過ぎると代金を握ってあちこちから戻ってくる。経理は私以外、忙しく立ち振る舞っていた。

しかし七時半にはすべてを終えて皆帰ってしまった。私も早々に引き上げて、寮でテレビを点けると、ちょうど紅白歌合戦が始まっていた。

十一時前に礼子から電話が掛かった。チキンを焼いていて火傷をしたとか、それでも声が弾んでいる。案の定、すみ子は彼氏と除夜の鐘を聞きに八坂神社に出掛けたらしい。

 

おわり