消炭の壷1

 

 

 

 

 

 

消し炭の壷

 

第一章

 

昭和十二年(1937年)〜昭和十四年(1939年)

祖父は、私が物心ついたころには、すでに奥座敷で寝たっきりだった。孫たちが時々親に連れられて遊びにくると、それでも、生きている明かしに、ふとんの上に起きあがり、じゃんけんを始め、負けると、てのひらをシミカスの浮いたツルツル頭に置いて、うれしそうに声を上げ、枕の下から格子じまの銭入れを取りだし、一銭玉や二銭玉を孫たちに与えた。

たまに、風のない天気のいい午後、廊下の籐椅子に小さくなった体を沈め、両腕を肘掛けにしがみつくように、ひなたぼっこをしている姿を見かけたりした。日々の楽しみといえば、妻の手でよくみがかれたガラス戸越しに、庭の木の葉がそよぐのを見たり、十日に一度掛けかえさせる床の間の掛軸の絵を眺めるぐらいだった。そのため、春のさなかに鈴虫の絵や雪山の風景が掛かっていたりしたものである。祖父の枕元には、お盆に吸い口瓶と薬の袋がのせてあり、週に一度ぐらいの割で医者が診にきて、彼のあばらに聴診器を当て、洗面器で手を洗って帰っていった。

ある夜、いつものように、右側には祖父、左側には祖母が、私をまん中にして、いわゆる川の字に寝ていた。

夜半過ぎだった。豆電球の光にそれでも辺りを見ることができた。それっきり目がさえて寝つかれず、長い間、寝返りを打つでもなし、ただぼんやりと時のたつのに身を任せていた。やがてのこと、右隣りの祖父が身じろぎするのを感じて、私は首だけ曲げて彼を見たが、祖父はそのまま再び寝いってしまうかと思われた。私自身も眠気に襲われそうになったが、ちょうどその時、小さなせき払いとともに祖父がむくむくと上半身を起きあがらせ、敷きぶとんの上に座った。目の前で、祖父は寝間着の前を合わせ、ひもを結びなおし、一と息ついてから四つん這いの姿勢で前の方へ進み出た。そして、思いがけないことが起こった。違い棚の下の地袋へ、祖父はその戸を開けてはいって行き、戸はすぐに閉められた。私の心臓は高鳴りして声も出なかった。

もう一度人影が私の目に映ったのは、それからどれほどたってからだろう。祖父その人だった。しわ、しみ、元の寝間着姿で小さな引き戸から這いだしてきて、扉を元どおりに閉め、夜具にもぐり、老人はなに事もなかったように、小さないびきさえ立てて寝いってしまった。

あくる朝、おそるおそる地袋を開けて調べたが、そこには木箱に入った掛軸がいっぱい詰まっているだけで、奥はただの壁だった。

そのことがあって間もないある朝、私はいつもよりずっと明るい陽射しの中で目を覚ました。側には祖父も祖母もいなかった。急に途方もなく大きな声で私は泣きだしていたが、いつになく、いくら泣いてもなんの手応えもなかった。涙顔に辺りを見まわしているうち、ようやくそこが二階だと分った。とつぜん、父の一番上の姉にあたる、くめ伯母が私の枕元に立っていた。私はいっそうに声を張りあげて泣き、伯母の優しそうな言葉も耳に入れようとはしなかった。伯母は私を扱いかね、あとは黙って上から眺めていた。泣きはれたまぶたからは、海綿のようにいくらでも涙が絞りだせ、そのうち目の前がおぼろになり、そのまま再び寝いってしまった。

つぎに目を見ひらいたら伯母の姿はなく、かわりに祖母がとんと尻を落として座りこみ、焦点の合わぬ目つきで窓の外を眺めていた。私は深い息を一つ突き、なおしばらく祖母の横顔を黙って見ていた。孫の目覚めに気づいた祖母は、振りかえって、

「謙吉、さあ起きなはい。」

私の服装を整える間も、祖母の表情は乾いていた。

「・・・おじいちゃんがなあ、先っき、往ってしまはった・・・」

私には初めて聞く言葉にもかかわらず、その意味が、すっと呑みこめた。

祖父の葬式の日はごった返した。なぜこんな大騒ぎをするのか私にはよく分からなかった。叔父伯母をはじめ、いとこたち、そのほか知らない人まで押しかけて、家中を我が物顔に動きまわっていた。祖母はすべてを子供たちに任せ、自分は夫の遺体のかたわらに座ったきりだった。私はといえば彼女の側にくっついて離れなかった。新しい客が来るたびに祖母に挨拶をする。そのついでにたいていの客がきまって、私には身に覚えのない、同じせりふを述べた。

「隠居さんは、謙吉つぁんを一番かわいがってたもんなあ。」

お棺を運びだす前にもう一度ふたが取られ、身内の者が最後のお別れに覗きこみ、女連中はハンケチで目頭を押さえていた。祖母は両側から娘に抱えられて立ったが、涙は流さなかった。

「謙ちゃん、よう見ときや、おじいちゃんの最後の顔え。」

と、セーラー服のいとこが言い、自分も涙をハンカチで拭っていた。私はただ怖いものを見てしまった感じで、自分の肉親だとの実感はなかった。

その時私は四歳と六ヵ月だった。

 

「かんしょやみ」の祖母は、畳廊下階段を毎日欠かさず拭き掃除し、またそのあと、きれいに袋ぬいした特製の「から拭きぞっきん」で、たんす、床柱などを拭きあげるので、木造り家具は顔が写りそうなほど、ぴかぴかに磨きあげげられた。

庭掃除も欠かさなかった。三坪ばかりの庭の片すみに、小さなお稲荷さんのホコラがあり、陶器のキツネが一対納まっていた。いつだったか私がその一つをおもちゃにして割ってしまったことがある。祖母は怒りもしないで、かけらを拾い集め、半紙に大事にくるんで、ほこらの片隅にしまった。そのうち、ふとほこらの中を見ると、キツネは何時の間にか一対が元通り向き合っていて、もうかけらの紙包みもなかった。

仏壇には、白いネルの仏間ぞっきん、手ぼうき、さん払い、真鍮磨きなど、祖母の小道具が揃っていた。月に一度彼女は、釣り下げた灯明台やその傘などを取り外し、磨きをかけてから掛け直すのだった。

生け垣と、格子戸のはまった門構えの太泰大竹町の家は、玄関を開け二三歩進むと、十センチ高の板間だったが、いつだったか表から駆け込んで来て、角に足を取られ大けがをしたことがある。鼻血は出る、唇は切れる、やがて、からすテングのような顔にはれあがった。むろん私は、自分でも呆れるような大声で泣き叫び、祖母を呼んだ。

なにかにつけて私は鼻血をよく出し、そのたびに祖母が鼻の穴にちり紙を巻いて詰めこんでくれた。またよく銭湯などで引きつけを起こしたりする人騒がせな子で、気が弱く人見知りをするので、幼稚園にも行かれなかった。

家の前は小広い野っ原で、その先の木立の間を嵐山に通じる電車が走っていた。野っ原にはタンポポやシロツメ草が咲くほか、おおばこがあちこちに繁っていて、祖母はそれを摘んできては縁先で干し、煎じて「癇の虫封じ」に私に飲ませた。

大小の便所を「およじ」、「おちょうず」と区別して呼んでいた祖母は、おちょうずでは、男用の裏便所で、着物のすそをたくし上げ、お尻を小便溜めに向けて、立ったままじょうずに用を足した。その裏便所の先には干し物場があり、細い二本の柱に竿竹を渡して洗濯物がいつも干されていた。

裏庭の片すみ、そこの一うねに、きゅうりやなすが少々と、ケイトウの花とホウセンカも咲いていて、花に水をやるのが私の日課だった。ある朝、いつも通りに花に水をやりに行くと、そこにはケイトウもホウセンカも見あたらず、びっくりぎょうてんして祖母に言いつけに走ると、

「それなあ、さっき、おじいちゃんとおキツネさんに上げた・・・」

祖母が冷ややかに言った。私は大声でわめき、祖母に飛びかかろうとしたが、その前にまた引きつけをおこしてしまった。

 

さて、ある日、やっと一仕事を終えた祖母が前掛けを畳み、こたつの私の横にもぐり込んできたが、私の見ているモダンな分の厚いアルバムのページを繰って、一枚の写真を指さした。

「これがおまえのお母はんや」

祖父が死んで半年ぐらい経っていた。

「これもそうやで。これも・・・」

アルバムの中の「おまえの母」と指さされた女性は、桃割れに日傘をさしていたり、三つあみで紺のはかまの女学生姿だったり、大正まげを結っていたり、柔らかなパーマネントを当てていたりした。祖母は「おまえによう似てる」とも言った。ある写真は父と「母」が二人が並んで写っていた。父の姿をじっくり眺めるのも、じつはこの写真が初めてだが、なによりも父のかたわらに、どうして「母」が寄りそって座っているのか、それがふしぎだった。あとの一枚は、白いショールを肩に掛けた「母」が斜めに構えているところで、下半身は白くぼかされ、アルバムもそこで途切れて終わっている。

「お母はんはなあ、おまえが生まれて二た月あとに、のうなった。」

と祖母は私の顔を伺うようにしたが、私の耳には、時々祖母が語って聞かせる「千松」や「神崎与五郎」などの芝居ばなしのように、半ば絵空ごとに響いた。

 

春はすぐに巡ってきた。

祖母は気が向くと汽車を見に連れてくれた。その道すがら、どこかの角にとうふ屋があり、祖母が行きつけの店とみえて、腰の曲がった女主人がゴム長姿で、いつも祖母に声を掛けた。きまって「ヨメ」の話をする。とうふ屋の嫁のくせに朝寝して、働くのはいつまでたってもアテばかりというようなことだった。私が祖母のそでを引っぱるのを、とうふ屋の女主人がうさん臭そうに見て、わざと話を長びかせているような気がした。それでも、山陰線の踏切にたどり着くと、いつもすぐに汽車の姿が遠くの山影に見えた。

その日はよく晴れていて、祖母は日傘をさし、私もツバの付いた帽子を被り、ゴムひもをあごの下に食い込ませていた。上り坂と見えて機関車はもうもうと煙を吐いて近よってくる。畑のどまん中にそそり立つケヤキを通りすぎると、急に唸りだし、いっぺんに迫ってきた。機関車の大きな車輪が目の前を駈けぬけ、あとに続く客車はそれに較べて、もの静かで、コトンコトン付いて走った。そのなん両目かにさしかかったところで、客車がしだいにスピードを落とし、中が手に取るようによく見えた。窓ごとにおとなや子供が向かいあって座っていたが、その中に祖父がいるような気が私にはした。祖母も同じように窓を見あげていた。

「・・・!」

帽子のゴムひもがのど元を締めつけて声にならなかった。窓べりに祖父が座っているのを私は見つけた。客車は止まるわけではなく、いつもどおり遠ざかっていき、赤い尾灯が小さく見えなくなるまで、まばたきもせずに見おくった。

帰りぎわ、独り言ともつかずポツリと祖母が漏らした。

「謙吉のお母はんも乗ってたなあ・・」

私はびっくりして祖母を見あげたが、彼女は日傘をさしたままあらぬ方を見ていた。

 

私の家の隣には日活の女優さんが住んでいると祖母から聞いたことがある。毎日決まった時間に人力車が門前に止まってそれらしい人が乗って出かけた。私はその女優の名前も顔も覚えていないが、そこに異人の顔をした女の子がいて、時々おんばさんといっしょに玄関口で三輪車に乗って遊んでいるのを見かけた。鉄扉の門の中だから、こちらからは口もきかないし、向こうも私が覗いていることに気づきもしなかった。少なくとも二人ともその振りをしていた。家並みの向かいの原っぱに私は立ち、時には屈んで、祖母に言いつかったおおばこを摘みながら、ちらちらと横目を使うだけで、気の弱い私が長く見つめていたわけではない。にもかかわらず、その子は人形のようにかわいく、色白だったことをいまだに覚えている。狭い空間で三輪車を乗りまわすのだから、常にくるくると廻りつづけていなければならない。子供心にもその横顔の顎の線がきれいだと思った。ピンクに染まったほっぺたを、できることなら、一度指で突っついてみたい衝動にかられた。くるくると廻るたびに、次々に訪れる横顔を待ちかねるように盗み見ていた。

女優とその子が親子なのかさえ分らない。ある日からばったり見かけなくなり、やがて隣は空家となった。

 

近くの撮影所のグランドで、時々ロケをやるのが二階の窓からも見物でき、銀ホイルを張った板が、角度によって目にもまぶしいぐらい近かった。

祖母に手を引かれて「梅津」へ出かけるには、そのグランド横を通っていった。ふだんの撮影所はひっそりして、裏の塀ぎわに、セットの茶店や屋敷が傾き加減に立てかけてあった。撮影所をすり抜けるとパッと明るい平地がひらけ、そよ風が吹くたびに肥くさい匂いが鼻を突いたが、細い道がくねるように田畑の間を縫って、かなたの小さな点に通じていた。斑点は次第に大きくなって、やがてその動きと響きで水車小屋だと判ってくる。百姓男に引っぱられて牛が来た。黒い牛の肩は私の背丈の倍はあり、舌をゆっくり出し入れし、よだれを始終流していた。すれ違う前から我々は道の隅に追いやられて,危うく田んぼに落ちそうになったが、飼い主はちょっと祖母に頭を下げただけで立ちどまろうともしなかった。牛の角が私の目の前をぶらりと通過し、その間じっと私は祖母の手を握りしめて、息を詰めたまま堪えていた。

田んぼの行きどまりに四つ五つ民家が軒を連ね、その内の一軒だけが瓦ぶきの古い薬屋で、分の厚い板看板に時代がかった文字で薬の名が彫られていた。こんもりした梅の宮神社の森が目の前に現われ、みすぼらしい小川に懸かるそまつな木橋を渡ると、わずかばかりの村落があり、かやぶき屋根の百姓家が道の両側に雑然と立ちならんでいた。一番端っこの、見おぼえのあるその家に、我々はていねいにに招きいれられ、祖母の方も持ってきた菓子折を差しだして挨拶を述べた。家の主人は野良に出ていて留守のようで、小太りの女房がにこにこと応対した。それが「おしげさん」という、私に乳を与えてくれた人だった。お茶とお菓子を運んできたのが女学生の姉娘、小学生らしい男の子も庭先から私に声を掛けた。みんな私のことを「ケンぼん」と呼んでいた。私はといえば、ただただ祖母にすがりついているばかりで、「そこらで遊んどいなはい」と促されても立とうとはせず、たいくつなおとなの話を黙って聞いていた。そのくせ、片隅の使いふるしたリヤカー、雨合羽、軒場に干された大根越しの空の色まで、どこか見おぼえがあるようで、ふしぎと自分の気持になじんでいた。やがて、呼びにやられたらしく日焼けした小柄な主人が、祖母へのみやげにと抜いてきた野菜を、クワに括りつけて帰ってきた。がさつな手が私の頭を撫でて、

「大きなったのう!」

と笑った。その時ようやく私もニコッとした。

「おまえのお母はんはな・・・」と、梅津から戻るなり祖母が言葉に迷いながら語りだした。

要約すると、母は私を身ごもって間もなく、昔で言うロウガイ(つまり肺炎)に取りつかれたのである。これは当時は直らない病気だった。立花の家にとっても子を生む生まんは一大事だったが、早苗は、生みたいと言ったらしい。

祖母たちはその願いに従ったのだという。挙句に、母は病気とお産が重なって、二ヵ月で死んだ。

「乳飲まさなあかんさかい、おまえを梅津に預けたんどす。ちょっとは縁続きのうちでな。そこが、おしげさんとこやがな。ちょっとは憶えといなはるか?・・・(数えの)三つになってすぐ、この家に連れもどしました・・・その時はもう、帰らへん言うて、ひどうだだこねられてな、最後には泣きじゃくりながら、疲れて寝てしもた。あてと常夫叔父さんが二人がかりで抱えて、服のまま靴も脱がせず、寝かせつけたんや。・・・それでも、あくる朝になると、もうケロッとしてたけどな。どうえ?謙吉、なんか覚えてるか?」

黙って私は首を横に振った。

そのあとは、祖母が私の母親がわりになって私を育てた。ほとんど家にいない父親に代わって、常夫叔父が、わが子どうぜんにかわいがってくれて、毎日私を連れて汽車を見にいったり、銭湯にも入れてくれたりしたらしい。

「なんにも憶えてへんのかいな?」

せいのない顔つきで祖母が私をのぞき込むが、いくら考えても思い出すことなぞなにもなかった。

常夫叔父のことは「東京の叔父ちゃん」と呼んでいて、私が物心付いたころには、もう彼と同じ屋根の下で暮らしてはいなかった。叔父は時たまおみやげを持って尋ねてくるが、祖父の一周忌にやって来た時には、叔父はミニチュアの乗用車をみやげにくれた。それは本物そっくりにできたシボレーのミニカーで、タイヤはゴム製、窓にもヘッドライトにもガラスがはまっていた。叔父は自分でもこのおもちゃが気に入っているらしく、畳の部屋をなん度も輪を描いて走らせ、

「これは上等舶来やで。」

と私に説明した。

 

 梅津のおしげさんの娘が弟をともない時々大薮町の家へ、たいてい畑で取れた野菜物をおしげさんに言いつかって届けにくる。もう女学生だったが、彼女がやって来ると祖母は決まって、森永の粉末コーヒーをさじで山盛り二杯カップに移し、お湯を注いで出してやっていた。彼女もそれを楽しみにしているようで、座布団に正座したまま待ち遠しげに祖母の手元を見つめていた。ミルクも砂糖もいっしょに混ざった即席コーヒーがまた、たまらなくよい香りがしたが、祖母は私にはコーヒーを飲ませてはくれず、「謙吉には毒や」と言い、そのかわり砂糖入の牛乳を沸かしてくれた。

ある梅雨の明けた頃また二人して、梅の宮神社の小川で昨夜取ってきたばかりの生きのいい蛍を二十匹ほど、私の頭ほどもある虫篭に入れて持ってきてくれた。大きなふろしきを被せ、その中に首を突っ込むと、昼間でも淡い光を点けたり消したりさせ、小さな星が降っておりてきたような別世界である。草の吐息の匂いがした。折りしもそこへ、いつものコーヒーの香りが漂ってきた。ふろしきのかいまから覗くと、姉の方が額に汗をかきながらコーヒーをすすっている。祖母は用事に立ってその場にいず、弟と私の前には沸かしたての牛乳が置かれていた。

「ちょっと飲んでみるか?」

誰も見ていないと思ったのか姉が弟に自分のコーヒーを一口飲ませた。

「どうや、にがいやろ?」

「旨いわ」と弟が言った。「もう一口くれ。」

「あかん!」

姉が弟からカップを取りあげたので、コーヒーが少し弟の手の甲ににこぼれた。

「あつう!やけどしたど!」

「おまえが悪い」

と姉が笑った。蛍のふろしきをかぶったまま私は、泣き出しそうな顔で二人の妬ましい会話を聞いていた。

 

太泰大竹町の家は父と祖母と私の三人暮しには広過ぎた。しかもなぜか父はいつも家にはいなかった。やがて、井ノ尻町に引っ越すと、ふいに父が私の目に止まるようになり、夕方の食事を終えたひと時などに、和服を着て、ふところ手の父に連れられて散歩に出るようになった。

五六町歩いたところに、周りを生け垣で囲った小さな泥池がある。すでに陽は落ちて、空は藍色を帯びはじめ、淀んで青味がかったその池に、木造の大きな「千石船」が浮いていた。まん中に帆柱が一本つっ立ち、錨を降ろし、船体の左と右から二本の太い綱が伸び、岸の杭に繋がって、時々喫水にさざ波が寄せていた。老いた体を古池の端に押しやられた格好で身動きもならず、ただ朽ちるのを待っているのだった。傍らの潰れかかったベンチに腰を下ろし、暮れなずむ中、あいかわらずの懐手で、父は黙っていつまでも船を見ていたが、そのうち、私にあごをしゃくって、向こうを見ろと合図した。びっくりして父のあごの先がさす方向に目を凝らすと、千石船のうしろ近くの土手に、たしかに生き物の気配があり、茂みに一対の動物の目が光っていた。

「謙吉、あれは狸の夫婦や。」

「・・・ほんとに?」

疑いの余地はないと父は頷き、私は父の言葉を信じた。考えてみれば、生まれてこのかた父と会話らしい会話を交したのはこれが最初だったような気がする。私を促すでもなく、さっさと立ち上がって彼が帰りかけたので、慌てて従ったが、もう一度振りむくと「タヌキの夫婦」(今から思うとイタチくらいの大きさだった。)はいつの間にか千石船に駆けあがり、船べりに手をかけてじっとこちらを見おくっていた。

まだ宵の口である。ふすま越しの居間に明りが洩れていた。明りばかりではない、父と祖母がいい争っているらしいのが聞こえた。寝ている私に気を使って声は低いが、争い事はすでに終りを迎えているようだった。

「なんべん言うても分からんなら、もうよろしおす。」

と祖母の声。

「わしのやり方でも、お母はんが食いはぐれるような目には合わしてまへんがな。」

「食べられるとか食べられんとかの問題やあらしまへん!」

やがてタンスのカンがかたかた鳴りはじめた。

「あて、藤村へ行ってきまっさかい。」

父は返事をしなかった。

「謙吉はあしたの朝あてが迎えにきます。」

祖母が私のことを口にしたのでドキドキしながら息を殺した。父は、それ以上はしつように黙りこくったままである。祖母の立ちあがる気配がし、やがてげたを突っかける音、シックイをかたかたと歩きだし、続いて戸を開き、締める音・・・そして父の舌打ちが聞こえた。急に心細い静けさが襲ってきた。それから小さなせき払い。父は新聞を読んでいるのだ。ページを繰る音が案外穏やかだったので、ほっと息をつき、そのうち私も眠ってしまった。

あくる朝、目を覚ますと、横に父がまだ寝息を立てていた。そして二人ともまだ起きやらぬうちに祖母がやってきて私に支度をさせ、立石町の藤村の家に連れていった。そこは井ノ尻町からせいぜい二町ばかりのところで、祖母の長女くめが片づいている。なんとなく父に後ろめたくて、伯母の家に着いても、私は心が安まらなかった。いとこたちは学校に行ったようでひっそりしていた。さっそく伯母が朝ご飯を用意してくれたが、私は行儀よく気を使って食べた。伯父も勤めに出ていて、誰も気がねする者のいない祖母は、客のように振るまい、縁先でうちわを使ったりしていた。食事の後片づけも伯母が一人でやった。

庭には所狭しと盆栽の鉢が並び、そのすき間に陶器のガマがえるや豆だぬきが、自分の足場を取られまいと踏んばっていた。祖母も伯母も、私の前では父のことには一言も触れなかった。いとこのおもちゃで、しばらくはレールの上に電車を走らせたり、積木でトンネルを作ったりして遊んだが、それにもすぐに飽いて、積木の駅が崩れおちると、もう片づけようともせず、外出をねだって、だだをこねた。祖母も、むしろきっかけを得たように「よっこらしょ」と立ちあり、

「謙吉、先にここをお片づけ」

私がぐずぐずしていると、別に叱りもせず、自分でおもちゃをさっさと元の箱に片づけてくれ、伯母に借りた花もようの日傘をさして、私を外に連れだした。家の目の前を嵐電が走り、ついそこが「太子前」という駅だった。我々はたった一駅電車に乗って「かたびらの辻」で降り、その近くの小さなキネマで生まれて初めて「活動写真」を見た。夢中で見ていると、おぼろげながら筋が呑みこめてくる。なんでも生みの母と育ての母の辛くて悲しい物語のようで、祖母はハンカチで時々涙を拭いていた。左横の女の人も、また後ろを振り向くと、あちこちでハンカチを片手にすすり泣いているのだった。

「まま母の話やった・・・」

外に出ると、祖母がもうケロッとした顔で私に教えた。昼を過ぎていたので、駅前のうどん屋できつねうどんをふうふう言いながら食べ、その時初めて父のことを祖母はこう評した。

「おまえのお父はんは怠けもんの狐がついてるようなお人や。」

私はこの間の父との散歩を思い出し、もしかして父は古池の狸となにか関わりがあるのだろうかと不安になった。しかし、祖母は私にはそれ以上のことは明かさず「心配せえでもええ」と言って慰めるような目で私を見て終わった。私には祖母のいう「怠けもんの狐」の意味が分からず仕舞いだったが、当時父が正業につかず、相場を張ってのらくらと暮らしていたことが許せなかったのだ。

帰りはてくてくと日照りの道を歩いて戻った。立石町に戻ると伯母が、わが家にはない「扇風機」を掛けてくれた。いとこは学校から戻って、すぐまた友達と蝉取りに出かけたらしい。

「太子さんやけど、行ってみるか?」

伯母の誘いに私は首を横に振った。すいかを出してくれ、それを食べ終わってもまだいとこは帰ってこなかった。私はもうたいくつで身を持てあましてしまい、二階の窓から電車の通るのを眺めていると、ふいに家に帰りたくなった。側でうたた寝している祖母の足元をすり抜けて、階下へ降り、台所の伯母に「うちに帰る」と一言叫んで、跳ぶように駆けだしていった。どこか途中で転んだにちがいない、息せき切ってわが家に駆けこんだとたん、ひざ頭に痛みを感じ、屈みこんで見てみると真っ赤な血がにじんでいた。

「どうした、早よ上がってこい。」

気配だけで息子と察した父が奥の間から呼んだ。彼は手酌で酒を呑んでいるところだったが、私を前に座らせ、冷やっこを箸につまんで一切れくれた。

「うまいか・・・」

身を乗りだして父が私に笑いかけた。

 

(以下6月1日新規追加)

 

その頃と今とは時代背景も違うが、私は幼稚園には行かせてもらえなかった。元来子供の教育にはまったく無関心の父だった上、身近で育ててくれた祖母は、神経質で人見知りでひ弱な私を多数の他人の中へ放り込むのを不憫に思ったのだ。

 

それでも義務教育を拒絶するわけにはいかない。やがて、その日がやってきた。

帽子の裏には新聞紙を折りこみ、ピカピカの革ぐつの爪先には脱脂綿が押しこまれていた。制服のそで口も縫いあげて、そんな格好で学校までの道のりを、祖母のそでに食らいついて歩いた。校門をくぐったとたん、もう抑えきれずにわっと泣きだしてしまい、そうなると、なかなか止まらない性分なので、教室の前の廊下でも、まだ泣きじゃくっていた。教育制度を呪ったような顔つきで祖母は、私の手を握りしめていた。

ところが、後ろの戸口からみんなぞろぞろ親に伴われて教室にはいるころ、ふいにそのかたまりの中ほどで混乱が起こった。やがて、その気流の乱れのまん中あたりから、女の子の泣き声が爆発した。見るとその子の足元に水溜まりができていて、母親の方も赤い顔をして大騒動していた。泣き疲れたおぼろげな私の目にも、なんとなく気の毒な状況だとわかった。

事件のあと、机に座った時には、ぴたりと私は泣きやんで、教壇の女先生の顔をしっかり見られるまでに落ちついていた。えび茶色の着物に紺のはかまの、ほっそりと病身そうな先生が、

「わたくしは、タナカセンセともうします!おぼえといてくださいね。」

よく通る声で自己紹介してから、黒表紙の名簿を手に出欠を取りはじめた。

「タチバナ ケンキチくん。」

自分でもびっくりするほど大きな声で「ハイ!」と返事をしていた。みんなが振りかえり、私は後ろの祖母を振りかえった。祖母は私の方にニコッとうなずいてみせたが、よく見ると目元に涙のしずくが落ちかかっていた。帰りに、私の手を曳きながら、

「おかはんが生きていたらなあ・・」

と、祖母はしんみりと私の顔を覗き見た。

 

近所に、理由は分からないがトウフというあだ名の男の子がいた。路地の奥に住む貧しい家の子で、六年生のくせにどうしてか私のような小さな子を集めて遊んでいた。

「とーふー、とふ」

通りがかりの連中が、、とうふ屋のラッパのまねをしてからかい、さらに、

「頭はオカラや!」

と畳みかけても、みんながどっと笑うと、彼もいっしょになって人なつっこく相好を崩してみせるだけだった。

ある日、トウフが私たちに、蟹取りに行くから一人づつ空き缶と一銭玉を持ってくるように命じた。貯金箱をひっくり返してこっそり持ちだした私の一銭玉を含め、五人から集めた五銭でもって、トウフは角の駄菓子屋で、「どんぐり」という大きな球形の飴玉を紙袋に一杯買い求め、それを一つづつ我々に分けあたえた。

「ないよになったら、またやる。」

と言って、残りのどんぐりは紙袋ごと自分のポケットにしまった。私たちはほっぺたを飴玉の形にふくらませ、つばをごくんごくんと呑みながらトウフに従って歩いた。ふりかえるともう駄菓子屋も踏切も小さく遠ざかって見え、やがて川沿いに歩きだしたので、そのうち駄菓子屋は視界から消えてしまった。

そのうち、先頭を歩いていた二年生がとつぜん、「トカゲや!」と大声で叫んだ。指を差す方を見ると虹色のトカゲが道端の草陰からこちらを伺っていた。

「おまえ指差したな。はれるぞ。はよ指切っとけ」

トウフが自分の人差し指をもう一方の人差し指でちょん切るまねをした。トウフは泣きべそをかきかけてるその子の人差し指を覗きこみ、

「よし、念のためワイがションベかけといたる。」

トウフは自分のズボンの前から小枝を出して、しょんべんをしだした。

「はよ、指出さんかい、これで洗ろとけ。」

私は汚いと思ったが、二年生は指のはれる方がもっと嫌だつたのか、人差し指をトウフのションベでちょっと洗った。

「あとは、よう草のハッパで拭いとけよ・・・」

小枝をしまうとトウフは、ポケットからドングリの袋を取りだして、その子に一つだけ分けてやっていた。

「出発!」

トウフの掛け声に従って我々は付いていくしかなかった。

ものの半町ほど進んだ時私は、足が地面に深々とめり込むのを感じ、一瞬地球の底まで落ちるような気がした。どうして縁に手をかけることができたのか、ほんとに運がよかったとしか言いようがない。臭いどころではない、必死だった。わらの間から空の雲が見え、ようやくの思いで引きずりあげられた私は、口の中のわら屑をぺっぺっと吐きだした。しばらくあぜ道の上に腹ばいになったまま動けなかった私を、トウフが手を曳いて立たせ、かたわらの小川に連れていった。ひやりとする水の感触に、やっとこさ私は声を上げて泣きだした。両手でざぶざぶトウフが水を掛けてくれた。

「パンスも脱がなあかんなあ。」

私はトウフの言いなりになった。そのパンスをトウフが流れで洗ってくれるのを私は泣きながら横目で見ていた。

「ああ、くさっ!」

水の滴る指先でトウフは鼻をつまんで見せ、それを土手の上で皆がくすくす笑っているのが聞こえた。下半身すっ裸で水の中で震えながら、私は言いようもなく暗い思いだった。こともあろうに、いつも人からアホウにされているトウフに助けられ、今は彼だけが頼りだった。足がむずむずするので、泣きはれた目をこらすと、腿からまっ赤な血が流れており、私は息が詰まって声も出なかった。それに気づいてトウフが、私の腿を思いきり平手で叩いた。大きなかたまりになって、ヒルはころりと流れの中に落ちた。

泣き止んでもしゃっくりだけがどうしても止まらない。トウフが絞ってくれたパンスをはき、ずぶ濡れの運動ぐつを片手にぶらさげて、はだしで道を歩いた。広い道だった。後から砂ぼこりを巻きあげてトラックが追いこしていった。

いつの間にか我々は見慣れた太子小学校の横に出ていた。顔見知りの上級生が二人、道端にたたずんでニタニタしている。側を通りぬける際、耳をすますと、

「・・・肥たんご・・・くさい、くさい・・・」

そんな言葉が聞こえてきて、思わず首を縮めた。

 

(以下7月1日新規追加)

 

夏休みに入ると、蚕の社(かいこのやしろ)のすぐ横の空き地で毎朝やっているラジオ体操に、父が連れていった。済むと首からぶら下げたカードの日付の上に、日変りの色スタンプを押してもらい、帰りの道すがら、養殖の鯉を釣らせてくれる釣り堀を見物するのがお決まりの道筋だった。ある日、父が自分で「目の下一尺」ばかりの鯉を釣りあげ、大口を開けてアプアプしているのを、手早く新聞紙にくるんでもらっていた。家に着くまで私は気が気でなかったが、裏の物置にある大だらいに水を張って放すと、意外に元気よく鯉が泳ぎだした。台所から祖母が焼きフを一本持ってきたので、ちぎってやってみたが鯉は知らんふりしていて、フは空しく水に浮いたままだった。

「まあ、あしたになったら食べるやろ、今は用心しとる。」

と父が言ったが、なるほど翌日になると鯉は私のやるフにパクついた。

夜はたらいに洗濯板を被せて蓋にして眠らせ、そのうち、だんだん私に慣れてきた鯉が、フを持って近よっただけで大きく丸い口を水面から出して餌をねだるようになった。

十日ほどたったある朝、空が気持よく澄んでいた。体操に出かける前に、裏庭の大だらいの端から鯉を覗きみるのがもう私の習慣になっていたが、そこにいきなり目を覆いたくなるような現実を見せつけられた。私の鯉が、「顔」だけになってシックイの土間に放りだされていたのである。あたりに血が撒かれ、たらいの水も赤く染まって、目玉と、大きく開けられた口が、私に助けを求めているように見えた。声も出ず、立ちすくんだまま、体ががたがた震えた。

「これ!殺生したらあきまへんがな!」

驚いてやってきた祖母が、屋根の虎猫に向かって叫んだ。

「ほんまに、どこの猫やろねえ。どすかん!」

 

それ以来私は朝のラジオ体操には行かなくなった。日中の陽ざしが暑いこともあって、私はあまり外へ遊びに出たがらず、友達との付きあいも遠のいた。また、昼間は父を見かけなかった。彼がいつどこへ出かけ、なにをしているのか、私には皆目分からず、また関心がなかった。ふたたび昔に戻って、家の中で祖母に付きまとい、日がなを暮らした。

家の表通りに面した側に小さな出窓があり、よじ登って外を眺めるのが、ただ一つ外との交わりだった。向かいの家は間口が広く、軒の深い百姓家で、午後になると軒下が日陰となり、時々やってくる飴細工屋の屋台も、そこに留まって商いをした。細い竹の笛の甲高い音に釣られて、どこからともなく子供たちが集まってくると、飴細工屋はその手先から鳥、魚、兎などの動物を器用に創りだしてみせ、最後に筆でいろどりを施して仕上げた。出窓からは少し見づらかったが、私は外へ出て屋台に駆けよる気はなかった。「手垢でこねくるから汚い。おっさんの鼻息が不衛生や。子供が食べるもんやない」と決めつける祖母は、決して買ってくれなかった。

 

向かいの家に、私より一つ二つ年上の女の子がいた。ある日、彼女は一人軒下で柱にもたれ、地面に腰を下ろして通る人をじろじろと眺めていた。息を殺して出窓から盗み見る私の、ちょうど真正面に女の子のパンスが見えていた。やがて、彼女は家の隅に行き、よく祖母がやるように裾を巻くしあげると、パンツを下ろしお尻を丸だしにして、じゃあじゃあと立ちションベをし出した。私は一部始終を見ていた。彼女はなに食わぬ顔で元の位置に戻り地面に腰を下ろした。私は大急ぎで出窓から飛びおりたが、罪の意識と、もう一度見てみたい心残りが入りまじった。

 

夏も終わりに近づいたころ、下水管の工事が始まった。私の背丈くらいの土管がいくつも馬車に積まれて運ばれてきて、道の片側に無秩序に降ろされたが、土管は仰むけに置かれるもの、横むけに転がされるものなどさまざまで、それが返って子供たちの遊び心を駆りたてた。皆そこで隠れんぼをしたり、筒状に置かれた土管の中に飛びこんでは、しばらくしてまたよじ登ってきたりした。

私はその仲間には加わらず、彼らがご飯時に散ってしまった隙に、家からこっそり出て、転がっている土管を次々と抜けては入りして、一人で遊んだ。縦向けに置かれた土管は、ちょうど肩の高さくらいで、腕の反動を利用したら、私にもその縁によじ登ることはなんとかできた。筒の中は子供が二三人いっしょに座れるぐらいのスペースがあり、飛びこんで底にしゃがみ込み天を仰ぐと、円形に切りとられた夕空が、わくわくするほど新鮮だった。そこから這いだして、また次の土管によじ登り、先ほどと同じように飛びおりようとしてびっくりした。中に人がいた。よく見るとそれは向かいのあの女の子だった。その子もちょっと驚いたらしいが、すぐ、

「降りてきてもかまへんよ。」

と私に声を掛けた。私は縁に両手をかけ、体を支えたまま考えこんだ。

「早よ降りといで、遠慮せんと・・・」

彼女がまた下から呼んだ。声に引きこまれるように、次の瞬間私は土管の中に飛びおりていた。狭い土管の底で二人は向きあって座り、黙って天を仰いだ。沈黙ばかりが長いこと続いた。

「ウチが先出る。」

と女の子が言った。びっくりして、

「ボ、ボクが先出る!」

と脳裏では叫んだが声にはならなかった。彼女が土管をよじ登りだした。ズボンのおしりを土管の底にどんと着いた格好で私は、その瞬間腰の抜けた状態だった。彼女は白いパンツをはいていた。

 

(以下8月1日新規追加)

 

お彼岸のころになると下水道工事もようやく終りを迎えていた。

気候もそろそろ秋めいてきたある日、祖母が私に着がえをさせ、自分はいつもの竹と紙の日傘をさして外出した。我々は嵐電の壬生(みぶ)駅(今はもう廃止されている)で下車し、そこから歩いて十二三分のところの壬生寺に向かった。本堂をぐるっと回り、一旦通りに出たところに墓所の入り口が見えた。線香売りのお婆さんに挨拶してから右手に進むと、その一角に小さな墓石があった。

「ここはイワサキ家のお墓や。」

と祖母が墓石に水をかけながら私に説明した。

「あてはな、ここのお母はんの養女なんや・・・本当のお父はんには逢おたことも見たこともない。あてを育ててくれたお人も、実は養子で・・・」

次々とふしぎな言葉が飛びだした。

「久部の母親は実のお母はんやけど、再婚して、あては連れ子やった。」

もはや私には、誰が誰の親なのか子なのか、祖母がなにものなのかさえ分からなくなった。

(事情はこうである。祖母ふみは明治二年に久部商店の長女として生まれるが、彼女の実父は久部の前の養子で、商才がないという理由でふみが生まれたあと離縁されている。二度目の養子勘助の養女として育てられたのである。その後ふみの異父兄弟が五人生まれた。

 久部商店の番頭だった立花正造との結婚に先立ち久部家では彼女の生い立ちを問題にし、一旦、遠縁で跡目のない岩崎あきのもとへ養女に出した。これは形のみでなく、室町の貧しい岩崎家で生活をともにし、お針をして生計を立てたということである。ふみはそのような境遇に育った精か、子供にも自分にも厳格で、几帳面、また気位も高い女だった。

 この岩崎家は結局、「養女ふみ」が嫁に行き、その後も世継ぎがないまま明治三十八年義母あきが死去、跡が絶えた形になった。) 

 

やがて一年生の二学期も終わりに近づいていた。私は特別勉強好きでもないくせに、なかなか出来のいい生徒らしく、そのころの「甲乙丙丁」四段階評価で、一学期の通知簿はいわゆる「全甲」だった。夏休みの中ごろ、担任の田中先生にお中元の付け届けに出かけた祖母が、

「立花さんはクラスで一番、一年全体でも全甲の生徒は三人だけですから。」

と褒められ、気をよくして帰ってきたのだった。

二学期末の学芸会には、学年ごとに劇を一本づつ演ずることになっていて、今年の一年生の演目は「桃太郎」と決まっていた。「桃太郎」の主役は言うまでもなく「桃太郎」である。

十月の半ばを過ぎたある日、放課後私は職員室に呼ばれたが、部屋にはいると田中先生を含め三人の先生が椅子に腰かけていた。呼ばれた生徒も三人だった。

「立花!」

いきなり男の先生が私を名ざした。

「おまえ桃太郎やるか?」

私は急に顔がほてるのを覚え、「ハイ」という返事が喉に支えて出てこなかった。

「ちょっと無理か」

考える間も与えずに男先生が一人合点して、ヨシオカと言う子が桃太郎と決まった。

「ほな、立花はおじいさん、山田さんはおばあさん。これで決まりや。みんながんばってくれよ」

他の二人が大きな声で「はい!」と答えたのに、私だけは黙って頷くのがやっとだった。田中先生が情けなさそうにこちらを見ていた。

足どり重く家にたどり着き、力なく祖母に報告した。

「おばあちゃん、ぼく、おじいさんをやることになった・・・」

祖母はなんのことか分からずキョトンとして、しばらく私を見つめていた。二三日後の放課後にぜんぶで七人のメンバーが集合し、桃太郎、おじいさん。おばあさん、犬、サル、キジ、鬼の大将の役割ごとに台本が手渡された。驚いたことに、第一幕はおじいさんとおばあさんのみの出番で、それもいきなり私の台詞で始まるのだった。

・・・おばあさんや、わしはこれから山へ柴刈りに行ってくる・・・

見るなり体が震えてきて、顔がまっ赤になり、喉がからからになった。田中先生が寄ってきて、

「立花さん落ちついて、大丈夫だから・・・」

というようなことを言ってくれたが、それが返って動揺を誘った。始めに、岡本先生から一幕を通しての話があり、その間に落ちつきを取りもどそうと努めはしてみたが、だめだった。

「ほんなら始めよう。立花から!」

私は声を失っていた。

「とりあえず、台本の通り読んだらええ。」

私は首を横に振った。すると、思いがけない厳しさで担任の田中先生が言いわたした。

「立花くん!お読みなさい!でないと役降りてもらうよ。」

私の頬を涙が伝った。これですべては終わった。田中先生がハンカチで涙を拭ってくれ、帰ってよろしいと私の肩を叩いた。

校門を出ると秋空が広がっていて、太陽が私の冷えた体を暖めてくれた。

十二月に入って中ごろに学芸会が催され、一年生の「桃太郎」は午前中のプログラムにはいっていた。順調に劇は進み、私は二幕で鬼の家来として出演した。五匹の家来は最後に退治され、折りかさなって死ぬのである。せりふはない。かぜ引きの祖母は首にガーゼをぐるぐる巻きつけて、見にきてくれていた。

昼からは一年生の出番はなく、講堂の座布団に祖母と並んで座り、上級生の劇を見物した。級長をやっている私のいとこが四年生の劇「金太郎」で主役を演じ、滝登りする大きな鯉を手づかみするところで拍手が湧いていた。

 

(以下9月1日新規追加)

 

「進次と仲良うせなあかんで。勉強も教えておもらい。進次はようできる子や。お手本にして負けんようにがんばったら早う迎えにくるさかいにな。」

正月三が日が過ぎると、祖母は私を藤村に連れていった。進次は三つ年上のいとこで四年生だったが、セーターの胸には金色の級長バッジが光っていた。その日、私たちは二階の勉強部屋で書き初めを書いた。縦て長の紙に私は「ニッポン」と書き、進次は「八紘一宇」と書いた。

「ハッコーイチューてなんのこっちゃ?」

と私が尋ねると、

「知らん!」

進次はさっさと習字道具を片づけて、

「謙ちゃんはもうちょっと練習しとけ。」

と言いのこして遊びにでかけた。しかたなく私はさらに三枚ほど「ニッポン」を書きつづけた。

そのうち伯母が砂糖醤油を付けた焼き餅を、お盆に載せて上がってきて、

「進次はもう居やへんのんか。しょうないやっちゃ。」

と言ってから、

「謙ちゃんとこの今度の家はな、京都のど真ん中や。きれいな家やでえ。お父さんは景気がええらしい、親類中で謙ちゃんとこが一番金持ちや。」

とも言った。伯母が私を勇気づけようとしているのだとは分かっていた。

進次の姉八重子は六年生だった。夕方に学校から帰ってきてからも、私にちょっと声を掛けてくれただけで、すぐまた机に向かって勉強を始めた。彼女は今年小学校を卒業したあと、女学校に進むつもりで、そのための勉強をしているのだった。私が側で黙って見ているのが気にかかったのか、

「一年生は楽でええなあ。ウチは遊んでられへんね。謙ちゃん、ちょっと下行っててくれるか。」

と私を優しく追っぱらった。

下の奥の間は、ばらのじゅうたんが敷きつめてあり、センターテーブルを囲んでソファーとチェアーが並んでいた。縁先を見るとこれはまた、庭の盆栽たちが、冬日に照らされて生きのびているのが見えた。またその向こうの垣根ごしに一面の畑が広がり、お百姓姿が前と後ろに肥たんごを担いで、冬野菜に下肥をかけているのがちらちら見すかせた。

日が落ちたころ、伯父がどこからか帰ってきた。そして奥の間の片隅に置かれた、書庫のよろい戸をするすると開け、黒皮の手さげカバンを大事そうに中にしまうと、またよろい戸をするする閉め、私が挨拶するのを、ふちなしメガネ越しに柔和な目つきで見下ろしたのち、

「おとなしいええ子や」

と言葉をかけてくれた。すると、まるで魔法にかけられた鳩のように私はいよいよおとなしく顔を染め、重厚な伯父の前に小さくなって突ったっていた。

 

やがて三学期が始まり、伯母の説得で進次も少しは私の面倒を見てくれるようになった。学校に行く時、肩から斜めにかけた紫色のひもは、これもまた「級長」を意味し、それに引きかえ、大きな安全ピンで止めた私の胸の桜は新兵の印だった。進次はわざわざ銭湯の横の細い崖道を通って、学校の裏手に出、背丈ほどのコンクリート塀を苦もなくよじ登ってグランドに飛びおり、私にもむりやり同じことをやらせた。

そのほか進次は色々の抜け道近道を心得ていて、他人の家のたたき庭を断わりもなく通りぬけ、裏口から別の街路へ出たり、嵐電のプラットホームの端で路面に飛びおり、線路伝いに駆けてかえるとか、そういう類のことを毎度のごとくにやってのけた。

彼は運動会ではリレーの選手だった。また大相撲のことにも詳しく、双葉山、名寄岩などのシコ名から、どこの部屋、身長体重までよく覚えていた。家では彼の相撲の相手をさせられ、上手投げ下手投げなどの決まり手を教えてくれたが、畳の上に投げられて度々私は鼻血を出した。

よく私たちは家のすぐ前の線路に腹這いになり、レールに耳を着けて電車の近よる音を聞いて遊んだ。いとこはできるだけ電車を近くまで引きつけることで勇気を示そうとしたあげく、ある日とうとう十メートルほど手前で電車を止めてしまい、ドアから身を乗りだした運転手に大声でどなられ、私の方が青くなった。

 

このあたりでは「太子っさん」と言いならわされている、広隆寺の境内は広くて、常は寂しいところだった。仁王門を潜って右手に大きな蓮池があり、池の中の弁天島へは、欄干のついた古ぼけた木橋が架かっていたが、かなり傷みが激しいところから通行禁止の立て札が立っていて、おまけに弁天さんにはキツネが住んでいると噂がしきりだった。ただ毎月の縁日には池のほとりに一日中たくさんの屋台が軒を連ねた。

その縁日に進次が私を連れていってくれた。彼は屋台を軒並やたらと覗きこみ、私がぐずぐず見とれているとすぐ袖を引っぱって次に進んだ。そして私に「おでん」を買い与えた。子芋と三角お揚げと輪切りの大根を串に差した「おでん」を、私は生まれて初めて、ふうふうと湯気を吐きながら頬張った。私がおでんに時間を費やしていると、さっさと食べおわった進次は、今度は「一銭洋食」を自分だけ買って、私の目の前で四角に切った新聞紙にのせたままかぶりつくようにして食べてみせ、

「一年生があんまり食べると腹こわす。」

と無情に言ってのけた。

 

昼間は遊びほうけ、夜寝るまぎわになって大急ぎで宿題を済ませるのが進次のやり方で、いつも本棚から「大全科」という分厚い本を出してきて、それを机いっぱいに広げ「ソウカ、ナルケツ(なるほど)」と、いかにも賢そうに宿題をこなすのだった。

「これがあったら宿題なんかボロンチョや」

姉の八重子も遅くまで起きて勉強を続けていた。彼女の机にはモスリン地にかわいい房々の付いた電気スタンドが置かれ、彼女はそのスタンドと、赤々と燃える炭火の照りかえしで、昼間にないきつい顔だちで、よく見ると彼女もまた魔法の書「大全科」のページをしきりに繰っていたのである。

 

(以下10月1日新規追加)

 

二階の窓から電車の行きかいを眺めている私に、電車の形は番号によって少しづつ違うことを進次が教えてくれた。それまではどれも同じ顔をしているとばかり思っていた電車が、言われてみれば窓の形、ヘッドライトの位置、ポールの格好、警笛さえ音色がそれぞれ異なるのに驚いた。私達は寒いのも忘れて、右に左に電車が通りすぎるたびに、その違いを確認して喜んだ。

夕方近くになってもまだ身を乗りだして、やがて来るはずの電車を心まちしている我々を、誰かが下の道から呼んでいた。

「進次、謙ちゃん・・・」

そこに、軍帽を片手に笑顔を振りまいている進次の義兄を見つけた。

「あっ!兄ちゃん。どうしたんやその格好!」

進次が叫んだが、それには答えず勇一が、小屋根を潜って家にはいる気配がした。振りむきざま進次は、部屋を斜めに走りぬけ階段を駆けおりていき、むろん私も続いた。

玄関に軍服姿の勇一の浅黒い顔が笑っていた。勇一と進次は一廻りも年が離れていたが、それは二人が「いぼきょうだい」なのだと前に祖母から聞いたことがある。「いぼ」にも「きょうだい」があるのかとその時は奇妙に思ったが、次第にその意味を理解した。夕ごしらえの最中の伯母が、エプロンで手を拭きながらノコノコ玄関先にやってきたが、勇一の姿を見て目をぱちくりした。

「どうしたんや一体。赤紙が来たて聞いてなんだえ。」

「お母はん。わしなあ、軍隊に志願したんや。きのう軍服も戴いた。どうや、ちょっとはええ男やろ。」

「なにをアホなこと言うてんねん。志願したて、あんさん、わざわざ兵隊に行く気いかいな!」

「さいな。わしは下士官や。」

「なんのこっちゃあてには分からんけど、お父はんに聞いてみなあかん。」

「祝うてくれや。」

「知らん知らん・・・」

伯母はおろおろとして台所へ隠れてしまった。

「おやじ帰るまで二階で待たしてもらうでえ。」

勇一がとんとんと二階に上がっていくので我々も従った。

「兄ちゃんは戦争に行くんか?」

と進次が聞いた。がっしりした両肩が向きなおってちょっと笑い、それから進次に自分の軍帽を取って被らせたので、今度は進次が誇らしげに私の方を振りむいた。

折りあしく伯父の帰りは遅かった。電車の窓に明りがついたころ、ようやく玄関の戸がカラカラ鳴る音がして伯父が帰ってきた。やがて下で伯父と伯母が話しあっている声がした。あぐらを組んで座っていた勇一が、やおら立ちあがり、帽子を片手に悠然と階段を降りていったので、進次と私も後に続いた。奥の間で叔父は伯母に手つだわせて着がえをしていた。

「お父さん・・・」

と勇一が切りだした。

「わし、軍隊に志願して合格したんや。それで挨拶に来た。」

伯父は黙りこくったまま着がえを続け、博夛帯をぐるぐる巻いていた。

「聞いてくれオヤジさん!時局は今重大な局面や。わしは自分になにができるか考えて、考えぬいたあげく、お国に身を捧げることに決めた。なあ、分かってくれ。」

伯母が差しだす丹前に手を通しながら、伯父はまだ一言も口をきかなかった。

「祝うてくれや、わしの軍服姿を・・・」

そう言って勇一は帽子を被り、伯父に敬礼して見せた。

 そのせつなだった。あの柔和な伯父が仁王のような顔をしたと思ったら、自分より背の高い息子の頬を目がけ、体中の力を込めて殴りつけた。勇一はまっ青となり、両手のこぶしを握りしめたが、つぎの瞬間に、伯母の小さな体が勇一に抱きついていた。

「勇一!」

勇一はたじたじと一二歩後ずさった。そしてやんわりと伯母の腕を自分の体から外し、

「ここへは二度と来ん・・・」

絞りだすように言って玄関に向かった。

「なにを言うねん。ここはおまえのうちや。」伯母がその後を追った。

「夕ご飯食べて行って・・・」

ようやく戸口で振りかえった勇一は伯母に向かって、

「お母はん、さいなら」

そう言いのこして出ていった。その間、私は震えながら進次の後ろで固まっていた。

 

数日の後、学校から帰ってきた進次がなにを思ったのか、

「これから兄貴とこ行ってみよか。」

と提案し、今一つ気乗りがしない私を、半ば無理やりに従えた。

「きっと謙ちゃん、びっくりするで。」

と進次が意味あり気なことを言った。

三条通りを西へ西へと歩くと、帷子の辻(かたびらのつじ)を越えたあたりから、耳ざわりなヒューンヒューンという音が右に左に響きわたった。広い敷地の製材工場が隣あわせ、そこの回転鋸が丸太を切りさく音だった。ひっきりなしに通る材木を積んだ馬車のおかげで、道路のあちこちに馬糞の盛りあがりができて、手押しの清掃車がスコップで回収には来るのだが追っつかず、乾いた馬糞が藁くずとなって春一番に舞いあがり、言いようのない臭いを漂わせていた。

車折(くるまざき)神社の近くの勇一の住まいには、なん度か来たことがあるらしく、進次は心得ていて、表通りから外れた横道を折れまがり、やがて小さな平屋の前にたどり着いた。「藤村勇一」の門札をろくに見もせず、勢いよく戸を開けて中へ飛び込んだ。

「ああ寒い!」

進次が叫び、一呼吸置いて女の声がした。

「あれ、進次さん。どうしたの?」

洗いざらしの真っ白なエプロン姿の女性が、薄汚れた襖の前にすらりと立っており、たちまち狭い玄関先がよい匂いで満たされていった。

「に、兄ちゃんは?」

「勇一さんは今連隊の方にお出かけなの。・・・まあ、お上がりなさい。」

「ほな、ボク帰る・・・」

さすがの進次も気遅れしているようだった。

「夕方には帰ってみえるわよ。まあちょっと上がって火鉢にお当たりなさい。寒かったでしょう。で、こちらの方は?」

瞬きもできないで見つめる私に、彼女のまばゆい視線が注がれ「こちらの方」呼ばわりされると、今しがたまで寒さで青ざめていた頬にパッと血が昇った。

「いとこの謙ちゃん。」

私はぎこちなくピョコンと頭を下げた。

 第一章 おわり