消炭の壷2

 

 

 

 

 

 

消し炭の壷

 

第二章

 

昭和十五年(1940年)・・

 

ずいぶん長いことバスに揺られていたと思う。やがて辺りに田んぼや畑の風景が、まったく見あたらなくなり、大小の家々が隙間なく建てこんできて、その切れ目切れ目に道がまっすぐに伸びていた。中でも、初めて目にする幅の広い舗装された道路には路面電車が走っていた。

バスの車掌が開けてくれたドアーから、我々が降りたったのは「御所八幡」のお宮の前だった。「太子っさん」でも見かけた鳩が、石づくりの鳥居のまわりにたくさん遊びまわっていたし、こんもりとした木の緑が、私に少し安らぎを与えてくれた。バス通りを一曲がりしたとこに私たちの新しい住まいがあった。ベンガラ格子の表がまえ、戸を開けて敷居をまたぐと、狭い叩き庭に靴ぬぎの石が畏まっていた。目先の障子を開け、二畳ばかりの小部屋を突きぬけながら、

「さあお上がり。疲れたやろ。」

祖母が私を案内した。

うす暗い奥の間には着物姿で背筋を伸ばした父が、支那焼きの火鉢を前に四角く座っていた。

「早うここに来て当たれ」

彼岸前といえ今日あたりはまだまだ寒く、父が火鉢を勧めてくれたが、ようやく目が慣れてくるにつれ、床の間に幅広ろの掛軸が掛かっているのが見えてきた。取りたてて興味を示したのでもないのに、

「それはな、おまえのお母はんの書いた千字文や。」

と父が説明した。祖母が隣の部屋で着物を畳みながら、

「こっちに来てみい。」

と呼ぶ。表の間には、椅子つきのま新しい木の机が置かれていた。「うわっ!」と私は歓びの声を上げて椅子にどっかり座った。普段着に着がえた祖母が父の前に座り、私の「通知簿」と「優等証書」、金賞のしおりの付いた書き初め「ニッポン」を広げてみせた。

 

翌日、祖母は私を墓まいりに連れて行った。

市電に乗り、やがて五條坂で二人は降りたが、その目の前が西大谷本廟で、立花家の墓はそこの坂をしばらく登った北谷にあった。祖母は花屋でしきみと線香を買って私に持たせ、自分は「丸に桔梗」の紋入りバケツに水を一杯汲んで、墓まで運んだ。しきみを生け、線香を立て、バケツの水を柄杓で墓石の頭からなんべんか掛けた。なに事によらず祖母の動きにはムダがなく、残りの水で台石を洗い、さらに最後の水で足元の石畳を流した。信玄袋から質素で小柄な数珠を取りだすと、墓の前に腰を落とし頭を垂れて、うやうやしく長々とお参りし、私にも男物の数珠を渡して、同じようにお参りさせた。

「謙吉はおじいちゃんのこと好きやったか?」

とふいに聞かれて、面食らって私は答えに困り、首をかしげて見せた。祖母はそのままバケツを下げて元の道を引きかえしたが、どうしてか再び花屋で色花と線香を買い、今度は無地のバケツに水を張ってまた山手に向かった。立花家の墓の前を通りこし、「肉弾三勇士」の銅像の横から小高い丘に登っていった。

「ここはあてのお母はんのお墓や。久部家の墓、て書いたあるやろ。この字ぃ、謙吉はまだ習てへんか・・・」

 

広ろびろしとた西大谷の墓地を抜けて「きよみずさん」から三年坂の方へ歩いていき、途中の茶店で一服して甘酒を飲んだ。桜のつぼみはまだ硬かったが、一輪だけ狂い咲いているのを私が見つけ、祖母に告げると、彼女は赤もうせんからさっと立ちあがって、その一輪を小枝ごと爪の先で折り、私の胸ポケットに差した。こんな理不尽が許されるとは思えなかった私は、慌てて胸から桜を引きぬき、

「こんなもん!」

ときつく祖母に突きかえした。

「お前が女の子なら髪に差してやるのに。」

と祖母は言い、甘酒を飲んだあとの湯飲みについと差して、

「ご免やっしゃ。」

と店に返した。茶店の主人も呆気に取られたようで、

「へえ、おおきに。」

と頭を下げてしまった。

 

まだそれほど人の出の見られない円山公園で、少し歩きつかれて、池のほとりのベンチに我々は腰を下ろし、鯉の泳ぐさまを見物していた時、ふと向かい岸の橋のたもとを眺めて、私は目を疑った。ちょっと人目を避けたような木立の下のベンチに、軍人と女が座っていた。もえぎ色の着物に濃い緑の帯を締め、細い芽を吹き揃えてきた辺りの芝生に、溶けこもうとしているふうに見えた。にもかかわらず彼女の輝きは萌えたつようで、距離は二十メートル以上あったのに、その輪郭が、ほかと際だって見えた。勇一はその横で軍帽を被り軍服姿、長靴を着けた足を組んで座り、なにか勇一の方が一人まくしたてているようで、女の方は聞き役だった。ふと彼女がこちらを見たように思え、私の体はベンチに座りながら鉄のようになった。しかし、彼女が私を覚えているはずもなかった。祖母に言いだそうかと迷っている間に、やがて二人は立ちあがって、我々に背を向け山手の方へ歩きだした。

「おばあちゃん、あれ勇一兄ちゃんやで!」

「へえ?」

「女の人といっしょに歩いていくやろがな。」

「ほんまかいな、わてにはよう見えへんけど・・・もしそうならおスミさんや。」

頭がまっ暗になるほど悔やまれた。どうしてもっと早く祖母に知らせなかったのだろう。二人の姿はしだいに小さくなって、やがて木立ちの間に消えていった。

 

 以下2001.12.1追加更新

 

 

転校してきた姉小路小学校の始業式の当日、私はかぜ熱を出して寝こんだ。二階で寝かされ、祖母が運んでくれるお粥に生卵を掛けて食べ、二日間寝とおしたが、父は一度も見舞いに上がってこなかった。

始業式から数えて四日目に、ようやく祖母に伴われて学校へ行った。すでに授業が始まっていて、校内は静まりかえっていた。それにしてもなんとまあ狭い運動場やなあと、私は元の小学校に思いを馳せた。職員室でまず教頭に挨拶し、彼に伴われて廊下伝いに二年東組の教室へ案内された。私は前から入り、祖母は「どうぞお引き取り下さい」と教頭に促されたのに、後ろから入って、むりやりに参観した。

そこで初めて福山先生に引きあわされた。色の黒い小さな顔の女先生というのが、私の第一印象だった。彼女は恐らく教室の後ろに立っている祖母に聞かせたかったのだろう、私が太子小学校で優等生だったことを皆の前で紹介した。

「立花さんは小さい時にお母さんを亡くされました。かわいそうな子だから、みんな仲良くしてあげてね。」

先生が付けくわえたので、たちまち私は顔を赤くしながら、どうして初対面の福山先生が、私の家庭の事情までよく知っているんだろうと不思議に思った。

当座の間ということで、私は一番前の窓ぎわに席を決められ、またしても窓外の狭いグランドと片すみにそそり立つ木蓮の大木を目にして、寂しさが込みあげてきた。一年生の時の担任田中先生の柔和な顔を思い出しながら後ろを振り向くと、いつの間にやら生徒用の椅子が当てがわれ、ちょこんと所在なげに座っている祖母が目に入った。

二時間目からはさすがの祖母も、先生に挨拶して帰っていった。その日はしかし二時間で授業は終わり、帰りぎわに私は職員室に呼ばれた。福山先生は私を目の前に座らせ、なんとも言えない優しいほほえみみを湛えて、しばらく黙って私を見つめていたが、やがて、

「立花さんは音楽は好き?」

と聞いた。ほんとうは、歌を歌うことも苦手だった私だったが、思いがけない質問にびっくりして、思わず「ハイ」と答えてしまった。

「そう!」

福山先生の浅黒い小さな顔がパッと輝いた。

 

前の学校で優等生だったという宣伝の効めはテキメンで、私に寄ってくる子はみんな頭がよく、育ちのいい子ばかりだった。中でも米沢という子は席次が学年で一番、さっそく私を家に呼んでくれ、遊びにいくと、表戸を開けるのに一々柱に取りつけたベルを押し、女中が鍵を開けて中へ招きいれてくれるような家に住んでいた。内はまた古風な造りの広間がいくつもあり、私は奥の奥まで通された。そこが米沢の勉強部屋で、りっぱな本棚、洋服ダンス、勉強机、椅子は私のと較べようのない立派な肘つきの回転椅子で、お尻の回りに房がチャラチャラと付いていた。そこへ米沢の母親がわざわざ、自分でコーヒーとケーキを運んできてくれ、

「立花さんはおコーヒーは飲んだことおますわねえ。」

と聞いた。私は祖母が毒だと言って飲ませてくれなかったことは言わず、

「はい。」と首を縦に振り、そして余計なことに「森永コーヒー・・・」

と付けくえた。母親はちょっと笑いながら、

「そう、どんなおコーヒーやろか?」

と言い、しかし取りたてて問題にはせず話題を変えた。

「あんさんはお母さんがおいやらへんそやねえ?そらお寂しおすなあ。」

今度は私は首を横に振った。

「失礼どすけど、お父さんはなにをしておいやすの?ご商売は?それともお勤め?」

そこで米沢が、

「母さん、さっさとあっちへ行け!」

とどなってくれた。母親は笑って、

「どうぞごゆっくりしていって・・・」

と出ていった。私は米沢のまねをしながら、角砂糖とクリームを入れ、スプーンでかき混ぜ、生まれて初めてのコーヒーを味わったが、それは苦くて、思ったほど旨くもなんともなかった。

 

米沢は少し言葉を吃った。

その日も朗読を命ぜられ顔中真っ赤になり、目に涙を溜めていた。

「もっと落ち着いて、ゆっくりでいいですよ。」

福山先生も一生懸命だった。彼女がお手本にごくゆっくりと区ぎり区ぎり読んでみせ、その後を米沢になぞらせた。根気よく続けはするが進まなかった。先生はそのうち読本を教壇に伏せ、

「じやあ、米沢君。一度本を置いて春が来たを歌ってごらん。」

彼は決して嫌とは言わない子だった。先生の誘いに、

----はーるがきーた、はーるがきーた、----」

と歯を食いしばるようにして歌っていた。、歌そのものは飛び抜けてうまい彼だったが、場所が場所だけに、あちこちでクスクス笑う者がいた。

----やーまにきーた、さーとにきーた、----」

ほかの連中は授業が米沢一人に集中するので退屈し始め、その上彼にしつっこく努力を強いる先生に反発を覚え始めていた。

「もう止めといたら・・・」

教室の隅から低い声が洩れてきた。その囁きが聞こえたのか、先生がぐっと詰まった。

「もういいわ!米沢クン」

福山先生が彼に近より、肩を抱いて、「いいから、お座りなさい。ご免なさいネ。私が悪かったわ。」

ところが米沢は、ふたたび教科書を手に取り、朗読を始めたのだった。しかし二行も進まぬ間にまたつかえた。顔がテングの面のように真っ赤になり、口がわなわな震えていたが、もう誰も笑うものはいなかった。

「もういいのよ・・・」

少しいらだって先生は米沢をむりやりに椅子に掛けさせた。

「今日はもういいわ。」

宥めるように繰りかえすと、米沢もすなおに頷いた。

「立花クン!」

振りむきざま彼女は私を名指した。それは叱りつけているような口調だった。私はおずおずと立ちあがったが、うまく読んでは米沢に申しわけないような気がした。しかし意に反して、ひと所のまちがいもなく、また詰まることもなく、句読点も正しくすらすらと読みおえてしまった。私は立ちあがった時よりも、もっとおずおずと椅子に腰を下ろした。すると、福山先生は濡れた目で私を見つめ、あのいいようのない優しい笑みを私に投げかけた上で、どういう意味なのか、

「ありがとう・・・」

と低く囁いた。

 

 以下2002.1.1追加更新

 

 

信心深い祖母は毎朝神棚と仏壇をみずから拝むのはもちろん、月々、静念寺の住職が「ほとけさん」にお経を読みにやって来、「神さん」には服部という祈祷師のおばあさんがノリトをあげに来た。

わが家には三体の神々が祭られていた。祈祷師がノリトを始めて、しばらくすると、まず金比羅大明神が乗りうつって、背筋を反りかえらせ上むきかげんに、身体をわずかに震わせながら、

「どうじゃ。ぶじ息災に暮らしているか。なにか頼みごとがあれば申せ。」

と、彼女の日常の声とはとうてい思えない、勢いのある声でのたまわった。次には背筋を自然の状態に戻し、「末広さん」が乗り移ると、もの静かな物言いに変わり、やはり、

「変わったことはないか?」

と尋ね、最後の蛇神「みいさん」は腰を折りまげ、平身して苦しげに、

「何でも申してみよ。」

と聞きとりにくい絶えだえの声を出して、頭を打ち震わせた。願い事が終わり、祖母が祈祷師の背中をぽんと叩くと、身ぶるいしたのちほっと息を整え、普通のおばあさんに戻って世間話を始めるのだった。

ある時祖母が「末広さん」に父の日頃についてグチをこぼし、もはや家業を立て直す見こみのないことを憂えたところ、末広大明神のこんなお告げがあった。

「胸に手を当ててよう考えてみい・・・先祖を疎かにしてるぞ。室町あたりじゃ。覚えがないか。改めよ。わ、わかったかあ・・・」

 

翌日、近くに住む祖母の二番目の娘、ふく伯母がやって来て、父も交えて三人で相談が始まった。もちろん私は興味シンシンで、祖母の側にべったりついて聞き耳を立てていた。

「岩崎家のことやと思う。」と祖母が、合点がいったという顔で切りだした。「気にはしてたんやけどなあ。」

「お母はんからなんにも聞いてしまへんえ。」

広田の伯母の地声は大きい。

「なにをお言いやす。以前に話しましたやろ。あてが室町の岩崎へ養女にやられた時の約束どすがな。いずれ、だれかに名を継がせると・・・」

「とにかくワテとこは男の子は一人やさかい。」

母と娘で、ああだこうだと身勝手なことを言いあっていたが、父は腕組みして黙っていた。思案しているというより、あまり興味がない様子だった。

「話変わるけど、こないだ、勇一がおスミといつしょに歩いてるとこを見た。」

突然祖母が言い出したので私は驚いた。その現場を見たのは私で、祖母はなに一つ見なかったはずだったのに。

「二人は近いうち結婚さすちゅう話どすえ。」

と伯母が言った。

「あんた早耳やなあ。ほんなら孝蔵はん承知したんかいな。あんだけ軍人になることを反対して、親子の縁まで切るような素振りしてたのに。」

急に目を見開いた父が、二人をさえぎった。

「どっちゃ道、岩崎家を継ぐのは常夫しかほかにないちゅうこっちゃ。」

私にはみんなの相談の成りいきより、勇一とスミエの結婚話の方が気がかりだった。二人が結婚すれば、私との関係はどうなるんだろう・・・?お姉さん?いとこ?それとも今までどおりの赤の他人だろうか?あの、まばゆいスミエさんの横顔を思いだすとどうしてか、泣きだしたいような、あるいは、人目に立たないところで一人考えに耽りたいような気持にかられるのだった。

 

一週間程して、祖母の次男で今は東京に出ている常夫叔父が久々、父に呼ばれてやってきたが、一泊しただけで翌日には東京へ帰ってしまって、私はろくろく叔父と言葉を交すひまもなかった。学校から帰ってきたらもう叔父の姿はなく、広田の伯母だけがまだ居のこって、父と雑談を交していた。

「あとの手続きは姉さん、あんたが頼むで。」

と父が面倒を避けて、伯母にゲタを預けているところをみると、叔父が養子の話を承知して帰ったことだけはまちがいなかった。

「ワテもそんな手続きは初めてや。息子に聞いてみな分からへん。それにしても常夫は立花の名字にミレンなかったんかいな。」

と、急に弟に同情的なそぶりをみせた。

「立花いうたかて何にも継ぐほどのもんあらへん。岩崎も変わりあるかいな。」

と父が言っていた。

 

それから半月もしないうちに勇一とスミエさんは結婚し、五月半ばのある日に、父は親戚代表で披露宴に招かれた。

夕方、料理の残りものを詰めた折り箱と、引出物の鯛の塩焼きを下げて父は帰ってきたが、お酒が入って、いつになく舌の滑らかな彼の話を、私は熱心に聞きいった。車折神社で式を挙げ、そのあと花嫁は角隠しのまま嵐山まで電車に乗り、「保津川」とか言う料理屋でお披露目したのである。出席は、藤村の伯父伯母、進次、私の父、それからスミエさんの側は静岡に住む彼女の育ての親の叔父叔母、それと本人ら二人、総勢八人の小人数だった。

「あれではまるでお忍びの披露宴や。」と父が評した。「孝蔵はんも許したんなら、もうちょっとのことしてやったらええのに。けちくさい。」

「おスミさんはどんなやった?」

と祖母が言葉を挟んだ。

「あの子はなかなかのベッピンや。わしの嫁はんにちょっと似てたなあ。」

父がスミエさんのことを褒めたのが、私にはなにより嬉しかった。

 

それからまた一週間ほどして、さつき晴れの土曜日、学校から帰ると仏壇に大きな紅白の嫁入り饅頭が供えてあった。

「今さっき勇一夫婦が挨拶に寄ったんや。」

と祖母が説明した。

「あてはあのおスミはんはどうも苦手や。江戸弁で喋るさかい虫が好かん。」

「そして、どうしたん?」

私がせきこんで聞いた。

「広田に行く言うて帰ったわ。」

「どうして僕が帰るまで待っててもらわんかったん!」と叫びたかったけれど、小学二年生の私を待つ理由なぞあるはずがない。頭をぐるぐる巡らせたあげく、きっと勇一は元の道を引きかえし、御池通りからバスで帰るにちがいないと結論し、玄関先の道のはたに腰を下ろして待つことにした。風もなく昼前の陽射しは心地よくて眠気を催し、私はいつの間にやら膝を抱えてうとうと居眠ってしまっていた。

肩を揺すられてハッと目を覚ますと、背広を脱いで片腕に掛けた勇一が逆光で黒光りの顔の中に、目をギョロつかせて立っていた。

「謙ちゃん、こんなとこで寝てたらあかんで。かぜ引く。」

「あっ、勇一ちゃん!あのおー・・・」

スミエさんという名前が喉から出てこなかった。

「勇一ちゃん一人かあ?」

「スミエなら銀閣寺の友達とこ寄る言うて市電で行きよった。謙ちゃんによろしゅう言うてたで。この前、進次と来てくれたそうやなあ。」

彼女が私のことを覚えていてくれたと聞いただけで待ったかいがあった。

「謙ちゃん、また遊びにおいで。」

私の目の前に虹色の雲が広がった。そうだ。例え一人ででも嵐電に乗って勇一のとこへ遊びに行こう。スミエさんに逢いに!私は地面の溝の縁に座りこんだまま、大きくこっくりと頷いた。

 

 以下2002.2.1追加更新

 

どんな基準か分からなかったが、秋に催される「紀元二千六百年奉祝児童合唱コンクール」の京都予選、そのまた中京予選に出場する姉小路小学校選抜チームの一人に私が選ばれた。全校で二十人、二年生からは男女四人、ただし補欠が一人プラスされ、二年男子について言えば三人、その中に米沢と村山という子とともに私がはいっていた。米沢については誰もが認めるところだし文句はなかったが、問題は私と村山だった。

村山の家には一度だけ遊びに行ったことがある。看護婦の姉が働いて彼と祖母を養っているという話だった。路地の奥の慎ましやかな平屋建ての借家は、間数は四部屋ていどで、表の間の古びた二月堂が彼の勉強机だった。他の調度品も全て質素で、新しいものはなに一つなかったのに、わが家に較べてすごく明るい感じがするのは、姉の好みに違いない窓に掛かる清潔なカーテンの、薄いピンク色のせいだった。が、どの部屋もその色によくなじんでいた。

耳の遠い村山のおばあさんは、私が挨拶してもなに一つ聞こえなのに、色々話しかけてくるので、村山が私の答えを通訳しなければならなかった。しかし彼女は私の答えなぞ当てにせずに、一人でよく喋った。なにぶん狭い間取りに三人が住んでいると、お互いひっそりと暮らすわけにはいかないようだった。奥の間の小さな仏壇の横の、古ぼけた額に収められた水兵の写真が彼女の夫、つまり村山の祖父にあたる人で、日露戦争で戦死したのだと言った。また、その横の壁に掛かる、商船の甲板に立つ白い制服の写真は彼の父親で、徴用船で台湾へ輸送中に機雷に触れ死亡したとの話だった。母親は父の死の一年後に、夫の後を追っかけるように病死したそうで、姉娘がちょうど看護婦の養成所に通っていて、懸命に介護したが及ばなかったということだ。

彼は成績もよく、だれからも好かれていたのだが、といって今回のメンバーに選ばれて当りまえと言えるほど歌がうまいとは思えなかった。しいて言えば、彼の姉がどこかの合唱隊に所属いているらしいとは聞いたことがある。

まして、私に至っては歌うことはむしろ苦手だった。

 

「ひいき」という言葉をそのころ知った。クラスの連中が私を非難しているように思えだすと、今まで帰り道いつもいっしょだった友達が先に帰ったりするだけで、たまらなく不安に駆られた。

組の担任である福山先生の専門が音楽で、ピアノがうまく、放課後音楽室からよく彼女の弾く西洋音楽が聞こえてきた。今回の音楽祭も彼女が深く関わっていて、人を選ぶのもすべて彼女が一手で引きうけたという噂だった。組の中で私と村山は確かに先生に好かれていた。

放課後、選抜組の合同練習が始まり、補欠も入れてぜんぶで三十人ばかりが音楽室に集まった。曲は小学唱歌「もみじ」と決まって、三つのグループに分けられ、米沢は中音部に私は低音部に編入させられたが、予想に反して村山が高音部に指名された。村山が高い声で歌を歌っているところなぞ聞いたことも見たこともなかったので、さぞかし困っているだろうと彼に、

「ええんか?」

おずおずと言葉をかけた。すると彼は、

「まあしょがない。どないかなるやろ。」

持ち前の明るさでニコッとしてみせた。

それぞれのパートごとの練習がまず中音部から始まった。

二年から六年までの混成だったが、米沢は最年少に関わらず、その声の質のすばらしさが際だっていて、群れの中でも彼の声が聞きわけられた。

低音部は、私のような音楽の苦手な者には、ことさらに味気ないパートだった。メロディーの乏しい同じ高さの音が連なると、精がなくなり、望みもしていないのに合唱メンバーに入れられて、影口を叩かれてはかなわないと、福山先生が恨めしかった。

一番最後に高音部の練習が始まった。私は村山を最前列に見つけ、驚いたことに彼が小鳥のように大きく口を開け、みんなとよく合わせて、精いっぱい歌っているのを見た。まさにパートの責任を果たして、りつぱに歌いこなしていたのである。先生は彼を充分よく知っていたのだ。

すると、「ひいき」の非難は私にだけ当てはまることになり、ますます暗い気持に落ちて行って、つまり私は、盆暮れの付け届けのせいでメンバーに入れてくれた、出番のない補欠要員に過ぎないのだとやっと分かった。現に祖母はコンクールのことを私が告げると、まるで私一人が全国大会に出場するかのように、広田にまで吹聴して回った。

七月に入っていよいよ中京区の予選が始まった。明日我が校が出場と決まり、その日の放課後最終メンバーが発表された。そして思いもよらぬことに、米沢と私がそれぞれのパートで歌うこととなり、村山は補欠に回った。私は自分の名前が呼ばれても耳を疑ぐり、二度呼ばれてやっと返事をした。

さすがに村山はショックを受けたようで、しばらく放心したように黙っていたが、やがて気を取りなおし、米沢に向かって「おめでとう、がんばれよ」と言った。そして私に対しては肩をぽんぽんと叩いて笑ってみせたが、きっとそれ以上言葉が出なかったのだと思う。私こそ彼になんと言葉を掛けていいのか分からなかった。その時、福山先生が我々の方に急ぎ足で寄ってきた。

「村山クン、気を落とさないで。高音部はワクが狭いのよ。ご免なさいね。」

村山はうなだれて聞いていたが、ぱっと顔を上げ、

「ほな、僕帰ります!」

そのまま回れ右をして音楽室から駆けだして行ってしまった。

「先生、僕は・・・」

その後を私はこう続けようとした。「とても自信がありません。僕の代わりに村山を!」しかし私はただもじもじと突ったっているだけだった。先生と目を合わせるのさえはばかられ、後ろ暗い気持ちがいっぱいで、その場から逃れたいのに、縛られたように動けなかった。むろん先生は私をずっと注視していたわけではなく、いろいろ片づけものをしておられた。が、ふいに振りむいて、

「立花君、ちょっと後まで残って。」

福山先生はそう言いのこすと、またほかの先生がたと話をしに行ってしまった。

ぞろぞろと皆が流れ解散して、やがて音楽室の中は私と福山先生だけになったが、先生は私を無視してしばらく窓の外を眺めていた。やがて私の方に歩みよると、彼女の目頭に光るものがあるように見えた。

「立花君。」と、少しかがんで私に顔を寄せると、「私にはあなたが考えていることが分かるのよ。村山君と代わりたいんでしょう、違う?」

きょとんとしている私に、「やはりそうなのね。」と決めつけてから、

「でもパートが違うからそれはダメなの。」

そして私を招きよせ、長椅子に並んで座らせた。

「あなたは優しい子ね。立花君はお母さんがいないんだって。でも、あなたは自分の歌を歌えばいいのよ、誰にも遠慮いらないわ。それなりにいい声なんだから。」

先生は自分の言葉に酔ったように、片手で私の体をそっと抱いた。すると彼女の感情がますます勢いづいたのだろうか、さらに強く両手で私を抱きしめ、涙顔を私の頬に摺りよせてきた。胸の柔らかさが私の体にしみ通り、女のいい匂いが耳の端で渦巻いた。

 

以下2002.3.1追加更新

 

合唱コンクールで我が姉小路校は、出っぱなの予選で落ち、村山とのちょっと気まずい関係も、やがて風化していった。

一学期の終業式の日、少し早めに学校へ行くと、校門の横の奉安殿から、教頭が白手袋でご真影を捧げて講堂へ運びこむところだった。続いて福山先生が、黒塗りの長細い箱をひろぶたに載せてうやうやしく後に続いた。先生は紅色の着物に紺のはかまを着用し、その白い襟元から覗く小さく丸い顔が少し緊張気味だった。ぽかんと先生の顔を眺めている私に気づき、ニコッと笑顔を投げかけてくれたので、私も急いで、「お早ようございます。」と頭を下げた。その時、後ろから誰かにポンと肩を叩れ、振り返ると同じ組の鎌田という子だった。

「立花、お前やつぱし福山先生のヒイキやなあ。」

と耳元で囁いた。

「・・・!」

否定の言葉より先に赤面症の私はもう耳タブが真っ赤に染まっていた。

終業式は厳かに進行し、君が代とともに講堂正面のレースカーテンが引きあげられると、菊の御紋章付きの天皇陛下と皇后陛下の御真影が現われ、次に校長先生が黒塗りの箱の紫の紐をゆっくり解きはなち、蓋を開けて中から「教育勅語」の巻物を出してきて、ろうろうと読みあげた。

「チンオモーニ、ワガコーソコーソ・・・」

儀式のあと、教室で通知簿が手わたされたが、中を覗いて見ると、体操のほかはすべて甲が連なり、転校してきて初めてのこの成績に、私は自信を深めるより、祖母の付け届けとの関連を思い起こした。それから表紙に朝顔の絵を描いた夏休みの宿題集「あさのま」を貰って、わいわいがやがやとみんな帰り支度を始めたその時、また鎌田が私に近よってきた。

「立花。いっしょに帰ろか。」

私は彼とは、あまり喋ったことすらもなかったので返答を渋った。

「おんなじ方向やがな、帰ろや」

と彼はうむを言わせず肩を組んできたので、しかたなく私も頷いて歩きだした。

 「おまえ成績どやった?」

「・・・まあまあやった。」

「おれもまあまあやった。丙は一つもなかったで。」

と笑った。自分のことを「おれ」と呼ぶ彼に私は気後れを感じていた。

校門を出ると彼はこう提案した。

「ちょっと、八幡さん寄っていこや。」

寄り道というほどでもなかったので、私も同意しない訳にはいかなかった。

暑い日盛りで、鳩に豆をやりに来る親子連れもなく、ひっそり静まりかえった八幡の本殿の奥は、鎮守の森とまではいかないが、雑木が繁り油ゼミがしきりに鳴き声を競っていた。鎌田は私が従ってくることを信じているように、どんどんと本殿の裏にはいって行く。さすがに重なった木の葉の下はしっとりと涼しく、中でもひときわ太くて背の高いムクの木にはシメ縄が巻かれ、なおなおひんやりとみえた。木の幹にもたれて人が立っていたので、ぎくっと私が立ちすくむと、鎌田が、

「この人、マッちゃんいうねん。」

すかさず紹介した。彼のことは私も知ってはいた。たしか五年生で、増村と言い、まだ私が転校してくる前のこと、学校の裏の便所で女生徒にセップンしていたところを補導されたとかの噂話を、先日聞いたばかりだった。

「おまえが立花か。」

と増村が落ちつきはらって口を切った。

「おまえ、わしのこと知ってるか?マッちゃんいうたら、姉小路ではちょっと名ぁが知れてるでえ。ところでおまえ、福山のホシか。」

「・・・?」

「ホシいうたらおまえ、知らんのか。漢字の星まだ習ろてへんけ?。日ぃ書いて、下に生きるて書くやろ。ヒイキや、ヒイキのこっちゃ。」

「ぼくはヒイキなんかやあらへん!」

「ほんなら、ちょっと通知簿見せてみい。」

私はヘビに見いられたネズミのようにおずおずと、提げていた布の袋から「あさのま」と習字箱の間を掻きわけて、通知簿を取りだし、彼に手わたした。それを開けてみながら増村が、

「ちょっと、おまえ、甲ばっかりやないか!」

あきれ顔で叫んだ。横から鎌田も覗きこんで、

「うあっ!すごい」

と唸った。

「ここ見てみい、先生の字ぃで、コーラスごくろうさま、て書いたあるがな。これがヒイキの証拠でなかったらなんや。」

落ちつきはらって通知簿を私に返しながら、

「おい立花!一パツなぐったろか。・・・まあ、福山先生にホレてる手まえ許しといたるわ。そのかわり、今日からケンタンクラブに入会せえ。わしが団長や。」

と増村が訳の分からないことを言った。その間、私はただぶるぶると震えていた。

「あしたの朝四時に八幡さんの鳥居の前集合。分かったなあ。」

 

祖母に「友達とラジオ体操に行く」と嘘をついて、なんとか家を出たが、あたりは薄暗く、あちこちの街灯がまだまだ灯っていて、ようやく東山の輪郭が、夜の闇からほのかに浮かびあがろうとしている矢先だった。八幡さんの鳥居に走りよると、増村と鎌田ともう一人がすでに来て待っていた。それはたしか山本とかいう三年生で、彼の描いた絵が市のコンクールで入賞して、先日校長から表彰を受けていたので、名前を覚えていたのだが、気の弱そうな色の白い子だった。

「おまえ遅刻やぞ!罰にこれ持て。」

懐中電灯と虫を入れるらしい穴のいっぱい開いた空箱を私が持たされ、

「さあ、ノロチン行くぞ!」

と山本の肩を増村がどやし、一行は御所へ向かった。堺町御門を潜って右手の茂みに入ると、足元は懐中電灯なしではとても歩けないほど暗く、また歩くにつれて朝露で、ひざのあたりまでじっとりと濡れた。中ほどまで進み、増村が私から懐中電灯を取りあげると、立ち木の根っこの回りをしきりに照らしはじめた。

「いたいた!」

と彼が叫んで、摘まみあげてみせたのは、きみょうな形をした黒っぽい団子ぐらいの大きさの虫だった。数本の足が空中を空しく引っかいて、増村の手から逃れようともがいていた。

「ジゼミや。」

と鎌田が私に説明してくれ、私が箱の蓋を開けると、慣れた手つきで増村は、ジゼミをぽんと放りこみ、次々と皆も放りこんだ。そんなふうに三人が見つけては放りこみ、私は箱の蓋を開けたり閉めたりするだけで、けっこう忙しかった。

「さあ、帰ろか」

と団長が言いだしたころには、朝日が木立の間を縫って、足元の芝生に差しこんできていたが、その時、目の前の樫の幹に、奇蹟が起こりつつあった。木の皮ににしがみついていた醜い頭のジゼミの背中の筋が、ふいにぽっかりと割れて、中からまったく別な虫が身ぶるいをしながら現われ、やがて羽根がゴムのように伸びると、しわがなくなって、薄緑色のセミに形を変えた。感激して私が皆を振りかえると、増村と鎌田が大きな声で笑っていた。ただ山本だけは、私の脇で瞬きもせずに、まだセミの生まれかわわるさまを眺めていた。そのうち緑色の背に朝日が当たり、しだいに油色に染まった生き物が、あらためて命を吹きこまれたように、ぱっと飛びたって行ってしまうと、彼は初めてにこっとして私を見、それから皆をも振りかえった。

増村は山本則夫を「ノロチン」と呼んでいたが、私の体の中にも彼と似た血が通っているような親しみをその時は感じた。

 

以下2002.4.1追加更新

 

 

その日、家に帰り着いたとたん、父にひどく叱られた。朝の四時にラジオ体操があるはずない、そんな友達とは二度と遊ぶなとどなられ、弁解のため私が、ポケットからセミの幼虫を二匹出してみせると、父は無造作にそれを庭へ投げすてた。日当りの悪い狭い庭の苔に、地ゼミの一匹はそれでもうまく着地して這いだしたが、もう一匹は敷き石の上で仰むけになってあがいていた。

しかし、遊びの魅力をいったん覚えるともう忘れられない・・・

ケンタンクラブ即ち探検クラブであるが、勾玉池で魚釣りをしようと団長が言いだし、ふたたび御所へ皆で出かけた。マッちゃんは、おとな用の自転車をデッチ乗りしてゆっくり走り、我々はその後を足軽みたいに付いて走った。私と山本ノロチンはふうふう息を切らせ、時々一休みしたりしたが、鎌田は走ることには自信があって、増村が意地悪にスピードを上げても、セパードのようにぴたっと自転車の横を並んで走った。鎌田昭次のことを団長は、ツレションとか呼んでいたが、その意味が理解できた。そして私にはまだあだ名は付いてなくて、タチバナとただ一人本名で呼ばれた。

御所の中は、白の制服制帽で皇宮警察が馬にまたがり巡回していた。駆けだすこともあり、玉砂利を行く馬のヒズメの軽ろやかな音と、腰に付けたサーベルがじゃらじゃらと鳴るのとがいっしょになり、まるで雀を追う鳴子のような効き目があった。

勾玉池の真ん中の小さな島、「厳島(いつくしま)」へ小さな石橋が懸かっていた。近くの交番にも、皇宮警察の巡査がやはり白い制服制帽サーベル姿でいつも詰めている。島には弁天さんを祭った小さく古めかしい厳島神社が鎮座して、蛇の絵馬といっしょに、神前の台の上に水の入った小型の手桶が十ばかり、器用に積み上げて飾ってあった。

わがケンタン団はマッちゃんを先頭に巡査の目を盗むようにして島に渡り、木かげに身を潜めて陣どった。池にはカメやコイがなん匹も泳いでいた。

「ここのコイはよう慣れとおる。手を叩いたら寄ってくるぞ。やってみい。」

とマッちゃんが言うので、我々はそれぞれに手を叩いた。すると彼の言うとおり、真ゴイも緋ゴイも群れをなして近よってきた。

「こいつらなんでも食べよる。わしの唾でも食べよるぞ。」

そう言ってマッちゃんは寄ってきたコイの群れに目がけてチュッと唾を吐いた。唾の泡が水面に広がる瞬間に、コイの大きい口がそれを餌と勘ちがいして飲みこんだ。私が思わず顔をしかめると、マッちゃんが私にどなった。

「わしの唾のどこが汚い。誰の唾かてキレイなもんや。おまえもやれ!」

しかたなく、言われるままに唾を吐こうとしたがこれが案外難しく、自分の顎の先に掛かったりするのだ。団長は半ズボンのポケットから竹の糸巻きを取りだし、釣針の付いた釣糸を繰りだして我々に与え、別のポケットから新聞紙にくるんだご飯粒を広げて、一粒を自分の釣針の先に付けてみせ、みんなにもやらせた。

「おまえらコイとカメは釣ったらあかんぞ。針食いちぎられるだけや。」

彼は手近の小石を池の端にどぼんと投げいれた。すると集まっていたコイがさっと散っていき、しばらくすると手前に小魚が集まってきた。マッちゃんは糸の端を人差し指に巻きつけてから、針の方を水面に投げた。我々もまねをした。

「巡こ(巡査)が来たら糸捨てて、知らん顔せなあかんぞ。捕まったらこれや。」

と団長が自分の両手首を合わせみせた。木かげでも夏の日盛りは暑い。ランニングシャツに汗が染みた。

「よし!」

マッちゃんが息を殺した声といっしょに水面を見つめた。彼の糸だけがピンと張って、先が右に左に動いている。

「たちばな!おけ取ってこい、早う!」

もたつく私に、

「あれや、あれや」

昭次が神前に供えられた手桶を指さした。一瞬たじろいだが、私は走っていって、水のはいった手桶を取って戻ってきた。すでにマッちゃんの手元にハイジャコが握られていて、私の持っている手桶にスルッと滑りこませた。狭い桶の中を、魚は鼻先をあっちこっちとぶっつけて泳いだ。

けっきょく、マッちゃんの三匹と昭次の一匹がその日の収穫だった。

「立花、そうろと持ってかえれよ。」

と、いつのまにか私は運搬役だったが、則夫はむしろそれが羨ましいようで、私の横を桶の中を覗きこみながら歩いていた。

石橋の出口で団長が突然振りかえった。

「逃げろ!立花、桶捨ててしまえ!」

自分は橋のたもとに転がっている自転車をす早く起こし、全速力で逃げだし、鎌田もそのあとを追っかけたので、私と則夫はその場にとり残された。交番の前にサーベルを着けた巡査がつっ立って、我々に手まねきしているのが見え、私の頭はまっ白な状態だった。その時、則夫が私の手から魚のはいった桶を奪い、すたすたと巡査の方へ歩きだした。私も覚悟を決めて後に続いた。

「おまえら、なにしてた。言うてみい。」

カエルを前にしたヘビのような目で、巡査が私たちを見すえた。すると、

「巡さん、」ノロチンが訴えるような声で言った。「この魚死にそうになってたんや。助けたってください。」

巡査は思わずノロチンの差しだす手桶の中を覗きこんだ。たしかに狭い桶の中でジャコたちは、どれもこれも横たわるようにしてアプアプ荒い息をしていた。

「早う池へ戻してやれ。それが一番や。」

「はい。」とノロチンはよたよた池の方へ駈けていった。後を追う私の背中に巡査が我に帰ってどなった。

「二度としたらショウチせんど!」

 

以下2002.5.1追加更新

 

 

早やばやと秋がやって来た。

私たちは校庭でひなたぼっこをしていた、と言うか、米沢が低い鉄棒で器用に回転運動をするのを村山と私が見物していた。前方へのでんぐり返り、片足を懸けての蹴あがりなど、それを立てつづけにぐるぐると回るなど米沢は苦もなくやって見せた。そこへ同じ組の女の子の一隊が来て、米沢の隣の鉄棒で遊びだした。二人づつが鉄棒に小鳥のように止まって、ジヤンケンをし勝った方が残って、負ければ次と交代する遊びだった。単純なゲームに女の子たちはキャッキャと騒いで賑やかだった。米沢につられて村山も鉄棒をやり出したが、私は彼らを見ている風を装いながら、ちらちら女軍団を覗きみしていた。その中に、色白で甘い顔立ちの子がいた。小島という苗字、きみ子という名前、荒物問屋の一人娘だということも私は知っていた。笑うと愛くるしく金歯がチカチカし、銀の鈴のような声と上品な身のこなし、かわいい指の持ち主であることも・・・

私が彼女のことを気に懸けだしたのは、例の合唱コンクールの際、女子のメンバーだった時からである。彼女は運動はそれほど得意とはいえず、体操の時間、マットの上でするでんぐり返りは私よりさらに下手くそだったが、それがまた私には親しみを憶えた。

それに引きかえ、川瀬という女の子はなにごとにもてきぱきとし活発で、単純な遊びに飽いて、一人で「逆上がり」の練習をやり始めたが、お尻がなかなか持ち上がらず四苦八苦していた。

「村山さあん!」とふいに川瀬が男組に声を掛けた。「逆あがり教えてよ!」

びっくりした村山が、

「おれはヘタくそや。米沢に教えてもらえ。」

「ボ、ボクは、ひ、人によう教えん。ム、ムラヤマ教えたれ!」

米沢はすっかりどぎまぎして、やっさもっさのはて、結局村山が川瀬のお尻を持ちあげる役目を引きうけた。川瀬が逆あがりをすると、めくれ上がったスカートが、村山自身の頭半分に被ることになる。みんながドッと笑った。丸いお尻を包んだ白いズロースが村山の目の前へ来たので、彼は顔を真っ赤にしながら、それでも忠実に、胴体ごと川瀬のお尻を引っぱりあげてやった。

「おおきに!」

と川瀬は鉄棒の上に座って、村山に礼を言ってから、いかにも気持よげに秋空を見わたした。女の子の一団が笑いながら拍手していた。小島も、あの愛くるしい金歯を光らせて笑っていた。私はふと、小島きみ子が私に、「立花さん!私にも逆あがり教えて!」と頼み、私が彼女のお尻を持ち上げてやるハメにならないかと、そんな夢想をした。

 

その彼女と行動をともにする機会が、思いがけなくやってきた。

時は遠足の季節である。我々二年生は山科に芋堀りに出かけることになった。

「各自さつま芋を入れる布袋とスコップ、それから後で手を洗いますから手拭を一枚必ず持ってくること。服装は少々汚れてもいいのを着ていらっしゃい。」

福山先生が皆に注意事項を並べた。

「先生!おベントウは?」

鎌田の質問に先生はにやにやしながら、

「お芋だけでいい人はお弁当持ってこなくてもよろしいのよ。」

また皆がどっと湧いた。

私はさつま芋が大好物だった。そして祖母もまた好んだ。屋台の食べ物を汚いと言う祖母も、焼き芋だけは別もので、あのピーィーと鳴る焼き芋屋の笛の音が聞こえると、掃除の手を休めて、窓から外を伺った。蒸し芋であれ芋がゆであれ、芋でさえあれば私も祖母も顔がほころんだ。

そんなことで、先生が、お芋だけでいい人はお弁当を持ってこなくてよろしいと言った冗談を、私は真に受けてしまった。

「掘った後でお芋を蒸かしてくれるんやろか?」

祖母が多少の疑いを挟んだが、皆と食べるホカホカの芋のことばかりが私の頭に浮かんだ。

当日リュックには、明治キャラメルとバナナを一本、缶入りのドロップ、おまけにまだ青い初成りのおみかんを三つも祖母が詰めてくれ、それに縫いたての布袋とスコップ、手拭が入ると、誰が見てもお弁当がはいってないとは気がつかなかった。

絶好の遠足びよりだし、少し朝冷えはしたが、校庭に集まった誰も彼も浮き立っていて、寒いなどとはみじんも感じなかった。

「皆さん!」と福山先生が号令した。「順番はどうでもいいから、男は右側に縦に並んで!女は左側に同じく縦に一列に並んで下さい。もう来年三年になったら男女別々になるんだから、今日は仲良く男と女が手をつないで参りましょう。さあ、そのまま二列縦隊になって、横の人と手をつなぎなさい!」

ということで、偶然私は小島きみ子と手をつなぐハメになった。みんな口々に文句を並べたが、先生は組みかえを許さなかった。私にはなんの文句も不足もなく、桃色のセーターの袖口から現われた五本の可愛い指を、私は恐るおそる握りしめた。

「さあ、出発しますよ!」

電車の中でも私は彼女の手を離さなかったが、彼女も別段嫌がりもしなかった。山科駅を降りて、しばらく歩くと一面の野菜畑で、あの、なんとも懐かしい下肥の匂いが鼻を突いた。

「これ、ウズマサの匂い・・・」

「へえ!立花さん、田舎から来たん?」

小島きみ子が鈴が鳴るような驚きの声を上げた。

「おまえ、こんなクサイとこに住んでたんか!」

前を歩いていた鎌田も振りかえった。

やがて芋畑、ここは水栽培だから肥の匂いはもうしない。皆の興味はこれから始まる芋掘りに移った。芋掘りは楽しかった。そして運命のお弁当の時が来たが、それが幸福の頂きから悲劇のどん底に落ちる瞬間だった。先生の冗談がやっと今ごろ理解できた。三々五々お尻を下ろして、膝の上に各自のお弁当を広げ、互いにおかずの交換などをしている仲間の側で、私はバナナの皮をむいて頬ばった。

「立花さん、どうしたん?お弁当は?」

ときみ子が優しく尋ねてくれた。バナナを口一杯にしたまま、ぼろぼろと頬を伝う涙を拭うこともできなかった。すぐ伝令が先生の元に走り、福山先生が駈けよってきた。

「あなた、この前の私の冗談、本気にしたの?」

自分のバカさかげんを、皆の前で認めないわけにはいかず、こっくりと頷くと、案の定あたりから、くすくすと笑い声が上がった。

「これお食べなさい、まだお箸付けてないから。」

先生が自分のお弁当箱を私の手に持たせた。それは小判型のかわいらしい弁当箱で、蓋を開けると、小さく巻いたのり巻が五つ六つと、玉子焼きが体裁良く詰めてあった。私は口の中のバナナを飲みこみ、片手で涙を拭ってから、先生の赤い女の箸で玉子焼きを摘まんで食べた。

 

以下2002.6.1追加更新

 

 

遠足の翌日、教室の窓の下を、祖母が風呂敷包みを胸に抱えて通るのを授業中に見かけ、昨日のお詫びとお礼に来たのだと、私にはすぐ分かった。私は自信を失っていた。友達も鎌田とばかり遊ぶようになり、帰りも鎌田と連れだって帰った。

鎌田の家は表向き八百屋だったが、玉子、瓶詰缶詰、漬物、糸ごんにゃく、一斗だるに水を張ってとうふも商っていた。軒が低く間口も狭い貧弱な店で、遊びに行くと、はしごを登り、天井が頭につかえそうな二階のひと間に通された。隣は商売物のストックやら空箱が雑多に放りこんである物置だった。片すみの勉強机と、ご自慢のコリントゲームは、手先の器用な父親の手作りで、我々はほとんど毎日、この大きなコリントゲームでいつまでも遊び、夕方、母親が台所で忙しくなる時分に下から呼ばれて、昭次は店の手伝いをした。帰りぎわ、かっぷくのいい母親が「また来てやってね」と愛想を振りまき、働き者の小柄な父親も「またおいで!」と私の頭を撫でてくれた。そして、彼の五つ違いの兄は、小学校を卒業したのち、大阪へ住みこみで働きに出ていて、私はまだ逢ったことはなかった。

二学期も終わりのころ、鎌田といっしょに校門を出ようとすると、そこに藤村勇一が軍服姿で立っていた。

「勇一兄ちゃん、どうしたん?」

びっくりして、声を掛けると、勇一が寄ってきて私の肩に手を懸けた。

「謙ちゃん、いっしょに帰ろか。」

勇一の軍服のそで越しに鎌田を振りかえると、昭次は私以上に驚いているらしく、ぽかんと口を開けて勇一を見あげていた。すぐ、哀れみを乞うような、また羨しそうなまなざしで私を見、

「ボ、ボク帰るわ」

と言って駆けだした。彼の後ろ姿が遠ざかるにつれ、ここ二ヵ月ばかりの曇っていた気持がスウッと晴れる気がした。

「ええんか?友達」

「友達というほどのことはないんや。」

勇一といっしょに歩を運びながら、私はちょっと大人ぶった言い方をした。ゆっくりした彼の歩調のはしに、軍刀の先がちらちら見えた。

「伯父ちゃんに軍刀買うてもろたんか?」

「なにがなにが・・・」

うすら笑いながら勇一が言った。

「わしのオヤジは、昔商売しとってな。二つの蔵に羽二重生地がいっぱい詰まってた時分もあって、その頃洋行したもんやさかい西洋にかぶれて、息子のわしをバカにしよる。軍人が嫌いなんや。ええ年して時局をわきまえとらん。」

勇一は一人で喋った。

「その点、謙ちゃんのお父さんは世の中のこと、よう知ってはる。わしは尊敬しとるんやで。」

父のことを他人が褒めるのを聞くのは初めてだった。

「勇一っちゃんのお嫁さんは、どうしてるの?」

「いや、さっき家に行って、叔父さんには逢うてきたんや。謙ちゃんがもうすぐ帰るころやてお祖母ちゃんに聞いたさかい、早よ逢いとうて、学校まで来てしもた。スミエはあんたとこで待たしてある。」

スミエさんが来ていると聞いて、私の胸がカッと熱くなった。もう勇一がなにを喋っているのか皆目聞こえず、彼の太い腕が私のか細い肩を抱いていなかったら、私は一目散に駆けだしたい気持だった。

「タダイマ!」と玄関の戸を開けると、若い女物の下駄がきちんと揃えて脱いであった。

スミエさんは慎ましやかに下座にすらっと座っていて、私が入ってくると、太陽のような眩しい笑顔をこちらに向けた。

「謙吉さん、この前は失礼しました。お構いもできないで・・・」

と大人に対するように言い、祖母の方を向いて、

「お利口なんですってねえ。主人から聞いてます。」

と愛想も言った。

弁の立つ勇一の口調に、父も一生懸命「時局」を論じていたが、二人の話を聞いていると、もう今にも戦争が始まりそうな雰囲気だった。

「軍需株は買い時やなあ。生糸人絹も値が上がってきた。物がだんだん無うなってきとる。」アズマシンがどうの、マンテツがどうのと、ふだん無口な父も声を上ずらせていた。

「まずシナの安定が東亜のためにフカケツや、なあ叔父さん。そう思わはらへんか?」

勇一も説得力のある声で強調していた。後ろの方に座って私は、スミエさんの襟足を眺め、パーマを掛けた格好のいい頭、髪の毛の巻きぐあい、ほつれ毛で半分隠れたピンク色の耳たぶなどを目に焼きつけようとしていた。二人の会話に祖母がようやく割り込んで、こんなことを言っているのが耳にはいった。

「勇一も体は丈夫な方やけど、満州は寒いとこやろ。くれぐれも気い付けや。」

「ハイ。お祖母ちゃんもお元気で、長生きしてなあ。」

「勇一っちゃん!」

驚いて私が叫んだ。「マンシュウてどこなん?」

「支那大陸の北の方や。謙ちゃん、今日はお別れの挨拶に寄せてもろた。いずれまた日本に帰ってくるけど、謙ちゃんもしっかり勉強しいや。」

書き初めで書いたことのある「ニツポン」という言葉を、私は初めて肉声で聞いたような気がした。

「スミエさんもいっしょなん?」

「そうやがな。」

と祖母が傍から答えを引きとり、

「あてには軍隊のことは分からんけど、スミエさん、男はみんな勝手もんや。苦労するかもしれんけど、辛抱してなあ。」

としんみり言った。

「いいえ。」と彼女が思いがけなくキリリと答えた。

「私の死んだ父も、育ててくれた静岡の伯父も軍人でしたから、覚悟の程はできております。どこまでも勇一さんに付いてまいります。」

それからわざわざ私の方に向きなおって、

「謙吉さん、お国のお役に立つりっぱな人になってね。いずれまた逢いたいわ。」

と言った。

勇一たちはこのあとスミエさんの故郷の静岡へ行き、挨拶を済ませたのち、京都へは戻らずにその足で満州に渡ったということである。

 

以下2002.7.1追加更新

 

毎年正月には松沢という、祖父が太物木綿問屋をしていたころの番頭が挨拶に来た。祖父が死んだあとまで、いつまでも律儀に年賀に来るのがおかしかったが、彼は父のことを今だに「若だんさん」、祖母のことを「ごりょんさん」、そして私のことを「ぼん」と呼んだ。彼は、貰ったわずかな別家料と積立金で郊外に小さな家を買って電気屋を始め、それが今では市内下京にりっぱな店を構えているのだった。

「ぼん。早よ大きなって、もっぺん大だんさんの店を立てなおしとくれやす。松沢のおっちゃんの夢どっさかい。」

いつも同じせりふを添えながら、水引の掛かった祝儀袋でお年玉をくれた。私に対するお世辞というより、父への皮肉に聞こえて、父はそのたびに困った顔で照れ笑いをしていた。

父や親戚に貰うお年玉は祖母が半分は郵便貯金に預けてしまったが、残りはがま口に入れて、落とさないように紐で私の肩からたすきにぶら下げてくれたので、三が日が過ぎると新しい白い鼻緒の桐下駄を履いて鎌田と新京極に繰りだした。彼の足元を見ると古い台に歯だけをすげ替えたのを履いていたが、お年玉はきっちり貰っているらしく、父親の作ってくれたのが気に入らない昭次は、新京極のおもちゃ屋で小型のコリントゲームを買い、河原町の本屋では脇目もふらず「のらくろ伍長」を買っていた。やっと安心して漫画の立ちよみを始めたので、仕方なく一緒に、ぺらぺらとあちこちの棚の本を見て回っているうち、私の目が突然輝いた。八っつに折り畳んだ「世界地図」を見つけたのだ。

「おまえ、そんなもん買うてなにすんねん。」

鎌田があきれるのを尻目に、桐下駄の歯が欠けそうな勢いで家に帰り、昭次と二人っきりで二階で広げてみた。日本と朝鮮と台湾とは赤く塗られ、満州がピンク色に塗られていたが、それはスミエさんの柔らかいあの耳たぶと同じ色だった。日本からほんの一またぎのところに満州はあり、ちっぽけな日本と較べると、胸のふくらむ広さだった。またそれに続く支那大陸は目の眩むような広大な大地だった。

パン屋の離れに住んでいる増村の母親は、昼間は母屋のパン工場の方に働きに出ていた。表の店にはパンを並べるガラスケースが置かれ、その奥がパン工場、住居と続き、増村のうちに遊びに行くといつもマッちゃんの母親がパン焼き窯の影から近寄ってきて、できたてのゴマをふったあんパンをくれた。とは言っても「マスムラのパン」と看板の出た母屋と離れはただの遠縁の間柄だった。

正月の二日からもうパン屋は店開きしていて、正月五日、彼の家に鎌田と二人で遊びに行くと、今日も我々が遊んでいるところへ、今度一年生に進学する母屋のチエ子が遊びにやって来た。増村は彼女のことを、

「こいつ、わしのメカケや」

と言っていたが、チエ子の方は彼のことを兄ちゃんと呼んで、なにかにつけて彼にまとわり付いた。マッちゃんは、

「ええかげんにせえ!」

と偉そうにどなり、きげんがいい時には、

「おい、チエ、わしのほっぺにそれ!」

と抱きあげてセップンさせた。

チエ子は頭のいい子で、ダイヤモンドゲームとかコピットゲームとか坊主めくりとか双六とか・・・どんなルールもすぐに覚えて、我々と同じようにゲームに参加した。

遊び疲れてみんなしばらく畳にごろ寝して、あんパンに噛りついていたが、ちょうど本棚の上に置かれた、直径二十センチぐらいの地球儀が私の目に止まった。本棚に近寄って地球儀をしげしげ眺め、手でくるくる回して見たりしていると、

「立花、おまえ、地球儀がえろう気にいってるのやなあ。」

後ろからマッちゃんが声をかけた。

「ええこと考えたぞ!これからセリイチやろか!」

なんのことか私にもまだよく分からないのに、それまで寝っころがっていたチエ子が、ぴょんと飛びおきた。

「ウチもよせて!よせて!」

「チエは自分の大事なもん持ってこれるか?」

「ウチの大事なもんはオルゴール!」

「よし、取ってこい。おまえらも自分の宝もん家から持ってこい。気にいったら交換する。気にいらんかったら別に交換せんでもかまへん。自由や。むりやりと違う。わしはこの地球儀をセリにかける。わしの気にいったもんとやったら替えたってもええでえ。」

やっと「セリイチ」の意味が分かった。皆ちりぢりに家に走ってかえった。

増村の気にいりそうな私の宝物と言えばもうこれしかなかった。東京の叔父に貰ったセダンの模型を、机のひきだしから出してきて、畳の上に置き、もう一度ねじを巻いて走らせてみた。車は大きな円を描いて半周したが、祖母の桑のタンスにぶつかって空回りしだし、ねじが切れるまで、私の車はタンスと格闘していた。やっとおとなしくなったところを、思い切ってワシづかみにしてポケットにねじ込むと、増村の離れに駈けていった。

鎌田はきのう買ったばかりの「のらくろ伍長」を手に持っていた。私がフォードのセダンをポケットから出してみせると、マッちゃんの目が輝いたようだった。そしてチエ子はとっくにオルゴールを持ってきて「さくらさくら」を繰りかえして鳴らしていた。

「よし!それぞれ自分の気にいったもんを欲しいと言え。わしは立花の自動車が欲しい。」

「ぼくはマッちゃんの地球儀!」

私はもうこれで決まりだと思った。ところが、

「ウチかて!自動車がええ!」

チエ子が横槍を入れた。

「チエちゃん、のらくろと交換しょうや、まだマッサラやでえ。」

「いやや、ウチは自動車がええんや!」

とうとうチエ子がだだをこねて泣きだした。

「こら、むり言うな。」

とマッちゃんは本当に困った顔をした。しばしの沈黙の後、

「ほんなら・・」とマッちゃんがおもむろに口を切った。「兄ちゃんを信じて、とにかく、チエはのらくろとオルゴールを替えろ。わしは自動車と地球儀を替える。あとはわしに任しとけ。」

マッちゃんの確信のある声に、恐るおそるチエ子はオルゴールを手ばなした。マッちゃんは私の自動車を受けとって、満足そうに裏表をじろじろと眺め、ドアを開けしめしたり、ハンドルを動かしたりしたのち、

「チエ。のらくろと自動車を兄ちゃんが替えたる。嬉しいか。」

チエ子は感激して、

「兄ちゃん大好き!」

と叫び、マッちゃんがチエを抱えると、涙顔で彼女が彼のほっぺたにセップンした。それからマッちゃんは寝転んで「のらくろ伍長」を読みだした。

 

以下2002.8.1追加更新

 

その翌日、鎌田と私はマッちゃんと、八幡さんの裏の空き地に「ベーゴマ」の試合を見にいった。というよりマッちゃんの従者として連れていかれたのだ。彼は小さな鉄製のベーゴマを十個ばかりポケットに入れて試合に臨んだ。普段見かけない六七人の柄の悪そうな上級生ばかりが集まっていた。地面の木の盆の上にベーゴマを叩きつけ、相手のコマを盆からはじき出すと、そのコマは自分のものとなる。昭次と私は右と左で巡査とセンコ(先生)の見張りをさせられた。途中で雪がちらつき出し、やがてぼたん雪が激しくなったので、小一時間で皆ちりじりに消えてしまい、私たちはほっとしたが、マッちゃんは五つもベーゴマを失って悔しがっていた。 結局、きのう同様マッちゃんとこでゲームをして遊ぶことになり、チエ子も我々の姿を見かけるとちょこまか離れへやって来た。結局四人で一通り遊んで、あくびが出はじめたころ、増村が、

「おい、みんなでスーちゃんごっこをやろう」

と提案した。彼はいつもなにやかやと新しい遊びを発明して、それが結構面白いものだから、特に誰も文句をはさまず、古ぼけて角の擦りきれた百人一首の札を眺めていた。

「ええか、それぞれ好きなお姫さんを一枚見つけて、しっかり持っとれ。それが幸運の女神や。チエは女やさかい好きな坊んさんを探せ。」

「ウチかてお姫さんの方が好きや。」

「女が女を好きになってどないすんねん。文句あったらおまえは表へ帰れ。」

「ほな、ウチはセミマルさんにする。」

鎌田は「小野の小町」を、私は「持統天皇」を選んだ。

「あほ!テンちゃんを好きになったら罰あたるぞ!」

私は慌てて持統天皇を放りだし、「紫式部」を掴んだ。

「わしは」マッちゃんがおもむろに自分の女神を発表した。

「インブモンインのタイフ!これが一番べっぴんやでえ!見せばやな・・・濡れにぞぬれし色はかわらずぅ、ええ歌や!・・・これから始めるのは遊び半分やないでえ。真剣や。ウソ付いたらあとでえらい災難に遭うさかい、ええなあ。」

みんな魔法にかかったようにこっくりと頷いた。

「ほんなら、みんなそれぞれ自分のスーちゃんを心に浮かべるんや。よし、そしたらチエ子から始めるぞ。その場に立て!」

チエ子がおずおずと立ちあがった。

「恥ずかしがったり笑ろたりしたら、やり直しやぞ。さあ、わしが言うように唱えながら、わしのするようにせえよう!」

「チンオモーニ、ワガコーソコーソ!」

そう唱えながらマッちゃんは「殷富門殷の大輔」の札を自分の股間に当てて、ごしごしとこすった。

「この時に自分のスーちゃんの名前と最後に好きを付け加えるんや。チエ子、早よやれ。」

チエ子はちょっと照れたが案外すなおに、

「チンオモーニ、ワガコーソコーソ」と唱え、スカートの真ん中に蝉丸を当てがって擦りながら、「お兄ちゃんが好き。」と付けくわえた。

「まあええわ。」とマッちゃんはまんざらでもなさそうに苦笑いしてから、「次は昭次、おまえや。」

鎌田がしかたなさそうに立ちあがった。

「チンオモーニ、ワガコーソコーソ・・・」

と言いながら彼は吹きだした。

「アホ!もっぺんやり直し!」

「チンオモーニ、ワガコーソコーソ!」

昭次は長ズボンの前ボタンが外れているのに気がつかないまま、小野の小町を擦りつけ、「チ、チエちゃんが好き!」

と、嘘でもなさそうな切ない声で叫んだ。

「おまえ、こんなんが好みか。やるで。貰ろて帰れ。」

「嫌や嫌や!昭次なんか嫌や!」

とチエ子が本気でわめいた。

「よし、今度は立花の番や。」

覚悟を決めて私は立ちあがった。

「チンオモーニ、ワガコーソコーソ」

紫式部でズボンの真ん中をこすりながら「スミエさん好き!」

と口ごもりながら唱えた。

「スミエさんて誰や?」

「いとこのお嫁さん・・」

「人の嫁はんかいな。あほ。人の嫁はん好きになったら手ぇ後ろ回るでぇ。」

「なんでアカンねん!好きなだけや!」

と私は自分でも思いがけないきつい調子で反論したが、マッちゃんはそれには取りあわず、いよいよ自分が立ちあがって呪文を唱えはじめた。

「チンオモーニ、ワガコーソコーソ。フクヤマ先生が好き!好き!」

しぼり出すようにマッちゃんが唱えた。

 

三学期末の前日、帰りぎわ、私は増村に奉安殿の裏に呼びだされた。

「立花、一生のお願いや。聞いてくれるか?」

彼の真剣な目つきに私は驚いた。

「わしはこれからまだ卒業式の準備に駆りだされてるさかい、今しか頼めへんねん。ええか?」

あくる朝は春冷えのする、今にもしぐれそうな空模様だった。増村をちらっと見かけたが冴えない顔で、なにか思いつめているふうだった。

「蛍の光」が福山先生の伴奏で歌われだすと、送られる六年生も送りだす増村らの五年生も、女生徒がほとんど涙を流し、顔を歪めていた。校長先生の退屈な送る言葉にも、今日だけは皆しんみりと聞きいっていた。その挨拶の終わりに、

「付けくわえてもう一つお別れのご報告をしなければなりません。」と断わって、

「長らく音楽を担当していただいた福山先生が、今日かぎりで転勤されます。・・・」

講堂を低い動揺が波紋となって広がった。福山先生を広い講堂の壇上に見上げるのは私には初めてだった。遠くの端正な顔が、凛々しく神々しく見えた。

戻ってきた教室では福山先生の転勤の話で持ちきっていた。やがて当の福山先生からお別れの挨拶があり、泣き上戸の先生の小さな頬を涙の筋が伝って落ちた。

廊下を急ぎ足で職員室に戻っていく先生を私は追っかけた。

「センセー!」

「どうしたの?」と振りかえった先生の顔にはもう笑みが戻っていた。

「・・・ちょっと、お願いが・・・音楽室で・・・」

しどろもどろに私はそれだけを言い、返事も聞かずに回れ右して駆けだした。

音楽室には入口の近くに増村がすでに来て立っていた。

「来るんやな。」

「・・・わからん・・・」

しかし程なく廊下を歩幅の狭い足音が近づき、音楽室の戸口から福山先生がはいって来て扉を閉めた。

「なんのご用?立花君。」

ようやくその時増村の姿を認めて、彼女はぎょっと立ちすくんだ。

「増村さん!どうしてここに?」

「先生!」と増村は必死で声を張りあげた。

「ボ、ボクは先生のことで頭がいっぱいで・・・」

彼の体はわなわなと震えていた。

「どうしたらええんですか、先生!・・・」

「なにを言い出すの!」

よく見ると福山先生も同じように震えていた。

「あなたまだ小学校の五年でしょう!好きとか嫌いとか、まだそんな年ではないじゃないの!・・・それに、私は誰にも言わなかったけど、近く結婚します。増村さん、あなたは若過ぎるわ。」

「ケッコン!」増村の形相が変わった。「先生はどうしてそれを黙ってたんや!わしは知らんかった。」

「あなたに断わる必要があるの?」

「先生!」

私の目の前で増村が先生に抱きついて行った。

「マッちゃん!やめろ!」

無我夢中で私が叫んだ。増村は電気に打たれたように硬くなり、先生から手を離した。次の瞬間彼は音楽室の壁の方に向きを変え、袖口を顔に当てがうと、声を殺して泣きだした。福山先生は成すすべもなくただ呆然と立っていた。そして私もまた同じだった。

 

この出来事が事実どおりだったか、なにかの思い違いなのか、単なる私の妄想だったか、数十年を経た今日、問いただす訳にもいかず、よくわからないでいる。

 

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