消炭の壷3

 

 

 

 

 

 

消し炭の壷

 

第三章

 

昭和十六年(1941年)・・

 

そのころ、ちまたに「赤マント」が出るという噂が広まっていて、それは主として小学校の女便所に現われ、用便を終えると、どこからか声が聞こえてくるのである。

「ちり紙、欲しいか。チラランラン・・・」

天井から血の着いた紙が舞いおりてきて、びっくりぎょうてん便所から飛びだしたところ、赤マントを着たお爺さんの横顔が笑っており、もう一方の顔はお婆さんだというのだ。「赤マント」の出方は、便所の扉の上から覗くのだとも、足元の溜め壺に潜んでいて、下から見あげるのだとも、学校により現われ方、姿かたちに多少の差はあった。

姉小路校の二か所の便所のうち、一つは人目の届く校庭の端で、比較的新しく、もう一つは校舎の裏側、私たちの教室の南の窓辺から筋向かいの位置にあり、薮椿の茂みで目隠しされて見とおせなかった。便所の向こうは、隣の日本銀行京都支店とを仕切るコンクリート塀で囲まれていたが、赤マントの噂のあと、女の子は誰もここでは用をたさなくなり、校庭の端の女便所に列が出来たりした。

とうとう朝礼で教頭が全生徒の注意を促すまで騒ぎが広がった。

「さて近ごろなにか、赤マントとかいう化け物が、我が校の便所に出没するという噂がはびこっているが、そんなのが今の科学の世にいるはずがない。デマですよ、迷信!いいですか。皆さん。どうも変な作り話で人を怖がらせることが流行っているらしい。とんでもないことですよ。そんな暇つぶしをしていられる時節ではないでしょう。支那大陸では現に兵隊さんが、我が日本のためアジアのために戦っているんです。むだ話をしている暇があれば、もっと勉強に身を入れなさい。分かりましたね。」

教頭先生の話にはもう一つの狙いがあった。幼年学校で教えていたとかで、退役少尉という、三年生男組の担任、島田先生は教室に入ってくるなり、よく怪談話をしたのである。

教頭の注意にもかかわらず、島田先生は怪談話を一向にやめようとしないばかりか、その日、やはり算術の授業をそっちのけにして先生が「怖い」話を始めた。

・・・夜、人気のない街角に、戦闘帽に白衣姿の傷病兵が手を上げて立っていた・・・タクシーが彼を乗せて、行き先を聞く・・・「陸軍病院まで」・・・目的地で運転手が「着きましたよ」と声を掛けてバックミラーの中を覗くと・・・白衣の客が「ありがとう。」・・・にっと笑った。ドアを開けようと振りむくと・・・!皆ぞぉーとして聞いていた。話がいよいよというところに差しかかるに従い、私の体が冷えてきて、休憩時間に小用を済ませておかなかったばっかりに、堪らなく催してきた。まさに右手を上げようとしたその時、

「先生!しょんべん垂れそう!」

吉武という組一番の腕白が一瞬早く申しでた。

「さっさと行ってこい、廊下で漏らすなよ!」

「ぼ、ぼくも!」

どっと上がる皆の笑い声を背に飛びだして、考える暇もなく、たしかに教室からはずっと近かったので、吉武に従って裏の便所にむけて走った。ズボンの前を開くのももどかしく、ようやくの思いで用を足すと、足の先まで血の気が行きわたり、体中がほかほかと暖かくなった。手を洗っていると、目の前に椿の花が真っ赤に咲いており、ふと私は「赤マント」のことを連想してしまった。

「おい、立花。女便所のぞきに行こ!赤マントがいるかもしれんで。」

「ヤ、やめとこ。」

と私は押しとどめた。しかし、もう吉武は女便所に抜き足差し足で近よって、中を覗きこんでいた。もちろん例の噂以来、女子生徒はここを使いたがらないし、その上今は授業中で人影はなかった。便所は三つの小部屋に分かれていた。私が戸口で見まもる中、魔物に引きずりこまれるように吉武は、おずおずと中へ踏みこんでいったが、一つ目の扉の前で彼が立ちすくむのが見えた。中に微かに人の気配がしたのだ。そして怖いことが起こった。扉が開き、中から何者かが吉武に飛びかかってきた。私は友を見すてて、椿の生け垣の真ん中を死に物狂いに突きやぶると、教室の裏窓の方に駈けた。

「先生!あ、あ、」

教室の窓がさっと開き、島田先生が顔を出して私を見た。次にはもう窓の縁を飛びこえて走っていた。

「こら待て!」

先生が女便所の中に飛びこんでいき、教室の窓という窓から生徒たちが首尾を見まもる中、やがて島田先生がか細い若い男の腕を逆手に取って女便所から現われた。さすがの吉武も真っ青な顔で震えながら椿のそばにつっ立っていた。

翌日、教頭先生が朝礼でことの始終を全校生徒に報告した。島田先生の機敏な行動を称え、犯人の若い男が警察で白状した内容にも触れた。男は銀行に忍びこんで、なにがしかのお金を頂くつもりだったらしいが、守衛に見つかり、逃げ場を失って、塀を乗りこえ、たまたま女便所に隠れたというのだ。ところが日本銀行の守衛はそんな事実はないと申したてたことも教頭は付けくわえた。

私たち二人は職員室で教頭先生に、どうして女便所にはいったのかを問いつめられた。いつになく神妙に吉武が、「赤マント」に一度お目にかかりたかったのだと白状したので、私も側から頷いた。しかし教頭は首をひねって、もう一つ私たちを信用していないふうだった。回りの友人でさえ、しばらくの間我々を変な目で見た。

「赤マント」の噂はもちろんこの事件で帳消しになったわけではないが、それでも少しずつ炎も衰え、やがて、いつとはなしに立ち消えてしまった。

 

七月に入ったある午後、祖母が外から戻ってくるなり、

「謙吉、今度の島田先生て、学校ではどんなお人や。だいぶ固ブツやなあ。元は軍人さんやろ。」

と、首筋の汗を拭きながら一人ぼやきだした。

「やっぱり女のセンセがよろしおすなあ。当りが柔らかいし・・・」

そして、持ち帰った菓子折の包み紙をはがすと「そばぼうろ」を私に、

「お上がり。」

と勧めた。自分も一つ頬ばりながら、はがした包み紙をていねいに畳み、紐もまた大事そうに小さく巻きあげて、タンスに仕舞ってから、がっかりしたふうに着物を普段着に着がえにかかった。今年から通知簿が甲乙丙丁から優良可に変わり、三年一学期末の私の通知簿は優が四つ、二年の学期末に甲が八つの私の成績を思えば、ひどい落ちこみようである。

「良上が去年までの甲に当るのと違いますのんか?」

と祖母がただすのを、私もひょつとしたらそうなのかな?と思ったぐらい、自分でも情けない結果だった。島田先生の幽霊話の余韻に浸るうち、我に返った時には授業はどんどん進んでいた。

祖母は広田の伯母のうちに私を連れて相談に行った。しゅんとして座ぶとんに座っている私に伯母は、

「謙ちゃん、あんさんは元々オツムはええんやさかい、やる気ぃ出さなあかんえ。人に負けんとこ思て意地を張らな!もっと本読むとか。なあ、お母はん」

と祖母を振りかえり、

「この子に本買うてやったことあるんかいな?」

「テテ親がなんにも買うてやらん主義やさかい・・・」

「そんなこと言うてたら、体は成長しても頭は成長せえへんえ。古本でもええさかい買うておやりやす。」

そこで祖母は私を連れていき、寺町の古本屋で「幼年クラブ」を二冊買ってくれた。古本ばかりで気がひけたのか、帰り路、家の近くの本屋に立ちよって、

「なにがええか自分で言うてみい。」

そこで、私が選んだのは、進次が持っていたあの「大全科」だった。

「これ高いのと違うか?」

手に取ってペラペラとページを繰ってみて、

「勉強の本かいな。あては頭が痛となりそう・・・」

と祖母はあまり気のりがしないようだったが、それでも銭を払ってくれた。

広田の伯母の提案で、私は時々いとこの周一が居あわせる時分を見はからって、伯母のうちに遊びに行き、彼に勉強の仕方を教えてもらうことになった。彼は一中から、三高を経ないで京都帝大に進学した秀才だった。

古い京家造りの伯母の家は、細くて長いシックイの道が裏庭に通じ、中ほどには流し台と深い井戸が隣あわせており、見上げると、煤けた吹きぬけの大屋根に天窓が開いていた。庭の手水鉢には竹の獅子おどし、伝い石の両脇にイワツツジやスイセンの花が、苔のついた土になじんで折々に咲いていた。呉服屋の伯父は、うちにいる時には、よく奥の間の庭が見えるところに正座して、鼓を打っていたが、夜になって隣近所が静まると鼓の紐をゆるめ、皮に息を吹きかけ前掛けで拭いてから木箱に仕舞いこんだ。

周一がまだ帰っていない時には、伯母が手作りのアイスクリンをギヤマンの皿に載せて持ってきてくれ、それを食べながら、大きな蓄音器で寅造の浪花節を繰りかえし聞いて時間を潰した。

しかし周一は、私に勉強の仕方を教えてくれはしなかった。私が寅造を聞いている間は、自分は寝ころんで岩波文庫を読んでいた。それから、私にも読んでみないかと、漱石全集のうちの「坊っちゃん」をすすめてくれるが、彼がいうほど面白くもなんともなかったので、すぐに本棚に返してしまった。それより、姉の芳子が持っている「歌舞伎画報」の、「四ツ谷怪談」や「牡丹灯篭」の舞台写真の方がよっぽど興味があり、彼女からその筋書きを聞いているうちに時がたって、夕ご飯をよばれ、伯父の鼓の音を背中で聞きつつ、家に走ってかえった。

ある日、周一は自転車の荷台に私を乗せ、岡崎の図書館に連れていってくれた。天井から大きな扇風機が風を送っていたのに、あたりは人いきれでムンとし、そんな中で、夏休みというのにみんな、分の厚い本に身をかがめ、黙って食いいるようにして読んでいた。周一はどうかというと、本の借りだしもせず、持ってきた大学ノートを開けて、なにやら詩のようなものを書きつけていた。

「謙ちゃんは何か読みたい本あるやろ。言うたら借りたるで。」

私は首を横に振った。

「そんなら、まあ昼寝でもしとり。」

「周ちゃん。」と私が聞いた。「やる気ぃ出すて、どうすること?」

書き物に熱中していた周一が手を休め、

「勉強でもなんでも、無理にでも好きと思うようになることや。」

「どうしても好きになれんかったら、どうしたらええ・・・」

「嫌いなもんはしようがないなあ。」

と彼は笑った。

広田の伯母は、誰もいない時は、私相手にお茶を立て、水ようかんを自分と私の前に盛って出し、本物の手つきで「おうす」をススッた。私の茶碗には抹茶と砂糖と氷を入れてかき回してくれ、

「まあ、飲んどみやす。おいしいえ。だんだんお砂糖ぬきでも飲めるようになるさかい。」

と勧めた。

 

秋の彼岸も過ぎたころ、今は四年生の山本則夫に、植物園へ写生に行かないかと誘われ、次の、ちょうど申しぶんない秋晴れの日曜日、二人でバスに乗って植物園に出かけた。彼は自分用の立派な画盤と水彩絵具、水ポット、パレット、四五本の筆などの入った木製の道具箱を下げてきた。一方私は、祖母にきのう買って貰ったばかりの画用紙一冊にクレヨン一箱を、おやつと一緒に布袋に入れてきただけだった。

私の提案で、ききょう畑を選んで、近くの芝生に腰を下ろした。

「うちの家紋、丸にキキョウなんや。ノリちゃんとこは?」

「カモン?そんなもんないでぇ。へえ!立花とこはサムライか?」

「サムライとは違うけど家紋あるんや。お雑煮のおわんに家紋が付いてる、ききょうの紋が・・・」

「へえ!」

則夫が目を丸くした。しかし則夫は、ききょうの花をしげしげと見て、

「この紫色がなんとも言えんなあ」

と、家紋のことなぞそっちのけで溜め息していた。ききょうの群れの向こうに大きなガラス張りの温室が見とおせ、温室の手前右手にはケヤキの木立が二本、そのまた横に公衆便所が隣り合っていた。この場所を選んだものの、複雑な構図に私は描く前からへきえきとした。

それでも私たちは脇目もふらず熱心に描きつづけた。気がついたら、後ろに松葉杖をついた傷い軍人が立って、じいっと則夫の描く手元を見つめていた。則夫の絵は、画面に大きくききょうの花を二輪ばかりと、ほっそりした葉っぱを描き、今ちようど根っこのところに黄色い花を付けくわえている最中だった。確かにききょうの下の地面から、今しがたまで気づかなかったが、季節はずれのたんぽぽが忘れられたように顔をのぞかせていた。私はと言うと、ようやくモヤモヤしたききょう畑と二本の木立を描きおえ、光の反射する温室に手を焼いているところで、公衆便所までは辿りついてはいなかった。

「君はなかなか絵心がある。」

傷い軍人の声が後ろから聞こえ、振りむくと、その目が則夫の絵だけを見つめていた。則夫は、細い筆をパレットと筆洗の間に往復させ、たんぽぽのギザギザの葉っぱを描き続けていたが、やがて、驚いたことに、バックを薄いピンク色で塗り始めた。昼下がりの空がどうしてピンク色なのか分からなかった私は、もう自分の手を休めて、則夫の絵の仕上がりを見物した。

「君の絵を私に呉れないか。病院にいると、こんな絵が一番心の安らぎになる。実は私も画家の端くれなんだよ。君の絵の裏に所と名前を書いてもらえば、退院したあかつきに、お礼と言ってはなんだが、交換に私の絵を君に送ろう。」

則夫は自分の絵が乾くのを待って、それを彼に差し出した。本職の画家が満足そうにその絵を見ていた。

「ぐるぐると巻いておれの懐へ入れてくれ。」

則夫がそうすると、「ありがとう。」と言い、回れ右して松葉杖を漕ぐように、広い園内を遠ざかっていった。

次の日曜日私は、先週完成できなかった絵を持って一人で、もう一度植物園を訪れた。ききょう畑のあの位置に腰を下ろし、ききょうの根元を探しが、そこには、だれか見物客が手折っていったのか、あるいは整備係が、よけいな雑草だと引きぬいてしまったのか、則夫の描いたたんぽぽの花は見あたらなかった。

ききょう畑の向こうの、ガラスの大温室をもう一度見つめなおすと、この前は天気がよく、ぎらぎらと光って描きづらかったのが、今日は薄曇りで、角ばった建物が、ねずみ色にくすみ、色の塗りかえをしなければならなかった。木の影も大分違っていて、一時間もしてやっとのこと私は公衆便所に取りかかることができた。公衆便所はやはりねずみ色だった。私はていねいに便所のりんかくを描き、薄曇りの空と混じりあわないように、ゆっくりと色を塗っていった。その時、私は温室の出口から出てくる二人の人物の姿を見た。初めのうちは、むろん誰とは見わけはつかなかったが、二人がどんどんこちらに向けて近よってきて、例の木立の陰あたりで、はっきりそれぞれの人相を確かめることができた。一人は山本則夫であり、もう一人は小島きみ子だった。私はその場にうつ伏せになりかかったが、ききょう畑は身を隠すには背丈が低すぎた。木の下のベンチに腰を下ろし二人はなにか話をしているようで、きみ子が自分の手提げから、お菓子らしいものを取りだして、則夫にすすめていた。則夫が一つつまんで食べ、きみ子の笑みから金歯が洩れた。私はスケッチブックに身を屈め、悟られないよう上目使いで、なおも見つめ続けていると、きみ子がまたお菓子を則夫にすすめ、則夫がつまんで食べた。きみ子も食べた。二人はちょっと黙ってはちょつと喋り、そんなことがいつまでも繰りかえされ、私の首筋が痛くなってきた。やっと二人がベンチを立ちあがり、それぞれ公衆便所に入り、次に出てきた時、彼らはまるで今までのことがなかったかのように、別々の方向に歩みさっていった。

私はもう絵を完成させる元気も気持もなくなっていた。

「・・・ノロチンが!くそ!・・・」

クレヨンを箱に仕舞い、スケッチブックを畳んで、持ってきたおやつの明治キャラメルを一つぶやっと口に頬ばり、すごすごと立ちあがった。

 

二三日後、校庭で則夫が寄ってきて、この間の傷病兵から絵が送られてきたので見にこないかと誘われた。彼とは喋りたくないと思うかたわら、この間の植物園の出来事の言い訳を求めたい気持がもう一方にあった。

則夫のうちは染め屋だったから、裏に広い空き地があり、染めあがった無地の反物を水洗いしたのち、帯状に広げて天日で干していた。天気の日にそれらがなん本も風に揺らいでいるのが、二階の彼の勉強部屋から見おろせた。家中、ご飯のスエたような染め物用の糊の匂いが立ちこめていて、慣れるのに五分や十分掛かるのだった。一日一回オート三輪が荷台に糊の詰まった四斗樽をぎっしり積んできて染め工場に運び入れると、かわりに空の樽を積んでかえった。

彼の部屋は小ぎれいに片づき、壁には市長賞の賞状が額に入れて吊りさげてあり、質素な部屋がいくらもりっぱに見えた。遊びに行くと、いつも母親がお茶とお菓子を持ってあがってきてくれたが、彼女が部屋に入ってくるだけで、糊の匂いがプンと鼻を突き、出ていくとそれがすっと消えた。

彼の勉強机は低い簡素な机で、その上には、かわいらしいサボテンの小さな植木鉢が置かれていた。薄汚れたランドセルを机の下に押しこみ、あまり勉強をする雰囲気ではなく、扉のない小型の本棚には、古びた画集が五六冊並んでいるだけで、下の段はこの前見かけた絵の道具を仕舞う木箱が場所を占めていた。その本棚の上に「まったけ」らしき大小二つを書きなぐった墨絵の色紙が一枚飾ってあるのが目についた。

「これか!貰ろた絵ぇて。」

「そや。さすがやろ。筆に勢いがあるもんなあ。」

私にはこのヘンテコリンな絵の、どこがサスガなのかよく分からなかった。

「ここに判子押したぁる。この人フジセと言うえらい人らしいでぇ。」

「へえ?」

そんな偉い画家が戦争に行き、そして白衣を着て松葉杖で帰ってくるとは、私にはとても信じられなかった。

「ぼくなあ、則ちゃん。あの後の日曜日、続き描こ思もて、一人で植物園行ったんや。」

「・・・!」

明らかに則夫はドキッとしたようだった。

「ひま掛かって昼過ぎてしもた。」

「へえ。描きおわったとばっかり思てた。そんならいっしょについて行ったったのに。」

「ほんまかいな。僕はあそこで則ちゃんを見かけたでぇ。」

今度こそ則夫の顔色がさっと変わった。私は畳みかけるように、

「温室から出てくるのん見てた。」

「あっ!」と彼は声を詰まらせた。それから目をぐるぐる回し、その間に言い訳を考えているようだった。

「あ、あれは、偶然や!ぼく一人で植物園へ熱帯植物見にいったんや。そしたら小島とばったり逢うたちゅう訳や。きみちゃんは姉さんが深泥池(みぞろがいけ)へお嫁にいってて、その時も姉さんと姉さんの子と三人で植物園に遊びにきた言うてた。たまたまきみちゃんが一人で温室にはいってきたさかい、いっしょに見て、並んででただけのこっちゃ。思いちがいせんといてくれ!」

話の苦手な則夫がいつになくべらべらと言い訳していた。いきさつからして私にも則夫が嘘を付いているとは思わなかったが、小島のことを「きみちゃん」と親しげに呼ぶのが気にかかり、許せない気持だった。

その日の夜八時ごろ、則夫が尋ねてきた。手には、彼の勉強机の上に置かれてあった、あのサボテンの鉢を携え、そしておずおずとこう言った。

「ちょっと、二人だけで話がしたい・・・」

三年生になってから私の勉強机は二階に移っていたので、そこへ彼を案内した。

「なんの用やな?」

私はうさん臭い顔をしていた。

「立花、これぼくの大事にしてる盆栽や。おまえにやる。」

と私の机の上に置いた。

「なんでこんなもん呉れるんや?」

「頼む。こないだのこと誰にもないしょにしといてくれ!」

「こないだのことて?」

「小島とのことや。」

「ああ、あのことか。そんなこと別にどうとも思てへんがな。」

「とにかく黙っとってくれ。頼む!」

則夫は今にもべそをかきそうな必死の顔付きで私にすがってきた。一つ年下の私にここまでへり下って、けんめいに濡れ衣を晴らそうとするのが、気の毒にも思えてきた。

「分かった。誰にも言わへんがな。」

私にとってサボテンはいわば戦利品だったので、則夫が大事にしていたと同じくらいに私も大事に育てようと決心した。翌る朝、さっそく植木鉢を日あたりのいい物干しに出してやり、ジョロで水をたっぷり掛けた。毎日水やりを欠かさずに実行することにし、そのうちにもっと大きな植木鉢に植えかえようと思った。小さなサボテンが殺風景な物干し場で、ますます縮みかえって、しょんぼりしているのが哀れだった。

十日目になって先っぽの針のついた葉っぱが一つぽろっと落ち、毎日のように葉っぱが落ちて、二週間で完全に形がなくなった。

どうした訳か則夫の言い訳を聞いてから、ますます頭に小島きみ子がこびりついてしまった。則夫も、相手がもし「きみ子」でなかったら、口止めに大事なサボテンの鉢をくれたりはしなかったはずである。

私と彼女とは組が違うため、常に顔を合わせることはなかったが、校庭ではつい彼女の姿を目で探し、ちらっとでも見かけるとその日一日安心した。家に帰っても、勉強机の前に座って、今日見かけた彼女の表情や衣服の色やしぐさを思いかえしていた。そのうち私は画用紙にきみ子の似顔絵を描いて、それを大事に机のひきだしの奥にしまった。

やがて秋も深かまり、どうしたことか小島きみ子を校庭に見かけない日が一日二日続いた。家に帰っても落ちつかず、ひきだしから例の似顔絵を出してきて眺めては、明日にはまたあのかわいらしい笑みから金歯の洩れるのに、お目に掛かれるだろうと期待した。

校庭にきみ子をキョロキョロと探す、我ながら浅ましくみっともない習慣はかなり長い間続いた。

しかし、そんな呪いから解きはなたれるような事件がやがて起こった。

 

 

十二月八日の朝礼は、きのうまでと雰囲気が大分違っていた。上級生のところで「ハワイ」とか「カイセン」とかのヒソヒソ声が聞こえ、我々三年生以下との間には雑談の色合いが確かに異なっていた。やがて教頭が先に壇上に上がり、皆に静まるように注意を促した後で、

「今日は校長先生から特別のお話があります。皆しっかり聞くこと。」

と前ぶれした。校長も少し興奮気味に急ぎ足で壇上に駈けあがり、いつもより甲高い声で切りだした。

「皆さん。かしこくも天皇陛下におかせられましては・・・」

彼はそこで急に直立不動の姿勢をとり、

「米英二国に宣戦を布告されました。つまり、アメリカ、イギリスと戦争することとなったのです。」

ようやくざわつきが全校生徒に及んだ。

「すでに今日未明、我が海軍部隊はハワイの米国太平洋艦隊を奇襲し、敵はカイメツ状態とのことです!」

「わぁっ!」と六年生から歓声が上がり、拍手が一年生に至るまで波うって伝わった。

「それではみんな、東の方を向いて・・・皇居に向かって、最敬礼!」

全校の先生、生徒が一斉に東京の方向に深々と頭を下げた。

 

父はその頃株で少しは儲けたらしく、今までの縦長の旧式ラジオが聞きとりにくいと言って、新型横長のシャープラジオを購入した。机の前にメモを取りながら父はよく「株式市況」を聞いていた。祖母が毎朝空拭きしてぴかぴか黒光りする黒檀の平机と、かたわらの支那焼きの火鉢、新型のラジオ、それから背筋を伸ばして正座する父を見るかぎり、祖母が道楽もんと非難するのが当らないような品格があった。

「謙吉、これ、よう見てみぃ。」

毎日の上がり下がりを棒線で記録した「アズマシン」の罫線グラフをある日私に見せ、

「ここに三角が出てるやろ。これはムヤミに書いたん違うで。ちゃんと法則に当てはめて書いてるんや。この法則をわしは最近発見した。この三角の頭が上むきに出たら買いや。下むきに出たら売りや。どや、大したもんやろ。」

父が何かを「発見」したと言うのだから、これは大したものだと私は信じたかった。

 

父の古い友達で、「アマ将棋の三段」の黒田という人が時々父を尋ねてきて、将棋を指してかえった。彼も相場師だった。もう何年も前に目を患い、分厚いレンズの眼鏡を掛けていたが、それでも片方の目はほとんど見えないという。

アメリカとの戦争が始まった直後、黒田さんが尋ねてきた。彼は道を歩くには杖を必要としたが、うちの中では父が奥の間へ導いた。ちょうど台所で昼ご飯を食べていた私にも、奥の間の話はよく聞こえた。二人は将棋を指しながら、戦争の成りいきについて意見を交していたのだ。

「この調子やと日本は勝つと思うで。そう思わんか?」

と父。

「そやなあ・・・」

黒田さんは慎重に言葉を選んでいるようだった。

「勝つとは思うけど・・・長びくで。」

「ほう。わしは速戦即決や思うけどなあ。また早よケリつけんと、アメリカは持ち駒沢山持っとるさかい。」

「そやさかいに長引くんや。相手は懐が深い。押しても押してもどんどん引いていく。いつか日本は手づまりになる。あとはドイツしだいやなあ。ドイツがヨーロッパで早よ勝ってくれて、加勢したらアメリカにも勝てる。」

「おまえはえらい弱きやなあ。この二三日見てたらもう王手みたいなもんやないか。日本買い、と違うんか。」

「ちょっと儲けたさかい言うて立花クン、あんたは甘い。そうは問屋は下ろさんぞ。」

「黒田君、そんなこと、あんまり世間ではしゃべるなよ。」

私はカレーライスを頬ばりながら台所で父を応援した。

「ほれ、立花、王手王手!」

父は将棋で黒田さんに勝ったためしがないが、時々碁をやるとそれは父の方が上わ手だった。

 

家の新型のラジオが気持ちよく、来る日も来る日も勝利を報じると父も機嫌がよかった。私は前に買った世界地図を広げ、ホンコンやマレー半島に赤鉛筆で印を付け、誇らしげに押しピンでそれを壁に張った。

二学期の終業式に校長は教育勅語といっしょに「宣戦の大詔」を読みあげた。

「てんゆーをほゆーし、ばんせーいっけーのこーそをふめる・・・」

で始まるこの長ったらしい詔勅を丸暗記せよと、これが冬休みの宿題だったが、私は深刻には考えなかった。それでもマレー沖で轟沈されたイギリスの戦艦プリンスオブウェルス、レパルスの名前はすぐに覚えたし、轟沈(砲撃で瞬時に沈んでしまう。)撃沈(時間をかけゆっくり沈む。)の言葉は流行語になった。

 

壁に広げた世界地図を眺めながら二階でごろっと寝ころんでいたら、祖母が上がってきた。

「冬の最中にこんなとこで寝てたらかぜ引くがな。」

と私を叱り、自分は奥の間に客用のふとんを敷きだした。

「ちょっとの間寝さしてもらいまっさ。」

「どうしたん?おばあちゃん。」

「なんとなく体がだるいねん。お正月の用意もせんならし、掃除もせんならんのやけど、今日はする気ぃにならしまへん。」

裾にヤグラごたつを入れ、タドンも入れてさっさとふとんに潜りこんでしまった祖母に、

「おばあちゃんはどう思う?戦争勝つ思うか?」

と聞いてみた。あんまり返事もしたくなさそうな祖母に、私は繰りかえして答を求めた。箱枕に載せた頭を動かそうともせず、目をつぶったまま祖母はつぶやいた。

「そら負ける道理がおまへんわな。そやけど、あてはそれまで生きてまへんわ。」

 

 

祖母は体の調子を持ちなおしたが、お正月のお煮しめは大部分広田の伯母が作って、大みそかに運んでくれた。

その夜、同級生の柴田と祇園さんへオケラ参りに出かけた。小児喘息の柴田は、首にいつも白い布を巻いていて、咳をしだすと止まらなくなり、やがてひーひーと肺の奥が鳴って目から涙を流すのだった。その夜もずいぶん着こんできて、ダルマのような風体で、やっと夜の外出を親から許された。

昼間の華やいだ戦勝ムードとは打ってかわり、夜となると街は灯の気を失い、街角の板塀に貼られた「一億火の玉!」と書かれたポスターの、「火の玉」の文字が不気味で、それに銃剣を小脇に抱えて突撃する兵士の顔が、とても怖い目つきをしていた。それでも四条通りに出ると少しは人通りがあった。「ぎおんさん」と呼んでいる八坂神社の、石段を降りてくる男女は、手に手に火縄を持ってくるくる回していた。我々も社務所で三尺ばかりの長さの火縄を買い、本殿の前のかがり火にかざして火を頂き、みんなと同じに、火が消えないようにくるくる回しながら歩いた。昔からこの火でカマドを炊き、お雑煮を祝うと一年間無病息災との言伝えがあった。

四条通りから再び脇道に入ると、寒さが身に染み、小児喘息のひ弱な柴田と二人では、いかにも心細かった。折しも、暗い空き地の前に差しかかったところで、四五人の戦闘帽を被った男の子に取りかこまれた。そのうちの大将らしい六年生ぐらいの男の生徒が、

「おまえら、どこのもんや!」

と、低い声ながら巻き舌でタンカを切り、オケラの火縄を、いともたやすく私たちから取りあげた。無力な二人ではどうすることもでず、手下どもが火縄を、我々のまねをしてぐるぐる回すと、火種は闇の中に小さな円を描いて燃えていた。

「キョーツケー!」

と六年生が号令を掛け、私は反射的に「気をつけ」の姿勢を取った。

「歯ぁくいしばれぇ!」

いきなり頬に平手打ちを食らわせ、私が思わずよろけたその時、柴田の喘息の発作が起こったのだ。

「キョーツケー!」

もう一ぺん、今度は柴田に号令した。しかし柴田は堪えられず、背中を丸めて咳を続けた。

「だまされんぞ、非国民!」

そして柴田の頬に拳固が飛んだ。柴田は地面に尻餅をつき、その上でぜいぜいと肺を鳴らした。私は恐怖に体がこわばり、彼らが意気ようようと、戦利品の火縄の輪を描きながら遠ざかるまで、その場で震えていた。その間、柴田は地面に座りこんだなり、息も絶えだえに、ぜいぜい言いつづけていたのである。やっと私は彼に近より背中を撫でてやったが、彼は鼻血を出し、目からは涙が溢れ、またカメのように着こんでいたので、私が手助けしても立ちあがるのがなかなか難しかった。折りしも遠く近くから除夜の鐘が鳴りひびいた。しかし新年を迎えるいつもの感激もなく、とぼとぼと歩く二人の足どりをいよいよ暗く寂しくさせ、そのあいだ中彼の咳も続いた。

家に帰っても私はこの出来事を誰にも言わず、火縄は途中で消えたので捨てたと言い訳した。二人で口裏を合わせる約束だったから、柴田も同じことを自分のうちで言ったはずである。

 

翌日の元旦はいつものお正月と変わりなかった。白味噌にねずみ大根の薄切り、焼きどうふ、小芋を入れ、花かつおを振りかけたお雑煮を食べ、お煮しめも色数は去年と同じ、ただ祖母の味とは一味違っていた。

父はおとそ代わりに呑んだ配給のお酒で朝から赤い顔をしていた。

その時、柴田の母親が尋ねてきた。ちょっと新年の挨拶をした後で、私に昨夜なにがあったか聞きたいと言った。私はぎくっとしたが、親に言ったと同じ嘘をおばさんにも繰りかえした。

「洋もそう言うんやけど、」と柴田の母親は納得できないと言う顔をした。「よんべはそんなに思わんかったけど、今朝、あの子の顔がきつう腫れて、おまけに、もともと虫歯やったとこが今朝方抜けてなあ。なにかあったに違いない思て・・・」

「柴田君、たしかどこかでこけたみたいやった。」

「こけたんやったら、手を擦りむくとかしまっしゃろ。擦り傷とは違いますがな!」

とまるで私に食ってかかるようにおばさんが声を荒だてた。その声に奥から父が赤い顔をしてノソノソ出てきた。

「謙吉、どうした。」

柴田のおばさんはびっくりしたように、あらたまって元旦の挨拶をし、それから事の次第を父にも話した。

「うちの人も立花さんに聞いた上で、誰かにやられたんなら、談判に行く言うてますねん。立花さんはケガなかったんかいな。」

私はここでうっかり、友達が大けがをしているのに、自分が傷一つないではちょっと浅ましいと思い、自分も実は殴られたこと、オケラの火縄は分取られたことを白状した。

「だれに!」

父が今度は怒って顔を真っ赤にした。

「わ、分からん。よその学区のヤツや。」

「大体どこの学区かわからへんか?」

と柴田の母親は悔しい思いを顔に出して、畳みかけてきた。私がその現場から学校を推しはかると、

「ねえ、立花さんのお父さん。警察に届けたらどうでっしゃろ。」

すると父の顔から赤みが消え、急に消極的になった。

「それだけでは誰か分かりまへんで。警察行っても、もう一つ証拠がないと受けつけてくれまへんやろ。」

柴田のおばさんはまだしばらく諦めきれずに、父にも私にもくどくどと正月早々ぼやいた後に、やっとこさっとこ帰っていった。父はほっとしたようにお膳に戻り、呑みなおしはじめ、私にはそれ以上問い詰めなかった。「警察」と聞いたとたん、父が身を引いたのが私には気になったが、「ヤミ」とか「闇取引」とか言う言葉を、前に祖母と父との会話の中で聞いたことがあるのを思いだした。

 

 

二三日して柴田の家に見舞いがてらに遊びにいくと、出てきた彼は、顔の半分がまだ唇もろとも少し腫れあがり、コンコン咳をする時つらそうだったが、それでも私を自分の部屋に招きいれた。彼の部屋というのは、勉強机は言うにおよばず、応接セットにガラス戸つきの本棚、洋服だんす、壁ぎわにはベッドと、完全な洋風だった。机の上に葉つきみかんの載った子餅が二個、ウラジロの葉を下に飾ってあるのが、むしろ変な感じがした。部屋の南むきの窓からさんさんと陽が差しこみ、火の気がなくとも充分暖かかった。

二人は椅子に座ってトランプを始めたが、ババ抜きをしても七並べをしても二人きりでやっていると、すぐにお互いの手の内が知れてしまった。遊び飽いてきたころ、扉をノックして姉の秀子がいっしょに遊ぼうと呼びにきたので、彼女の部屋に行くと、そこに増村のチエ子がいて、今まで女同士で坊主めくりをしていたらしい。椅子とテーブルを部屋の片隅に追いやり、四人で百人一首の「源平」をやることになり、秀子が絵札の上の句を読み上げ、他の三人が字札を取った。私は百人一首は坊主めくりをするための道具だと思っていて、字札の意味を今初めて知った。いろはカルタは字を読んで絵を取るが、百人一首は絵を読んで字を取るのだ、なるほどと理解はしたが、なかなか難しくて一枚取るのも大変で、一回でいいかげん疲れた。そんな私を見て秀子が、

「今のは練習やけど、今度から負けたらウチが腕にシッペしたげる。」

と勝手なルールを宣言した。二回目も当然ながら私が負け、早速右腕の袖を巻くりあげさせ、自分のチョキに「ハアッ!」と息を吐きかけてから思いきりシッペした。こんなに本気でやられるとは予想してなかったし、女の力をみくびってもいた。か弱い私の腕がたちまちチョキの形に赤く腫れたが、それをまた手に取って眺めながら彼女は、

「ちょっとやり過ぎたかしらん・・・」

ご機嫌な顔で、しかめっ面の私を覗きこんだ。一年生のチエ子がそれを見て笑いころげていた。カタカナしか習ってないはずのチエ子がどうして私に勝つのか、それもふしぎだったが、正月早々怪我をした柴田が、嬉しそうにするのが、私にはなによりだった。姉といっしょにいる洋はふしぎと、咳一つしなかった。

「さあ!もう一ぺん。今度は手かげんしたげるさかい!」

と秀子が言うので、仕方なしにまた一から始める。また負けた。さすがに今度は形だけのシッペで許してくれたが、私にはそれが詰まらなくて、思いっきりシッペする彼女のご機嫌な顔の方がすがすがしくさえ思えた。

「立花クン、今度はキミの得意のゲームしたげる。ほんなら公平やろ?」

と秀子が言った。

 

八八とか花合わせとかいうこの遊びを、私は父から教わり、正月によく、父と祖母と三人で花合わせをして遊んだ。今年も、というより去年の暮、学校が冬休みに入ってしばらくして、父にねだって新しい花札を一組買ってもらった。父も元々勝負事が好きだったものだから、さっそくその晩、気分を直した祖母も交えて「ハチハチ」をやった。父の言葉によれば、我が家の「ハチハチ」は「京むし」と呼ぶ本式のルールに従っていて、猪鹿蝶(いのしかちょう)の役があったり、手役がなかったりするのは「台湾むし」と呼ぶのだと解説した。

 

その翌日私は「花札」を持って、ふたたび柴田のうちを訪れたが、柴田の姉は両親と親戚に正月の挨拶に行っていて留守だった。

「そやけど、これ三人でないと出けへんねん。」

「そうか。ホンナラもうすぐ帰って来るさかい秀子とこで待ってよか。」

一つ違いの姉のことを洋が、人には「秀子」、面と向かっては「秀ちゃん」と呼んでいたのがまた私には羨ましかった。秀子の部屋はカーテンの色以外は洋の部屋と飾り餅の位置まで寸分違わず、女の子らしい品物はお人形一つ置かれてなかったし、もちろんまだ鏡台も手鏡も化粧道具もなく、にも関わらず、私には秀子の部屋というだけで、なにか芳しい匂いを感じた。

私たちがそこでなにもせずにごろごろしていると、幸いなことに、小一時間で彼女が戻ってきた。

「あれ!待ってたん?」

そして我々のいる目の前でさっさと外出着を脱ぎ、それを洋服ダンスに仕舞う間シュミーズ姿のままだった。しかし素早く普段着に着がえ、

「たちばなクン、なにかゲーム持ってきたん?」

と、昨日のことを覚えていて私に問うた。

「ウン。花札。」

「へえ!これが花札かぁ!」

と驚いてみせ、もう手に取って中味をぱらぱらとめくり出した。

「面白そうやなあ。」

私は晴れがましい気分で花合わせのルールを二人に教えた。二三回すると秀子があらかた覚えてしまって熱中しだした。

「洋はまだ分からんか。手役と出来役とを覚えたらシマイやがな。」

「クッツキて何や?秀ちゃん、ぼくのん、これ役できてるか、ちょっと見てくれ。」

いずれにしても二人とも花合わせが気にいったようだった。

三人がテーブルを囲んで「八八」に熱中している真っ最中に、柴田の母親がココアを盆に載せてドアから入ってきた。

「なにして遊んでるのん?楽しそうやなあ。」

と我々のゲームを覗きこんだが、花札を見つけてびっくりぎょうてん、盆の飲み物を盆にこぼしてしまった。

「これ、花札やないのん。止めなさい!立花クンが持ってきたんかいな。うちでは止めといて。お願いやさかい。すぐ持ってかえって!お父さんに見つかったらエライこっちゃ。」

秀子が、自分が頼んだと弁護してくれたが、おばさんはますます意固地に拒んだ。

しおしおと私は家に帰って父にその話をした。

「アホやなあ。柴田君のお父さんは税務署のえらいさんやでえ。そんなうちで八八するやつがあるか。」

私がもう一つ合点いかぬ顔をしていたら、

「やるんやったら、うちへ来てもろてうちでやれ。」

と父が言った。

 

 

満州の藤村勇一から父あての手紙が届いた。表の宛名書きのところにゴム印で「軍事郵便」と押された封筒の裏に、差出しの住所はなかった。消印はかすかに「十二月十日」と日付が読め、これはアメリカとの開戦の日、十二月八日から二日目に当る。父が読んでいるのを覗き見するが、候文で内容はよく分からず、ところどころに墨で消した痕があった。

「ほう!現地召集で出征しよった。」

と父が読みながら祖母に説明した。

「ふん、ふん。多分これは北支(北支那)や。前線ではないな。元気にやってると書いたある。大東亜のために命は捨てるとか、相変わらず大きなこと言うとるで。」

私のことは特に書いてないからとそれ以上は見せてくれなかったが、記念に空封筒を貰って、二階の世界地図の横にピンで止めた。スミエさんはどうしてるのだろう。しかしそれも遠いことに思えた。

 

祖母が七草粥を作った日の午後、藤村の伯母が新年の挨拶に来た。

「遅なったなあ。」

と言って私にお年玉をくれた。父が勇一の出征のことを言いだすと、伯母はびっくりして、自分とこにはまだなんの便りもないと言った。

「へえ?うちにはおとつい来たでえ。」

手文庫から取りだして父に示された手紙を、伯母は老眼鏡を掛けて読みながら、ぼろぼろと涙をこぼした。

「なんでわてとこには手紙よこさんのやろ。」

「入れちがいと違うか?きっとそやで。」

と祖母が慰めて側から言葉を挟んだ。

「いいえ、あの子はわてのこと恨んでますねん。なんでわてが恨まれるんやろ?おんなじに育てたつもりやのに。」

「そら思いすごしや。姉さん。来るとしたら孝蔵はんあてやろがな。」

父は私に昨日の封筒を返すように言い、しぶしぶ私が二階から持っておりてくると、手紙を封筒にしまって伯母に手わたした。

「これ持ってかえったらええわ。いずれにしても南方行きとちごて、支那にいるうちは心配いらん。」

 

八日の始業式にはまた「大戦の詔勅」が読みあげられ、これから先、毎月八日は「大詔奉戴日」と名づけて、全員で御所八幡に参拝することになったと校長が宣言した。すぐさま学年ごとに隊列を組んで、ぞろぞろと校門を出ていった。御所八幡に一年生から順番に参拝するのにひまが掛かり、残りは堺町通りに待たされると、たちまちざわざわお喋りを始め、中には隊列を乱して小突きあいまでやり出した。

ちょうどその時、騎馬の将校が二人御池通りを並み足で通りかかった。腰に軍刀を下げ、りっぱな長靴をはいて、二人は騎上で雑談しているようだったが、ふと我々の方に目を向けた一人が、急に馬のたずなを引き、大またを開いて飛びおりた。そして、私たちの担任の島田先生に向かって、

「教官どの!」

と叫んだ。もう一人も慌てて、同じように馬から飛びおりた。島田先生は参拝の順番が回ってきた我々を整列させている最中だったが、驚いて振りむいた。片手で馬の手綱を握り、もう一方の手で敬礼している直立不動の将校たちを先生が見つけ、いつもとは違う声でどなった。

「いちいち下馬するやつがあるか!もうおれより位が上や。」

「はい!いいえ・・・」

しかし次の瞬間先生が二人に近より、それぞれと握手していた。

「今はどこに・・・」

「第○師団であります。教官殿は小学校の先生になられたとは聞いておりましたが、まさかここでお会いできるとは思いもよりませんでした。」

「小学校やない。今は国民学校や。」

「そうでありました。・・・どうして教官どのは辞められたのですか。皆がっかりしています。」

「おいおい。軍人に、ドウシテは禁句だぞ!」

「自分達はどうも出来の悪い教え子のようであります。」

三人で笑っていた。さらにひと言ふたこと言葉を交してから、将校たちはふたたび挙手の礼をし、馬にまたがって行ってしまった。私に限らず、整列して見ていた三年生の誰もが感激し、島田先生が英雄のように写り、また自分の担任なのを誇りに思った。

 

二月に入って早々に鎌田の父親に赤紙が来たので、入営の日、三年生は揃って見送りに狩りだされた。雪こそ降らないがどんよりとした曇り空、朝早くには凍てていた地面が、今は乾いて砂煙となって舞っており、「祝入営」のノボリが風にたなびいて、時おり小屋根に引っかかった。「国防婦人会」のたすきを懸けた連中は、手に手に日の丸の紙旗を持ってがやがやと待っていた。

「鎌田のお父さんの位はなんやろ?」

「そら、新兵やし、一等兵や」

「あほ言え。二等兵から始まるんやぞ!」

「新米がアカベタ、それに星が一つ付いて二等兵、二つ付いて一等兵、三つ付いたら上等兵・・・」

寒さの中、手をこすり足ぶみしながら、知ってる限りのことを喋りあった。

やがて鎌田の父親が国防服姿で「武運長久」のたすきを懸けて現われ、隣組長の滑らかな挨拶に続いて、父親がみかん箱の上に乗って一礼した。背の低い見栄えのしない八百屋のおやじさんは、初めてのことで挨拶の言葉に詰まり、ポケットから紙切れを出して読みだしたが、それでも最後の「銃後の妻と子供をよろしくお願いします」のところで声がかすれ、おり悪しく砂煙が舞いあがって、ほこりが彼の目に飛びこんだ。それをきっかけに小さな黒い顔に涙が溢れてきて、見るも気の毒に鎌田の父親は、隣組、婦人会、児童、親戚、妻子の前で、立ったまま泣いていた。それに対し妻は気丈夫だった。

「お父さん!挨拶できんゆうて気ぃ落とさんでもええ。そうやろ。」

と台に乗る夫の腰を揺すって同意を促した。それでやっと落ちついて、

「へたな挨拶でスンマへン・・・。」

と言って終わったが、なぜかそれが受けて拍手が湧いた。それもみんな、感動したように精一杯の拍手だった。婦人会が小旗を振って、「勝って来るぞとイサマシクー!」を合唱しだした。鎌田の父親はもういつもの愛想のいい八百屋の顔になって、みんなに手を振りながら、「国防婦人会」のたすき連とともに烏丸の市電の駅に向かって歩きだした。

 

その月の十七日シンガポールが陥落して日本領となり、昭南島と名づけられたが、これはもう大層なお祭り騒ぎだった。我々も全校生徒が学区内を旗行列して回り、またしても御所八幡に戦勝祈念の参拝をした。担任の先生がゴムまりを生徒一人一個づつ無料で配ってくれた。

 

 

 

夜遅く帰ってきた父が、どこかで呑んできたらしい、ごきげんな様子で私に、竹細工のおもちゃを呉れた。早くいえば、それは竹製のでんでん太鼓で、表面に赤いエナメルで「皇軍は勝つ勝つ(カツカツ)と音がする」としたためてあった。皇軍というのは天皇の軍隊という意味である。

「どや。おもろいやろ。これ売れると思うか?」

私は首をかしげてにやにやと笑った。

「お母はん。」

と今度は祖母に話しかけた。

「わし、今度竹細工やろ思うねん。下京の方の工場を今日買いとりの話し付けてきた。やっぱり時代に乗ったことせなあかん。お母はん、これ見てみい。うまいことでけてるやろ。」

呉れたはずの竹のでんでん太鼓を私から奪いとると、祖母の目の前で鳴らしてみて、

「日本勝つ勝つや。こんなん作ってたら徴用にも取られへん。」

 

その後しばらくして父は竹製の「帽子掛け」を持ってかえった。それは「直径十センチぐらいの竹を四つ割にして五十センチほどの長さに切り、その左右に帽子掛けの型を糸鋸で切りぬいて、折りたたみ式に仕あげ、中央に笹の葉を切りぬき模様にあしらったものである。一目でなるほどという程度の代物だったが、それをさっそく家の鴨居に打ちつけて洋服を吊ってみせた。

「どうや。」

と父。

「これはうまいこと考えたある!」

祖母は自分の息子のアイデアに初めて感動していた。

二三日して、むかしの番頭さん、松沢善吉が尋ねてきたが、竹細工の工場を共同でやろうとの相談のようだった。

「近ごろは電器の方も時節がら節約節約で、も一つですわ。」

松沢氏は今は電気器具の小売店をやっているのである。

「街灯の球ひとつにしても、今まで個人のお宅で切れたら無料で替えてましたわなあ。その制度がなくなりました。近いうちに灯火管制ちゅうのが始まるらしおっせ。東京ではもう実施してるいう話や。電気工事もめっきり減ってきましてなあ。」

「そうかあ。えらいことなってんのやなあ。ほな、どうや。いっしょに手伝うてえな。」

「よろしおます。」

松沢氏は待ってましたとばかりの返事をした。話が決まり、あとは二人で酒を酌みかわし、祖母も混じって昔話に花が咲いた。私も祖母といっしょにかたわらで聞いていたが、松沢さんはむしろ私に、過去の栄華を聞かせたいふうだった。

「大だんさんはそらぁ豪気なお人どしたなあ、ねえ、ごりょんさん。あれはいつどしたかいなあ。ほれ和歌山に慰安旅行に行く言うて、店のもん引きつれて、みんなで行きましたがな。若だんさん、覚えてはりまっしゃろ。南海電車の一等車を貸しきりにして和歌山に繰りだした時のこと。おんなじ車両にたまたま徳川公爵の一行が乗ってきゃはってなあ。駅長が我々のところへ飛んできて、一等車を明けわたせと偉そうに言いますねん。それを大だんさんはあっさり断わらはりましたんや。ほんとだっせ、ボン!」

ボンと言うのは私のことである。

「ところが相手もさるもの、慌てる駅長に徳川はんは腹を立てるでもなく、普通車の方へ行くからよろしい。・・・和歌山駅に着くとそれが、市長やら警察署長やらが徳川公爵を出むかえにきてて、そのものものしいのにはびっくりしました。」

「あの頃が一番おやっさんの羽振りのよかった時や。」

仕方なさそうに父も話を合わせていた。

「それからなあ、善吉っぁん。」

父は松沢さんの話の腰を折って、

「もう若だんなとかは言わんといて。古くさいがな。これからは会社なんやさかいわしは社長や。あんたは専務ということでどうや。」

三月に入るといよいよ工場も動きだしたようで、おもに「帽子掛け」の製品が大きな木箱に詰められて、家の二階に運びこまれ、また包装用の紙箱も別に届けられると、私の勉強部屋がどんどん狭められていった。その上、祖母と私が、帽子掛けを長方形の紙箱に詰める手伝いをさせられた。箱の蓋には「マダケ」とか「ゴマダケ」とか「クロチク」とか「モウソウチク」とか竹の種類を書いたステッカーが貼ってあり、それに従って箱詰めにするのである。その代わり月ぎめの私のお小遣いは少し上がった。

 

 

 

都市ガスが少しずつ出がにぶくなっていた。もともとどこの家庭でも手あぶりの火鉢には炭、就寝時の足元暖房用こたつにはタドンを、煮炊きのおりに用いる七輪には炭や豆炭、長く煮る場合の練炭火鉢と使い分ければまだまだ事足りていた。木炭は炭俵入りのを兼業の米屋から一俵二俵単位で買い、それぞれ炭置き場に蓄えていた。我が家の炭置き場は畳半畳にも満たない狭い場所だったが、忠臣蔵で吉良が炭蔵に潜んでいたという話は、子供の私にもそれなりに理解できた。大ざっぱにいって木炭には硬い炭と比較的柔らかい炭の二種があり、火鉢には火が長持ちする堅炭を用い、煮炊きの七輪には軽く柔らかで火付きのよい炭を使い分けていた。柔らかい方の炭は我が家では切り炭と呼んでいたが、正式にはなんとか名前があったにちがいない。

火鉢の側に置かれた竹で編んだ炭取りに小出しした堅炭を、火箸で時々火鉢に炭を足すのだ。父は私が炭を継ごうとすると叱った。そんな些細なことに彼は異常にケチだった。それどころか、私が掌を火鉢の真中にかざしただけでも怒って、私の掌を叩いた。

煮炊きが終わったあと七輪の火を消して、まだ形の残った炭は「から消し」と呼んで、赤(銅製)の壷に保管した。さらに昔はどこの家の台所にも「おくどさん」という名の飯炊き釜が備わり、割り木でご飯を炊いていた。その割り木の燃え滓を壷に移し、次回の火だねに使用したので、それが「から消し壷」の本来の姿である。

俵詰めの炭が使い尽くされると空き俵が不用になる。それを冬の朝、各家の門前で燃やして藁灰を作る。これを我々は「どんどん」と呼んで、起きがけにその火を見つけると、飛んでいって我先に手や顔をあぶった。力のある者は前に、弱い子は肩越しとか、背後で屈み込んで人の足元から手を出してようやくあぶらせてもらった。私はしばしば後者だった。しかし、自分の家で「どんどん」を仕掛ける時だけは、さすがに誰も私を押しのけず、正々堂々とあたることができた。

俵の燃え尽きた後の藁灰は火鉢の回りに入れると縁まで熱くなりすごく暖かい。一俵の藁灰はたっぷりの量があって、残りは長火鉢に、そのまた残りは「から消し壷」に入れて保管しておく。

 

ある二月の寒い朝、炭俵が一つ空になった。勇んで表に担ぎだし、人目をはばかりながら、一方でだれかが見付けて駈けてくるのを期待しながら道の傍に空き俵を立てた。待つ間もなかった。たちまち五六人の子供に取りかこまれ、「早よ点けよ!」と促されて慌ててマッチを摺る。古新聞にまず火を点け、俵の底に敷いてある柴に燃えうつり、それがパチパチ音を立てだしたらその上に俵を筒型に乗せ、数秒煙が立ちこめた後、やがて赤い炎が藁の間から顔をのぞける。私は意気揚揚と燃え上がる炎に向きあっていた。

その時、見なれぬ三十歳くらいの女性が通りかかり、

「寒い、寒い。ちょっと当たらせて。」

と寄ってきた。ところが、焚き火の回りは満席状態で、うかつにだれも返事をしない。

「あ、いじわるやねえ。おばちゃんにも当たらせてよ!」

化粧の濃い、パーマのあたった髪に、派手目のワンピース、丈の短いオーバーを羽織っていた女は、我が家の古いアルバムに誰の仕業か、切りぬいて貼ってある水着姿の女優に似ていた。どうしてそんな行動に出たのか、私は自分の席を退いて友達の後ろに屈みこんだ。

「おおきに!ちょっと暖まったらすぐ退くさかいね。」

彼女が私に笑顔を作って見せた。すぐ側に立つ女のワンピースの裾から二本の細い足が覗いていた。さらに、女の膝裏から先に太ももへの延長線上、シュミーズの端がチラリと見えた。私は、その場に硬直していつまでも屈みつづけていた。焚き火の熱も加わって見るみる顔がほてってくるのを覚えた。

 

それから一週間ほどして、消し炭の壷の掃除を祖母が私に命じた。壷をひっくり返すと、ころころと何かが転がりでてきた。手に取り灰を拭ってよく見ると銀細工の指輪だった。私の頭を記憶が駆けめぐった。そうだ、あの時の女の持ち物に違いない。掌の上の指輪を眺めていると、彼女の横顔と細い両足とシュミーズが鮮やかによみがえってくる。

この「大事な」落し物のことを祖母にも誰にも打ちあけなかった。女が無くし物を探しに来るかもしれないと数日待ったが、その後二度と現れず、そのうちこちらもどこかへと仕舞い忘れ、今となってはいずれへ消えたかのかとんと覚えがない。

 

第三章 おわり

 

次回は7月1日に追加更新します。