消炭の壷4

 

 

 

 

 

 

消し炭の壷

 

第四章

 

昭和十七年(1942年)・・

 

四年生の新学期に入って間もなく、東京にB25爆撃機が十六機も飛んできて「空襲」と言う言葉が現実のものとなった。米軍機は太平洋上の空母から発進したらしく、大本営は「敵機の損害は大なり。我が方の被害は軽微。皇居はご安泰であらせられる。」と発表した。私たちは、敵は少しづつ島づたいにやってくるとばっかり思っていたのが、いきなり頭の上に飛んできたのである。そのことが私の関心を空に向けた。

 

私より一つ年下の村松富夫の叔父は、大阪で小鳥屋を営んでいたが、もはや「小鳥屋」は続くまいと廃業を決意し、四国の郷里へ引きはらうことになり、そのおり、鳥の一部は田舎に持ちかえったが、大かたの鳥たちは山野に放してやった。ただ、富夫が欲しがったので、登録ずみの鳩の子を二羽と、彼の妹には、当時まだ珍しかったインコ二羽を与えたうえに、叔父さんはわざわざ京都に一ヵ月あまり親鳩といっしょに泊りこんで、鳩舎を組みたて、餌付け方、鳩の帰巣訓練の仕方までを一通り富夫に教えてから、親鳩を連れて松山に帰った。

ある日、私は富夫の家に子鳩を見にいった。彼の家は特別広くはないが、前庭のある、外壁にツタが絡んだ古めかしい三階建ての洋館だった。庭の桜はもう散って青葉となり、その葉に小さな毛虫がわいて、用心して通らないと頭や背中に降りかかってきた。今は関東地区の陸軍病院に内勤している彼の父親が、内科医院を開業していたころの診療室である一階部分は、閉めきった状態となっていた。母親と妹は三部屋ある二階に寝おきし、三階を富夫が一人占めして使っていた。と言っても、早くいえば屋根裏部屋で、住まえるのは表の一間だけ、あとは小さな潜り戸を出ると、医院をやってたころの、今はちょっと広すぎる物干場に出た。ここへは一階の診療室の裏階段から直接登り降りでき、この物干し場の片すみに鳩舎がしつらえてあった。二羽とも片方の足に足輪がはまってはいたが、まだ今のところ生後二ヵ月余りで、物の役に立ちそうにない子鳩だった。それでも富夫に懐き、彼が餌をやると掌を突っついたり、おぼつかないはばたきようで飛びあがって、彼の肩に止まったりした。私が餌をやろうとすると、

「あかん、あかん。」

と富夫がすげなくさえぎった。

「伝書鳩は飼い主を決めとかなあかんのや。」

叔父に教えられたのだろう、ひとかどの言い訳をしたが、鳩の頭を撫でさせてはくれて、そこには五分刈り産毛がまだ残っていた。

 

一週間ほどして富夫が私を呼びにきた。

「ロ号がぼくの命令を分かって手に戻った。」

と言うのである。彼の子鳩には「イ号」「ロ号」の呼び名が付いていた。これは帝国海軍のイ号潜水艦ロ号潜水艦の名前から富夫が名付けたものだった。彼の家の裏階段を駈けあがると、二羽の鳩は鳩舎の中でぴょぴょ鳴いていたが、どちらが「イ号」なのか「ロ号」なのかは、私には区別できなかった。その内の一羽を取りだして、富夫は断じてこっちが「ロ号」だと言うのである。

「どこが違うんや。」

と聞くと、

「顔の模様が違う。」

と「ロ号」の嘴の付け根を差ししめした。

「こいつはここが白い。そやけど、あいつはここが灰色や。」

なるほど言われて見ればその通りだった。

「それから足の色もこいつは赤いけど、あいつはピンク色してる。性格も違うみたいやで。」

とも言った。彼は「ロ号」を自分の部屋に抱えていって、ドアを閉め、手を放した。子鳩は慣れない飛び方ではあったがパタパタはばたいて、丸型の洋服掛けの手の一つに止まり、そこで満足そうにくっくっと鳴いた。

「あれ!」と富夫が叫ぶ。「ロ号がこんなふうに鳴いたん初めてや。」

私には鳩がどう鳴こうと大して意味がないように思えた。洋服掛けと対角線の部屋の隅に富夫が歩いていき、畳の上にどかっと座った。

「謙ちゃん、そこ動かんと見ててや。」

富夫がポケットから、小さな竹パイプのようなものを取りだしてきて口にくわえ、「ピィッ!」と吹いたが、鳩は洋服掛けの枝で素知らぬふうにまた「くっくっ」と鳴いていた。もう一度富夫が竹笛を吹くが、「ロ号」はふしぎそうに富夫を眺めているばかりで、なんの反応も示さなかった。少しいら立ってきて富夫が、別なポケットから紙袋を出して、中の餌を手に掴んだとたん、「ロ号」が目ざとく見つけて、ぱたぱたと二三度はばたく練習をしたと思うと、ひらりと空中に飛びあがった。紙袋を放りだした手で富夫が、目の色を変えて、素早く笛をピッと吹いたのと、「ロ号」が手元の餌にたどり着いたのは、私の目にはほとんど同時に見えた。にも関わらず、てのひらの麻の実を突っつく「ロ号」をいとおしげに見まもりながら、富夫が私に言った。

「謙ちゃん!見たやろ。笛を吹いたらこいつ、ぼくの手に飛んできよった。」

 

しかし、それがやがて富夫の思いすごしでないことが実証された。

次の日曜日の午後、また富夫が呼びにきた。今度は「イ号」も「ロ号」も間ちがいなく餌付けに成功したというのである。私は暇でもあり、興味がなくもなかったので、誘われるままに出かけていった。桜の木に毛虫のついた庭先を横ぎって勝手口へ回るのが私には辛かったが、そこの裏階段から三階に上がると、物干しにセキセイインコの鳥篭を日盛りに置き、妹の咲子が屈みこんで、しきりに小鳥に話しかけながら、篭のすき間からインコにハコベを食べさせていた。

「ピーチャン、ピーちゃん。たんと食べて大きなりや。」

すっかり熱中しているらしく、私たちが上がってきても、まったく気がつかない様子だった。

富夫は鳩舎から鳩を一羽ずつ取りだしてきて、自分の部屋へ連れていっては放した。二羽とももうピヨピヨとは言わず、時々くっくっと鳴いた。丸い洋服掛けの好みの枝を選んで一羽づつ止まっていたが、横目で見慣れぬ他人の私をじろじろ観察しているふうだった。

この前と同様、富夫は対角線の隅に陣どって、

「行くで!謙ちゃん。」

おもむろに竹笛をぴゅうと吹いた。すると、鳩たちは私の観察を止め、同時にばたばたと急いで飛びあがり、迷わず富夫の両肩に飛んでいって留まった。出来のいい生徒に富夫はポケットから餌の袋を取りだし、ごほうびの麻の実一粒を「イ号」に、もう一粒を「ロ号」に与え、誇らしげに私の方に振りむいた。

「どうや!」

「すごい!」

と私は叫んだ。

 

以下2003.8.1追加更新 

 

部屋の壁に貼った世界地図は、私の赤鉛筆の丸印で、ずいぶん埋った。ホンコン、マレー半島、シンガポール、マニラ、レイテ、ミンダナオ、スマトラ、ジャワ、ラングーン、マンダレー・・・たかだか四年生の私が、こんなに沢山の世界の地名を覚えたのである。その上、赤丸印を地図の上にもっともっと記入したい、今度は多分この辺りにと野望がふくらみ、またその願いが次々に叶えられていった。

 

五月に入り、鎌田と二人で富夫の家を訪問した。取引先の果樹園に毛虫取りの手伝いに行った経験がある鎌田が、桜についた毛虫退治を自分がやろうと買って出たので、連れていったのである。富夫をまだ呼びだしてもいないうちに鎌田は、いきなり桜の木に登りだして、軍手をはめた手で毛虫を摘まんでは、持ってきた紙袋に放りこんだ。やがて富夫の母親が二メートル高の脚立を納屋から担ぎだしてきたので、それにまたがったり、その狭い鞍の部分に爪先だちしたりして、枝先の毛虫を丹念に見つけては摘みとり、半時間もすると、あんパンを入れるぐらいの紙袋が毛虫でいっぱいになった。晴れた日で陽ざしがぎらぎらしていて、見あげているだけの私でさえ、しばらくすると額に汗がにじんできた。軍手の甲で顔の汗を拭きながら、脚立から降りてきた鎌田を、おばさんが頭や背中を点検して、二三の毛虫を割箸で摘みとってやり、

「昭次さん、ありがと、助かったわ、ありがとネ。」

しきりに礼を言った。濡れ手拭を絞ってきて鎌田の顔や手を拭いてやり、始めから仕舞いまでただ眺めていただけの私と、今日の主役鎌田を二階の応接間に案内して、お茶とカルメラ焼きを出してくれた。すでに砂糖は配給物資だったから、私たちは目を輝かせて食べた。おばさんは嬉しそうにもう一つずつカルメラ焼きを焼いてきてくれ、

「これでオシマイ。でもこんなの食べたことはナイショよ。」

と言った。村松の父が東京の陸軍病院に勤めていることを私は思いだしていたが、実は私の父も、どこからか知らないが砂糖や玉子などの配給品を貰ってかえってくることがあった。

この部屋は、富夫の父親が家にいる時には書斎に使っていたらしく、床の間には、学校の職員室の額の文字と同じ「質実剛健」の掛軸が掛かっていた。カルメラ焼きに集中していて、それまで気がつかなかったが、いつの間にやら部屋に妹の咲子が来て、鳥篭の中のセキセイインコとおしゃべりしていた。この春入学したての彼女は、白い卵におかっぱの髪を被せたような、口元の小さい、目立たない女の子だった。まだ幼く前掛けなどして、背中で結んだ蝶むすびがかわいかった。

「チャカちゃん、おとなしくしてなさい。今餌箱のお掃除をして上げてるんでちょ。」

とセキセイインコに幼児言葉で話し掛けていた。

「お行儀が悪いわねえ。ご飯の中にウンチをして!駄目でちょ。ピーちゃん、あんたもよ。」

篭の中には黄色と緑色のと二羽のセキセイインコが、別々のブランコに止って、咲子の手元を見つめていた。粟粒の餌を入れた箱を戸口から彼女が差しいれたとたん、いち早く緑色の方が、恐らくこちらが「チャカちゃん」だろう、餌に向かって飛びおりた。「ピーちゃん」はおとなしくブランコに止ったまま、餌箱をほじくる相棒の素早い動作を観察していた。

「咲子、お兄ちゃんたちに小鳥を見せておあげ。」

と母親が声を掛けた。

「勝手に見にきたらええやろ。」

振りむきもせずに咲子が言いかえした。このさい、咲子のごきげんでも取りむすばないと、接待を受ける理由のない私は、仕方なしに彼女にすり寄っていって、

「咲ちゃん、どうしてこの子がピー子なん?」

黄色いのを指さして聞いてみた。咲子は篭の目の間から、自分のちっちゃな不器用な指で、もどかしそうに一生懸命ハコベを突っこみながら、

「ピー子と違う。ほんとはピーポーちゃん。長いからピーちゃんていうんよ。どうしてかいうたらピーポーて鳴くさかい。」

「なーるへそ!ほんなら、チャカちゃんはチャカチャカて鳴くのか?」

さらに私が聞いた。

「この子、チャカチャカ歩くねん。」

我々の会話のあいだ咲子の母親は、いとおしくて溜まらなそうなまなざしで、じっと我が娘の仕草を眺めていた。

「咲子とのお遊びはこれまで。」

と富夫がじれったそうに遮った。

「これから鳩の訓練をするけど、おまえも来るか?」

「うん!」

咲子も大きく頷いた。

物干し場の鳩舎から富夫がまず「ロ号」を取りだしてきて、部屋に放ち、今日は隣の空き部屋と二部屋の間を飛ばせようというのだった。表の間の洋服掛けからは、次の間の物干への戸口あたりに陣取った富夫は見とおせないから、「ロ号」が笛の音で飛んできたなら、明らかに彼の命令に従ったことになる。その実験は我々が見てる目の前で成功した!「イ号」についても同様だった。

「あとは部屋の外で距離を伸ばすだけや。」

富夫の顔は自信に満ちていた。

「その先どうする気や?」

私が聞いてみた。

「・・・」

「鳩部隊を作ったらどうや!」

と鎌田が気の利いたことを言ってのけた。

「伝書鳩隊か!ええ考えやなあ。野戦部隊や。」

私が賛成した。

「それ何のこと?」

心配そうに富夫が聞きかえした。

「見はらしのええとこへ陣どって。ぼくらで空の見はりをするのや。敵機とか怪しい物を見つけたら伝書鳩で連絡する。どうや!」

もう一つ脈略を欠いていたが、自分ではこれこそお国のためになると考えた。我々はそのころ「少国民」と呼ばれていた。

「あたしも入れて、入れて!」

ピョンピョン跳び跳ねながら咲子が大きな声を張りあげた。

 

以下2003.9.1追加更新 

 

二階にある父の桐の箪笥のひきだしに、小型の双眼鏡が仕舞ってあるのを私は知っていた。鋲を打った頑強なボール紙の箱の上書きは、英語で製造販売元とかが書いてあったが、恐らくアメリカ製と思われ、さらに手提げの革のサックに入った双眼鏡には眼鏡の縁に「×8」と金文字が読めた。 私は双眼鏡をぶら提げて富夫の家に出かけた。

鎌田もすでに来ていて、彼は肩に懸けたカーキ色の水筒を外して、その蓋をみんなに示した。小さな磁石が仕こまれてた蓋の頭を、くるくると回して抜きとり、畳の上に置くと、針がぶるぶる振れて、やがて北の方角にピタリと止った。

「隊の名前をどうする?」

「マメ連隊はどうや。」

鳩に豆。・・・なるほど!近頃鎌田はなかなか冴えていた。全員賛成で「豆連隊」に決定し、三人の分担も次のように決めた。村松富夫は鳩隊長、鎌田昭次は斥候隊長、そして私が監視隊長であった。

おり悪しく咲子が上がってきた。「あたしはなに隊長?」

「咲子はここで鳩の帰りを待っててくれ。」

「いや!あたしも行く!」

「ぼくら大屋根登るぞお!咲ちゃんは危ない。ここで待ってて、もし鳩がけがして帰ってきたら手当してやって。なあ、かわいい看護婦さん!」

 

さっそく「豆連隊」は鳩隊長が「イ号」を籐の鳩篭に移し、私の家の二階へ本隊移動した。ちょうど祖母が階段の拭き掃除をしていた。

「今日はまたみんなで勉強か?」

「まあな。おばあちゃん下降りとって。上がってきたらあかんでぇ。」

祖母が降りていくと、片隅に積みあげられた「勝ち勝ちおもちゃ」を富夫が取りあげてカチカチ鳴らした。

「これなんて読むねん?」

「コーグン、日本軍のことを皇軍て言うねん。」

「勝つ勝つと音がする、ておもろいなあ。」

「一つ咲ちゃんにやるさかい、持ってかえれ。」

「こんなもん欲しがりよらへんで。赤ん坊やないし。」

「そやろなあ。こんなん売れるはずないなあ。」

二階の物干しの柱伝いに一人ずつ大屋根によじ登った。正月に凧を上げるのに登った経験はあるが、元々高い所は苦手な私は、少し風も出ていたので、双眼鏡をポケットに仕舞い、四つん這いになって、瓦の波に這いつくばるようにしてようやく真ん中の峰に達した。富夫は一年下の癖に、もう少し安楽に、片手に鳩の篭を提げて中腰にひょいひょいと登った。なにより驚いたのは昭次だった。彼はまるでそこが平地と変わらぬありさまで、立ったまま軽々と中央に達してからも、私と富夫が瓦の峰にまたがって、恐るおそる座っているのをあざ笑うように、そのままイラカを走り降りていき、樋の近くでようやく立ちどまって下の道路を覗きこんだ。彼の軽業を見ている間、私の方が目の前がくらくらし、股間の縮む思いがした。

「立花。おまえも来いや。ええ眺めやでぇ!あっ、トラックが来よった。荷物丸見えや。」

それからまたとんとんと、まるでイタチのように我々の所へ登ってきて、

「さあ飛ばせよ、富夫!」

と気持よさそうに言った。

ふと私は双眼鏡で富夫の家の方角を覗いてみた。彼の家は三階建てなので肉眼でもすぐに目についたが、それでも双眼鏡で見ると、ついそこに物干場があり、咲子が鳩舎の脇に膝を抱えて待ちくたびれてるのが、手に取るように分かった。

「よしええぞ。準備オッケー!」

震えながら私が訳の分からぬ命令を発した。

「こっちが北や。」

と、水筒の蓋に屈みこんで、鎌田が右手の腕を伸ばし、御所の方向を指さした。富夫は我々の指示をまったく意には介せず、ゆっくりと篭から「イ号」を取りだし、両手でしっかり腹のところを抱えると、念ずるように背中に頬ずりをしてから、ぱっと空に向かって放りだした。「イ号」は五月の空に一回転してから、矢のように富夫の家に向かってはばたいた。私は双眼鏡を目に当てがい、鳩舎に狙いを定めて焦点を合わせたので、物の見事に「イ号」が鳩舎の屋根に着陸する瞬間を捉えることができた。ところで咲子はどうしているだろうと、双眼鏡の手元を動かすと、彼女はあいかわらず両膝を抱いて、物干場の床に尻を落としていたが、よく見ると、待ちくたびれて居ねむりをしているらしかった。日だまりに暖まって、いかにも気持よげにこっくりこっくりしているのだった。

 

北方ではアリューシャン列島のアッツ島キスカ島を日本軍が占領し、また南方ミッドウェーで日本は大戦果を上げていた。

その時、咲子のセキセイインコが巣箱に卵を生んだ。

めす鳥は巣箱にはいったままで卵を抱いて、時たま小さな丸窓から顔だけを出すが、我々が鳥篭を覗きこむと、止り木のおすが警戒心をまざまざと露わにして、バタバタとはばたいた。しかし、さすがに親身で餌を与え、水を替えてやっている咲子にだけは、おすも気を許しているのか、入口から手を差しこんでも黙ってブランコに止っていた。 

「藁の上に大豆かもう少し大きいくらいの卵が三個並んでるんや。」

と富夫がいつの間に確かめたのか、そう解説した。

咲子は学校から帰るとすぐ物干場に駈けあがり、夜寝るまで卵の番をしているのだと、彼女の母親が話したが、私でさえ気にかかり、ほとんど毎日のように富夫の家に入りびたった。近ごろ土曜や日曜になると、意地悪く雨が降りだすので、伝書鳩の訓練は、もっぱら家の中での運動ていどを、富夫が一人で実行していた。鎌田も野菜が配給制度になり、配給日には母の手伝いで忙しく、遊ぶ間はないようだった。暇を持て余していた私がただ一人、富夫の部屋で日がな一日ごろごろと「タンクタンクロウ」の漫画を読んですごしていた。

 

六月半ば、本格的に梅雨に入って、昼ごろから土砂降りになったその日、はだしに下駄ばきで、番傘に身を埋めるようにして、学校からやっと家の前まで辿りついたら、戸口の軒先に咲子が小さな傘をさして立っていた。

「謙ちゃん!二ヒキ生まれた!見にきて!」

かなりな時間私の帰りを待っていたらしい咲子は、足元がびしょびしょに濡れていた。

「ずぶ濡れやなあ。かぜ引くでぇ。はよ帰ってお母さんに拭いてもらい。」

「すぐ見にきてなあ!」

水溜まりを気にもとめずに咲子は一目散に走ってかえった。

富夫もすでに学校から帰っていたが、セキセイインコの雛にはあまり興味がないらしく、むしろ鳩舎に油紙を懸けるのに一生懸命だった。強い降りで、鳩舎の明り取りからシブキが飛びこみ、「イ号」も「ロ号」も寒そうに胸を膨らましていた。

一方セキセイインコの雛は、母親の話ではすでに生まれて十日経ち、親鳥からも巣箱からも引きはなして、小さな段ボウル箱に新聞紙を敷いて、その中に移してあった。咲子のそばには母親が付きそって、いっしょに雛に餌をやっていたが、私が来ると待ちかねていたように、

「立花クン、ちょっと代わってよ。私もう疲れちゃった。お買い物にも行ってこなくっちゃ。」

と言った。二羽とも赤はだかに大きすぎるクチバシ、不格好な歩きかたをして、期待はずれの醜い雛で、そのくせ体にそぐわない、けたたましい声でピヨピヨと絶えまなく鳴いていた。

「卵は三個やなかったん?」

「一つはかえらなかったわ。それでも親はまだ抱いてるのよ。ねえ、立花君。雛の餌はね、ぬるま湯に浸して柔らかくしてあるのよ。おサジで口に押しつけたら、気の済むまで食べるから、ちょっとやってみて。」

おばさんはほとんど強引に餌づけを私に交代させ、

「咲子にも教えてくれたらいいわ。」

と言いすてて、さっさと階下へ逃げて行ってしまった。サジにお湯でふやけた粟つぶをたっぷりすくって、雛の口元に持っていくと、まるで狂ったように首を細かく上下させてガツガツと食った。片方に餌をやっている間、もう一方の雛は、今にも飢えて死にしそうな悲痛な鳴き声で餌をねだるのだった。

「咲ちゃんもやってみるか?」

かたずをのんで私の手元を見つめている咲子に声を掛けた。

「うん!やってみたい。」

彼女は初めのうち不器用に餌をこぼしたりしていたが、やがてうまくサジが扱えるようになった。

「今度はぼくにもやらせて。」

今しがたまで気乗りのしなかったこの作業が、急に私の身についてきた。

「咲ちゃん!ぼくにもやらせろよ!」

 

祖母が二日ばかり寝こんだのは六月の末だった。竹の帽子掛けの箱づめを、私といっしょに手伝っていて、

「ちょっと疲れた。謙吉、ふとん敷いてくれるか。」

私が敷いてやったふとんにくるまって、そのままぐうぐう寝てしまって、夕方父が帰って来ても、まだ祖母は寝たままだった。その日の夕食は父が作った。夜の八時ごろにやっと目を覚まし、おかゆを好物の梅干で旨そうに食べて、それからまた横になり、すやすや低いいびきを立てて朝まで寝こんだ。

同じ部屋に寝起きしている私は、朝、祖母の肩がかすかに呼吸しているのを確かめるとほっとした。朝食も父がこしらえた。

昼と晩は広田の伯母が手伝いに来てくれたが、父は工場へは行かなかったようだ。その翌日の夕方、祖母はやっと起きだした。それでも広田の伯母はさらに二三日の間、昼食と夕食の手伝いに来てくれた。

ちょうどその頃、父の親友の黒田さんが杖をついて尋ねてきた。私は伯母の作ってくれた味噌あんの蒸かしまんじゅうを台所で頬ばっていた。

「へえ、お母はんが病気かいな。そら悪かったなあ。あの達者なお人がなあ。やっぱり年には勝てんわなあ。お姉さんも大変ですなあ。」

お茶を出してくれた広田の伯母にも、黒田さんは労いの言葉を掛けたが、彼の目がどこまで見えるのか私にはよく分からなかった。

「ガダルカナルとかいう島の取りあい、それが大分苦戦してるて話やでぇ。」

父と黒田さんはいつものように時局の話ばかりしていた。

「立花君。これは内密やけどなあ、こないだのミッドウェー沖の海戦でなあ、勝ったんはあちらさんやていうことや。こっちは大損害らしい。」

「ほんまかいな?そやかて大本営の発表では航空母艦を二隻も撃沈したて言うのと違うのか?」

「あれは大嘘や。」

黒田さんが平然と言いはなった。

「謙吉!」

と父が台所の私にふすま越しに声を掛けた。

「こんなことヨソで喋るなよ!」

 

以下2003.10.1追加更新 

 

夏休みに入って、いよいよ遠隔訓練に挑戦することとなった。今度の目的は東山の一角、将軍塚から鳩を放して巣に戻す実験だが、標的の将軍塚には去年の遠足に登ったことがあり、むりのない三百メートルくらいの小山だった。

「今日はイ号を出動させる。」

鳩隊長が宣言した。

我々「豆連隊」は朝九時ごろに本部、つまり村松富夫の家を徒歩で出発したが、出かける前に診察室の寒暖計で室温を確かめた時、すでに赤い柱が二十八度にまで登っていた。鎌田昭次のカーキー色の水筒には番茶がたっぷり入っているとはいえ、朝日に向かって歩いたので、鴨川に架かる三条大橋に出た時に、すでにランニングシャツは胸の汗を吸い、口はカラカラだった。対岸の堤を走る京阪電車のレールの辺りに、ゆらゆらとかげろうが立ちのぼっている。橋のらんかんの間から首を出して流れを見おろすと、いつもは騒々しいセキの水音が涼しく聞こえ、橋のたもとで御所に向かって土下座している「高山彦九郎」の額からも、汗が流れおちてきそうに思えた。

まるっきり日陰のない三条通りを我々は、さらに東に向かって、帽子も被らずに歩いた。やがて東山の木々の緑がしだいに目の前に迫ってきて、朱色のランカンの美しい都ホテルの建物が山すそに沿って姿を現わし、今しも外国人らしい宿泊客を乗せた二台の人力車が、中腹の車止めから車夫に引かれて下りてきた。「都ホテル」のあたりは私には遠い別世界のようで、こんなに近くで見ていても「異国」そのものだった。

ホテルの脇から山に分けいる細い道がうねうねと登っていた。

「昭ちゃん。前に遠足で来た時は、粟田神社から山にはいったと思たけどなあ。ちごたか?」

心細げに私が鎌田の顔を見た。

「こっちが近道や。」

と、私に構わず昭次はどんどん先に登っていった。道すがら、ホテルのちょうど西側の一部の建物がテントで覆われ、中で解体作業が行われている様子で、テントをさらに取り囲む板囲いには「大政翼賛、民需施設供出資材 都ホテル」とか大きな文字が書いてあった。ホテルの一部までお国のために供出することになっているのだろうか。潅木を掻きわけて、二百メートルばかり辿ると、やや平坦な林道に出たが、そこからは平安神宮の大きな鳥居や、黒谷の三重の塔が、さらにその向こうに紺色の北山が見わたせた。我々は道端の杉の倒木に腰掛けて、順番に昭次の水筒から番茶を飲んだ。ぐしょぐしょのランニングシャツから蒸気が立ちのぼり、やがて肌が心地よく冷えてきた。その時、富夫が大きなくしゃみを一つした。とたんに手にした鳩の篭を取りおとし、それが地面の小石に跳ねて篭の蓋が開いた。中の「イ号」がばたばた暴れ、私が手を差し伸べるとますます驚いて、パッと空中に舞いあがり、かたわらの松の梢に止まった。

「えらいこっちゃ!どうしよう・・・」

「イ号」を驚かせた責任を感じ、顔を引きつらせた私は双眼鏡を握りしめた。

「俺が捕まえてくる。」

と鎌田が松の木に登りはじめ、私が双眼鏡で援護した。「もうちょっと右、右!」

「心配ない。」

落ちついて、ズボンのポケットから竹笛を取りだした富夫が「イ号」に向かってピュッと吹くと、「イ号」は、自由な自然の空気をもう一呼吸してから、諦めたように主人の手元目がけてひらりと舞いおりてきた。一方、かなりの高さまで登っていた鎌田は、下界を眺めまわして、すぐには下りてこなかった。

「ええ景色や!」

その時だった。近くの雑木の小枝に、見たことのない鳥を私は発見した。鳩よりは幾分小さく、全体が緑色ではあるが、木もれ日に当ると肩のところが赤色にも輝いた。

「わあ!変わってるぞ!」

喚くように言って、私は慌てて双眼鏡を構えた。焦点を合わせているうちに緑色の鳥はすいと飛びたち、前の林の中に隠れた。ほとんど足元も確かめずに熊笹を踏んで、私が潅木の中を分けていくと、どこか木のテッペンあたりでポーポーと鳴いている。双眼鏡を目に当て、鳴き声を頼りに懸命に探すうち、ふたたび見つけた。下から見あげると頭が黄色く、腹は黄緑の柔らかい毛で覆われていた。すばしっこい鎌田がもう木から下りて、私の側まで駈けよってきた。

「どんな鳥や?おれにも見せてくれ。」

双眼鏡を私からムシリ取り、

「どこや、どこや?」

と声を潜めた。私が指さす所をしばらく探していたが、

「見えた、見えた!分かったぞ!あれはアオバトや!」

「アオバト?」

「前に果樹園で見たことがある。それも十羽ほど群れてるとこを。そらあ、夢みたいにきれいやったでぇ。」

「アオバトかぁ!」

私が感嘆の声を発したとたんに、アオバトはまたさっと飛びたち、夏空を横ぎって我々の進む方向に飛んだ。そして、傾いた電柱のような奇妙な物体の先に止り、またもや奇妙な声でポーアポーと鳴いた。今度は木の葉が邪魔しなかったので、じっくり三人で交代にアオバトを眺めることができた。

ふたたび私の番に回ってきた時、

「あっ!」

と私はかたずを飲んだ。うごめく人影を私は見たのだ。双眼鏡の中に頭が、鉄カブトを被った兵隊の頭がレンズの右から左に移動した。電柱のように見えたその細長い物体の先にはもうアオバトの姿はなかった。

「あれをよう見てみい。」

と私は鎌田に双眼鏡を渡した。

「す、すごいなあ!」

と鎌田は今度は富夫に双眼鏡を回した。鳩の篭を脇に置いて、富夫も双眼鏡を覗いた。

「兵隊さんや!あれ、もしかしたら高射砲違うんか?」

「しっ!・・・」

私達は陣地を見あげる位置にあり、鉄カブトの姿はそれっきり視界から消えたが、どこかに監視塔があるに違いなかった。きびすを返して一目散に来た道を駆けもどった。振りかえり、高射砲の先が見えなくなったのを確かめ、やっと山の斜面で立ちどまったが、みんな荒い息をして汗をたっぷりかいていた。

後、我が「豆連隊」水筒の茶を回し飲みしたは茂みに身を隠し、「イ号」を密かに取りだした。メモに次のように記して通信筒に込め、本部目がけて発信したのである。

「ワレ アオバトヲ ハッケンス」

 

以下2003.11.1追加更新 

 

祖母が倒れたのは九月の半ばごろ、まだ残暑の厳しい日だった。学校から戻ると祖母は奥の間にふとんを敷き、薄くいびきを立てて眠っていた。父は工場へ出かけてしまっているようで、広田の伯母が裏庭にたらいを出して、祖母のジュバンや腰巻きを洗濯していた。

「おばあちゃんどこが悪いの?伯母さん。」

「ああ、お帰り。なんせもう年やさかいになあ、どこが悪いていうこともないけどなあ。」

腰を伸ばし、私を振りかえって伯母が小声になった。

「おばあちゃん、おもらししやはってん。」

祖母はいつかのように昏睡状態で丸一日過ごした。

やっと目を覚ました彼女は側に付きそっていた伯母に、

「ふく、あてアイスクリンが食べたい。」

とぽつりと言った。

さっそく伯母は自分の家から、家庭用のアイスクリーム製造器を運んできた。それは寸胴鍋を重ねて上部にハンドルを付けた器具で、隙間に掻き氷を詰め、父がどこかから闇で調達してきた材料の卵、牛乳、砂糖の入った中の器をぐるぐる回すと、やがてアイスクリームらしい物が出来上がるのだった。奇妙なバネつきの杓子で半球の型に掬いとり、ギヤマンの小皿に移して祖母に食べさせた。

「冷とうておいしい・・・」

一口食べて目を細めたが、二口目には黙りこみ、三口目になると顔をしかめた。小皿に半分ほど残して、

「おおきに、ごっつぉさん。」

とサジを置いた。

「そうしとおき、またようなったらなんぼでも食べられるさかいな。」

まるで親が子供を諭すように、実の母に向かって猫なで声を出した。私もお相伴したが、冷たくて甘くて、なんとも言えずおいしかった。

 

闇米を押収されて父が一晩を留置所で明かしたのはこの数日後だった。私が学校に行く少し前に、寝不足の顔で父は戻ってきて、泊りこんでくれていた伯母に向かって、

「姉さん、悪いけど、わし腹減ってるねん。朝飯食べてしまへん。顔も洗わんならんし・・・」

照れ隠しに父は伸びたひげをさすってみせた。

「へえ、よんべも食べてへんのかいな?」

「いや、晩には麦飯を食わされた。梅干と味噌汁、それから汚い湯呑に白湯を一杯・・・」

「ご苦労さんやったなあ。」

「工場から、米三斗持っていかれた。いきなりはいって来て家宅捜査や。トラックで乗りつけて、ものの十分もせんうちに・・・」

「あんたは気の弱いくせに、そんな目立つことして、格好の悪い。それにしてももったいないなあ。三斗もあったら、三月分あるやろに。」

「一人一斗やがな。松沢と主任と三人で一斗づつや。・・・母親が病気やさかい、おかいさんの一杯も食べさせてやりたい言うたら、警察のやつ、ほな三合だけ持って帰れいうて、それでも呉れたわ。」

父は古新聞に包んだ白米を大事そうに伯母に渡した。

「よう呉れたなあ。呉れただけマシどっせ。それをまた三人で分けるんかいな。」

「あほな。これはわしの役得や。」

「お粥一杯て言うさかいや。」伯母も笑いながら、「あと半年の寿命どす、せめて白いご飯をお腹一杯食べさせてやりたい、とか言うたらよかったのに。」

「わしは姉さんほど人が悪ないもんな。ところで、お母はん、どうやいな。」

「さっき、お餅を炊いたん一口食べはった。」

麦の半分混ざったご飯にお茶をかけ、浅漬けの大根をぽりぽり噛みながら父が情けなそうにぼそぼそ言った。

「いつまでも姉さんに手伝いに来てもらうわけにはいかんわなあ。」

 

お彼岸の前の日、大分元気を取りもどした祖母が、私を枕元に呼んで、

「お仏壇の掃除、謙吉、できるやろ。いつも手伝うてくれてたもんな。やっといて。それからお花を買うてきてえな。」

五銭玉を格子じまの銭入れから出してきた。その布財布には見おぼえがあった。まだ太秦大薮町に住んでいたころ、祖父がやはり病気で伏せっていたその枕元で見かけた財布だった。

「これ、おじいちゃんの財布と違うんか?」

と思わず聞いた。

「これはあてのどす。中が赤いやろ。女もんやがな。」

「おじいちゃんが死ぬ前、同じもんが枕元にあったもん。」

「そやさかい、あれはあてのどす。」

同じことを繰りかえしたが、祖母が存外しっかりした口調でこんな話をした。

「まあ、お座りやす、ちょっと聞かせてあげよ。お前のおじいさんはな、偉い人やったけど、勝手なお人どした。一生あてのこと嫌ろてはったくせに、最後の最後に、あての財布を枕の下に置いて亡うならはった。」

「・・・?」

「あての旦那はんはなあ、元はあてのうちの番頭はんでしたんや。分家の時になあ、嫌々あてをお嫁に貰らはったんどす。それで、あてのことずっと嫌いっぱなしどしたんや。」

「ふうーん。そしたらおばあちゃんが、おじいちゃんのこと好きやったん?」

「あても嫌いどしたえ。」

私はあっけに取られた。

「ほな、なんでお嫁に行ったんやな。嫌い同士でずっと夫婦やってたんか?」

「まあ、そんなとこやなあ。・・・お駄賃に五銭あげまひょ。」

と祖母は格子じまの財布からもう一枚五銭玉を取りだして私に握らせた。その上で、

「これはお祖父さんのお金と違いまっせ。分かってますか。」

と念を押した。

 

以下2003.12.1追加更新

 

祖母が倒れて二三日後には広田の伯母の紹介で、志乃さんという家政婦さんが、朝ご飯から晩ご飯の間を付きそってくれることになった。志乃さんは父とは十以上も年上で、当時すでに五十歳をいくつか越えていたと思う。元気はつらつなおばさんで、祖母の付きそいはもちろん、掃除、洗濯、炊飯、煮炊き、買い物、一切をやってのけた。仏壇の掃除だけは、

「他人の私がやるとバチが当ります。」

と言って手を付けなかったが、そのかわりを、祖母の言いつけに従って私が引きうけたというわけではない。伯母の話では志乃さんはネズミ年だというから、なるほどこれはエトの通りだと理解でき、父も伯母もほっと一安心していた。祖母の床は二階の奥の間に移され、台所からも客の出入りからも遠ざかって、ただ静かに夜具に包まっていればよかったのだが、一面、日増しに祖母は言葉を失っていくように私には思えた。

 

朝六時、校庭に集合するよう指示があった。

志乃さんは五時前にやって来て、私のために朝ご飯の用意をしてくれたが、この頃の朝食は薄い味噌汁に小麦粉の団子を浮かしただけの代用食だったから、そう手間は掛からないはずである。私は五時半にようやく起きだし、台所に行くと志乃さんが、

「お早ようございます、坊ちゃん。」

とにこにこと挨拶した。「坊ちゃん」などと人に呼ばれたのが初めてだから、まだ眠い上に煩わしくて、

「どうしてそんなに早よから出てきたのん。そんなこと頼んでへんのに・・・」

感謝とはほど遠い挨拶をした。

「それから、志乃さん、坊ちゃんは止めて。」

「へえ?坊ちゃんと呼んだらいけまへんか。ほんならどうお呼びしたらよろしおますねん?」

「謙吉ていう名前があるやろがな。」

四年生以上が召集され、我々はそれぞれ胸に白い布で名札を付けていた。まだ明け切らない、ひんやりした澄んだ空気が校庭にみなぎっていて、校長以下の男の先生は戦闘帽にカーキー色の国防服、脚にはゲートルを巻き、女の先生も、それから女生徒も、髪を鉢巻で括り、モンペと呼ぶ木綿製で足首が締まった長ズボンを履いていた。

六年生に教錬を教えている退役下士官が軍服に軍刀姿で朝礼に参加した。挙手の礼に始まる校長先生の挨拶は、口調も内容も、すべて軍隊調だった。我々も六年生の号令で「校長先生に対しカシラ ナカ!」の軍隊式敬礼をした。それから、校旗を先頭に四年生男子から順次、

「歩調とれぇ!」

の号令で行進を開始した。「歩調を取る」とは、足の膝を腰まで上げ、手を肩まで真っすぐ振りあげて歩くスタイルのことである。我々は校門を出て、

「直れ!」

の号令で並み足に戻った。

「どこ行くねん?」

と私はこんなことにはいつも鈍感だったが、聞いた柴田も知らないらしくて、質問したことを忘れかけたころ、かなたの方から答えが戻ってきた。

「岡崎公園へ行くんや。」

鴨川を渡ると早朝の川風が柳を吹き乱していたが、薄寒い朝にも関わらず、私達は懸命に歩いていたので肌はむしろ汗ばんだ。

やがて平安神宮の大鳥居の前で一同立ちどまり、隊列左向き、拝礼する。

「右むけえミギ!歩調とれえ!」

の号令がかかった。また歩調を取って歩きだし、そのままグランドに突入したが、会場はすでに市内の国民学校から集まった児童で半ば埋っていた。

「連隊、とまれ!」

私達は疲れて、隣同士友達と話しこむ元気もなかった。決起大会の目的がなにだったのかは覚えていない。次々と演壇に戦闘帽が立ち、限りなく訓示が続いた。疲れと空腹で頭がぼおっとしてきた矢先、斜め向こうの他校の女生徒が倒れたので私ははっと目が冴えた。後ろでも誰かが倒れ、鉢巻にもんぺ姿の女先生が肩に担いでどこかへ運んでいった。

 

その日の夕方、岩崎の叔父夫婦が、祖母の病気見舞いに、東京からわざわざやって来たのである。

「汽車の切符もなかなか取れんでなあ。」

叔父が手に提げた油紙の包みから取りだしたのは、羽根をむしられて丸はだかにされた二羽の若どりだった。まだトサカが付いた鳥の顔には、絞められた時の苦痛を訴えるような白目が私を見すえていた。

「これ、川越の農家で分けてもろたんや。近ごろ都会ではカシワなんかは滅多に手に入らんやろ、兄さん。」

そばから元子叔母が付けくわえた。

「一羽五十銭しましたの。広田の姉さんとこと四羽で二円だったわ。」

「これでスープ作ってお母はんに飲ませてやったら精がつくやろなあ。おおきに、おおきに。」

無愛想な父が本心から礼を言っていた。叔父は一服しようともせずに、すぐ台所に立って二羽の鶏をさばき始めた。さすがの志乃さんも若どりの生首にはびっくりしたらしく、いつもに似あわず、遠くから目を背けるように、

「旦那さんの弟はんは、まあ器用なこと。」

と青い顔をしていた。

「お志乃さんにもおすそ分けしまっさかい、お母はんのことよろしゅうお願いいたします。」

叔父が出刃を洗いながら志乃さんに笑顔を向けて、ちょこんと頭を下げた。

私たちは久しぶりにカシワのすき焼きを腹一杯食べた。そして祖母も鶏のスープをおテショウに二杯も吸った。

「常夫がわざわざ持ってきてくれた。おいしおす。」

と目頭に涙を溜めていた。ところが、叔母が、

「お母さん、私、元子です。」

と名乗ったのに、

「あんたはん、どちらはんでしたかいな?」

と、けげんな顔をした。

「わしの嫁はんやがな。」

と叔父が説明しても、

「おおきに、ご親切に。」

この辺りからだんだんと祖母は心身ともに怪しくなってきた。

 

以下2004.1.1追加更新

 

志乃さんは私のことを「坊ちゃん」と呼ぶのを止めなかったので、「坊ちゃん」と呼ばれた時には返事しないように努めたが、それでも彼女の持ち前の明るさに、私もつい釣りこまれて、彼女の身の上話に聞きいった。志乃さんの旦那さんは三十に届かない若さで二歳の一人娘を残して亡くなっていた。彼女自身も当時まだ二十三歳の娘盛りだったという。小さなうどん屋さんを二人で始め、お金を溜めてそのうち四条河原町辺りで食堂を営むのを夢見ていた。夫の死で夢は断たれたが、細々とうどん屋だけはがんばり通して、娘一人を育ててきたのである。もう三十を越えてしまった娘さんは花江といい、母を手助けして今だ一人身だった。

十一月に入ると、祖母の病状は誰の目にも二度と起きあがれない状態だと映った。行きつけの安井先生が十日に一度の割で、昔ながらの人力車に乗って診にきてくれた。

学校から帰って、私が祖母のかたわらで大の字に寝そべっていると、祖母のうめき声のようなものが聞こえてきた。枕元に屈みこんで聞き耳を立て、

「おばあちゃん、なに?もっかい言うて。」

しかし、祖母のうなり声を私は聞きわけることができなかった。志乃さんを呼びに下り、彼女がエプロンで手の甲を拭きふき上がってきたが、彼女も首をひねるだけだった。ちょうど父が戻ってきた。

「どうした?」

「おばあさんがなにか言うてはるんどす。」

父はさすがに、たちどころに老母の言葉を解した。

「お茶いうてるんや。」

お茶を湯呑に冷まして持ってあがってきた志乃さんが、祖母を片手で抱きおこし、体を支えながら、お茶を飲ませてやろうとした。すると祖母がまたなにか喚いて顔を背けた。

「お茶と違ういうてはりますがな・・・」

その有様を眺めていた父が、

「一人で呑みたい言うてるねん。一ぺんやってみるか。」

志乃さんに支えられた祖母の両手に父が湯呑をあてがった。確かに祖母は湯呑を持とうとする仕草をみせが、次の瞬間、両手が震えだし、湯呑のお茶が全部敷布の上に撒かれてしまった。

「あぁあ!」

とんだ粗相に対し私は思わず溜め息した。しかし、志乃さんの腕の中の小さな顔を覗くと、瞬く力ももはや乏しい祖母の目頭からくやし涙がこぼれていた。

「志乃さん、悪い悪い。いらんことしましたなあ。」

父が謝った。

「とんでもないことを、旦那さん・・・」

祖母を片がわに寄せ、濡れた敷布を外す作業をテキパキとこなしながら、志乃さんの目にも涙が溢れていた。

 

丈夫な志乃さんが一度かぜを引いて、お休みしたことがある。すると、志乃さんの代わりに娘の花江さんがやってきた。うどん屋と言っても近頃は外食券で食べさせる雑炊屋だったが、それにしても店を休んで来てくれたのである。年寄った他人の、しかも病人の世話をするには花江さんはまだ年若かった。祖母は赤ん坊と同じで、便は垂れ流しだったので、おしめを替える時、さすがに彼女は顔を背けてしまった。見かねて私が手伝ったが、私だってこんなことはやりたくなかった。

「すいません・・・」

と花江さんが小学生の私に頭を下げた。つい私は、

「くさい、くさい!」

と鼻をつまんで、

「窓開けようか?」

と提案すると、

「そやねえ。一ぺん空気入れかえしましょ。」

彼女も賛成した。まん丸く愛敬のある顔立ちの花江さんが、汚れ物を持って下へ降りていったあと、祖母の病室に取りのこされた私に突然、侘しさが込みあげてきた。いずれ祖母がこの世から居なくなり、父と二人きりの生活を想像すると、少しやりきれなかった。祖母はもはや私が側にいても、ろくろく物も言えず、喋れない口を半開きに、そして首に巻いた日本手拭によだれを垂れているだけだった。

 

木枯らしの吹きそめる晩、広田の伯母が小さな瓶入の蜂蜜と、自分のゆかたを裁ってこしらえたおむつの替えを風呂敷に包んで持ってきた。

「これをお湯に溶かしてお母はんに飲んでもろとくれやす。」

「おおきに。まあ、飲ませてみまひょ。」

ふく伯母から蜂蜜の小瓶を受けとって、手の中で振ってみながら、父は気の進まぬ返事をした。それから長々と雑談を始めたので、私は隣の部屋にふとんを敷いて先に寝たが、やがてふすま越しにひそひそ話が聞こえてきた。

「お母はんも、いつまでもつことやら・・・」

父の溜め息をつく姿が手にとるようだった。

「そのことやけどな」と伯母がきっかけを得て切りだした。「正太郎、あんさんもそろそろお母はんが亡うなった時のこと考えとかんと。謙吉もまだまだ子供やさかいなあ。手がかかるもんえ。」

「まあ何とかなるわいな。謙吉は子供いうてももう四年生や。自分のことは自分でやるやろ。」

「ご飯ごしらえは?掃除、洗濯、繕い、色々あるねん。」

「覚悟してるわな。」

「あんさん、志乃さんの娘はん、花江さん、どうえ?わてはええ人や思いますけどなあ。」

ふとんの中で私の耳の穴がギンとした。

「ええも悪いも、まだ一ぺんしか逢うてへんがな。」

「わての目に狂いはないて。」

「まあ、待ってえな、姉さん。」

「早苗さんのことはもうええかげんにお忘れやす。」

早苗さんというのは私の母のことだった。

 

以下2004.2.1追加更新

 

富夫の伝書鳩が徴用されて、軍の施設にに持っていかれることになり、その日の「イ号」「ロ号」の入営に私は立ちあった。

「おめでとうございます。富夫君!」

国防服を身につけた二人の担当官が入ってくるなり、富夫ににこにこと挨拶した。富夫は何も答えず母親が代わって、

「ご苦労さまです。」

と頭を下げた。すでに「イ号」も「ロ号」も手提げ篭に移されていたが、担当官は二羽を篭から出し、足輪の登録番号を確認してから、

「この篭はいっしょに供出願えますか?」

と聞いた。

「はい、ご随意に。」

と母親が了承した。二人は気を付けの姿勢で敬礼をして、

「おじゃまいたしました。お国のためにきっとお役に立ちますから。」

そう言って回れ右して出ていった。

富夫は部屋に閉じこもって、一時間ものあいだ出てこなかった。しばらく喚くように泣いていたが、それがしゃくり上げる声に変わり、やがて、なにも聞こえなくなった。母親はことの収まるのをじっと待っていて、一時間を過ぎたころ、彼女は外側から巧みに錠前を外して中を覗いた。富夫は部屋の真ん中でぐっすりと寝こんでいた。

 

ピーポーとチャカとの間に生まれた雛はもうすっかり育っていて、白いのが「シロ」、黄色いのが「キー」と咲子が名づけた。彼女の部屋の窓とふすまを締めきって、籠から放つと、特にシロは咲子によく慣れて、すぐに彼女の肩に止りにきた。

しかし、彼らもまたいつまでも平穏ではいられなかった。松山の叔父からの餌の仕送りが跡絶えた分粟粒を減らし、糠を混ぜてみたりした。咲子の努力は並大抵ではなかった。餌壷の残り餌や、鳥達が床に敷いた古新聞に餌を撒きちらすのを集めて、皮と実と糞を選りわけ、水洗いしてもう一度食べさせた。私も見かねて咲子の手伝いをしたが、小さなくちばしで粟粒をつっついて食べた後の皮を選りだすのは、根気のいる仕事だった。

咲子の母親がある日私にこっそり告げた。

「もう限界だわ。親鳥を逃がしてやりましょう。山に入れば何とか食いつなぐでしょうから。」

しかし、私にはそうは思えなかった。正月間近かの冬空に、どんな山奥にも餌が見つかるとは思えなかった。

ピーポーとチャカがいなくなったのはそれから一週間ほどしてからのことだった。私の家に泣きながら駆けこんできた咲子といっしよに彼女の家に行くと、鳩舎の扉が開けっぱなしだった。親鳥は伝書鳩がいなくなったあとの鳩舎に移っていたのである。

「あたしがうっかり扉を閉め忘れたのん。どこを探せばええのん?」

「御所かなあ・・・将軍塚かなあ・・・」

「ショーグンヅカてどこにあるのん?」

「あ、あそこはあかん。今は高射砲陣地やからはいれへん。」

「ほな、どうしたらええのん?」

「諦めなしょがない。きっと山の方が食べもんがいっぱいあるさかい、ピーポーもチャカも幸せに暮らしてるわ。」

せめてもの慰めは、その日がよく晴れたぽかぽか陽気だったことである。咲子の母親は私の耳元で、

「この前の話は咲子にしないでよ。私が逃がしたわけではないのだから。信じてね!」

と言った。そして咲子はしゃくり上げながら、鳩舎の床にこぼれた粟粒を、糞ごとかき集めだした。

 

祖母はしだいに小さく衰弱していって、頬がこけ、身体中の肉は落ち、志乃さんが二日に一ぺん、夕方にお湯で体を拭いてやる時には、ふとんの上に寝かせた祖母の身体は骸骨そのものだった。背中は床ずれを起こし、全体が紫色に変っていたが、手当の施しようもなく、本人も苦痛を訴える気力もなかった。

彼女の寝ている部屋に入っただけで、異様な臭いが立ちこめていた。汗の臭い、小便の臭い、大便の臭い、それだけでは留まらず、恐ろしい言い方をすれば人間の腐る臭いだった。

私の寝具は下に降ろされ、代わりに父が二階の私の部屋で寝た。おかげで私は祖母の部屋への足がしだいに遠のき、病状を志乃さんに聞くことさえ臭いに染まるようで、なるだけ話題を避けた。

 

祖母が死んだのは正月の二日である。しかし父は、主治医の安本先生がのろのろとしかやって来なかったので、本当は元旦のうちに祖母が死んでいたのだと言いはった。

お通夜には東京から駆けつけた岩崎の叔父が鉦を叩き、みなで夜遅くまで御詠歌を歌った。街はすでに灯火管制下にあり、電灯に黒い布を被せ、光が窓の外に漏れないように注意しなければいけなかった。ろうそくの代わりに、小型のガラス容器に鯨の油でシンを固めた代用品が使われ、黒い油煙とともに魚臭い匂いが漂った。

葬式は近所の手前、三が日を過ぎた四日にとり行われた。祭壇は戦時中ということで至って簡素だったが、真ん中の写真には覚えがある。五六年も前、太秦大薮町で幼い私と並んで写した時の顔だった。今、祖母は私に語りかけることもなく、空しく黒ぶちの額に収まっていた。私自身も乾いた表情をして父の横に座り、後ろの叔父に肩を小突かれて父に続いて焼香した。

渋谷山の火葬場は薪の不足から遺体が焼けるのにずいぶん手間取った。山に残った身内の間にも話題が尽きて、黙りこくったまま、長々と待たされた末、やっと祖母がカラゲシのような白骨になって、鉄板に散らばっているのを目のあたりにすることが出来た。私も箸で摘んで壷に収めたが、ただの消し炭と同じ感覚だった。

帰り道、なぜか私が骨壷を抱えて車に乗り、隣に父は腕組みして居眠っているようだった。父はこの一週間、寝不足が嵩んでいることも事実だった。骨壷を膝に置いてハイヤーの窓から外を眺めていると、不意に後悔の念が私を襲った。どうして一言でも病床の祖母に優しい言葉を掛けてやらなかったのだろう!もう取りかえしがつかない。ここにあるのはただの消し炭である。祖母はもはやこの世のどこにもおらず、二度と私のところには戻ってこないことを更めて思い知った。

 

 

四十九日の間祖母の遺骨は、床の間の白布を懸けた経机の上に、白木の位牌といっしょに並べて祭られていた。鯨油の代用ろうそくも数少なく、七日目ごとの法事以外には、線香が一本細々と藍色の煙をたゆらせているのみだった。それでも平素無信心な父が、このたびは毎朝湯飲みの水を替え、線香を立て、リンを鳴らし、手を合わせていた。

父と私はいっしょに枕を並べて一階の奥の間に寝た。夜中目を覚ますと、枕元で巻き線香の火がびっくりするほど鮮やかに闇に浮かんでいた。そんな時いつもきまって寝返りを打つ父の気配を身近に感じた。時々父は寝る前に、どこで調達してくるのか闇のお酒を、一人で燗をして呑んでいた。

志乃さんは祖母の死後もまだしばらく夕方近くにやってきて、明日の昼食までを見越した食事の支度から掃除洗濯までをこなし、夜の八時頃に自宅に帰っていった。父はこの辺りから一段と口数が少なくなったので、志乃さんも取りつく島もないようで、帰りぎわに、

「ほな、お休みやす、旦那さん。」

「ああ、ご苦労さん。」

が二人の唯一の会話だった。

祖母は父の性根を充分に知りつくしていて、我が子が、夫の代を復興する能力が乏しいことを生前に愚痴っていたが、父は案外そのことにこだわり、なんとか母の期待に応えようと努力したふしがある。孫である私には祖父の血よりも父の血がより多く流れていて、少なからず父の気持が伝わってくるのだった。

父の竹製品工業所は祖母の死を待たずに閉鎖状態だった。二階の物置には床が傾くほどに竹製の帽子掛けの残品が、天井まで積みあげられた。

祖母の闘病とその死に立会い、勉強部屋の壁に貼られた世界地図に日本軍の占領地を赤鉛筆で書き込む作業が滞っていたが、実はあまりその必要もなかったのである。

昼すぎから小雪が降りだした四十九日に当る日の夕方、親族が集まったが、仏をそっち退けにして、窓には黒幕を張り、乏しい光の下で火鉢の火の気も少ない中で、ガダルカナル島が話題に登った。オーストラリヤの北の方に位置する小さな、今まで聞いたこともない島がこの一二週間新聞ラジオの焦点だった。日本軍がそこで米軍に撃ち負かされたという話が、半ば大っぴらで巷で囁かれていた。大本営が言う「転進」が「退却」を意味することを、私たち子供まで知っていたのである。この時点で日本人は自信を失いはじめ、そして父もまた自信を失っていた。ガダルカナルの話が一段落したころ、それを見はからったように広田の伯母が先日の、父の再婚話を蒸しかえした。まだ宵の口にもかかわらず、寒さが身に染み、皆がそろそろ引きあげることを願っていたから、私の目には父が幾分乗り気に見えたのに、その話題はあまり盛りあがらず、伯母も早々に切りあげて、

「またにしようか。」

と腰を浮かせた。この偶然が父の再婚の機会を遠ざけてしまったようだ。

志乃さんは恐らく四十九日の忌明けの集まりで、娘のことが取りあげられ、結論が出るものと期待していたのである。しかし翌日志乃さんが訪れても、父はいつも通りの無口を通し、肝心の話はなかった。帰りぎわ、

「ほんなら旦那さん・・・」

と志乃さんが切りだした。

「私は今日でお約束に従いましておいとまいたします。旦那さんもこれから坊ちゃんとお二人でご不自由なことどすが、どうぞお体をお大切に。」

「長い間ほんまにようやってくれた。おおきに。ご苦労さん。」

ぎこちなく父は用意していた給金の紙包みを彼女に手わたした。

「志乃さんはまだうどん屋はんをやって行くのかいな?」

「いえな、うどん屋はもう今節やっていかれしまへん。花江といっしょに田舎へ疎開しよ思てます。」

「へえ。娘さんもいっしょにか?田舎てどこやったいなあ?」

「近江今津の方どす。弟夫婦が百姓と漁師を両方やっとります。寒いとこでなあ。行きともないんやけれども・・・」

「花江さんまでなあ・・・」

「へえ・・・」

それ以上話は続かなかった。

「坊ちゃんもお元気で。」

私も黙って頭をぺこりと下げた。

 

二日後、西大谷に納骨を済ませると、その翌日から父はどういうツテがあったのか、デパートに事務係として勤めだした。

父は朝七時に起きて神棚と仏壇の水を替え、朝食を作り、私のためにお弁当も詰めてくれ、私を学校に送りだすころ、デパートが九時出勤だったので、三日に一度の割で私の下着、自分の下着を、寒いさなかに洗濯をした。

私はふたたび二階に寝起きするようになり、父と顔を合わせる機会は少なくなった。ご飯時はそうはいかなかった。父と子は話題も乏しく、向かいあわせに黙々と食べ、私の役目である食後の片付けをし終わると、さっさと二階へ上がった。

ある日、珍しく父は夕食時に晩酌をし、私にもチョコに一杯だけ呑ませたが、変な味がして私は顔をしかめてむせてしまった。あと、私が二階へ行こうとするのを父が引きとめた。

「たまにはラジオでも聞いていけ。」

嫌いではない「虎造」を火鉢に当りながら二人で聞いた。筋や結末は分かっていたから、途中で父が私に話し掛けても別段困りはしなかった。

「おまえのお母はんなあ、おまえを身ごもって程なく病に罹って、お前を生む生まんで一騒動があったんや。」

「そのことなら、おばあちゃんに聞いたことがある。」

「そうか。医者がなあ、早苗か赤ん坊か、どちらかしか助からん、両方助けることはできん、て。」

なぜ、今、突拍子もなく父がこんな話を私にするのか疑問に思った。

「早苗はなあ、赤ん坊を助けてくれ言うたんや、わが身を捨てて・・・。わしは早苗が死んだ時、たとえ幽霊でもええさかい、もう一ぺん戻ってこい、そう願うた。謙吉には分からんやろ・・・」

「・・・うん。」

と返事するしか仕方がなかった。怪しげな合成酒の臭い息を避けながら、私は父がひょっとしたら、もし母親が赤ん坊より、わが身を助けてと医者にすがっていたら、今自分は一人ぼっちではないのだと、そう言いたいのではと推理した。

 

 

緒戦の華々しさはすでに遠のき、太平洋上の海戦で戦勝のニュースは流れるが、子供心にも戦局の悪化を本能的に嗅ぎわけていた。各家の戸口には、四斗樽の防火用水、竹竿に幾筋かの縄をくくりつけた火たたき、砂袋が用意された。やがて、すべてのガラス戸に紙テープを放射線状に張って空襲時の爆風に備えたり、上陸米兵と戦う時にと手製の竹槍も常備し、町内会でしばしばバケツリレーの防空消火訓練が行われた。

 

父の百貨店での仕事の内容はよく判らなかったが、父が定職に就いていることを生れて初めて私は実感できた。なにしろ今までどこで何をして生活を維持しているのか人に話しようがなかったのだ。確かに一度は竹製品の工場を引きうけて、それらしい製品が我が家に運びこまれ、箱詰めの手伝いをさせられたりはしたが、どこかインチキくさく信用できなかった。彼の母(私の祖母)が生前にこう言っていた。「あの子にそんな経営の才があるとは思えまへん。」

すでにいろいろな物資が配給制度に移行していた。衣料も食料も調味料も、所帯ごとに切符が配られ、それを店先で示し、鋏で必要な点数だけ切りとってもらって、それと交換でないとお金を払っても購えなかった。ところが、例えば氷砂糖、味の素、紙巻たばこ、焼酎といった貴重品を、父は少量だが時たま手に入れて帰ってきた。どこからとなく日用品を調達してくるのもそれなりの才能だと思え、芯からではないにしろ父に尊敬の念をいだいたりした。

ぎこちなくはあるが、祖母のいない二人だけの日常生活に少なくとも父はしっかり耐えた。父は私の身の回りのことを、彼自身のことと同様なんとかこなしていたのだ。ご飯ごしらえ、洗濯、買物、そして繕い物まで、慣れない手つきで片づけた。たまに私が手伝うことはあったが、あらかた父に任せっきりでいた。なにも出来ない振りをし、実際なにもしなかった。夕ご飯も父の帰りを待ち、たとえどんなに空腹でも自分から作ろうという気にはならなかった。多分、父は私のことを不憫に思っていたのだろう、なんとしても自分の手ひとつで育てようと決心しているかのようだった。

さて、近くに古田朔太郎という一年年下の子がいた。母親を二年前に亡くし、父親に養われていたので、彼と私は相通ずるものがあったはずだ。ところが、それがかえって彼とは親密にはなれない、マイナスの妙な気持が働いた。彼には芳江という妹がいたし、彼の父親は長年郵便局にまじめに勤めていた。私の父のようにふらふらしていた時期はない。このことは私と比較して格段にうらやむべきことだった。朔太郎のことを私は「サクちゃん」と呼んだが、彼の同級生や上級生あたりは「もっさく」と称していた。彼の風体が「もっさい」のだ。「もっさい」というのは「やぼくさい」「つまらない」「うだつが上がらない」などの意味がある。

ある日、彼が私を家に招いた。彼の家には年に一度くらいしか尋ねたことはなかった。それがどうした風の吹きまわしか、「もっさく」が突然、自分は箱にいっぱいのメンコを持っている、それを見せようと誘った。当時メンコという丸型のカードの収集がはやっていた。相手のメンコを地面に置き、それに向かってメンコを叩きつけ、ひっくり返せばそれを勝ちとることができる。私は彼がメンコの勝負に参加しているのを目撃したことがない。疑問に思って私はその真偽を確かめたかった。彼の家は平屋で質素だがよく整頓され清潔だった。子供部屋というか、四畳半の一部屋に平机が二つ並んでいた。ひとつは今年一年生の妹の物のようで、かわいい手作りの通学カバンが置いてあった。

私を招きいれ上がり框に座らせると、朔太郎が部屋の隅から古い菓子箱を私の前に運んできた。蓋を開けると、驚いたことにメンコがぎっしりと、大きさごとにていねいに重ねられ、詰めこまれていた。百枚は充分にあった。

「どうしたんや、これ!」

私はあきれて叫んだ。

「・・・べつに・・・」と彼は言った。ひと重ねを私は手に取ってみた。中には汚れたのも混ざってはいたが、大部分は新しいままだった。

「すごいなあ。僕が見たなかで一番すごい!」

すると急に朔太郎の顔が輝いた。

「謙ちゃん、上がって!」

彼の言葉に従って下駄を脱いで部屋に上がったが、別段しゃべることもなかった。見る本もなく、触るオモチャも見当たらなかった。すると、ふいに私の顔を探るように彼が言った。

「謙ちゃん、豆食べるか?」

「?・・・ふん・・・」

化かされたような気持ちだったが、誘導されるがままに頷いた。メンコの箱を隅に押しやってから「もっさく」は台所へ立っていった。私がその後に従うと、彼は片手鍋に水を注ぎガスに掛けた。次に水屋の引出から紙袋を取りだし、手を突っこんで乾燥した大豆を二掴み鍋に入れた。私を振りかえり彼がニコッと笑ったので、私もつられてニコッと笑った。二人は立ったまま鍋がやがてぐつぐつ煮立つまでじっと眺めていた。考えてみれば味付けも何もなかった。それでも間もなくうまそうな湯気が立ちこめてきて我々の鼻をくすぐり、まん丸い形だった乾燥大豆が煮えてふくらんで、やがてドロップ状に横長になるのを観察した。朔太郎が杓子で一粒すくい上げて自分で試食した。それを横目で見ながら私は唾を飲みこんだ。

「柔らこなった!ほな行こか!」

ガスを止め、片手鍋を持って朔太郎が自分の部屋の勉強机に走った。私も後について走った。

「ちょっと待って・・・」

彼が台所へとってかえすので私はじりじりしたが、すぐに小皿を二枚と割りおえた割り箸を二人前持って戻ってきて、

「ちゃんと分けよなあ!」と彼は皿を机の上に並べ、鍋の煮豆を杓子で等分に分けだした。私はそれを厳しい目付きで検分した。

「うまいなあ!」

「ああ、うまい・・・」

我々が半分ほど食べおわった時、がらがらと表戸が開く音がした。

「あ、おとうや・・・」朔太郎が小声で叫んだ。顔色が変わった。郵便配達夫の制服姿の彼の父親がタタキ庭を通って朔太郎の部屋を覗いた。

「お、おかえり。どうしたん、こんな早いこと・・・」

「こんにちわ・・・」煮豆の小皿を片手にしたまま私はぺこりと頭を下げた。父親は私の挨拶は無視して、息子と机の上の片手鍋とを交互に眺めた。すぐ姿を隠し、隣の居間へ上がる気配がした。オーバーを脱いでいる気配・・・

「朔太郎。ちょっとこっち来い。」低い声が聞こえた。朔太郎は操られた人形のようにぎこちなく立ちあがり居間へ歩いていったが、彼が居間に入り襖を閉めるやいなや、ドタンという音と、その直後にバシッと鋭い平手打ちが鳴った。畳に座りこんだまま私は硬直状態だった。間もなく、押し殺したヒーヒーというすすり泣きが聞こえてきた。私はどうなるんだろう?ひきつづいてぶたれるんだろうか?でも呼ばれないし、帰れとも言われない。居たたまれなかった。居間の方が玄関口に近かったから、帰るにはその横を通らなければならない。煮豆はまだ皿に残っていた。しかし、もう箸を運ぶことはできない。ちょうど近所へ遊びに出かけていた妹の芳江がそこへ戻ってきた。父と兄の姿が目に止まったのだろう。泣いている兄を見つけてびっくりしている声が聞こえた。

「お兄ちゃん・・・どうしたん?」

兄も父親も無言だった。続いて、もう訳も聞かずに、

「お父ちゃんのバカ!お兄ちゃんいじめたらあかん!あほバカ!」

と叫びだした。大声でわめき、わんわん泣き出した。一方私は一瞬の判断を下したのである。この機を捉えて立ちあがった・・・

「さいなら・・・!」

下駄をつっかけ一目散に家に逃げかえった。古田の親子がその日その後どうなったか、考えるのも恐ろしい。融通の利く父と不精な私の二人暮しを思いかえして安堵した。

にもかかわらず、どこか心の片隅で、惣太郎の実直な父親、けなげな妹のいる「もっさく」の小さな家庭に嫉妬した。それから食べのこしの煮豆にも大いに未練を感じた。

 

次回第五章は4月1日から引きつづき連載します。