消炭の壷5

 

 

 

 

 

 

消し炭の壷

 

第五章

 

昭和十八年(1943年)・・

 

庭にヒヨドリが来て、青木の実は赤くなるまでにたちまち、ついばんでしまった。

五年生の春、我々は御池通りを境に北と南に分かれ、北組は竹屋国民学校に編入されることになったが、集団での転校で辛いというほどのこともなく、木造校舎の姉小路と違って、竹屋校は三階建ての鉄筋コンクリート造りだったから、物不足の世の中で、それだけでも私たちの胸はふくらんだ。運動場も広く、傘置き場がなんと「地下室」にあり、二度と、はだしで腰板や木の柱のアクをタワシでこすらなくて済むと思うと、むしろ嬉しさが込みあげてきた。三階の窓から日本銀行の緑色の屋根を見つけたが、その手前の母校「姉小路」は物陰で見えなかった。

われわれ男子組の教壇の真上には、真珠湾で花と散った九軍神の肖像写真が並んで懸けてあり、ここでは毎朝始業の直前に、軍神らに向かって拝礼する習わしだった。女子児童の中にはすでに、彼女たちの田舎へ疎開する者もいて、男子より幾分数が減っていたので、五年生は、男子二た組と女子一と組の三組に分かれた。

私たちの担任は吉田という小柄な男の先生だったが、初日教壇に立つなり、早口で、またどなるようにこう言った。

「君たちは陛下の赤子(セキシ)である。もし陛下がこの三階の窓から飛びおりよと命ぜられたら、うむを言わず飛びおりる覚悟はできているだろうな。」

と声を張りあげたので、私たち、特に姉小路から転校してきた者は一様にびっくりした。

「返事はどうした!」

「はい!」

「は、はい!」

竹屋校直参の元気のいい返事に混じって、外様の私たちは多少ぎこちない返事をした。まさか天皇陛下が私たちに、そんな命令を下しにやってはこまいと、たかをくくったが、同時に、我々姉小路組は竹屋組に対し幾分の気後れを感じたのである。その時一人の子が手を挙げた。

「山里、なにか言いたいことがあるのか?」

山里と名指された直参のその子は、並外れて背の高い子だった。

「あのお・・・」

大きな柄の割には、しっかりしないぼそぼそした口調で、

「先生・・・階段を急いで降りてはあかんのんですか?」

「おい、山里。なにをぶつぶつ訳の分からんことを言うてるんや。陛下のご命令の本質をお前たちに確認したまでや。三階から地上に降りる手段を聞いてるわけではないぞ!」

「はあ・・・」

と山里はまだ納得いかぬふうに着席した。

 

この頃はまだ特配と呼ばれる売り出しの貼紙がとつぜん店の前に出て、聞き伝えで遠くまで買いにいくことがあって、その日、父といっしょに朝の五時に起き、玉子を買いに出かけた。足元は暗く、初発のバスにもまだ間があり、御池通りに人の気配はほとんどなかった。下駄の音だけが響く道すがら、中島病院の四階建ての建物が真っ黒々にそそり立ち、その回りに等間隔で立つ石像の姿にぎょっとした。錦市場の近くの乾物屋には、それでもすでに二十人ばかりの人の列が出来ていた。半時間ばかり待つうち、辺りもしだいにほの白く明けだし、人の顔が見分けられるようになると、五六人先に同じ組の山里と、彼の母親らしい人とが並んで立っていた。向こうは我々に気がつかないようだが、見つけた私の方は気恥ずかしく、列の中に身を縮め、二人からできるだけ隠れるようにしていた。しかし、たとえ顔を見られても、彼は私を同級生とは気がつかなかったにちがいない。我々は二三日前に出あったばかりで、山里のことを知っているのは、たまたま教室での「陛下のご命令」の一件があるからだった。と言いながらも彼に気を配りながら待ったので、七時半の売り出し開始までが、ずいぶん長く感じた。振りかえると私たちの後ろに、さらに三四十人は並んでいた。

やっと列が動いたと思うと、急にざわざわし出し、奇妙なことが起こった。年寄りも若者も男も女も、先頭から列のお尻に向かって、下駄をがたがた踏みならし駈けはじめたのである。まじめな顔で、あるいは自分をあざ笑いながら、息を切らせ、ある人は百メートル競走のような勢いで駈けた。玉子は一人二個あてだった。山里もまた人並みに走っていた。彼はそれほど早くはないが真剣な表情だった。彼の母親も駈けていた。そして、私の父が駆けだすのを生まれて初めて見た。二個を貰った私も、物まね猿のように人の後ろから走った。しかも山里に見つからないように気をつけながら。しかし玉子の在庫は、それも、ちょうど山里とその母親のところまででお仕舞いだった。山里達は四つずつの玉子を得て歓声を上げていた。父と私はがっかりしながらも、それぞれ持ってきた小さい風呂敷の隅を括って、宝物の玉子二個を中に入れてぶら提げた。

平日だったので、学校や会社のことを考えながら、我々は足ばやに帰路についた。ようやく御池通りに出ると目の前が中島病院の四階建ての建物で、早朝には石像に見えたのに、今ではただの等間隔で立つ塔柱でしかなかった。なあんだと思うのと、バスが近よったのとが同時だった。警笛が鳴り、急ブレーキが掛かってバスが目の前で止った。私はどすんと尻餅をつきながら、無意識に玉子を持つ手を捧げていた。運転手は窓からちらっと私を見おろしただけで、すぐに発進して行ってしまった。一歩先を歩いていた父が目をむいて近よって来て、起きあがる私より、私の手元を見た。命がけで守ったつもりの風呂敷包みから、どうやら白身がにじみ出していた。人通りのちらほらするバス通りで、引きつっている父の青い顔を見上げながら、私はぶるぶると震えていた。その時、目の前に山里が立っていた。

「立花君。これ二つやろう。受けとれよ。ぼくは四つ貰えたから・・・」

「・・・」

生暖かいものが喉元から込みあげてきて、声にならなかった。そばから父が慌ててさえぎった。

「おおきに。あんた、謙吉の友達か?その気持だけでありがたい。そんなことしてもろたら相すまん。おおきに、おおきに。」

と繰りかえした。中里もそれ以上は押しつけずに、回れ右して母親の方に走っていった。父の顔色が少し和らいだ。

「謙吉。まだ風呂敷の中に黄身が残ってるやろ。しっかり手で受けて家まで帰れ。」

と父が命じた。

 

2004.5.1追加更新

 

 

毎月八日の大詔奉戴日に梅小路小学校では御所八幡に参拝したが、竹屋校ではその代わりに、朝早く御所の南側、丸太町通りの清掃奉仕をした。

五月八日、校門から現地まで短い距離ながら、我々は男女とも竹ぼうきを鉄砲のように肩に担いで列を組み、足並みを揃えて行進した。その日の五年生の引率は早田という女先生で、そのため多少規律が乱れ、竹屋直参の二三人の男子生徒が御所の石垣を乗りこえて、勾玉池に遊びに行った。鎌田昭次が、なぜかその連中に誘われ、鎌田が私を誘ったので、おずおずと私も従った。橋のランカンに竹ぼうきをもたせ掛けて駄べるうちに、鎌田が得意げに、この池でハイジャコ釣りをした話や、探検隊の団長増村マッちゃんのことを、また、マッちゃんが姉小路を卒業して中学に進み、その後予科練の航空隊に入隊したことも言いふらした。姉小路小のはぐれ者「マッちゃん」が今では時代のエリート、みんなから羨まれていたことは事実だが、その自慢話が直参の中本順次の癇にさわったみたいだ。中本が鎌田の胸蔵を掴んでスゴんでみせた。

「二度とわしらの池で魚釣りしよったら承知せんど!」

 

土曜日の午後、どうした風の吹きまわしか、その中本順次に誘われて、鎌田昭次と私の三人で二条離宮のお堀に釣りに出かけた。

二条離宮は元徳川家の京都での居城だったのが、明治以後皇室の管理下に置かれており、外堀と言えども魚を釣るなどもってのほかだったが、実際には子供たちが、中にはいい年の大人がこっそりと釣っていた。

私たちは南側からわざわざ堀を一巡りした。 

お城の南西角の辺りに昔からある馬蹄屋の店先には、はだか馬が一頭繋がれていて、ひずめの焼けるむさい匂いが鼻を突き、そこを右に曲がり北に進むと、今度は女学校の講堂から、土曜の午後にもかかわらず「なぎなたのおけいこ」の甲高い掛け声が、堀の向こうの石垣に跳ね返った。堀をコの字に巡った結果、

「今日は監視のオッサンはおらへん。」

と中本が結論したので、お城の北側の適当な松の根かたに陣どって、いよいよ釣糸を伸ばしにかかった。この土手から水面までは七、八メートルはあった。監視人の目を欺くために、ウキの代わりに指の長さほどの木切れを括りつけておき、じかに指に糸を巻きつけて手釣りするのである。中本の話では、時々思いだしたように私服の監視人が見まわりに来て、釣竿なんかを使っているとこを見つかれば、ウンもスンもなく膝で一折りにされてしまうらしい。

なにが釣れるかといえば、目当てはフナだった。目の下二十センチぐらいのが掛かることもあると中本はベテランかぜを吹かせたが、かと言って、一日釣っていても釣れないこともあるらしく、むしろ十人に一人が幸運にありつくのだと、彼は釘をさした。そして自分は今までに十匹釣って、五匹を飴だきに、残る五匹を味噌汁にして食ったそうである。

二寸ばかりの生きたみみずを二つにちょん切り、腹のところで針の先に付けた。

「もったいない、三つにちぎったら三人で使えるのに・・・」

私がよけいな世話をやくと、中本は、

「三つに切ったら、真ん中は頭がないから死んでしまう。」

と釣りの先輩らしく納得の行く答えを返した。

藻が勢いよく繁りはじめた頃で、水面下に魚の気配を覗きこむことはできなかった。中本は持ってきたアルミ製のびくに長い紐を括りつけて、足元からするすると降ろし、堀の水を汲みあげてきて、後ろの生け垣の裾に隠した。三人はそれぞれに五メートルほどの間隔を開けて釣糸を垂れ、端を指先に巻きつけて、ウキが動きだすのを今か今かと待った。

三十分ばかり沈黙が続いたところで、鎌田がまず叫んだ。

「お、おい!か、か、かかった!」

確かに鎌田の長い糸がぴんと張り、先が沖の方に引っぱられているのが見えた。

「ゆっくり巻きあげろ。急いだら切られるぞ!」

中本が注意する。やがて鎌田の手元に目の下十五センチばかりのフナが、暴れもせずに観念したように釣りあがってきた。

さらに三十分後に、今度は私の指に強烈な手応えを感じた。心臓が張りさけるほどドギマギして糸をたぐると、遠目にも大きなフナが、石垣に身をこすりながら上がってきた。

「あほ!そんなことしたらウロコがはがれるがな!」

と中本が声を掛けたが、私は体中が固くなって、動作を続けるのがやっとだった。最後の一と引きで私は後ろへひっくり返ってしまい、草むらでフナがぱたぱたと跳ねていた。ようやくの思いで取りおさえて、あごから針を外すと、先ほどの鎌田のよりさらに大きかったので、中本でさえびっくりした声で、

「そんな大きいのはメッタにない。」

と感心してくれた。

しかし、自分だけがまだ一匹も釣れない中本は、はた目にも少ししょげて見え、どうせのことなら三人平等に一匹づつ釣れればと私も願った。

「今日はヘタが釣れる日ぃや。」

と私が慰めを言うと、それが返って中本をムッとさせたようだった。

さらに三十分が経った時、

「よし!」

さすが手慣れた中本が、腹の底から落ちついた声を出した。余裕のある糸使いで、たぐり上げてきて、いよいよ手元にフナを掴もうとしたせつな、

「げぇっ!」

中本より鎌田の方が先に声を上げ、中本も顔を真っ青にして、獲物を草むらに放りだした。さんさんと注ぐ春の陽射しにさらされて、仔犬の死骸が横たわっていた。白目をむき、魚の餌食になったのか腹のところが食いちぎられたように肉が垂れている。指に括りつけた釣糸を解き、泣き出しそうな顔つきで中本は、仔犬の死骸を堀の中に蹴りこんだ。

 

私のフナは家に持ち帰ってもまだ生きていて、最近、家の戸口に空襲に備えて義務づけられた、四斗樽の防火用水にフナを入れてやると、ゆっくりと泳ぎだした。 父が夕方帰ってきて私の報告を聞くなり、

「早よせんと盗られるで。」

と心配そうに言い、私に用水桶からフナをすくい上げてこさせた。さっそく、まな板の上に載せ、出刃でウロコを掻き、頭を叩きおとして適当な大きさにたち切ると、父が味噌汁を作った。

「どろ臭い・・・」

と言いながらも、父はそれでも旨そうにすすった。私は、思いだすまいとしても、つい仔犬の死骸が目に浮かび、フナの身が喉につかえた。

「どうした?早よ食え。」

「ちょっと腹の調子がおかしい・・・」

「そうか。ほな、明日に残しといたらええ。」

と言いながら、自分はおかわりをして二杯飲んだ。

               三

2004.6.1追加更新

 

下級生の女の子は田舎に疎開する者もぼちぼちいて、疎開する先のない私などは、それが羨ましく肩身が狭く感じる時代だった。疎開までしなくとも田舎に親戚があると、食べるものがなにかと豊かだった。闇物資自体不足していたし、野菜の配給でも、大根一本が、そのうち半分になり、葉っぱの付いた方を店の主人に頭を下げて買い求める有様だった。

マッちゃんとこの母屋はとっくにパン屋をやめ、三年生になるチエ子も、北陸の親戚の家に疎開していた。村松の妹、咲子もセキセイインコもろとも、四国の田舎に疎開した。柴田洋もゆくゆく下呂温泉の近くの知り合いを頼って疎開するかもしれないと言っていた。彼の喘息に利く温泉がその近くにあるからという理由だった。

風呂嫌いの私は三日に一度しかはいらないのに、喘息には湯で暖ったまるのが一番だと、洋の母親は毎日のように彼を銭湯に行かせた。銭湯へは柴田と連れだって行くことが多かったので、彼が疎開すると風呂へ行く時寂しくなるなあと思った。

 

その銭湯も、週に一回の休業がやがて週二回となった。湯舟の湯は三分の二ほどしかなく、しかも、湯が入れかわらないので濁っていた。私は石鹸は持って行く日と持って行かない日を決めて、持って行く日は湯舟に浸かっていても石鹸箱から目を放せなかった。石鹸泥棒が横行していて、私自身一度盗まれた経験があり、父にこっぴどく叱られ神経質になっていた。特に友達と連れだって行く日は石鹸を持たずに出かけるようにしている。というのは友達とつい話しこんで石鹸に目が届かなくなるからである。

その日も柴田といっしょに風呂に出かけたが石鹸は持たずに行った。少ないお湯にも客は相変わらず混んでいて、湯舟もゆっくり肩まで浸かれない状態だった。柴田はくしゃみをし出し、そこへちょうど四年生の村松富夫がはいってきた。そして私を見つけるなり、息せき切って、

「謙ちゃん!」と耳元でどなった。「イゴー・・!」

銭湯は天井が高くて密閉されているので、声がこもるのである。その上ざわついていた。

「ナニ?」

「イ号が帰って来たんや!伝書鳩のイ号やがな。」

風呂の中はますます混んできて、柴田はしきりにクシャミをしていた。富夫はほとんど浸かりもしないまま、三人とも慌てて脱衣場に飛びだした。もっとも洋は「まめ連隊」のメンバーではないので慌てる必要もなかったが、雰囲気がそうさせて、タオルで体を拭くのももどかしく、服を着て、下駄の音を立てながら村松の家に駈けていった。彼の家の玄関口には去年の今ごろは葉桜に毛虫がたかっていたのを思い出し、

「おい、毛虫はいやへんやろなあ?」

「今年はおらん・・・」

詰まらんことを聞くなとばかりに富夫は裏階段を三階まで一気に登った。私は振りかえって洋に、

「ゆっくり登ってこい。」

と声を掛けて、私自身は富夫に続いた。鳩舎には咲子のセキセイインコも、咲子自身もいず、代わりに、暗い鳩舎の床に確かに鳩がうずくまっていた。富夫が抱えて出してくると、「イ号」はどことなく元気がなかった。

「どうしてこれがイ号と分かった?」

「口元が灰色や。こんな鳩はめったにいいひん。すぐに分かった。」

「なんのことや?」

洋が聞いた。でも二人とも興奮状態で彼の問いには答えている間がない。

「足輪がないなあ。」

「飛んできた時から外されてた。」

「傷してるんか?」

「タカにやられたかもしれん。かなりな距離を飛んできたみたいや。」

「ぼく、帰る・・・」

と洋がすねたように言い、こんこん咳をしながら階段を下りていった。

そのあとで、少し落ち着きを取りもどした私は、はっと自分の手元を見て驚いた。手拭といっしょに見覚えのない白いセルロイド製の石鹸箱を持っていた。

「お、おい。これ富ちゃんのか?」

「いいや?」

「あれ?柴田のんを持ってきてしもた!」

また明日来ると言いのこして、私は階段を駈けおり、洋を追っかけた。

灯火管制下の夜道を走って洋の家にたどり着くと、出てきたのは彼の姉、秀子だった。女学校二年生の彼女は、少し見ぬ間に背も伸びて、すっかり大人びていた。

「どうしたの立花君、そんなに息を切らして。ヒロシにご用なのね。待っててね、今呼んできますから。」

とまるで母親のような、そして江戸っ子まがいの言葉づかいをした。

「あのう、これ・・・」

上がりかまちから石鹸箱を差しだすと、秀子はもんぺの膝を折って中腰になり、私の方に手を差しのべた。半袖のブラウスの袖口から生暖かい香気が、腕とその掌を伝って、私の腹部のあたりに漂いだした。長い指が白い石鹸箱を取りあげて、

「これ、どうしたの?」

「ヒロシちゃんのをうっかり持って帰ってしもた。」

「そやかて、これうちのと違うわ。」

急に京都弁に戻って秀子がじろじろと石鹸箱を眺めたが、その、むんむんと薫りたつ妖気にいたたまれなくなり、私は石鹸箱を彼女の手元から奪った。

「さよなら」

と飛びだし、銭湯の方向に走りだしたが、途中で立ちどまり、思案の末にきびすを返して我が家に向かって歩きだした。真っ暗な夜道をもう一度振りかえってから、私は手拭で白い石鹸箱をくるっと巻いて家の戸を開けた。

「これでアイコや・・・」

と思う一方、返すとしても明日でもええやろ、と自分に言い訳した。

しかしその石鹸箱を私は、翌日風呂屋に返しにもいかず、使いもせず、長い間机の抽出に仕舞いこんだまま忘れてしまった。

 

2004.7.1追加更新 

 

 

その翌日から私は村松の鳩舎に通い、「イ号」の成り行きを見守ったが、結局一週間後に傷がもとで死んでしまった。今度は富夫はそれほど悲しまず、むしろ「イ号」の最後を看取ってやれたことを喜んでいるふうだった。登録番号も剥がされ、野に捨てられた「イ号」がどんな思いで富夫の元までたどり着いたかを考えると、私はふびんでならなかった。

「ロ号はどうしてるかなあ。」

「もう死んでるわ。」

吐きだすように富夫は言いきったが、その目は梅雨空のかなたを探していた。

富夫の母親は、一月後に迫った夏休みを機に、彼を咲子の行っている東江州の親戚に疎開させようと計画していたのに、富夫は行くのを嫌がった。よくよく聞いてみると、鳩の「ロ号」が自分の留守の間に戻ってくるかもしれない、と考えているのだった。母親は、富夫を送ったあとすぐに京都へ戻ってくる、せいぜい二三日の間留守にするだけだと言いきかせたが、彼は納得しなかった。富夫は父の郷里へはなん度か連れられていっており、汽車の乗りつぎ方もよく心得ていたが、一人でやるには母親としてはやはり不安があったらしい。

そこで私に白羽の矢が立ってしまった。おばさんが私を呼び、膝詰めで、夏休みに富夫と田舎に同行してほしいと頼んだ。

「食べ物は不自由させないわ。といってもここと較べての話だけど・・・」とか、

「咲子も一人で寂しがってるのよ。立花くんはセキセイインコの面倒もよく見てくれたものね。」

などなど、彼女の説得は二三日にわたって続いた。そしてなによりも富夫が、私となら行ってもいいと言いだしたのである。

父も内々喜んでいた。夏休みの間だけでも私の世話が省け、食料も助かるからだった。交通費などはどう話を付けたのか私は知らないが、たぶん父がキチンと払ってくれたものと信じる。

夏休みの翌日に、いよいよ富夫と私で出かけることになり、朝の五時に起きて身支度をし、おばさんが京都駅まで見送りにきてくれた。私は、汽車というものに乗るのは実は生まれて初めてだった。一方富夫は父親の勤務の関係で東京にも行ったことがあるという。早朝のプラットホームは混雑はなかったが、戦死した身内の遺骨を入れた箱を白布で首から吊した人とその一団を二た組も見かけた。草津で乗りかえ、さんざん苦労して、ようやく目的地に到着したのはもう昼すぎだった。 

ホームに降りたつといきなり油ゼミの鳴き声が我々を歓迎した。片側の田んぼの中に、あちこちで片足立ちしているのは数羽のサギである。遠いところへ来てしまったという侘しさを、粗末な駅舎が一層きわ立たせた。

「兄ちゃん!」

都会とは一味違う顔立ちの群らがる足元から、とつぜん聞きおぼえのある声が駈けだしてきて、富夫がほっと緊張のほぐれた表情に返った。咲子が私の顔も見つけてにこっとしてくれた。

「富夫、よう来たのぉ。友達ゆうんはこの方かいな。」

いかにも百姓という感じの夫婦もんが、我々を迎えにきてくれていた。富夫の父親のいとこ夫婦というのがこの人たちと富夫との関係だった。

家は中くらいの農家で、庭に鶏を五羽ばかりと、豚を二頭、耕作用の牛を一頭飼っていた。夕飯は久しぶりの真っ白いご飯を山盛り食べられた。

「田舎や言うて、日に日に白ご飯ちゅうわけやないからなあ。」

と小母さんが笑いながら機先を制した。

私たち三人は、母屋から二十歩ほどのところの離れを当てがわれた。離れというと体裁はいいが、家畜小屋の横の物入れを片づけた四畳半ほどの板間にゴザが敷いてあった。

「昨日まで咲ちゃんは一人でここで寝てたんか?」

「うううん。昨日まではおばさんとこで寝させてもろてた・・・」

と言いつつ、急に咲子がしくしく泣きだした。

翌朝、蚊帳をたたみながら、私は思いだして咲子に聞いた。

「咲ちゃん。セキセイインコはどこにいるのん?」

急にまた咲子は眉毛を曇らし、

「この前、松山の叔父さんが来て、預かって帰ってしもた・・・」

「へえ!どうして?」

「このうちでは小鳥に食べさすものはないて言われたん。」

「へえ。鶏の餌はあるのになあ。」

そこで私は父からの預かりものを思いだした。母屋へ行き、「お早ようございます。」と挨拶をしてから、朝ご飯を食べているおじさんに、

「これを父から・・・」

と差しだした。おじさんは箸を休め、漬物を口の中でぱりぱり噛みながら、半紙で包んだ金封と、長細い絹張りの容器に入った「亀甲のかんざし」、そして父からの手紙とを順番に見ていった。かたわらのおばさんが亀甲のかんざしに手を差しのべるのを、

「さわるな」とどなり、

「なあ、謙吉さん、わしら、村松から聞いてます、心配せんでもええがな。お金いうても、今は鼻紙同然じゃけん。それにこのかんざしは、あんたのお母さんが使うとった品じゃと書いてある。そんなことより後でおばさんがいうことを手伝うてくれたらそんでええ。これは持って帰って。気持だけは戴いときます。」と頭を下げた。

朝食は大根を刻み込んだお粥と、アサリのおつゆと大根の漬物だった。

「今はなあ、どことも人手不足じゃ。あんたらも子供なりに手伝うてもらわんとなあ。」とおばさんが宣言した。「食べた後の片付けと部屋の掃除、洗濯、鶏と豚のエサやり、これだけはあんたらの仕事じゃ思うといて。」

野良の支度をしながらおじさんも、

「何分、うちとこもなあ、長男と次男が戦争に行っとる。人手不足じゃからなあ。ご飯は天から降ってきやへんでのう。」

もともと小父さん小母さんとも四国生れらしく、愛媛なまりがあった。

食べ物の後始末といっても、母屋の台所へ運んだ自分たちの分と、おじさんおばさんの分もいっしょに洗って片付けた。その時の野菜かすや魚の食べかすは脱脂大豆を混ぜて豚に与え、鶏には糠に大根の葉を刻みこんだものをエサにするのである。私たちは別段嫌とも思わず、その新しい体験を三人で汗を流しながら、むしろ楽しんだ。

 

離れの我々の住まいから母屋の便所までは下駄ばきで十五六メートルあり、その間に豚小屋と牛小屋を通り抜けねばならず、夜となると、幼い咲子にはそれが怖かった。

「兄ちゃん付いてきて。」

「しょがないなあ。」

と言いながら、富夫も怖いのである。

「そんなら、三人で行こう。」

と実は私も怖かった。ここら辺りまで蛍が飛んで来るので、ぎょっと立ちすくむと、その気配に驚いて寝ていた鶏が急にはばたき、ますます騒ぎが大きくなったりした。

「あっちの方角にお墓がいっぱい立ってる場所があるんよ。」

と咲子が暗闇に指を差した。

「あたし、夜中にお便所に行く時は、お母さんお母さんて唱えながら行ったんよ。ねえ、謙吉兄ちゃんはお母さんの代わりにおばあちゃん、おばあちゃんて唱えるの?」

「ぼくは何にも怖いことあらへんから・・・」

「へえ!私、この前火の玉見たんよ。お墓から飛んで行くのを・・・叔母さんに聞いたら、この辺は土葬やから火の玉はいくらでも見られるて言うてた。」

「げっ!」

 

2004.8.1追加更新

 

 

何にでも名前を付けたがる咲子は雄鶏を「とっとぉ」雌鶏を「かっかぁ」と名付け、若鳥たちのことはそれぞれ「ぱたぱた」「とんとん」「こっこ」と呼んでいた。まるで友達のように鶏籠に向かって話しかけるが、私には何度聞いてもどの子がどの名なのかさっぱり分からなかった。

豚の二頭は黒っぽいのが「とんくろ」赤っぽいのが「ぶーぶ」と、これはどうやら私にも理解できた。

「ほんなら、牛はどう呼ぶん?」

「あれはもう年寄って働きが悪いから、ジイちゃんておばさんが呼んでるわ。」

と彼女が答えた。

 

朝の五時、決まって裏庭から、

「たすけてー!」

と声が聞こえてくる。初めての朝、私はびっくりして飛びおきた。それが「とっとぉ」の朝の挨拶だった。そのことを咲子に話すと、変なことを言う、コケコッコーとしか聞こえないと笑った。

ともかく、お陰で私は目覚まし時計なしで毎朝決まった時間に起きることができた。

鶏は朝の一時間を籠から出して運動させ、あと、籠に追い込むのが大仕事だった。鶏のくせ、かなりの距離を飛んで逃げ、特に「かっかぁ」はビワの小枝に留まったりするから始末に悪かった。

「バタバタ!ばたばたしないの。トントンは駈けるのが早いわね。やかましい、コッコ、黙りなさい!」

咲子が叱りまわっていた。

昼前になると、「とんくろ」と「ぶーぶ」を、あぜの横の用水に連れていき、体中を水で洗ってやるのだが、この方は特別に厄介なことはなく、ついでに我々も水遊びを楽しんだ。

牛の「ジイちゃん」は大抵おじさん夫婦が野良に連れていった。

 

日中は我々に課せられた仕事もなく、宿題をするには暑すぎるので、うちわで体をあおぎながら、富夫が京都から持ってきたボール紙の将棋盤を囲んだ。将棋にかけては父に教わってもいたので、私の腕前はへぼ仲間では群をぬいて、富夫などは敵ではなかった。飛車角落としで、それでも富夫は真剣、私の方はよそ見をしながら対戦できた。そのあいだ咲子は、縁先の板間で折り紙をして一人で遊んでいた。彼女の家は元々病院だから、うちにいっぱいある、十センチ角くらいの四角い粉薬の包紙を、たくさん持ってきていた。

「これでいつもお母さんに折り紙教えてもろてたん。謙吉兄ちゃんもやってみいひんか。あたしが教えたげる。面白いよ。」

と私を誘った。そう言えば幼いころ、祖母が「やっこさん」や「さんぼう」を折ってみせてくれたのを思いだしたが、咲子が今折っているのは、祖母の折っていたのと同じ「つる」だった。

「そんなツル、おらんで。」

「これ足と違うえ。尻尾やがな。」

「そうかなあ。」

富夫がいつまでも考えこんでいるので、私は一時盤を離れ、咲子に近よった。

「ちょっと初めからやってみい。」

遊び相手ができたので、彼女はいそいそと新しい紙を手に取って「つる」を折りはじめた。畳んでは広げ、折ったり持ちあげたり引っぱりだしたりするうちに「つる」になる。私はそれを掌に載せつくづくと眺めた。

「おもしろい?」

咲子が私の顔を覗きこんだ。

「謙ちゃん!早よせえよ、おまえの番やで。」

向こうから富夫が私を呼んだ。

 

「ほたる狩りに行かんな。外の方が涼しいけん。」

夕飯の後でおばさんが我々を誘った。この家の人達は、もともと四国の出だから、松山なまりがつい言葉の端に出た。「行かんな」というから「行かない」のかと思ったら「行こう」ということなのだ。

村中がムンとして黒く淀んでいて、川沿いでもこれというほど風もなかった。下流に架かる長い七軒橋を渡り、街灯のない田畑に分けいると、ちょうど半月が、背丈の揃った稲の若葉を淡く照らしてくれたので、ようやく足もとのアゼ道の区別がついた。。おぼつかない我々の足取りに較べおばさんは、まるで昼間の道を行くようにすたすたと歩みつづけたが、やがてその行く先に木造平屋の横広い建物が闇の中に浮かんできた。はやばやと灯が消された建物というのは、それだけで怪物が死んで横たわっているようで恐ろしかった。

「あれは、伝染病院じゃ。」

おばさんが説明した。私の頭に島田先生の怪談話がひょいとよみがえった。「伝染病院」とはどんなところなのだろう?これ以上近よってはいけない気がしたが、おばさんは遅れがちの我々を手招きして呼ばわった。

「早う来んな。」

その声に富夫がおばさんのそばに駈けていき、私も続いて駆けだそうとした、その時、私の腕に小さな手が絡みついてきた。

「謙吉兄ちゃん、こわい・・・」

「大じょうぶや。」

咲子の顔を覗きながら私は、自分でもふしぎなほど落ち着いていて、彼女の手をしっかりと脇に抱えてやった。一年生の時のわが身を思いうかべると、私はつねに祖母に手を引かれて道を歩いていた。ところが咲子は親と遠く引きはなされ、見知らぬ夜道にたった一人で歩かされている。生まれて初めて私は、他人に、哀れみを覚えた。やがて我々は伝染病院の脇を通った。

「咲ちゃん、息詰めて走っていこう。」

「うん。」

二人で息を詰めて思いきり走った。

その向こうの小川のほとりに、まるで嘘のような幻のような世界が広がっていた。何十匹とも数えきれないホタルの群れが、あたりに舞い飛んでいた。

「ああ、きれい!」

咲子が歓声を上げた。闇の中で、ほのかにホタルの光に照らしだされた咲子の無邪気な笑顔を見つけ、なぜか私自身がほのぼのとした幸せを感じていた。

 

2004.9.1追加更新

 

かぜ熱で、水枕をして昨夜から咲子は寝ていた。私は薬の包み紙で、彼女に教わった方法でツルを折った。縁先で私が折るさまを、釣りっぱなしの蚊帳の中から咲子はじっと見ていた。一つ折っては蚊帳の中に放り込み、とうとう三十羽も折って、彼女の枕元は折りヅルでいっぱいになった。

「こんなに折ったら咲ちゃんの紙がのうなってしまうなあ。」

「かまへんよ。またお母さんに送ってもらうから。」

寝たままで咲子は私が折ったツルを掌に載せ、ふっと息を吹きかけて飛ばしたりしていた。

 

その翌日は昼すぎからひどい夕立ちになって、雷が鳴り、富夫も私も咲子の蚊帳に潜りこんで、夕立ちの去るのを肩を寄せあって待った。

その最中、ずぶ濡れで駆けこんで来たのは、どうやら松山の小鳥屋の叔父さんのようだった。今も小鳥屋をやっているわけではないが、彼は母屋より先に我々の離れに飛びこんできた。

「駅から歩きだしたとこで、にわかに降りだしてのう。なんでまた昼間から蚊帳なんぞ釣って・・・なるほど、雷さんが怖いか。ハハハ!」

提げていた風呂敷包みをかたわらに置き、手拭で顔中を拭きながら彼は元気よく笑った。ずぶ濡れの上着とズボンを脱いで柱の釘に引っかけ、ランニングシャツとステテコ姿で蚊帳の外でアグラを組むと、おもむろに風呂敷包みを解いて、

「近ごろめったに食えんじゃろ。」

中から重箱に入ったぼた餅を差し出した。

「わっ!」

とみんなが歓声を上げた。咲子がかぜを引いたと聞くと、

「病気せん子がどうしたんじゃ。」

富夫達が「信さん」と呼んでいるその人はすっかり大阪弁から解きはなされていた。彼は富夫の父親の妹むこに当たるのだった。

「信さん」

と咲子までが彼のことをそう呼んだ。

「シロちゃんとキイちゃんはそれぞれ元気?」

「おお!元気にしとらい。いっぺん逢いにくるか。」

「行きたい!」

「そんなら、近いうちに来んな。かぜ直してなあ。」

夕立ちが止むと、どこかで雨宿りしていたこの家のおじさん夫婦が戻ってきて、信さんも母屋へ行ってしまった。夕立ちの後は嘘のような青空が広がっていた。

 

夜中の十一時ごろだった。月がこうこうと天空に懸かり、足元も豚小屋も明るかった。それで私は一人で便所に起きた。用をすまして立ちさろうとして、ふと母屋から話し声が漏れてきた。立ち聞きのつもりはなかったが、「咲子」「咲子」と二度三度繰りかえすのが気にかかり、立ちどまって耳を澄ました。

「どうしてもなあ、おつねさん、・・・」

おつねさんというのはこの家のおばさんのことらしい。

「これは血の繋がりのないわしの願いじゃけん、なお真剣よのう。あんたらには息子が二人おるやろ。わしらは子無しじゃけん、小鳥飼うて紛らわせとったのっし。」

「咲子は鳥じゃないけんのう、信さん。」

「あの子は都会っ子じゃ。わしら、いずれ大阪へ戻る・・・」

「わしらは子供育てた経験があるけん・・・」

ところどころ声が低くて聞き取りにくかった。それに、ふいに鶏が夜鳴きをした。

「タ、タスケテー!ケケ、ケ」

そして籠の中でばたばたと、何かに怯えてはばたいた。私は冷や汗をかきながら離れに逃げてかえり、蚊帳に潜りこんだが、そばで咲子のむじゃきな寝顔を、ちょうど月の光が蚊帳ごしに照らしていた。

 

三日目に咲子はすっかり元気になって起きだした。それというのも京都の母親から手紙が届いたのである。その手紙を咲子は私にも読ませてくれたが、内容は大半が咲子の身を案じたものだった。

「富夫さん、咲子さん。元気でおすごしのことと思います。」

母親の手紙はこんな他人ぎょうぎな言葉で書きだされていた。

「おじさんたちの言うことをよく聞いていますか。咲子はなまけ者だからしっかりお手伝いをしないといけませんよ。一年生になったばかりで勉強がおろそかになってはいませんか。富夫さん。咲子の勉強を見てやってね。お友達はできましたか。今のところお父さんからはお便りはありませんが、きっと元気でお国のために働いていらっしゃるにちがいありません。この前、立花さんのお父さんにお会いしました。よろしく伝えてくれとのことでした。謙吉兄ちゃんにそう言ってください。鳩は帰ってきません。咲ちゃん。きっとそのうちお母さんが迎えにいくから、明るく元気に、そして人にめいわくをかけないで、がんばるのよ。富夫。咲子のことをよろしく頼みます。では、くれぐれも体に気をつけて。ではまた・・・」

昨夜の母屋の話を咲子はもちろん、富夫も知らないにちがいない。私も決して口外することはない。しかし、彼女の母親は果たして承知しているのだろうか。その文面からは、知ってるようでもあり、知らないようでもあり、うかがい知ることはできなかった。

「謙吉兄ちゃん・・・」

咲子がふしぎそうに私の顔を覗きこんだ。

「目から涙が出てる・・・」

 

信さんは、咲子に来月、セキセイインコに逢いにくるように言って、朝のうちに松山に帰っていった。

両家の間の話は決着したのだろうか。ずっと前、私の祖母が養父の事情で、岩崎家の養女になった自分の身の上話を語って聞かせたことがある。あれは昔の商家の奇妙なもたれ合いにすぎなかったが、昨夜来語られているのは、もっともっと悲しい出来事に私には思われた。しかしこの件について私は、ものを言う資格のない他人にしかすぎず、しかも子供で、あまりにも無力だった。

 

夏休みも終わりに近づいた頃、私は取りあえず、宿題をすませ、帰りじたくを始めるうち、鞄を整理していて、父からことずかった亀甲のかんざしが出てきた。

「あ、キレイ!」

とそばから咲子が目を輝かせた。

「咲ちゃんにやるよ。」

「でも、叱られそう・・・」

「ナイショにしてたら分からへん。富夫にも黙っとれよ。」

 

2004.10.1追加更新

 

咲子はべそをかきながら、自分も手紙を書くから、私にも手紙を書くように約束させたが、来る時と打ってかわって、この小さな町を離れることの方が、私には後ろ髪を引かれる思いだった。

けっきょく父は迎えにもこず、私一人で朝早く汽車に乗り、また汽車に乗りかえ、さんざん苦労して京都に戻った。それでも烏丸通りで市電に乗り、東本願寺前をカーブして都会のただ中へはいると、少しづつ「我が街」の記憶が蘇ってきた。住み慣れた道筋には埃が舞い、夕方とはいえ夏の熱気に息が詰まりそうだった。

私に遅れて、父は戦闘帽にゲートル姿で会社から帰ってきた。

「えらい日焼けしたなあ。元気そうでなによりや。」

帽子を脱いで手弁当の空箱を台所に持っていきながら、さすがににこにこと愛想を振りまいた。私がお土産に持ち帰った畑菜の束を見せると、

「今日は久しぶりに沖好きでもしょうか。夏の最中に熱いもんもええで。」

と言い、自分が買って来た魚のアラを皿に盛った。

「まあ、ゆっくりせえ。先に行水にでも入ってくつろいだらええ。」

と妙に気を使ってくれ、七輪を焚きつけ、お湯を沸かしだした。私に叩き庭にたらいを出させ、水を張ると、

「お湯は洗う時だけ使えよ。」

とバケツに入れてかたわらに置いた。

わが家はなんと言っても気が休まった。たらいの真上の空はもう薄暮れて、目をこらすと白い星が二つ三つ小さく瞬いていた。父が沸かしてくれたお湯で顔と体を洗い流すうち、富夫も咲子も石鹸の泡といっしょに、下水の底に消えていった。

手拭を絞り、私は勢いよく板の間に飛びうつった。その時、

「あんたが謙吉さん?お帰りなさい!」

薄暗がりの台所から女の声が聞こえ、見たことのない顔がこちらに向いて笑っていたので、私は真っ裸のままびっくりして、その場に立ちすくんだ。慌てて、濡れたままで急いでパンスを履くのを女が見て、

「あ!ごめんなさい。」

台所を出ていったが、私の頭はパニック状態だった。ランニングシャツをワシづかみに見境もなく駈けだし、奥の間で沖好きの七輪を囲っている父に、

「この人誰!」

とパンス姿でどなった。その剣幕に父は言葉を詰まらせ、たたずむ女性と顔を見あわせた。私はそのまま二階に駈けあがり、畳の上に上むけに倒れると、訳も分からず涙が込みあげてきた。

しばらくすると階段の下から父の声がした。

「謙吉。下りてこい。もう帰ったから・・・」

一呼吸あいだを置いて私は起きあがり、手にしたシャツで涙顔を拭いてから下に降りると、黒い布の笠を被った電灯の下で沖好きがくつくつと煮えていた。その前にアグラをかいた父の困りきった顔のほかには、もう誰もいなかった。

「まあ、座れ。腹へったやろ。」

私も匂いに引かれて、父の向かいにじょろを組んだが、同時に腹の虫がぐーと鳴った。大根を刻み込んだ冷や飯を父がよそってくれ、

「熱いもんには冷たい飯が旨い・・・まあ、食べ。」

と勧めた。私たちは黙って互いに鍋を突っついた。

「しかし暑いなあ。」

と父はウチワを使いながら、

「なあ、謙吉・・・」

と彼が切りだした。

「さっきのおばさんなあ、あの人は永田さんていうわしの友達や。」

照れ隠しに父は必要以上にウチワを動かしながら、

「前もって説明するなり、紹介するつもりが、あとさきになってしもた。」

私はサバの頭をほぜりながら黙って聞いていた。

「そんな悪い人やあらへんさかい、あらためて今度紹介する。」

七輪の火はもう消えて、鍋の中も煮つまりかげんだった。落ちついて考えてみれば、先ほどの私の振る舞いは、父の知り合いに対して、どう見ても失礼な仕打ちだったと思えてきた。にもかかわらず、永田というその女性が、二度とこの家にやって来ないことを願った。

「いっしょに住もうというわけやないんやさかい。まあ、きげん直せ。」

賛成するつもりはなく、どうしても認めることはできなかったが、私はごく自然にこっくりと頷いていた。すると父は自分で台所へ立って、二つのグラスに水道の水を汲み、一つを私に差しだし、私が飲むのに合わせて、まるで祝杯を挙げるように、立ったまま自分も飲んだ。

 

二学期が始まった。

ある日、学校から帰って家の鍵を開けているさなかに、永田という例の女性が玄関先にやって来た。

「謙吉さん。先日はご免なさい。ちゃんと訳を話さずに上がりこんで、ふいに話しかけたりしてびっくりしたでしょう。すいませんでした。」

戸口で深々と私に頭を下げた。私がとまどっていると、

「ちょっと上がらせてもらっていいかしら・・・」

「なんの用ですか?」

「ちょっと、揚げパンを作らせて。小麦粉が手に入ったの。謙吉さんが宿題している間に揚げてあげる。」

「そんなもの結構です。」

「油もちゃんと持ってきたの。揚げパン作ったらすぐ帰ります。この前のお詫びにこれだけは作らせて。」

どんなに断わっても揚げパンを作らないと帰らないだろうと思って、私はそれ以上は顔を見ることも喋ることも拒んで、さっさと二階に上がってしまった。べつだん宿題もなかったので、ぼんやり勉強机に腰を掛けていると、下から階段を伝って、近頃忘れかけていた香ばしい、腹にしみる匂いが漂ってきた。

「じあ、お膳の上に置いとくから、たくさん食べて!」

玄関の戸の閉まる音がした。

恐るおそる降りてみると、竹篭に半紙を折りしいて、その上に小麦粉を丸めて揚げただけの代物ではあるが、ほかほかの菓子が三つ載っていた。一つの半分を食べてみてさらに半分を食べ、二つ目も食べた。

父のために最後の一つを生つばを飲みながら残した。

 

2004.11.1追加更新

 

 

 

山本元帥の戦死から始まり、日本軍が占領していたアリューシャン列島のアッツ・キスカ島守備隊の「玉砕」(全員戦死)が続き、それまでの景気のいい「軍艦行進曲」に代わって、陰気な「海ゆかば、みずく屍(かばね)」の曲が、しばしばラジオに流れるようになった。しかし、父も私も近頃あまりラジオを聞かないので、ますます二人の間でかわす話題も乏しくなった。父は会社の図書室から本を借りてきて、夜は机に片肘をついて吉川英治の「太閤記」を読み耽っていた。

永田という女性のことを父は、ある夜こんなふうに説明した。永田きみ子、年は三十六歳、横浜に何年か住んでいたようで、京都には身寄りがないのだという。父と同じデパートの食品部の店員で、知りあったのは会社の職員食堂、たまたま隣に座り、弁当のおかずのおすそ分けを貰ったのがきっかけだと言った。毎度父に、もう一人分を小さな容器に入れて持ってきてくれるようになった。しじみの佃煮とかじゃが芋の角煮とか、彼女の兄が大津の堅田にいて、色々と物を貰ってくるのだそうだ。彼女は一度離婚していて、子供はない・・・というような話まで私に打ち明けた。一方父もいろいろと内輪話をしたらしく、私を男手で育てなければならない今の事情に彼女が同情し、時々材料を持ちこんで夕食を作ってくれ、いっしょに食べ、話して帰る、それだけの関係だと父は言った。

私には、彼女が「きみ子」という名なのが印象に残った。私はかっての同級生「小島きみ子」のことを連想した。もう過去の事になるが、かって憧れだった彼女は南の区域に属したので、別の学校へ別れて行ってしまった。しかし、あの「きみ子」と「永田きみ子」は、名こそ同じだが、およそ駆けはなれていた。中年のおばさんというばかりでなく、顔立ちも年の割に小さくて浅黒く、まるで運動選手のように背筋がスラリとして、体から先に動きだすようなタイプの女性だった。何よりの違いは、金歯も虫歯もない健康そのもののきれいな歯並をして、笑顔に奇妙な説得力があった。

例の揚げパンの差しいれ以来、夕ご飯のあと、二階から下りて見ると彼女が、その笑顔で私を迎える日が週に一度ほどあり、こちらから積極的に話すことはなくとも、私が仕方なく彼女のことを呼ぶ時の呼び名「おばさん」の方から言葉を向けられると、素直に返事ができるように慣らされていった。彼女が来る日は父はどことなく晴れ晴れして見え、そんなごきげんな父を見ると、思いとはうらはらに、私もホッとするのだった。

しかし、私はやはり三人で会話するという雰囲気には浸れず、彼女を見るとさっさと二階へ上がってしまった。その後父ときみ子さんがどんな話をしているのか知らなかった。たいてい遅くまで喋っているようで、私との間ではまるで無口な父のどこが面白くてきみ子さんが、いつまでも同席していられるのかふしぎだった。

 

京都の五年生が恒例として出かける大阪神戸への修学旅行が十月に実施された。我々は戦闘帽にゲートル姿という、およそ楽しさからは程遠い出で立ちで旅行に出発した。湊川神社に参拝してのち、神戸の港の望める旅館に一泊したが、夜の街も、平時なら見えるはずの海の景色も、ただ真っ暗な闇一色で、とてつもなく大きな風呂敷をすっぽり被せられたような息苦しさだけが、我々の思い出として残った。しかも、神戸港には敵の侵入に備え機雷が敷設されているという理由で、大阪天保山までの船旅は現地で中止となり、阪急電車で大阪に入った。あちこちで、当てのない時間待ちばかりを繰りかえし、大阪城にもどうした訳か入城出来なかった。話によると、中は要塞となっているのだという。敵が大阪湾から上陸してきた時には、ここに立てこもって一億玉砕するのだと、列の後ろで囁かれた。なにを見たという印象もないまま、空腹と疲労を土産に旅行を終わった。

 

ようやく家にたどり着いたら、ちょうど咲子からの葉書が、郵便受けで私を待ちあぐんでいた。習いたてのカタカナで一生懸命ぎっしり書いてあった。

「ケンキチニイチャン、オゲンキデスカ。ワタシハ ゲンキデス。

ホントウハ スコシ ゲンキガアリマセン。

ガッコウノ オトモダチガ イナイノデ サビシイデス。

トミオニイチャンハ ワタシヨリハ ゲンキデス。

コノマエ マツヤマノ シンオジサンノ ウチニ アソビニ イキマシタ。キシャニ ノッテ フネニ ノッテ イキマシタ。ソコデ シロチャント キーチャンニ アイマシタ。

ワタシノコトヲ オボへテイテ カタニ トマッテクレマシタ。

オカアサンニハ ワタシハ ゲンキ ト イッテアリマス。

カナシイコトハ ダマッテイテクダサイ。

センソウハ イツオワルノデスカ。ケンキチニイチャン。 センソウ オワッタラ ホントウニ オウチニ カへレルネ。アシタニデモ オワルト エエノニ ト オモイマス。 

テガミヲ マッテマス。      ムラマツ サキコ」                          

自分の部屋で繰りかえし読んだ。どうしたことか、この幼稚なカタコトに涙がポタポタと落ちた。たった十日あまりの湖東の夏が目の前によみがえってきて、どれもそれなりに楽しかった思い出が、悲しみのベールに包まれて浮きあがってきた。握ってやった咲子の小さな手が、ホタルの海が、バケツ一杯のあさりの重みが、次々と溢れでてきた。

でも今日は修学旅行から帰ったばかりで、くたくたに疲れていたし、あした、きっと返事を書こうと、そう心に決めてその晩は早く寝た。

その翌日は宿題がどっさりあった。翌々日も、今日こそは書こうと思いながら、一週間過ぎ、二週間過ぎ、手紙を書くことの苦手な私はとうとう、その機会を失ったまま、秋が深まって行った。

そして冬が来て、戦争の行方とは別に、今年一年が空しく終わった。

 

 

2004.12.1追加更新

 

 

次回は 2005年1月1日 追加更新予定