消炭の壷6

 

 

 

 

 

 

消し炭の壷

 

第六章

 

昭和十九年(1944年)・・

2004.12.1追加更新

 

小正月を過ぎたころから、永田きみ子は私のうちに、ひんぱんに出入りするようになった。週に一度が二度、三度になり、たいてい父が会社から戻ってきて間もない時分に自転車でやってきて、夕ごしらえをすると、父と私に食事をさせ、二人が済ませたあとで、台所で自分は残りものを食べていた。それを見て見ぬふりをする私も、いくぶん辛かった。まるで女中のようにお給仕をしてくれ、いくら言っても、あとの洗い物も私にはやらせなかった。私が意地悪を通しているようで、とうとう、六年生になった勢いも手伝って、

「おばさんもこっちでいっしょに食べたら?」

と父に向かってではあるが、声を掛けた。きみ子さんはエプロンの端で、目頭を押さえながら、

「いいんですよ、どうせ私はよそのおばさんだから・・・」

こんなせりふを聞くと、私も良い子を通さないわけにはいかなかった。ざぶとんを持ってきて、二月堂の片隅に敷いて場所を作った。

「どうぞ・・・」

 

五月、ある朝起きると、台所に彼女が働いていた。

「おはよう、謙ちゃん。」

と笑顔を振りまいた。朝早くやって来た様子はなかった。

「おばさん、泊まったん?」

「いいえ!」

びっくりしてきみ子は振りかえり、大きく首を横に振った。

そんなことが繰りかえされ、やがて永田きみ子はここの、住人になっていった。

彼女は私には特別にやさしく、どこから手に入れてくるのか、なん度となく揚げパンのおやつを作ってくれたが、当時は大人も子供も分けへだてなく腹をすかしていたので、父がある時それを見とがめて、文句を言った。

「そんな油ものばっかり食べたらおまえ、ショクタイするぞ。」

「食退」とは、つね日ごろロクなものを食べてないで、急に旨いものを腹一杯食べると、かえって体をこわすという意味である。

 

六月のある夜、夜半からひどい雨となり、やがてすさまじい稲びかりとともに雷が鳴りだした。二階はとくにむし暑く、裏側のガラス戸を少し開けはなっていたところから、激しい雨が吹きこむので閉めに起きた。狭い庭のもちの木と金もくせいの枝が日差しを求めて伸びあがってきて、二階の正面で葉をはびこらせ、視界をさえぎっていたが、どこからか猫の鳴き声が聞こえた。また稲びかりが光り、木の葉越しに、向かいの屋根の下で子猫が雨宿りをしていた。助けてやるすべもなく、猫はみーみーとこうるさく鳴き続けた。ガラス戸をとざすと、雨音も子猫の鳴き声もだいぶ小さくなった。

ところが別なところで、息をころすようなうめき声が聞こえたような気がした。灯火管制下で、電灯をつけるわけにはいかなかった。ガラス越しにすさまじく光り、どかんと雷の音がとどろいて、近くに落ちたにちがいない。心細かった。小便に行くつもりで私が階段を下りると、うめき声が止った気がした。父がうなされているのだろうか。すだれ越しに私は父の寝間をのぞきこんだ。このむし暑いのに二人が抱きあって寝ているのを、闇の中にうすぼんやりした気配で感じた。二人ともまるで木彫りの人形のように動かなかった。

私は小便を済ませ、足音をしのばせて、しずかに二階に上がった。雷は止んだが、雨の音と、ガラス戸を締めきった蒸し暑さで長いこと寝つけなかった。

あくる朝、雨はもうあがっていた。しかしきみ子さんは見かけず、父はなに食わぬ顔で、朝飯を食い、彼女のことには触れなかった。

 

一週間ほどきみ子さんはご無沙汰したのち、私の方がむしろ気に病みだしたころ、なにごともなかったような晴ればれした顔でやってきて、持ってきたトリのカラアゲをすすめた。

「謙さんは、ちょっと痩せすぎよ。」

と私をさん付けで呼び、

「あなた、栄養失調のなりかけやない?伸び盛りにろくろく食べるものがないんだから無理もないわねえ。たくさん食べて。」

私はつい手を出してしまった。この前の夜中のできごとは、これで帳消しになる、と思いながら・・・

「おいしい?」

と聞かれ、しっかり噛みもせず、うのみをしながら、こっくりと頷いた。

「また持ってくるわ。お父さんには内緒よ。食退なんかしないから。」

そういえば、まだ父は帰っていなかった。

「私は半分、謙さんの顔を見たくて来てるのよ。」

と思わせぶりなことを言った。そして本当に私が食べている間、じっと私の口元を眺め、食べ終わると、その新聞紙を丸めて、ごみ箱の、それもわざと下の方に埋め、手を洗い、台所の小窓を開けてうちわで扇ぎだした。父に嗅ぎつかれぬようにとの計らいだった。まもなく帰ってきた父は、なにひとつ気付かなかったが、私は後ろ暗い気持でいっぱいだった。

 

 

2005.01.01追加更新

 

 

鎌田昭次の父親が英霊になって戻ってきたのは七月の初めだった。戦死した場所ははっきりしないが、昭次が母親に聞かされたのを、また聞きしたところでは、どうやら南方、インドシナあたり、ということである。

私が遊びに行った時、暗い奥の間の真ん中に、電気もつけず、母親がぼんやり座っていた。

「こんにちは・・・」

と声を掛けても返事をしなかった。そんな母親のことを昭次は「陰気くさい」と言って、とんぼ釣りに行こうと誘った。戦時中でも、とんぼ釣りはすたれなかった。とんぼの釣り方はこうである。まず、「しけ糸」という髪の毛よりもっと細い、一メートルほどの白くて丈夫な糸を一束いくらで、駄菓子屋で買ってくる。その両端に付ける「さんだん」は、直径三ミリから五ミリの鋼鉄の玉で、これは自転車屋の店先に行けば、じっくり探せばいくらでも落ちていた。糸の先にくくりつけるわけにはいかないから、そこで、学校の職員室の裏のごみ箱から、謄写版で一度使われてインクの付いたガリ版用の原紙くずを拾ってくるのである。「げんし」を三センチ角に指でちぎって、その真ん中に「さんだん」を置き、「しけ糸」の端といっしょに包みこんで、ねじって取れないようにする。両端を同じようにして出来上がると、「さんだん」の部分を左の指でつかみ、右の人さし指を輪になった「しけ糸」の真ん中に差しこんで、調子を取り、「ほーちーん!」と唱えながら、とんぼが飛び交う空に投げ上げる。とんぼは黒い「さんだん」を虫と間違えて食いつきにきて、そのはずみに「しけ糸」がとんぼの羽根にからまって、「さんだん」の重みで飛びつづけることができず、地面に落ちてくる策略であった。

鎌田昭次と二条離宮(後の二条城)の東側の広場に出かけたが、食料不足の中でとんぼだけは異常発生していた。「やんま」に「べっこ」「しおから」がもみあうように飛んでいた。釣れたとんぼは羽根をたたんで、左の指の間にはさんでおいて、さらに続けた。最初から、まるでとんぼの爆撃機のような「おにやんま」がかかり、カシャカシャカシャッと落ちてくる、その感触がたまらなかった。

その最中、警戒警報もなしにB29が一機、西南の空から東に向かっていた。

「あっ!敵機来襲!」

いちはやく昭次が見つけて叫んだが、近頃音楽の時間といえば、飛行機の爆音ばかり聞かされていた我々には、それがB29ということは、即座に聞き分けられた。昭次と私はとんぼ釣りの手を休め、口を開けて、南の空をじっと眺めた。ようやく空襲警報のサイレンが鳴りわたったが、その時、はるか遅れて翼に日の丸をつけた戦闘機が追いすがるように飛んできた。みるみるB29に近寄ったと思ったら、そのまま敵機の胴体に突っこんだのである。あっという間の出来事だった。B29はお尻から黒い煙を吹きだした。日の丸の飛行機も同じように黒い煙を噴きだした。私の全身に身震いが走り、思わず指間から「おにやんま」を手放して、拍手してしまった。あっちこっち、同じとんぼ釣りの仲間から拍手が湧きおこっていた。日本の零戦はみるみる平衡を失って、きりもみ状態で真一文字に落ちていった。

「すごいなあ!自爆や!」

私が昭次を振りかえると、彼は拍手もせず、両手を握りしめていた。

「昭ちゃん、コウフンしてるんか?」

「ちくしょう!」

と唇をかむようにしていた。たしかに、零戦の操縦士はあれでは助かるわけはなく、これが戦争なのだと私も実感した。

一方、アメリカの爆撃機も少しづつ、黒煙とともに高度を下げた。その時、その胴体から豆粒が三つ転がり落ち、やがて空中でぱっとパラシュートが開いた。

「逃げたぞ!」

だれかが叫んだ。無意識に我々は南のほうへ走ったが、現場にたどり着ける距離ではなかった。パラシュートは、はるか南のかなたにゆらゆらと消えていった。昭次はまだ青い顔をして、もとの位置に突ったっていた。

「どうした?」

と私は駈けもどって聞いた。

「・・・おれは、なんか知らん腹が立つんや・・・」

昭次の目はパラシュートの落ちていった南より、もっともっと南の果てを見すえているようだった。

 

翌日の新聞にその事件が報じられていた。そして新聞より詳しいイキサツが我々子供の耳にも伝わってきた。三つのパラシュートは宇治方面のとある畑の中に降りたらしい。近くの家からクワや棍棒を片手にした農夫が、それも年寄り、若者、男、女とり混ぜて、三人の米兵をとり囲んだ。三人は互いに背中をつけながら、拳銃をかまえたが、それが農夫たちをさらに刺激した。

「たたき殺してしまえ!わしらの兄や息子の仇や!」

まさに乱闘になりかけた。ことなきを得たのはその時、憲兵が車で駆けつけて、米兵をいずこかへ引き連れて行ったからだった。

B29の窓ガラスの破片というのが学校でもてはやされたが、そのガラスのかけらを石でこすって匂うと、なんとも得体のしれない甘い匂いがした。ちょうど、幼いころにしゃぶったドロップのような香りが、空腹にじぃーんと染みた。

 

 

2005.02.01追加更新

 

 

柴田洋がいよいよ下呂温泉に疎開するというので、お別れを言いがてら遊びに行った。玄関先には姉の秀子が出てきて、例のごとく大人びた言葉使いで、

「洋なら今、母に連れられて病院に行っているのよ。疎開するのに、ぜんそくの診断書を持っていかないといけないの。」

と説明した。

「どうぞ、よかったら上がって待ってやって。」

ちょっと迷ったが、特に用事もなかつたので私は待つことにした。

「帰ってきたら、洋に元気づけてやってね。」

とも言った。

洋の部屋は相変わらず洋式で、ベッドが置いてあった。当時「ベッド」は時節にはふさわしくない家具と思われていたが、この前、それを気にした洋の母親が、尋ねもしないのに、

「畳に寝かすとこの子、咳がひどいんよ。ほこりが下に沈むさかい、寝台でないとあかんねん。」

と弁解した。半時ばかり私は、本棚の「飛行少年」のページをめくりながら、ぼんやりと待っていた。ダグラス、ロッキード、メッサーシューミットなどの名前はなじみだった。とんとんと扉をノックする音がして、秀子が扉の隙間から顔だけ出した。

「ちょっとウチの部屋へ来やへん?」

心なし上ずった声で呼びかけた。ちょうど私も退屈していたので、

「洋君、いつごろ帰るん?」

「もう少しかかると思うわ。」

秀子の、いつにない優しそうな声に引きずられるように、座っていた洋のベッドから立ちあがった。しかし私が廊下に出る間に彼女は小走りに自分の部屋へ戻ってしまった。少し扉が開いていたので、恐る恐る扉を押して中へはいってびっくりした。わざわざ窓に灯火管制用の黒色のカーテンを閉めて、昼さなかにに電灯をつけたところへ、先ほどまでのもんぺ姿をかなぐり捨てると、秀子が半袖のピンクのワンピースをまとって目の前に立っていた。

「どうえ?わたし・・・」

こわばった笑顔でぎこちないシナを作ってみせた。

「・・・!」

「きれい?それともバカみたい?どっち?」

「きれいやけど、ひ、ひでちゃん、ど、どうしたん?」

「ウチ、このワンピース、一ぺんも着たことないのんや。叔母からの戴いたまんま。でも、大き過ぎて。やっと着られるぐらいになったら、戦争で、こんなん着たら非国民いわれる時代よ。」

「・・・」

私はふと、忘れてしまっていた湖東に疎開した村松咲子を思いだした。「戦争はいつ終わるのん?」とあの子は心配そうに私に聞いた。今、秀子が同じことを聞きたがっているように思えた。

「謙ちゃん、ちょっとここにいっしょに座ろう。」

秀子は自分のベッドに、自分が先にどんとお尻から座ってみせ、隣の空席を手でとんとんと叩いた。私はびっくりしながらも、彼女の指図に素直に従った。

「ウチなあ・・・」

と急にしんみりとした声になったと思ったら、ちょっと言葉に詰まり、それから天井の一すみを見て、押しだすように言った。

「ウチ、あさって、女子挺身隊に入隊するの。自分から希望したんよ。身体検査も学力検査もウチには両方とも自信があったんよ。・・・受かったわ。」

ピンクの半袖から小麦色の腕がすらっと、私のひよわな腕の横に並んでいた。

「秀ちゃん、すごい!」

この不自然な状態から抜け出ようと私は、頭の中でもがき、立ちあがりかけた。

「逃げんといて。ウチのこと怖い?すごいでしょう。謙ちゃんとも、ひょっとしたらこの世のお別れかもしれへかわ。そやから、謙ちゃん。あたし・・・」

いつの間にか京都弁丸出しの口調に変わっていた。秀子は思い詰めたような顔をしてから、急にぎこちなく頬笑みながらそのワンピースの裾をたくし上げた。私は必死で彼女を押しのけ、部屋の隅に逃げ、石のようになって秀子を見つめた。彼女は呆然としてまだ腿をむき出しにして立っていたが、やがて我に返って、

「悪かったわ。ごめん。」

しっかりした口調で言い、裾を隠すように後ろ向きになり、あとはつぶやくように、

「洋の部屋へ早く行って。もう帰ってくるころやわ。今のこと、誰にも言わないで。さよなら。」

と言った。

 

 

2005.03.1追加更新

 

夏場はわが家では裏庭で行水をする習わしだった。きみ子さんが蒸しなべに湯を沸かしてくれ、父と私が順番に大たらいで行水をした。そのあとも台所の片付け仕事をしたのちに、ようやく残り湯で自分も行水をするのだった。

その夕方父は、行水を済ませると、近くの広田の伯母のうちに相談事があるからと、扇子片手に出かけていった。次に、たらいに飛びこんだのは私だった。私は長湯がきらいで、いつもろくろく洗いもせず、頭から湯を二三杯かぶり、両腕と背中を手拭でごしごしこするだけで、もうふうふう湯疲れして飛びだすのが、私の行水の作法だった。その日も、せかせかと坊主頭に手桶で湯をかけていると、背中に人の気配がした。濡れて目が開けられないまま振りかえると、きみ子さんの笑い声がした。

「そんなことでは謙さん、洗ったことにならないわよ。」

驚いて目をこすると、シミーズ姿の彼女が、たらいの横に中座りになり、ひざの上にタオルをかけていた。手際よく手拭にせっけんをつけ、断わるひまも与えずに、私の背中やら腕やらをごしごし洗いだした。せっけんは貴重品だという、けちな父の平素の言葉が頭にしみて、よほどでないとせっけんを使わない習慣がついていたので、その時もはずかしさより、「もったいない」の思いが先に立った。

「おばさん、もうそんなもんでええ・・・」

しかし、きみ子さんは、

「毎日でなくとも、十日にいっぺんはすみずみまで洗うものよ。さあ、こちらを向いてごらんなさい。」

そして、私のあばらの出た胸からお腹から、ついに肉付の悪い太ももの中央にまでせっけんのあわをまぶせ続けた。

「あら!謙さん、毛がはえてる・・・」

子供のような明るい声で笑った。私は「そこ」を隠すにはあまりにも真正面に、また間近に彼女と向きあっていた。シミーズの胸元から、汗でねっとりした豊かなうねりがのぞいていた。私は、噴きだしてその場をごまかすしか方法がなかった。

「ハッハッ!おばさん、もうええから、向こうへ行ってて!」

「じぁ、私は謙さんの残したあわで洗うことにするわ。そうすれば、せっけんが無駄にならんもんね。」

ときみ子さんがまた笑った。

 

うちわを使いながら私はラジオを聞いていた。

「ああいいお湯だった・・・」

かなりしてから、きみ子さんが行水を終わり、初めて見る浴衣姿で私のそばに立った。

「暑いわ!・・・ねえ、謙さん・・・」

と甘い声になって私に向かって笑顔を作った。

「さっき洗ってあげたお返しに、ちょっと背中に風を入れてくれない?」

そして、さっさと私の前に背中を向けて、畳に座り、浴衣の肩をほんのちょっとゆるめてみせた。

「しょうがないなあ・・・」

と言いながら、私がうちわで肩先をあおいでやると、

「ああ、気持いい・・・もうちょっとお願い・・・」

さらに肩から浴衣を落としたので、この物不足の世の中では非国民呼ばわりされそうな肉付きのよい背中が、のり巻きの下からにぎり飯がのぞくようにあらわになった。

「謙さんは女の裸を見たことは初めてでしょう。」

この無遠慮な物言いに、ちょっと自尊心を傷つけられ、すぐには頷かず、ついこの間の秀子の太ももを、あれが女の裸だろうか?・・・と思いうかべた。

「あなたはお母さんを早くに亡くしたし、女きょうだいもないのだから・・・」

きみ子さんは、うちわの風を受け、後ろを向いたまま、妙に迫るような言い方をした。

「よければ、後学のため、すっかり見せてあげてもいいのよ・・・」

いつのまに帯を解いていたのか、浴衣をはらりと畳に落とした。座ったままの彼女のうしろ姿が、山影に落ちる夕日のように私の目に飛びこんできた。

「ねえ、もっとしっかりあおいで!少し恥ずかしいから、また暑くなってきたわ。」

「おばさん!もう、さっさと着物を着なさいよ!」

私はそう叫び、うちわを投げすてると、走るようにして二階へ駈けあがった。

 

永田きみ子と父は、九月の彼岸の中日、この戦争のさなかに祝言した。といっても、それは貧しい披露宴だった。父ときみ子と私と、藤村の伯母夫婦、広田の伯母夫婦の七人が打ち揃って、御所八幡さんで簡単な式をあげ、少量の合成酒で三々九度をしたのち、うちに帰って夕方から、特配の清酒つきで披露の宴を張った。結婚届けをすれば、少々のお米と酒を特別に配給してくれた。空襲がひんぱんに繰りかえされていて、東京の岩崎叔父夫妻は京都までとてもやって来れる状況ではなかった。鯛の代わりに、びわこの大きな鮒の煮付けが目を引いた。きみ子の兄が堅田で百姓をしており、餅米と小豆をいっしょに祝いにくれたので、赤飯が膳に並んだ。しかし、兄ときみ子は義理のきょうだいというだけでなく、なにか訳ありのようで、当日兄は式には出てこなかった。きみ子の両親はすでに亡く、彼女は早くから横浜に出て一人で生計を立てていたらしいのである。戦争が激しくなった去年に郷里に帰ったが、兄夫婦の屋根の下で住むことをいさぎよしとせず、京都に出てきて下宿住まいをしながら、父とほぼ同じ時期にデパートに勤めだした。

夕食時の披露宴だったが、九時すぎまでみなで雑談していた。きみ子さんはこまめに立ち、花嫁にもかかわらず、お給仕までして回った。

「きみ子さん。あとはあてらで片付けまっさかい、お二人はそろそろ二階へ。」

とふく伯母が促した。

「正太郎、あんさんが気ぃきかさんとぉ・・・」

くめ伯母さんに父が追ったてられた。

「ほんなら、すんません。皆さん、おやすみなさい。」

ときみ子さんがほんとに済まなさそうに挨拶して、少し照れ顔の父を先頭に階段を上がっていった。

私が一人とり残されたのに、客たちはかまわず、雑談を再開した。くめ伯母の長男、満州から応召された勇一の消息が、ここ二年以上まったく跡絶えているという話をしていた。にもかかわらず、天井のミシミシいう音に気を取られて、私はみんなの話についていけなかった。

柱時計が十時を打ち出し、耳をこらしても二階は静まりかえっていた。

私がその場に座ったまま、居眠りするふりをしているのを、やっと広田の伯父が見とがめてくれた。

「謙吉をもう寝かさんと、また明日ガッコがあるがな・・・なあ、おふくさん。」

伯父は自分の連れ合いを、さんづけで呼んでいた。

「謙ちゃんは今日だけ下で寝るんえ。寝られるやろ?」

とふく伯母が言った。

 

 

2005.04.1追加更新

 

ある日、朝礼のあとで、吉田担任が六年生だけを校庭に残した。

「みんな二列になって。これから鴨川の河原へ行く。」

とだけ言って、さっさとみんなの先頭に立って歩きだした。各家に赤い防火バケツの並んだ道筋はいやに整然としていた。鴨川にはもはや鳥もいなかったし、もちろん人影もなかった。

「各自二個あて、手頃な石を拾い、持ってかえれ。」

吉田先生は、理由も言わずに、みずから野球のボールぐらいの小石を拾ってみんなに示した。学校に帰ると、吉田先生は黙って校庭の片隅に小石を捨て、みんながまねをしたので、たちまち石の小山ができた。そこで初めて担任が、けげんな顔で立っている我々に、ニヤッ笑ってから、その疑問に答えた。

「小石をなにに使うか知りたいだろう。今説明する。敵、すなわちアメリカ兵が上陸してきた時、一人一兵となり、敵に向かって小石を投げろ。また、石が尽きても、アメリカ人は足が長い、その分腰が弱いから、男子生徒は死ぬ覚悟で、相手のキンタマを蹴りあげるんや!女子生徒は敵の太ももに食いついて、はなすな!」

 

ある日、とつぜん御池通りの家々にはり紙が貼られた。

「命により、一週間以内にこの家屋から立ち退くこと」

こうして御池通りと堀川通りの強制疎開が始まった。それはもう津波が来たような大さわぎで、トラック、大八、リヤカー、何にでも片っぱしから家財を積み、不平不満を投げる間もなく、とりあえずの住まいを求めて引っ越した。御池通りでいえば、堀川通りから鴨川までの一キロの間、幅六十メートルがたちまち、襲撃を受けて逃げていった敵の陣地のような空き家となった。事実、戦闘帽のひもをあごに食いこませ、軍刀を腰に提げた憲兵が、強制疎開の指揮にあたったのである。

子供たちは冒険心から、立ち入り禁止の札の垂れた荒縄をかいくぐって、空き家を訪れた。

たばこ専売局が捨てていった大きな木箱の底に、時節をわきまえない英語の「チェリー」という名の両切りたばこが三十個ばかり残っていて、家に持ってかえると、それを父が一個いくらかで買いとってくれた。長谷山という友達のツテで鉛管が高く売れると聞くと、彼と鎌田と私と三人で、空家の便器につながっている鉛管を薪割りで切りとって、長谷山のおじさんにゴムボールと交換してもらったりした。

ある日、やはり三人であちこち、空き家荒しに駈けまわっている時、小びろい庭のある屋敷の二階、その押入に、ふしぎな機械を見つけた。英語らしい言葉が書きこまれた丸いボタンが三列ほどに並んでいて、触れると、細い腕が真ん中の黒い棒をたたく仕掛けだった。

「なんやろ?」

「・・・!」

。当時私たちはタイプライターなぞ見たことも聞いたこともなかったので、三人とも頭を寄せあって、あれこれ知恵をしぼったあげく、それは「スパイの通信機」かもしれないと本気で考えた。私たちは、これは人に見つかってはまずい、軍に見つかったら、ここの人も、私たち自身も事件に巻きこまれる、さっさと処分しまおうと結論とした。・・・二階の窓から庭を見下ろすと、塀の片隅に防空ごうが築きかけになっているのが目についた。近ごろ、町会長から家ごとに防空ごうを掘るように言いつかっている。さっそく三人で階段を担いで降ろし、「スパイの通信機」を庭の穴に放りこんだ。我々以外に見とがめたものはだれもいない。手近かにまたお誂えむきに忘れてあったスコップで、長谷山と鎌田が土を掛け、私はそばで見ていて、人目からすっかり隠れたことを確認した上で、急いでその場を立ちさった。

 

御池通りの空き家はやがて、消防団、婦人会、隣組の動員でもって、次々と取りこわされていった。四本柱に鋸を入れ、綱をかけて、みんなで綱引きをすると、どの家もいとも呆気なくぺしゃんこにつぶれ、つぶれつつ、もうもうと白壁の土ぼこりが舞った。おかげで、住まっていたネズミが移動し、私たち疎開をまぬがれた家に、にわかにネズミの数が増えたのである。

さらに、町内会長から天井板の全面取りはずしを命じてきた。この前、屋根の下の天井板を、一部屋ごとに一枚だけ取りはずし自由にしておき、空襲の時、そこから不発弾なりが引っかかっていないか、確認するようにと命じられたが、その馬鹿さかげんに気がついたのだろう、今度は全面的に取りのぞくように言いなおしてきた。父も命令に背くわけにはいかず、金槌で天井板を叩き割ったので屋根裏がむき出しになり、梁を渡るネズミも居心地悪そうだった。

二階で寝ていた私が夜中に目ざめると、暗やみの中に光るものが二つ、いつまでもじっとして動かないでいた。体が固くなって、寝るどころではなかったが、ずいぶんにらみ合った末、二つの光りはふいと消え、トコトコと梁を走る音といっしょにネズミの逃げていく気配がした。考えてみれば、ネズミの目が光るのなら、ネズミの側からも私の、より大きい目玉が二つ光って見え、今まで天井裏で平穏に暮らしてきたネズミにとって、どれほどか恐ろしかったことだろう。夜ごと、固くこわばった私の体が、日を追うごとに、ネズミとも、ネズミのフンとも共存することに慣れて、やがて、ふだんと変わらなくなっていった。

 

 

2005.05.1追加更新

 

祖母の使い古した桑のたんすを父は手放すことにしたが、このたんすには彼女の精魂が染みついていた。祖母が元気なころ、毎日毎日乾(から)拭きぞっきんで拭きこんで、その木の目の模様が照りかえっていたので、古道具屋に見せても、こんな立派な桑は見たことがないと感心した。ところが、いざとなると、時節がら大きすぎるたんすを持てあまし、引きとるとは言わなかった。

「今どきこんなものを買う人おまへんで。私が道楽で持ってても、爆撃でもあったら、パーでどすわ。まあ、お母さんの形見なら、最後まで置いときなはれ。」

きみ子さんが、江州の兄の家が広いから、と持ちかけた。

「できるだけたくさんの米や野菜と交換させるから・・・」

トラックが来て、ある日桑のたんすを引きとっていった。そのあとへ、どこに預けていたのか、きみ子さん自身の、小ぶりではあるが、桐のたんすが担ぎこまれた。それからもう一つ、朱塗の、扉の真ん中に彫りもののある、このころの日本には珍しい洋服だんす・・・。これが、きみ子さんの嫁入り道具だった。約束にしたがって、きみ子さんは十日に一度の割合で滋賀県堅田に出かけ、米や野菜を背たろうて帰ってきたので、おかげでその一時期、私は白いご飯に不自由しなかった。

 

本土への米軍の爆撃はしだいに激しさを増していった。爆撃のありさまが人づてに聞こえてきたが、爆弾が落ちる時のすさまじさはこうだった。一発の爆弾でも落ちる際に空気を切り、ちょうどトタン板にたくさんの小石をぶつける時の、バリバリバリッと引き裂くような音を立てて落ちてくるらしい。

B29はいつも大阪や神戸を爆撃したあと、空箱になったその大きなずう体を、急にUターンできないばっかりに、しかたなく京都をかすめて通り過ぎるだけだったから、昼間私たちは空を見上げて、そのキラキラと輝くジュラルミンの機体を、恐れることもない代わりに、大した憎しみもなく、空腹を忘れて見上げ続けた。

 

特に女性仲間に社内結婚がよくは受けとられなかったことが理由で、きみ子さんは当時すでに会社を辞めていた。

その日、警戒警報発令中にもかかわらず、私は二階から下りてきて、外へ遊びに出かけるために表の間を通った。ちょうどその時だった。話に聞いていた、あの「バリバリッ」が突然耳をつんざいた。とっさに私は、学校で習ったとおり、両手のひらで両目両耳と鼻の穴をふさぎ、口を開けて、模範的な姿勢でその場にうつ伏せになった。続いて「ドカン!」と地響きのする音がした。きみ子さんは洗濯の最中だったらしい。

「ぎあっ!」

というような声を上げて、台所を駈けぬけて表の間に走りこんできた。私が部屋の真ん中に一文字に寝そべっているのに、すがりつくように被さったので、その勢いに私は「伏せ」の態勢から、びっくりして上向きになった。きみ子さんはシミーズ一枚で洗濯していたため、両手は腕まで石鹸でぬれていて、そのまま私に抱きついたから、私の顔にヌルヌルした石鹸の泡がくっついた。よほど怖かったのか、きみ子さんは実際私の体の上で震えながら、なかなか起きあがらなかった。子供の私の方がかばってやる立場に立って、

「だいじょうぶや、おばさん・・・」

と下から言った。私は彼女のことを「お母さん」と呼んだことはない。

「こわい!謙さん」

本当に泣き声をだした。シミーズだけの女の体がこんなに分の厚いものとは初めて知った。そして見た目よりずっと柔らかかった。きみ子さんもようやく落ちつきを取りもどし、

「今のなんだったのかしら・・・」

「爆弾やろ。どこかへ一発落としていったんや。もう大丈夫。」

と繰りかえした。

「謙吉さんて頼もしいのね・・・」

彼女はちょっとほほえんだが、なかなか起きあがろうとはしなかった。体重のない私は彼女の体が重くて、息ぐるしくなってきた。私がもがくと、

「もう少しこのままでいましょう・・・」

「苦しいよ。」

その時、いつの間に戻ってきたのか、父が私たちのそばに突ったっていた。二人ともバネのように跳ねあがった。父は怒りで真っ赤な顔になっていた。きみ子さんは逆に真っ青になり、肌着一枚で震えていた。私は石のように硬くなって父の前に棒だちになった。その私に向かって父が手を振りかざした。そのせつなきみ子さんが私を押しのけるようにして、父の前に自分を投げだした。

「すみません!」

父のピンタが彼女の頬にまともに飛んだ。きみ子さんはよろけて私に倒れかかった。それから、きみ子さんは私の腕を振りはらい、泣きながら二階に駈けあがっていった。

 

 

2005.06.01追加更新

七 

 

たかが六年生の私とままごとのように抱きあったことが原因とは、とうてい考えられなかったが、きみ子さんはしばらく家を明けると言って出ていった。もう帰ってこないのかと思ったら、三日後にリュックを背負って戻ってきた。米を三升とさつまいもをどっさり担いで、なにごともなかったように、しゃあしゃあと入ってきたのである。

「ああ重い。謙さん助けて!」

玄関先にリュックサックごと上向けにひっくり返ったきみ子さんが、台所の片付けものをしていた私に声を掛けた。私が手を引っぱって起こしてやったが、どうやら冗談でなく、腰が痛そうだった。夕方退勤してきた父は彼女の出迎えにぎろりと目を向けたが、それ以上は別段とがめる様子もなかった。

「腰をぐぜっちゃった・・・」

そう言って、以前は身を反らしているのかと思えた元気な歩きぶりから、少し猫背になり、心もち足を引きずって歩くようになった。

 

一週間ほどした午後、二階で、友達に借りた「少年探偵団」を読んでいる私の耳に、下から父のどなり声が聞こえた。むっくり起きあがって、階段の上がり小口で聞き耳をたてた。

「なんで医者通いをわしに黙ってたんや。」

「すみません・・・」

「すみませんで済むことか。」

「でも、それがどうしてここにいられない理由になるのですか。私はあなたの妻で、謙吉さんの母親ですよね。違いますか。」

父をたじたじさせたに違いない、きみ子さんのよく通る声だった。

「・・・帰って養生せえ。」

「どこへ帰れって、いわはるのん?」

京都弁をまじえて抵抗していた。

「お母はんとこや、田辺の。・・・わしはこの間行って逢おてきた。」

「え?」

「引きとるて言うてくれはった。」

「そんなこと、他人と決めることやないでしょう!」

「うちにいたら、直るもんも直らんやろがな。いつ爆撃があるか分からん今時に、足腰立たん人間がそばにいたらわしも困る。」

「・・・」

「しばらくの間やがな。戦争が終わるまでの・・・」

あとはそのまま沈黙が続き、その日は終わった。そう言えば、昨日今日きみ子さんは、仕事の合間に、すぐに畳へごろ寝していた。

 

その翌日、学校から帰ってきたら、表の間できみ子さんの、おし殺した泣き声が聞こえた。急いでふすまを開けると、たんすに向かって座りこんだ、きみ子さんの頬からぼろぼろと涙がこぼれていた。父はその場にいなかった。桑のたんすを父が手ばなしたあとに、きみ子さんが持ちこんだ朱塗りの洋服だんすと桐の和だんすが並んでいて、彼女はその桐のたんすのカンを握っていた。思い詰めてむせぶと、中味のとぼしい軽い桐のたんすが揺れ、握っている以外のカンがガタガタ鳴った。

「おばさん、なんで泣いてるのん・・・」

私の声にきみ子さんは一瞬息を呑んだが、再びしゃくりながら、

「謙吉さんには、私はやっぱりただのおばさんなのね・・・」

私は言葉に詰まった。悪いとは思いながら少し腹が立った。

「おばさんのお母さんて誰なん?」

私の質問は意地悪に聞こえたかもしれないが、彼女の両親は死んだと聞かされていた。きみ子さんが私を振りかえり、急に真顔になって答えた。

「私に、母親なんていません。」

「おばさん、どっか病気なん?」

「私が病気になったら、謙さん、あなたまで私を追いだす気?・・・」

玄関に父の気配がした。私はその場に居あわせてはまずいと思って、足音を忍ばせて二階に上がった。

なんの会話も聞こえてこなかったが、二三十分後に表戸の開く音がして、二階のガラス戸から見下ろすと、父に付きそわれたきみ子さんが、風呂敷包を一つかかえてバス通りの方に歩いて行った。それが彼女の見納めだった。

 

先日からのいきさつはもう一つふに落ちなかったが、その日からまた、父と私の二人暮らしに戻った。なごりといえば、一階表の間の桐のたんすと、ちょっと和風とは言いがたい朱塗りの洋服だんすが残っていた。

「いずれ、また帰ってくるから。」

と父は言った。それから二階の奥の間に、麻なわのかかった、ずいぶん重たい柳ごおりが一つ置き忘れてあった。十日ほどしてから、私がそのことを父に言うと、

「開けてみよか。」

父は悪びれもなく言い、すぐになわを解きだしたが、びっくりしたことに、柳ごおりの中味は、白米五升、小麦粉一袋、のし餅三本、大豆が一升、小豆少々で、それをぼろ布で隠すようにして詰めてあった。

「これは戴きやなあ。桑のたんすの代がまだ滞ってるさかいなあ。」

と父は平然と言った。

 

「きみ子さんのお母さんて、ほんとにどこかに居るのん?」

なん日か間をおいてから父に聞いてみた。

「うん。わしも知らんかったけど、田辺に小さな旅館をやってる実の母親がいるんや。あれの家庭はちょっと複雑でな。堅田の兄とは血がつながってないのは知ってたけど。父親も別にいてどうやら・・・。」

「どこかに生きてるのん?」

「それはわしも知らん。」

父は知ってか知らずか、それ以上は話してくれなかった。

「・・・本人はそれほどと思もてないらしいけど、放っといたらエライことになると、医者にも聞いてきた。わしはお前のお母はんを死なせたやろ。・・・同じことを繰りかえしとない。」

 

父はひと月に一度の割できみ子さんを見舞いに田辺に通っていたみたいだが、その後のようすについて、なに一つ聞かせてはくれなかった。

 

 

2005.07.01追加更新

 

蒸し暑い夜。B29の編隊がいつまでも京都の夜空を埋めつくし、ラジオが「大阪の街を無差別爆撃中」とのニュースを流していた。「京都は爆撃しない。」という流言を、京都人のほとんどが信じきっていたので、私も外に出て夜空を眺めていた。サーチライトや高射砲もたじたじと、あるいは諦め半分の応対しかしなかった。その最後の爆音が北西に消えていき、空襲警報が解除されたのは一時間以上も経ってからだったが、大阪と京都の間は五十キロも離れていたにもかかわらず、わが家からはるか南西の空がぼうっと赤かった。

その翌朝はいつまでたっても夜が明けなかった。まるで日食のように、広い空が濃い煙で満たされ、東の空の太陽はその黒い雲を通して、ちょうど傘をかぶったお月さまのようで、二日酔いみたいに頼りない有様だった。まさに焼けおちた大阪の街の亡霊だった。そんな最中にも我々は登校した。

しかし、それも束の間一時間目に警戒警報、そしてわれわれは町内ごとに隊列を組み、駆け足で下校したが、そのころにようやく空が平常に戻ってきた。

 

空襲警報が鳴っても父は、庭に造った手掘りの防空ごうに決してはいろうとはしなかった。兵隊検査は丙種で、徴用もまぬがれ、今さら戦争に参加しようなどという気はまるでなかったようだ。

それでも物資はとぼしくなる一方で、きみ子さんが堅田から米をかついで来なくなると、父は別なツテで、玄米、里芋、くず大豆、しまいには芋の茎の粉末をドンゴロス一袋も買って帰った。芋の茎はまだ食べられたのに、茎の粉で作ったダンゴだけは戴けたものでなかった。動物の餌のようなその食べ物を、父はそれでも黙って食べていた。

衣料切符は配られたが、現物はとだえたままで、中でも下着が不足した。洗濯をかさねると薄やぶれてくるので、汚い話だが、色の変わったパンスをいつまでもはいた。そこで、父は下着を自ら縫って作ってしまおうと決意したらしく、息子の私がびっくりするような器用さを発揮した。かって木綿問屋をしていた時の木綿の端切れが、恐らくシマツな祖母が大事に取っておいたのが、風呂敷包みにいくつも残っていた。木綿の白無地にシャツを合わせて型を取り、縫いしろ分を余分に切り抜いて、縫いあわせると出来あがった。シャツはまだしも簡単だったようで、自信を得た父はパンスにも挑戦したが、そうは問屋は卸さず、二枚を縫いあわせただけのパンスは股が釣って、尻に食いこみ、とてもはいていられなかった。その失敗から、針もろくろく握ったことのない父が、お尻にマチを入れる方法を考えついた。

 

父は面と向かって私に「勉強しろ」と一度も言わなかったし、当の私がまたやる気がなかったから、親子ともども無関心の結果は言わずと知れていた。それでも私は人並みにふらふらと中学進学を目指した。と言うより、担任がクラスの一人一人に進学か否かを確認した時、「進学はしません。」と言いだす勇気がなかったのである。吉田先生は首をひねった。

「おい、タチバナ!おまえ自分の成績と相談したことあるのか?」

「いいえ。だれとも相談したことはありません。」

先生は吹きだしながら、

「まあ、おまえの希望に水を差してもいかんだろう。それなら、せめて一つだけやってみろ。二学期が終わるまでに、なんでもええから観察する、それを記録にして報告せい。それができれば内申の点を一つだけオマケしてやる。」

家に帰って私はそこいら中を見て回ったあげく、庭の紅葉の枝に尺とり虫がついているのを見つけ、その歩くさまに釘づけになった。尺とり虫はまず棒のように枝に付いていたが、やがて胸の部分だけでしっかり枝に抱きつき胴体以下を持ちあげる。次に胴体をくの字に曲げ尻尾の先を胸のそばまで持っていき、こんどはその尻尾の足でしっかり枝をつかまえ、頭と胸の部分を枝からはなして、前に伸び、前進する。この四つのパターンを繰りかえすのである。

画用紙を二十センチの幅に切り、それをつないで長さ一メートル六十センチの巻き紙を作った。それを十六に分割して、尺とり虫の四パターンの動きを四回繰りかえして描いた。もちろん少しづつ進むから、枝の張りぐあい、葉のつきどころはそれぞれの画面で異なってくるのである。つまり映画のフイルムのコマ取りのようなものを作った。長らく忘れていた私の丹念な画法がよみがえり、それを完成して久々に自分でも満足した。

吉田先生も感心してくれた。

「おまえ、才能あるぞ!しかし、ちょっと遅すぎたなあ。」

と笑った。二学期の通知簿はただ一つ理科が「優」だった。

中学の入学試験を受けることを父に告げたが、別に驚きもしなかった。

そして、物の見事に入学試験に失敗し、その結果を父に告げると、ちょっと寂しそうな表情をしただけで、小言もいわず、

「いちいち気を落とすな。」

と慰めてくれた。ズボンの中の父の手づくりのパンスが、私のお尻にジンと暖かかった。

 

我々のクラスでは大津の少年飛行隊に、水鳥、山辺という学業心身ともに優秀な二人が合格した。こんなクラスは全国の学校でも珍しいと吉田先生も鼻高々である。

そこで、私のクラスは、四つのランクに分けられた。第一ランクが言うまでもなく少年航空兵に合格の二人。第二ランクは中学入試を勝ちとったグループ。それから第三ランクは、初めから「中学に行かない」と宣言した勇気ある人達。最後のランクが、入試を失敗した我々であった。

 

最後に、卒業式の日の特別給食について書いておこう。当時は物資不足のおりから、子供にお弁当を持たせられない家庭も多く、ひもじさゆえに弁当泥棒がしばしば発生した。児童の栄養状態は最低で、どの子も、程度の差こそあれ、等しく栄養失調症にかかっていた。そんな中で、学校給食が始まり、みそ汁と塩パン一個のまずしいメニューだったが、私たちにとっては給食時間がなにより待ちどおしい時間となった。

卒業式の日も、すぐに帰らず、いつも通り給食を支給してくれた。それだけで私は、入学試験に落ちた憂鬱から一転、しあわせな気持になれた。しかも、卒業祝いに特別に、塩パン二個、みそ汁もおかわりが、大なべの底がつくまで、なん杯でも許された。

塩パン二個を食べてしまうのが、私にはすごくぜいたくに思え、一個を、防空ずきんの入った布袋に大事にしまって、家に持って帰った。夕方、会社から父が帰ってくると、卒業証書より先にその塩パンを取りだし、半分を父に差しだした。父はそれを黙って受けとり、ほおばりながら、

「うまい。」

と、ひとこと言った。

 

 

「消し炭の壷」を一応終了とします。

永らくのご愛読ありがとうございました。