二・日常の欠片〜1

 

 結局、その後は一睡もできず、目を赤くしたユウトがリビングに降りていくと、その顔を見た家族が「またか」というような顔をしていた。

 リビングには無言ながら、心配と若干の非難、そして諦めに似た何かが入り混じる、何とも微妙な空気が存在した。

 

「あー……オハヨ」

 

 いつもの朝。いつもの微妙に気まずい空気。

 とりあえず挨拶をする。これも日常の繰り返し。

 そして、この後に続く言葉もまた、いつもと同じだ。

 

「ユウト。またろくに寝てないでしょ? 駄目だよー? アンタはまだ成長期なんだから。ちゃんと寝ないと」

「いいだろ別に。俺は姉貴みたいに伸びすぎる気はないの」

 

 ユウトはリビングのテーブル、その自分の席に座りながら、茶化すように言ってきた姉に返事を返した。

 日本女子の平均身長をあっさりと越えていることが悩みの姉は、少しムッとした様子で言う。

 

「あ、ナマイキ。あたしだって伸びたくて伸びたんじゃないのよ?」

「はいはい。あ、おかあさん。今日の昼、学食かなんかで済ますから、お金頂戴」

 

 ユウトは姉を適当にあしらうと、キッチンに行き、そこで弁当を作っていた母親に声をかけた。

 姉がこちらをじーーーーーーっと睨んでいるのはつとめて無視する。

 

「ん? お弁当なら作ってあげるけど?」

「あーいや。今日昼休みはちょっと忙しいから。簡単に済ましたいんだ」

 

 母親の言葉に、少し言いよどみながら答える。実際は、いつも中身の決まっている母親の弁当に飽きているだけだ。

 しかも、昼休みにはもう冷え切ってしまっている。正直、キツイ。

 

「そう? ならいいけど。あ、じゃあ飲み物くらいは持っていきなさいね」

 

 母親はそんな息子の気持ちに気付いているのいないのか、キッチンでの作業を再開した。

 

「朝ご飯、そこにパンがあるから、好きなの食べちゃって。卵食べる?」

「うん。食べる」

 

 言いながら、キッチンの籠から、適当な菓子パンを選んで、再びテーブルについた。

 

「あんまりノンビリはしてられないんじゃないか?」

 

 席につくと、隣で新聞を広げていた父親がテレビの方を見た。

 時刻は六時半。学校に間に合うためにはあと三十分以内に朝食を済ませ、準備をしなければならない。

 

「ん。そうかも。でも、いざとなったらおとうさん、駅まで送っていってくれるよね?」

「馬鹿。甘ったれるな」

 

 口ではそういいながらも、顔が笑っている。どうやらOKらしい。これなら、ぎりぎりまで時間がつかえる。

 

「あ、ユウトばっかりずるーい。あたしも乗ってっていいよね? おとうさん」

「まったく、もう少し余裕を持てといつも言ってるだろうに……」

「おとうさんがそうやって甘やかすからじゃないの? はい、ユウト。卵」

 

 母親がキッチンから出てきて、ユウトの前に皿を置いた。皿の上には湯気を立てるベーコンエッグが乗っている。

 そして、ユウトにケチャップを手渡した。

 

「ユウト、ケチャップ使うでしょ?」

「あ、ありがと。お母さん」

 

 母親からケチャップを受け取ると、ユウトは何気なくキャップを開け、いつもどおり大量に卵にかけた。

 その瞬間。

 

「……う」

 

 夢を思い出した。ケチャップの赤が、夢で見た血の赤を連想させる。

 夢で嗅いだ血の匂いまでも甦ってきた気がする。

 卵につけようとした箸が止まった。

 

「…………」

 

 そのユウトの様子を見て、姉がいぶかしむような声を出した。

 

「どしたの、ユウト? 顔色悪いよ?」

「え? ああ……」

 

 その声で、ユウトは現実に引き戻された。

 目の前の卵を見下ろす。なんてことはない。これはただのケチャップ。血なんかじゃない。そう自分に言い聞かせる。

 

「ん。なんでもない。いただきまーす」

 

 湯気を立てる卵に箸をつける。その頃には母親も席につき、朝食を取り始めていた。

 ユウトには菓子パンを勧めておいて、自分はしっかりとトーストを焼き、あまつさえカフェオレ付き。

 いつものことながら、この格差にやや釈然としないものを感じるユウトであった。

 憮然としながら菓子パンをかじる息子には気が付かない様子で、母親がトーストにバターを塗りながら口を開いた。

 

「ああ、ユウト。言い忘れてたけど、今週末、あなただけだから」

「は?」

 

 再び箸を止めて母親を見た。ニコニコと笑いながら母親は続ける。

 

「お母さん、ちょっと出かけなきゃいけないのよ。お父さんは出張だし、お姉ちゃんは……」

「週末は友達の家で飲み会なのでーす」

 

 母親の言葉を引き取って、姉が言う。なるほど。納得した。

 

「はいはい。ま、暇なのは俺ばかり、と。別に飯代さえ置いていってくれればいいよ」

「あ、ご飯はお隣の美奈ちゃんが面倒見てくれるって。お言葉に甘えなさい?」

「はぁ?! なんでそこで倉木がでてくるのさ?」

「だって、倉木さんの奥さんも一緒に行くんだもの」

 

 なおもニコニコと笑いながら母親が言う。

 

「……お母さん、それでも少しは置いてってね」

 

 抵抗は止めた。少しでもお金を置いていかせて、それでやりくりしていった方がマシだとユウトは考えた。

 

「ええ。でも明らかに使った額が多かったら、来月のお小遣いから引いておくからね?」

「お母様……それは、あまりに辛ぉ御座いやしませんか?」

 

 ユウトはがっくりと肩を落とした。

 そのとき、父親が口を開いた。

 

「六時、四十五分」

 

 時計を見ながら言う。

 そろそろ本格的に急がなくてはいけない時間だ。

 

「あーもう、なんでもいいや! とにかく少しは置いてってよね!」

 

 ユウトは猛然と卵と菓子パンを処理し始めた。

 先ほどの夢の残滓など、もう頭の片隅に追いやられていた。

 

 それから五分後。なんだかんだ言いながら、ユウトは父親の世話にならなくても間に合う時間に玄関に立っていた。

 

「それじゃーいってきまーす」

 

 リビングに声をかけて、ドアを開けた。早朝の気持ちのいい風がユウトの頬をなでる。

 その風を感じていたユウトの目に、今週末、ユウトの補給を担う人物が飛び込んできた。

 

「お? 倉木じゃん。おはよー」

「あれ。ユウト君。おはよ。今日はおじさんの車じゃないんだ」

「いつもいつもそんなことはないって……」

「え? じゃあ、なんでいつも私は会わないのかなぁ?」

 

 そう言ってお隣さんはクスクスと笑った。

 お隣さんの名前は、倉木美奈と言う。

 ユウトとは家が隣同士で、子供の頃からの付き合い。いわゆる幼馴染というやつだ。

 聞いている方が元気になりそうな快活な声と生気にあふれた目が印象的。

 仕事も出来て人をまとめるのも上手いので、ユウトも所属している文芸部の部長を任されている。

 

「あ、そうだ倉木、今週末のことなんだけど……」

「うん。聞いてるよ? ユウト君にご飯の面倒見てあげるように母さんから言われてる」

「そう、それなんだけど。自分で何とかするから、別にいいよ」

 

 そう言いながら、ユウトは倉木の横に並んだ。

 横から、倉木が顔を覗き込んでくる。

 

「え? 別に無理しなくてもいいよ? 一人分作るより楽だし」

「いや、そうじゃなくて……」

「ん?……ははーん。わかった。恥ずかしいんだな?」

 

 図星を指された。

 当然である。高校三年生にもなって、お隣の同級生に食事を作ってもらうなんて。

 ……恋愛シミュレーションじゃあるまいし。

 

「今さら遠慮する間柄? いいから、私にどーんと任せておきなさい!」

 

 そんなユウトの気持ちなどお構いなしに、倉木は自分の胸を叩いた。どうやら、作る気満々らしい。

 

「へいへい……」

 

 ユウトは生返事を返しながら、どうやってこの後にやってくる状況から逃れようかを考えていた。