三・日常の中の異常
その後、電車時間に遅れるようなことはなく、ユウトたちは学校の最寄駅にたどり着いた。
改札を抜けると、倉木がユウトの先に立って歩き出す。
「それじゃここからは別々ね。ユウト君、また学校でね」
「ん。そんじゃ、また後で」
倉木はユウトに向けて軽く手を振ると、ユウトの目の先に立っていた男子学生のところへ歩いていった。
ユウトと同じ学校の制服を来たその男子は、倉木を見て、そしてユウトの方に視線を投げかけた。
目を細める、次いで口の端が持ち上がった。
(……なんだ? 睨んでる? けど笑ってる? なんで?)
その視線に、なんとなく違和感を覚えながら、ユウトは歩き出した。
倉木たちの脇を通り過ぎ、最初の信号のところで後ろから声をかけてくる人がいた。
「竹塚さん」
静かな、抑揚に乏しい声。だが、ユウトにとっては聞きなれた声だ。
「やあ、木ノ坂さん。おはよー」
「おはようございます」
振り向いたユウトの前に、ユウトの親友の顔があった。眼鏡の奥から、深い知性をたたえた目がこちらを見ている。
口元以外に表情らしい表情はない。その口元にしても、あるかないか微妙な微笑みが浮かんでいるだけだ。
木ノ坂知徳。ユウトと同じ学年で、所属する部も同じ。一年生の頃からの付き合いで、ユウトにとっては気の許せる友人だ。
論理的な思考と、卓越したその論理の展開法、さらに悟りを開いているのかと問いたくなるような冷静さは、
もはや学生の域ではないと学内ではある意味有名な人物だ。
「竹塚さん。なにやら倉木部長といい雰囲気だったようですね?」
「はぁ?! 朝からいきなりなに言ってんの、木ノ坂さんは」
「ふふふ。隠さないでもいいですよ。健全な男子としては正しい姿です」
「……勘違いしてるな、木ノ坂さん。俺と部長は家が隣同士なだけだって」
「おや、そうだったんですか」
木ノ坂は言っていることこそユウトをからかっているが、口調は静かで淡々としている。
このしゃべり方を敬遠する人も多いが、ユウトにとってはもう慣れたものである。大して気にもならない。
「うん。疑うんだったら部長にも聞いてみれば? つーか、言ってなかったっけ?」
「ええ。初めて聞きました」
「そだっけ? ま、あんまり言う必要もないけどね」
「確かに。それでは、行きますか」
木ノ坂は一人うなずくと、まっすぐに歩き出した。ユウトもそれに習おうとする。
だが、次の瞬間。
「……!」
悪寒が、ユウトの全身を貫いた。
慌てて辺りを見回す。しかし、駅の周辺は通勤や通学の人であふれているだけで、何も怪しいところはない。
「どうしました。竹塚さん」
数歩先を歩いていた木ノ坂が振り向いた。彼は何も気がついていないように見える。
(……気のせい、か)
ユウトは再び周りを見回してから、軽く頭を振った。最近、夢見が悪いせいか、どうも神経が過敏になっている。そう考えることにした。
「ん。なんでもないです。それじゃあ行きますか」
「行きましょう」
だが、ユウトは気がついていなかった。ユウトと、その他大勢の人々を、昏い目で見詰め続ける影がいることに。
学校には余裕を持ってたどり着いた。ユウトたちの通う私立竜ヶ臥学院高等学校は、駅から徒歩で数十分というところにある。
進学校という位置付けにあるが、生徒の何割かは卒業と同時に就職をする。そんな高校だ。
しかし、不思議なことに、学年が進むごとに生徒数が減っている。理由は不明だ。
その奇妙な現象から、他校から色々とおかしな噂を立てられたりすることもある。
だが、概ねどこにでもありそうな高校。というイメージで間違いはない。
ユウトの家からは、電車のダイヤの関係上、乗り遅れない限り始業までは十分な余裕のある時間にたどり着くことが出来る。
ちなみに、乗り遅れれば遅刻は確定だ。
「さて、それじゃいつも通り部室で時間つぶしますか?」
ユウトは横にいる木ノ坂に問い掛けた。ユウトと木ノ坂は大抵始業までの時間を、文芸部の部室で過ごすのが日課だった。
この時間なら顧問の教師はすでに来ているし、なによりも教室にいるよりノンビリ出来る。
だが、木ノ坂はゆっくりと首を横に振った。
「今日は先約があるので」
そして、ただそれだけを口にする。
「へぇ。珍しいな。木ノ坂さんが朝部室に行かないのって」
「それでは、またお昼休みにでも」
ユウトの軽口をまるで意に介さず、木ノ坂はさっさと昇降口へと行ってしまった。
「乗ってこないか。つまんないの」
木ノ坂の背中を見送って、ユウトは裏口の方に向かった。昇降口とは丁度逆方向にある。
裏口付近は元々ほとんど人通りがない。そのため、この時間には静まり返っていてユウトはそれが気に入っていた。
中庭を経由して、教室のある棟とは反対の方向にある建物へと足を運ぶ。
視聴覚室や図書室のある建物の中に、文芸部の部室はある。図書室の隣、そこが目的地だ。
「おはよーっす……っても、誰もいないか」
ユウトはあらかじめ用意しておいた合鍵でもって鍵を開け、部室へと入る。
文芸部の部室は広さが普通の教室の半分位で、中には数台のパソコンとロッカー、それに壁の一面を埋める本棚がある。
それと、誰の趣味なのか、窓に面した一角には畳が敷いてあり、そこで自由にくつろげるつくりになっている。
ユウトは畳にカバンを放り出すと、本棚に歩み寄り、その中から適当な文庫本を一冊抜き出した。立ったまま中身を確認すると、畳まで戻って腰をおろす。
朝のこの時間、静かな部室でこうして本を読むのがユウトは好きだった。
高校も3年目に入り、なにかと周囲が騒がしくなってきて、教室では落ち着くことさえ出来ない。
皆、進学や就職のことばかり口にして、お互いを牽制しあう。
曰く、「あの大学は偏差値がいくら必要だから、俺には無理だわ」
――嘘を付け。お前はもっと上を見ているんだろう?
曰く、「こないだの模試の結果どうだった? 僕? 全然駄目」
――またまた。俺より上なのはわかってるって。その目を見ればわかる。自分よりも駄目そうな俺に言って優越感に浸りたいんだろ?
……それとも、傷を舐め合いたいのか?
曰く、「いいよなぁ竹塚は。推薦もらえそうなんだろ?」
――そりゃあ自分の頭の中身位わきまえていますから。先生からの受けを良くしなきゃ大学なんていけそうにない。
推薦はその努力の結果。でも、なんでそのことを嘲るように言いやがりますか君は?
――etc、etc――。
「……まったく、うんざり、だ」
ユウトは頭を振って本を閉じた。どうもいけない。どうにも偏った見方をしてしまう。
どうやら、やはり神経が尖り気味になってしまっているらしい。
こんな時は窓を開けて、さわやかな朝の空気を胸一杯に吸い込むのが一番だ。
「そうだな。うん。換気しよう。換気だ換気! 空気を入れ替えてすっきりしましょう!」
ユウトはそう呟くと、窓を開けるために立ち上がった。そして、そのまま窓に向かって歩いていき、そして、見た。
見た瞬間、凍りついた。
裏口に面した窓から見える光景。普段は人通りのないはずの裏門。そこに、人が立っていた。
それだけならば、何も不思議はない。不思議なのはその格好だった。
そんなに寒くもないこの時期に、トレンチコートを着込んでいる。襟を立て、帽子を目深にかぶっているので顔は見えない。
しかし、わかった。
アイツは、俺を見ている。帽子の下に隠れたくら昏い目で、俺のことを見ている。
見ているだけ。ただそれだけだ。それなのに、全身が凍りついたように動かない。
動かないくせに、全身から冷たい汗が滲み出す。息が苦しい。頭がくらくらする。鼓動が早い。
これは、なんだ?
――これは、恐怖だ。
何を恐れている?
――あの、男を。
なぜ?
――わからない。
ナゼ?
――わからない。
何故?
――わか……った。
わかった。
アイツは、俺を、
殺そうと考えている。
唐突に、ユウトの中で思考がまとまった。なぜ動けないのかにも、なぜこんなにも冷や汗が止まらないのかにも、全てに合点がいった。
あの男は、自分を殺そうとしている。 その殺気を浴びてしまったから、自分は動けなくなっている。
そこまでは、理解できた。
なぜ――?
しかし、ユウトの思考が次の段階に進もうとする前に、それは鳴り響く予鈴の鐘によって阻まれた。
その音で、時間が思い出したかのように流れ始める。
気が付けば、裏門にはトレンチコートを着込んだ人などおらず、ちらほらと数少ない利用者が登校しているのが見えるだけだった。
「……っは! ……はぁはぁはぁ……」
その時になって、ようやくユウトの体も正常なリズムを思い出した。
呼吸が整い、そして鼓動も徐々に落ち着いていく。
「なんだ今の……。あれ、誰? いや、そんなことよりも……」
なぜ、殺されると思ったのか。
落ち着いてきたら、予鈴によって阻まれた思考が甦ってくる。しかし、甦った所で答えなどは出てこない。
「別に、俺あんな奴は知らないし、殺されるようなことなんてしてないぞ……?」
だけど、あの時に感じたのは紛れもなく殺気というやつだろう。今までの短い人生の中でそんなものを向けられたことなんてない。
でも、わかった。
アイツは、あのまま予鈴が鳴らなかったら、ここまでやってきて自分を殺す気だった。
理屈抜きで、本能がそう告げていた。
「……考えすぎだよ、なぁ……」
呟いて、ユウトはもう一度裏門に目を向ける。
もう登校する生徒もいないし、もちろん季節はずれのトレンチコートを着た男なんていうのもいない。
「うん。疲れているのだ俺は! 最近夢見も悪いし、考えなきゃいけないことも多いし」
そう自分に弁解して、カバンを手に取る。だが、その言葉は自分自身言っていて空々しいものに聞こえた。
「気のせいだ。気のせい……俺は、適当な大学への推薦をもらって、適当に大学に通って、適当な会社に就職して、
そんで普通に年を取って畳の上で死ぬんだ。だから……」
あんな、おかしな奴はいない。自分を殺そうとしている奴なんていない。そんなやつ、こんな平凡な日常にはいない。
そう自分に言い聞かせる。言い聞かせるが、心のどこかでそれを否定しようとする自分がいる。
「気のせいだ……」
呟く声は、言いようのない不安で塗りつぶされていた。