四・日常の欠片〜2

 

 授業の終了を告げる鐘が、ユウトを眠りから引き上げた。

 腕時計を見る。今の鐘で丁度今日の授業は滞りなく終了。後は適当に部活をして帰るだけだ。

 

「さて。どうしようかなっと」

 

 誰に言うわけでもなく呟くと、ユウトは畳から上半身を起こした。

 開け放しの窓から気持ちのいい風が入ってくる。周囲には誰もいない。文芸部の部室だからあたりまえである。

 午後の授業はサボって、部室で昼寝をしていたのだ。

 

「こんな所で寝てるから、夜よく眠れないのかな?」

 

 そんなことを一人言っていると、部室の扉が開いた。

 

「あれ? ユウト君、早いねー」

「おや部長。そっちこそお早いお越しで」

 

 扉を開けて現れたのは倉木だった。倉木は少し憮然とした顔をユウトに向ける。

 

「部長って呼ぶのやめてって前言わなかったけ? 私にはちゃんと倉木美奈って言う名前があるんだからね?

……まったく、ユウト君ってば学校の外なら名字で呼ぶのになぁ」

「でも部長は部長じゃん」

「私が嫌なの」

「はぁ。そうでありますか……」

 

 やや呆れた声を出すユウトを尻目に、倉木は机の上にカバンを置くと、パソコンの前に座ってなにやら作業を開始した。

 

「ん? 部長、何してんの?」

「だから部長はやめなさい。せめて名字をつけて呼ぶ」

「……へい。それで、倉木部長閣下。何を始めるでありますか?」

 

 倉木はそこで初めてユウトの方を見やった。

 

「原稿。もうすぐ部誌の締め切りでしょ?」

「あー。そういやそういうのもあったかな」

 

 納得した、といった表情でうなずくユウトに、倉木はため息をついた。

 

「……で? 聞くだけ無駄だと思うけど、ユウト君は何も出さないの?」

「え? 俺も出すの?」

 

 とぼけるユウト。倉木は再びため息をついた。さっきよりも大きい。

 

「まあ、そう言うと思ったけどね。……でも、もったいないな。ユウト君の書く小説、結構好きなんだけど、私」

「本人を前にしてそんなことを言いますか、アナタは」

 

 ユウトが言うと、倉木は笑顔を浮かべる。

 

「うん。だってなかなかいないよ? 夏の勉強合宿の自由学習時間に、『国語の勉強です!』なんて言って、小説書く人は。しかもSF小説」

「……それは言わないでくれぃ。その後、さんざ安田先生に絞られた……」

 

 恥ずかしい過去を言われて、ユウトは思わず苦笑した。

 

「でも、それとこれって関係あるのか?」

 

 それを受けて、倉木は少し表情を暗くした。やや思案した後、口を開く。

 

「まあ、正直な話としては原稿の集まりが悪いのよ。まあ、去年も一昨年もそうだったけどね」

「なるほど、それで?」

「で。小説って原稿量は多いから。私も一応小説は書くんだけど、ひとりじゃやっぱり、ね。

今年の部員は詩とかそっちの方が多いの。薄い部誌って、なんだか見てて寒いのよね」

「なんだ。ってことは何か、俺の小説は部誌の水増しのためだけに必要ってこと?」

 

 ユウトは苦笑を収めて少々憮然として言った。

 自分の作品が好きだと言ってもらえてまんざらでもなかったのに、量だけを必要なように見られたからだ。

 だが、そんなユウトの顔を見て、倉木はもう一度笑顔を見せた。

 

「それもあるかな? でも私がユウト君の小説が好きなのは本当だから。書いてる人が楽しんで書いてるのがわかるし、キャラクターも生きてるって感じがする」

「フォローかよ」

「ううん。本音だってば。疑り深いなぁ」

 

 今度は倉木が苦笑する。

 

「で、どう? 今年で最後だし、何か書いてみない?」

「……んじゃなんか書いてみるわ。締め切りいつだっけ?」

「んー……本当は今月末なんだけど、伸ばして来月半ば、かなぁ」

「そっか。そんじゃ早速書いてくかな。こっからメールって送れるっけ?」

 

 そういいながら、ユウトは倉木の隣のパソコンの前に座る。

 

「うん。大丈夫。って言うか、ここにパソコンを設置させた本人がそれを聞く?」

「あ、そういやそうだった」

 

 また苦笑して、ユウトはパソコンのキーボードを叩き始めた。倉木もそれに倣う。

 それからしばらくの間、二人は黙々とキーボードを叩き続けた。二人以外に来る者もいない部室に、キーボードを叩く音だけが響く。

 

「……誰も来ないね」

 

 ふと、キーボードを叩く手を止めて、倉木が口を開いた。

 ユウトは手を止めずに答える。

 

「あー。だって今日金曜じゃん。明日は休みだし、皆遊びに行ってんじゃない?」

「そっか。それじゃあしょうがないか」

「そういや倉木は遊びに行ったりしないの?」

「は? いきなり何言い出すのかな。ユウト君は」

「あ、いや。別に深い意味はないんだけどな。永谷とかいうのと行く約束とかあったりしないの?」

 

 何気なくある名前を口にして、ユウトは内心「しまった!」と思った。

 次の瞬間、案の定、倉木がそこを突っ込んでくる。

 

「……どうしてそこで永谷君がでてくるの?」

 

 やっぱりそう言われて、ユウトは言葉に詰まった。

 永谷と言うのは、倉木と付き合っていると言う噂の男子学生だ。

 一応、倉木本人には確認していないが、よく二人でいるのを学校内で目撃されている。

 今日の朝も、駅で目撃している。

 

「あーえー……気にしないでくれ。ものの例えってやつで」

「…………」

 

 ごまかそうとするユウトを、倉木がじーーーーっと睨んでいる。

 目が、『大人しく吐けこの野郎』と言っている。

 

「……いや、付き合ってるんだろ? 永谷と」

 

 言っているので、正直に白状した。面と向かって言うべきじゃないとは思いつつも、逃げられそうにない。

 罵られるか、怒鳴られるか、はたまたその両方か。ユウトはどちらにしても飛んできそうな罵声に備えて身を縮めた。

 しかし、そのどちらも飛んでは来なかった。それどころか。

 

「ばれてたのかー。じゃあしょうがないか」

 

 飛んできた明るい声に、ユウトは倉木のほうを向いた。

 倉木は笑っていた。笑っているくせに、その表情は妙に暗い。

 

「うん。まあ隠してもいつかばれるしねー。ユウト君ならいいか。うん、そうだよ。私永谷君と付き合ってる。残念でしたー」

「いや、残念でした―って……」

 

 少々予想外の反応に、ユウトは面食らった。

 それと同時に、少し不信にも思えた。なんだって、倉木はこんな明るい声を出しているのに、こんな暗い顔をしているのだろう?

 その答えはすぐに本人の口から答えられた。

 

「でもねー。彼ってば冷たいんだー。デートに行くのだって月に一回あるかないかだよ? なんか、他にも付き合ってる子いるって話も聞くし。

……彼って本当に私の彼氏なのかなー?」

 

 完全に笑いを消すと、倉木はうつむいてしまった。部室に重苦しい沈黙が張り詰める。

 ユウトにはなんて言ったらいいのかさっぱりわからない。

 黙っていると、倉木がポツリと言葉を漏らした。

 

「何か自信なくなったなぁ。こんなことなら、大人しく本命にいけばよかったかな……」

 

 ユウトが問い返すよりも早く、倉木は顔を上げてユウトを見た。

 目にいつもの生気がない、とユウトは思った。

 

「そう言うユウト君は、遊びに行く予定とか、ないの?」

「は?」

「だから。ユウト君は誰か二人で遊びにいったりする人はいないの?」

 

 そうきたか。ユウトは再び押し黙った。

 そんな経験はない。残念なことに、竹塚ユウトにはこの十八年、そんな話にはとんと縁がなかった。

 倉木は再びじっとユウトを見ている。

 これもごまかしは許してもらえないらしい。

 

「私が白状したんだもん。ユウ君も白状しないと不公平ってゆーか卑怯」

「う……」

 

 止めの一言。

 なんだか、墓穴を掘った気もするが、自業自得か。

 ユウトは諦めると、しぶしぶ口を開いた。

 

「いない」

 

 口調が苦々しくなっていないか自信はない。倉木の目が悪戯めいた光を宿した。

 

「そっか。そうなんだー。へー」

「変かよ……」

「ん? 別に変なんて言ってないよー? ただそうなんだーってだけですが?」

 

 何か? と言いたげな倉木の顔。ユウトはそっぽを向くと再びキーボードを叩き始めた。叩く指が荒っぽくなるのは止めようがない。

 しかし、倉木は手を動かさずに、ユウトを見ている。

 その視線に耐え切れなくなって、ユウトは思わず叫んだ。

 

「ほら! 手が止まってるぞ! 原稿原稿! 締め切り近いんだろ!」

 

 言う声もぶっきらぼうになる。その声を聞いた倉木がクスクスと笑い始めた。

 

「へー。そうかー。いないんだー」

 

 なおも言う倉木の声に、ユウトの中で何かが切れた。

 

「ああもう! 悪かったなぁ! ああいねぇさ! 生まれてこの方十八年、色恋沙汰には縁がねぇよちくしょー!」

 

 半ば自棄になって叫ぶ。倉木はそれを聞いて今度こそ声を上げて笑い出した。

 

「あははは! そんな自棄にならなくってもいいじゃない。別に悪いなんて言ってないし、それにあんまり珍しくもないってば」

「嘘だー! 絶対変だと思ってる! そいで可哀想な人って俺を哀れんでる! その目はそういう目だー!」

「うわー。ユウト君って、結構被害妄想な人なんだねー」

「見るなー! そんな哀れみを込めた目で俺を見るなー!」

「もう。ほんとに被害妄想強いなぁ」

「みーるーなー!」

 

 ユウトは口ではそう言いながらも、倉木の様子をしっかりと見ていた。

 もう、先ほどまでの生気のない目はしていない。多少は元気になったようだ。

 

「あはははは! あー笑った笑った。……あ、そうだ。ユウト君、来週暇?」

「みーるー……へ?」

 

 いきなり切り出されて、ユウトは間の抜けた返答を返してしまった。

 

「だから、来週。暇?」

「ああ、うん。別に何も予定はありませんが?」

 

 ユウトの返答に倉木は満面の笑みを浮かべてうなずいた。

 

「ならいいや。来週一緒に遊びに行こ?」

「……いきなりですな」

「駄目?」

 

 倉木はユウトの目を見ている。

 ユウトはなぜか気圧されるような気がした。なので、大人しく首を縦に振った。

 

「俺は別にいいよ。倉木こそいいの?」

「たまにはいいでしょ。彼にはいい薬。うん、それじゃ決まり!」

 

 なんだか、おかしなことになっている。

 そう思いながらも、ユウトは悪くない気になっている自分に気がついた。

 倉木のことは別に嫌いと言うわけでもない。むしろ好みと言えなくもない。

 何よりも女の子と遊びに行くなんて、姉に引きずり回されるのを除けば、あまりない。いやむしろほとんどない。

 ……情けないことだが。

 こんな機会はそうそう逃せるものじゃない。

 

「あ、もうこんな時間。そろそろ帰らないといけないや」

 

 そんな倉木の言葉がユウトを現実に引き戻した。

 時計の針はもう午後七時を指そうとしていた。

 

「あ、ほんとだ。倉木、先行ってていいよ。部室、俺閉めておくし」

「そう? 悪いね」

「気にしない。それじゃ、また月曜日に」

「うん、それじゃ……」

 

 倉木がカバンを持ったそのとき、部室のドアを叩く音が聞こえた。

 

「ん? なんだろ。校務のおじさんが来るにはまだ早いし……はーい。開いてますよー」

 

 ユウトが外に声をかけると、部室のドアが静かに開いた。そこには。

 

「あ、昭弘……」

 

 倉木の恋人、永谷昭弘が立っていた。

 

「やっぱりここか、美奈。帰るぞ」

「……うん」

 

 倉木はどこか居心地が悪そうに、永谷の脇にたった。

 そして、寂しそうな、申し訳なさそうな目でユウトを見た。

 

「それじゃ……竹塚君、お先に。お疲れ様」

「はいはい。お疲れ様です」

 

 倉木はそう言ってユウトの視界から消えた。だが、永谷はすぐに倉木に付いていこうとせず、ユウトを見ていた。

 その視線を感じて、ユウトはパソコンの終了操作の途中で顔を上げる。

 

「? まだ、なにか?」

 

 ユウトの質問には答えず、永谷が口を開く。

 

「そうか。君が竹塚君、か」

 

 その声に、ユウトは尋常ではない感情を感じ取った。

 朝、駅で感じたような感じ。これは……敵意、か?

 

「ええ。そうですけど……俺になにか?」

「別に特別に用はないよ」

「そうですか……じゃあ、えーと?」

「いや。失礼」

 

 永谷はそう言うと、ユウトに一瞥をくれて、倉木を追いかけていった。

 

「なんだぁ? 変な奴……」

 

 ユウトは訳がわからないといった顔でパソコンの電源を切った。

 首をかしげて、席を立つ。まったく訳がわからない。永谷とは初対面だ。なのに、なんであんな剥き出しの敵意を向けてくる?

 朝もそうだったし。ユウトには訳がわからなくなった。だから、素直な感想が口をついて出た。

 

「訳わかんねぇや。帰ろ……」

 

 部室の蛍光灯のスイッチを切ると、ユウトは昇降口に向かって歩き出した。