五・覚醒
「うわ、やっばいなぁ……」
だが、ユウトは駅にたどり着くより先に、今自分が来た道を引き返していた。
定期を入れた財布がないことに、駅の前で気が付いたのだ。
「あれないと、家帰れないっての……」
そうぼやきながら、学校への道を走る。もう時刻は八時近くを指している。
この時間にもなると、ほとんどの生徒は下校を終えており、いつもは多くの学生が通る通学路も人通りがなかった。
「あぁあ。なんか今日は変なことばっかり起きるなぁ」
疲れてきた足をなんとか動かし、ユウトは学校まで戻ってきた。
夜の学校はとっくに誰もいなくなっているらしく、しんと静まり返っていた。
「……なんか、やっぱり不気味だよなぁ」
呟きながら、正門前で思案する。
誰もいないから当然門は閉まっているし、そこには当たり前だが鍵が掛かっている。
「……裏門からなら、入れるけど……」
裏門にも門はあるが、正門に比べれば乗り越えられない高さではない。だが。
「……ちょっと、嫌だなぁ……」
今日の朝のことを思い出してしまい、思わず身震いをする。頭を振って沸きかけた嫌な想像を振り払った。
「んなこと言っても、財布を拾えなきゃ帰れないんだ。……行くしか、ないだろ」
そう言っても、なかなか足は動かない。それどころか、震えだしてきた。
「大体、言ってたじゃん。そんな人は見てないって。だから、大丈夫だって、俺」
昼に部室で聞いたことを再確認する。そう言って、ようやく、足の震えが幾分マシになってきた。
「……よし! 行くか」
ユウトは裏門に向かってそろそろと歩き出した。
裏門を乗り越え、運良く鍵の掛かっていなかった窓から校舎内に潜入したユウトはまっしぐらに部室へと向かった。
今日、一番多くの時間を過ごしたあの場所にしか、心当たりはなかった。
「……あった!」
部室を捜索すること十分。ユウトはようやく目的の物を発見した。電気をつければもっと早く見つかっただろうが、それはやめた。
誰もいない学校に電気がともったら、下手をしたら付近の民家から通報されるかもしれない。
もしくは、警備会社に連絡が行くかもしれない。やっかいごとはさけたかった。
「ってか、財布如きでそんな大事になったら、恥ずかしいよな」
一人ごちて、ユウトは部室を出た。後は、さっさと家に帰るだけ。
「やっぱり、ただの気のせいか。そうだよな。大体なんであれが殺気だってわかるんだよ、俺は……」
部室を後にして、入ってきた窓からこっそりと抜け出す。
そして、裏門に向かおうとした時だった。
「……? なんだ?」
ユウトの耳に、なにかが聞こえた。
それは爆竹のように軽い、乾いた音だった。一定の感覚で立て続けに聞こえてくる。
ユウトの頭の中では、行くなと言う声が全開で怒鳴っていた。だが、その頭のどこか片隅で、見に行ってみろと小さく囁く声がする。
「……なんだろ」
結局好奇心に負けて、ユウトは音のした方に慎重に歩み寄った。
そして、見た。
「……あれは……」
学校の正門昇降口前に、それはいた。地面に膝を付き、左手で自分の脇腹を押さえて。
朝、裏門に現れ、自分に剥き出しの殺意を叩きつけてきた相手。
季節はずれのトレンチコートを着込んだ、あの男が。
「……なんで」
なんでいるんだ。あれは自分の見間違いのはずだろう。じゃあこれも見間違いだと言うのか。
ありえない。
こんなことはありえない。
「……!」
男がこちらを向いた。暗がりの中に男はいるのに、その目が自分を見たことをユウトは気がついた。
「やばい……!」
頭の中では『逃げろ!』と叫ぶ声しかなかった。囁く声など微塵もない。
だが、今度は体が脳の命令を受け付けない。
朝と同じように、殺気がユウトの体を縛り付けた。
男がゆっくりと立ち上がる。左手が脇腹から離れる。何か黒っぽいものがトレンチコートの脇を濡らしていた。
あれは……血か?
「シィイイイ……」
トレンチコートの襟と、帽子の隙間から男の声らしきものが漏れた。
声、と言うより呼気と言ったほうがいいだろうか。その音はどこか獣を連想させた。
ゆっくりと男が歩み寄ってくる。体はまだ動かない。
ユウトまであと十歩。
ユウトはまだ動かない。
あと五歩。
まだ動かない。
あと三歩。
まだ動かない。
あと一歩。
もう、動けない。
男はユウトの目の前に立っている。
その全身が細部まで観察できる距離だ。
トレンチコートはあちこちがほころび、破れている。だが、破れたのはついさっきのようだ。
それは小さな穴が穿たれており、そこからはまだ白い煙が漂っていた。
帽子の下にある眉間にも、黒子のような穴が開いていて、そこからも白い煙が上がっている。
顔は包帯に覆われていて良くわからない。ただ、その隙間から見える目だけが赤く、凶暴な光を放っている。
「シィイイイ……」
男がまた、獣の呼気のような声を出し、包帯を音を立てて引きちぎった。
そして、その下から鮫のように鋭い牙がでたらめに並んだ口が姿をあらわした。
声も出ない。
ユウトは震えることすらせずに、目の前の何かを目を見開いて見詰め続けた。
男の右手が緩やかに持ち上がる。
その手が、人の手だったものが、バキバキと音を立て、別な何かに変化する。
指の一つ一つが硬質化していく。さらにその過程で全体的に大きさを増す。爪が伸びて、これもさらに太さを増す。
竜の爪って確かこんな感じだよな、とユウトは考えた。
「シィイアァアア!」
その爪が、袈裟切りに空を切り裂く。
進路上にあった、ユウトの肩から腹も一緒に切り裂いて。
ユウトは、男の爪が自分の肩の骨を砕き、次いで肋骨を全て叩き折り、そのまま肺やその他の内臓を引き裂いていくのを感じた。
だが、痛みはなかった。
ユウトが感じたのは、アスファルトの冷たさだった。
(……あれ? なんで、俺地面に寝てるんだ?)
ユウトはそう考えると、地面に手をついた。
(起きなきゃ。制服汚すとお母さんに怒られる……)
だが、右手が動かない。左手もなんだか力が入らない。
(あれ? なんだぁ? なんでこんな体重いんだよ?)
ユウトは目を動かした。見えるのは、普段の位置からは、やたらと遠くにある右腕と、真っ赤な何か。そして、黒い革靴だった。
(ん? なんだろ、この赤いの)
そう考えた瞬間、喉の置くから何か熱いものがこみ上げてきた。
耐え切れず吐き出す。その瞬間、目に見えているのと同じ色をした液体が、大量に吐き出された。
口の中に、鉄の味が一杯に広がる。
(あれ? これってテレビとかで見る吐血ってやつか? 俺って何か病気持ってたっけ……?)
次の瞬間、全身を灼熱感が襲った。次いで、右肩から左脇腹にかけて、今まで味わったことのない激痛。
(!!!)
ユウトはそこで初めて自分の身に何が起きたかに気がついた。
自分は、目の前にいる怪物に、殴られた。殴られた、と言う表現が正しいかはわからないが、ともかく自分は今死に瀕しているようだ。
(ちょっと待てよ! 訳わからねぇよ!)
ユウトはそう怒鳴ったつもりだった。だが、実際には、 「ウ……が、ぁ……」 という、弱弱しい苦鳴が口から漏れただけだ。
(ちょっと待てって。大体俺は財布を取りに来ただけだろ?!)
ユウトはもがきながら、口を開け閉めした。か細い息が血にふさがれた喉から漏れる。
(それが、なんだってこんな目にあわなきゃいけないんだよ! おかしいだろそんなの!)
ユウトは左手を自分で作った血溜まりについたつもりだった。しかし、現実にはほんの少し指が動いた程度だった。
(なんで俺がこんな目に会うんだよ……!)
ユウトは自分の全身から力が抜けていくのがわかった。寒い、それになんだか眠い。
(ま、待て、待てよ。待て待て待て待て待て待て!
これ、もしかして俺、死にかけてるのか? じょ、冗談じゃない! おれ、まだ死にたくないよ!)
だが、寒気は止まらず、眠気は容赦なく意識を刈り取ろうとしてくる。
(死にたくない、死にたくないよ! 死ぬなんて、死ぬなんて嫌だ!)
(死にたくない、死にたくない死にたくない!)
(死!)
(これが、死!!)
(死にたくない!!!)
ユウトの声なき叫びは、しかし、迫り来る闇に飲まれかけていた。
(死にたくない!!!!!)
もう、目は見えない、何も聞こえない、何も感じない。
寒気も、眠気も、何も感じなかった。
ユウトは、その瞬間、自分が死んだということに気が付いた。
(だけど、俺が死んだって言うなら、何故、あの夢を見ているんだ?)
ユウトはそう自問した。
ユウトの目の前には、血に塗れたユウトが立っていた。
毎晩、夢に出てきては、自分を捕まえようとする何か。それは、血に塗れた自分自身だった。
血に塗れたユウトは、ユウトを見て、笑った。 『ようやく気が付いたか』というような笑い。
そして、今度は本当に声を出した。笑いながら、自分の声でそれは言った。 『俺はお前だ』と。
そして……。
そして、ユウトは突然全ての感覚を取り戻した。
全身に力が戻ってくる。視界に突然自分の右腕が正しい位置にあるのが見えた。
両手に力がこもる。ユウトは何事もなかったように立ち上がった。
数歩先には、あの怪物が立っている。
赤い目に、疑惑の光が宿っている。だが、それはすぐに激しい怒りと殺意に替わった。
だが、ユウトにはなぜかそれが恐ろしいとは思わなかった。
それよりも、血が騒いだ。
奴はやる気だ。とてもいい。 あの怪物と闘いたい、と思った。
「……ククク……」
知らず知らず、笑いが漏れる。とても楽しい。自分の持っている全てをかけて、あの怪物を倒そう。
そう考えている自分がいる。
「クク。クククク。アハハハハハハ……」
目は一時たりとも怪物から離さない。だが、口からは絶え間なく笑いが溢れ出す。
さあ、俺と闘え。お前の命を賭けて。
俺も命を賭けよう。
さあ、闘え!
「シィイアァァアアア!!」
奴が駆けて来る。爪を振りたて、牙を剥いて。
迎え撃て、武器なら足元にある。
「ハハハハハ!」
夜の学校に、ユウトの笑いがこだまする。それに挑発されるように、怪物は一直線にユウトへ向かっていく。
ユウトまであと十歩。
ユウトは動かない。
あと五歩。
まだ動かない。
あと三歩。
まだ動かない。
あと、一歩。
その瞬間。
柔らかい何かを貫く音が、幾重にも渡って夜の学校に響いた。
「はは、ははは、アハハハハハハハハハ!」
そして、ユウトは笑いつづける。
全身を、赤い槍で貫かれた怪物を前にして。
槍は、怪物の内側で枝分かれをした。体の内側から弾けるようにして、怪物の体が千切れる。
怪物が原型を留めなくなると、赤い槍は即座に硬さを失い、元の形に戻った。すなわち、ユウトの血液に。
「ハハハ! 楽しいなぁ! 楽しかったなぁ!」
ユウトは笑いつづける。
足元に、赤い水溜りを広げて横たわる怪物の残骸を見下ろして。
赤い水溜りはその残骸を静かに飲み込んでいく。
楽しい。とても楽しい。力を振るうのはこんなにも楽しい!
お前もそうなのだろう、俺に負けたとはいえ、お前も力を振るうことは楽しかっただろう?
残骸に対して問い掛けるように見詰め、笑う。
「フフ。フフフ……」
やがて、怪物の姿は血溜まりの中に完全に没した。
怪物を飲み込んだ血溜まりは、まるで意思を持っているかのようにユウトの足元に集まり、
そしてユウトに吸い込まれるように消えていった。
あとには、ただ一人、ユウトだけが取り残された。
「…………」
笑いの発作はとっくに収まっている。
熱に浮かされたような高揚感もどこかへいってしまった。急に現実感が増してくる。
ユウトは夢から覚めたような表情で呆然としていた。
「…………」
右手を見る。次いで右肩から左脇腹まで、切り裂かれた制服の破れ目に沿ってなぞってみる。
傷一つない体が、そこにはあった。
「……俺、どうなっちまったんだ……?」
何かに怯えるようにユウトは呟いた。
体の中にある血液をほとんど流し、半身を切り裂かれたにも関わらず、体は元通り。
それだけでも異常だが、それよりもユウトを怯えさせたこと。
怪物に対峙した時に感じた、あの高揚感。
闘いたい、ただそれだけに支配された、自分。
あんなに好戦的な自分が存在したと言う事実。それが、ユウトを怯えさえていた。
そのとき、ユウトの背後で物音がした。
「……?!」
ユウトは反射的に振り向き、そして言葉を失った。
そこには、ユウトの見知った人物の顔があったからだ。
「…………木ノ坂、さん?」
「……こんばんは、竹塚さん」
木ノ坂は、どこまでもいつも通りだった。