六・崩壊の序曲 

 

 明けて土曜日。

 普段なら自由な時間を楽しむ週末も、今のユウトには全くもって憂鬱な時間だった。

 目を覚ますと木ノ坂の姿はなく、テーブルに書置きだけが残されていた。

 書置きには、代えの制服を用意してあること、帰りに鍵はいらないことなどが書いてあった。

 そして最後に。 『もし、協力する気になったら、いつでも連絡をください』 と記してあった。

 

「……」

 

 ユウトは家までの帰り道、ずっと昨夜自分の身に起きたことを考えていた。

 自分の身を切り裂かれる感触、死を前にして冷たくなっていく体、死への恐怖。

 自分の内側から沸いてくる闘争への渇望。闘うということの愉悦。力を行使する喜び。

 どれもが、夢のようで、しかし、確実に現実だと言うことをユウトの脳裏に刻み込んでいく。

 

「他に選択肢、ないよな」

 

 そう、ユウトにはもう選択肢はない。

 UGNという組織への参加を拒み、ジャームと呼ばれる存在になるか。

 参加を受け入れ、この異常事態を受け入れ、自分の中に宿る何かと折り合いをつけるか。

 

「……ああ、もう一つ、あるにはあるな」

 

 自ら、命を絶つ。

 ある意味、一番後腐れがない。――自分ひとりなら。

 しかし、その選択肢は選ばないことは、ユウト自身が一番良くわかっていた。

 

「……皆、悲しむだろうし」

 

 家族がある。

 今まで育ててくれた家族を裏切ることはしたくない。

 

「約束、あるし」

 

 来週、遊びに行くという約束もある。

 約束を破るのはあまり好きじゃない。

 

「っつーか死ぬのヤだし」

 

 結局はそれだ。

 まだ、自分は何もしていない、何も満足していない。

 それなのに、自ら命を絶つなんて、冗談じゃない。

 

「と、なると……一番いいのは木ノ坂さんの申し出を受けるってことなんだけど……」

 

 ユウトは、どこかで疑念を払いきれない自分がいることを感じていた。

 木ノ坂が自分を騙そうとしていたら?

 木ノ坂たちこそが、力を悪用するやつらだったら?

 実はコントロールする方法などなく、ただの口約束だとしたら?

 否定的な言葉が次々と並べられる。

 

「でも、俺あんな化け物になりたくないし……」

 

 昨夜の怪物。あれはオーヴァードのなれの果てだ。

 あんな怪物になったとしたら。そんな自分に、世間はどういう目をむける?

  いや。もっと限定して、家族は、友人は、はたしてどう考える?

 映画や漫画のような世界なら、優しい言葉を投げかけてくれる人もいるだろう。

 だが、現実はもっと残酷で、冷酷だ。

 恐怖、嫌悪、拒否。竹塚ユウトという存在への全否定。

 自分にそういう目を向ける家族を、友人を思い浮かべてユウトは首を振った。

 ネガティブな思考は好きじゃない。どこまでも深く、落ち込んでいく。

 だからユウトは自分の考えていることをできるだけ前向きに考えるように、思考の軌道を修正した。

 

「なんだ。思ったよりも余裕あるみたいだな、俺って」

 

 なんだかんだいいながら、自分のことよりも人からのことを考えている。

 こういう場合、もっと取り乱してもいいとは思う。だが、ユウトは落ち着いていた。

 取り乱したところで何かが変わるわけでもない。そう考えてしまう。

 取り乱したら、そのまま戻って来れないところまで引きずり込まれるからだということを、

つとめて考えないようにしていることに、ユウトは気がついていない。

 

「そうなんだよな。結局、何をするにしたって、なるようにしかならないしな」

 

 無理矢理に、ポジティブに聞こえる結論を出している間に、家についた。

 一息吸って、扉に手をかける。

 家族には、悟られないように振舞わなければ。

 不自然に見えないように。

 自然に。自然に。

 ユウトは扉を開けた。

 

「ただいまー」

 

 よし、大丈夫。声は震えていない。

 ユウトは心の中でガッツポーズをとった。

 後は、さっさと自室に逃げ込むだけ……。

 

「おかえりー」

 

 しかし、リビングから出てきた顔は、ユウトの家族ではなかった。

 

「……って、ちょっと待て。なんで倉木が俺の家にいる?」

「あれ? もう忘れた? ご飯、作ってあげるっていったよね?」

 

 そういわれて、今日家にいるのは自分だけだったと言うことを思い出す。

 さらに、倉木が食事を作りに来ると言う約束も思い出した。

 

「……夕食だけよかったんですけど」

 

 そう呟くと、ユウトもリビングに入った。キッチンでは倉木が鼻歌を歌いながら料理を作っている。

 

「ユウト君、お昼まだでしょ? 今作っちゃうから、少し待っててね」

「あー……うん。でもそんな気合いれないでいいよ」

「私、手抜きは嫌い」

「あ、さいで……」

 

 ユウトが適当に座ろうとすると、倉木が何かを思い出したかのように、ユウトの方を向いた。

 その顔は、どこか申し訳なさそうな表情をしている。

 

「あの、ね。ユウト君」

「ん? どしたい」

「昭弘、ね。来てるの」

「……は?」

 

 座ろうとしていた動作が止まる。即座に思考が渦を巻き始めた。

 なんだって?

 永谷が自分の家に来ている?

 なんで?

 何の理由があって?

 ……訳がわからない。

 しかし、訳がわからないのは倉木も一緒のようだ。

 

「今日、いきなり私の家に来てね。ユウト君の家に行くって言い出して。止めたのよ?

でもどうしても行くって言って……」

「……訳わかんないな」

「うん。それで……今、彼……ユウト君の部屋にいるの」

「はぁ?!」

 

 ますますユウトを混乱させることを倉木は口にした。

 人のいない家に、事情を知る倉木を連れているとはいえ堂々と踏み込み、

しかも知り合いとすらいえないユウトの部屋に侵入する。

 正直、ユウトには耐えがたいことを、永谷はしている。

 

「……なに考えてんだ」

 

 ユウトは不快感を隠そうともせず吐き捨てると、リビングを飛び出した。

 階段を駆け上がり、自分の部屋のドアを開ける。

 そこには。

 

「やあ、お帰り竹塚君」

 

 薄ら笑いを浮かべてユウトを出迎える永谷の姿があった。

 ユウトは不快そうに顔をゆがめると、永谷に向かって歩み寄った。

 

「永谷君、君ここでなにをしてる?」

「なにって。君が帰ってくるのを待っていただけど?

ああ、悪いとは思ったんだけど、本棚にあった本、何冊か読ませてもらったよ。

ただ待つって言うのは、退屈だからね」

 

 永谷は、薄ら笑いを浮かべたまま、傍らにあった本を軽く掲げて見せる。

 コイツは。

 ユウトは思い切り不愉快そうに顔をしかめた。

 なんなんだ、この馴れ馴れしさは。思わず、罵声が喉元までせり上がってくる。

 だが、飛び出しかけた罵声を何とか飲み込むと、感情を抑えた声で言う。

 

「とりあえず、出てもらえないか。俺はまだ君を部屋に上げるほど親しくない。

そういった人に勝手に部屋に入られると、正直、あまり気分はよくない」

 

 永谷はユウトの言葉を聞くと、クックッという低い笑い声を上げた。

 

「親しくない、か。それはつれないんじゃないかな?」

「なに言って……」

 

 今度こそ、罵声が飛び出しかける。

 しかし、次の永谷の一言で、罵声は喉の奥に無理矢理押し戻された。

 

「そう。昨日の夜は、面白いものを見せてもらったよ」

「な……」

 

 永谷が突然口にしたその一言は、ユウトを驚かせるに足る一言だった。

 ユウトにとって、昨日の夜に起きたことといえば、たった一つしかない。

 しかし、それを認めることをユウトは拒否する。

 

「昨日の夜? へぇ。何か見たんだ?」

 

 拒否するために、とぼけた様子で返事をした。だが、永谷は低く笑うのをやめようとしない。

 

「隠すことはないさ。君が人でなくなったことをね」

「……!」

 

 言葉に詰まるユウトをよそに、永谷はしゃべりつづける。

 

「体の半分を裂かれても死なない。その怪我も瞬時に治る。

あまつさえ、そんな怪我を負わせるような怪物を一息に打ち倒すなんて真似が、

はたして一般人にできるのかな? ……いやいや。できはしないさ」

 

 芝居がかった動作で永谷が肩をすくめる。その目が、ユウトを見た。

 その目に浮か感情は、嘲笑、憎悪、嫌悪に敵意。およそ好意的な感情はない。

 何だってこんなに嫌われているのか。ユウトにはまったくわからない。

 ただ、ユウトが変わったというだけではない。この男は、昨日会ったときもユウトに大してこんな目を向けていた。

 

「まあ、別に君が人だろうとそれ以外だろうと、俺には大した問題じゃあないんだ」

 

 永谷が敵意と嘲弄を込めた目でユウトを見る。昨日の駅で。そして放課後に部室で向けられたのと同じ目で。

 

「問題なのは、君が俺の所有物に手を出している、という事実なんだよ」

「所有物……?」

 

 ユウトがいぶかしむと、永谷は口の端を吊り上げた。

 木ノ坂の笑い方に似ているが、あからさまな嘲笑だとわかるところが大きく違う。

 

「そうさ。俺という男がいながら、隣の幼馴染のご飯を作りに行く、馬鹿な女。あれは俺の物だ」

「お前……何を言ってるんだ?」

 

 ユウトの声は震えていた。  

 コイツはおかしい。どこかが、何かが決定的に常人とは違っている。

 永谷は嘲笑を浮かべたまま、さらに理解し難い言葉を紡ぐ。

 

「まあ、今はまだあんまり『渇いて』いないからいいけど。もし、渇いている時に昨日の朝みたいな光景を見せられたら、

我慢できる自信はないな。君にもわかるんじゃないかな……竹塚、ユウト君?」

「なんだよ……それ……」

「君も感じただろう? 自分が今までの自分の殻を破った時に。衝動って呼ばれてるみたいだけど」

 

 ここに来て、ユウトは目の前にいる男が、自分や木ノ坂と同じ存在だということに気がつかされた。

 コイツは、この永谷明弘という男は、オーヴァードだ。

 しかも、かなり危ういところでバランスを保っている。なぜか、ユウトにはそう感じられた。

 

「その衝動に身をゆだねるって言うのは、とても気持ちがいいんだ。今まで我慢していたのが馬鹿らしくなるくらいにね」

 

 いや、訂正する。コイツはもうほとんどジャームだ。ユウトはそう断定した。

 自分がおかしくなっていることに気が付いてない。

 木ノ坂が言っていた。

 

『最悪なのは、自我をもったままジャーム化するということです。自らの意思でレネゲイドの力を悪用する。

そういった輩が最も危険で、最も忌まわしい』

 

 ユウトは今まさにその最も危険な存在に直面していた。

 永谷は黙り込むユウトに構わずしゃべりつづける。

 

「俺の場合は……そう、喉が渇くんだ。水やジュース程度じゃ収まらないくらいにね。

そんなものよりももっと飲みたいものがある」

 

 永谷は、大好物の食べ物の味を思い出した時のように、うっとりとした表情を作った。

 幸せそうな笑みが、自然と顔に浮かんでくる。

 

「……血だよ。しかも、自分と同世代の女の血がね」

 

 だが、その笑いは歪んでいた。

 

「ただ、いきなり道を歩いている女を襲うのは面白くないんだ。それよりは、もっとその人を良く知ってから飲む方が美味い。

そうだな。例えば、野菜を買うときに産地とかを表示してある野菜とかの方が安心するだろう? 

それと似ているかな……いや、違うかな?」

 

 幸せそうな笑みを浮かべながら、何気なく、当たり前のことを話すように、永谷は喋りつつける。

 それでいて、話していることは狂っているとしか思えない。

 ユウトの背中を、冷たい汗が伝い落ちる。

 

「……永谷、お前……」

「まあ、とにかく、そう言うわけなんだよ。竹塚君。君は俺の大事な食料を横取りしようとしている。

それは、俺としてはあまり歓迎できないことなんだ」

 

 永谷は腰を上げると、ユウトの脇をすり抜けて階段へと向かおうとした。

 すれ違い際に、囁くように言葉をぶつけてくる。

 

「そういうわけだから、君には俺の女の前から退場してもらうことにした。そのために、俺は今日ここに来たんだ」

 

 ユウトはそこで初めて動いた。右手が、永谷の腕を掴む。

 

「なにをする気だ……」

 

 嫌な予感に、知らず手に力がこもる。だが、永谷はこともなげに言った。

 

「何って、簡単なことさ。今からリビングに俺の手下が飛び込んでくる。そして、リビングにいる女を殺す。

まあ、その前にいわゆる乱暴狼藉の限りでも尽くしてみようか? 君はそれを助けるか助けないかの選択をする。

もし助けるなら、君は君の力を振るうしかない。そうすれば、あの女は君のことをどう思う?

一般人が、君のような怪物を目の当たりにした時、果たしてどう返すかな?

ああ、一応言っておくけれど……。現実的に、考えてくれ」

 

 永谷は、歌うように言うと、嫌な笑いを顔に貼り付けた。

 

「また、もし助けないなら、女は俺の血になる。どっちにしても」

 

 底無しの悪意を嘲りの笑いに込めて、永谷はユウトの顔を覗き込む。

 

「女は俺のものになる、というシナリオさ。――さあ、そろそろだ」

 

 永谷の声とともに、リビングからガラスの割れる音と、倉木の悲鳴が聞こえてきた。

 

「な!」

「ほらほら、急いだ方がいいと思うよ? 俺の手下――従者には、目に付くもの全てを犯して殺せと言う指示を出してあるからね」

「くそ!」

 

 永谷の腕を放して、ユウトは階段を駆け下りた。

 開け放しの扉から、リビングの様子が見えた。

 庭に続くガラス戸が割られている。

 リビングのテーブルは叩き壊されており、その上に乗っていたのであろう料理が、床に散乱していた。

 昨日の夜、ユウトを殺した怪物が、元通りの姿で倉木に襲い掛かっている。

 

(嘘だろ?!)

 

 ユウトは思わず声を失った。

 何故、昨日自分が殺した相手が、今目の前にいるんだ?

 ユウトはその疑問と、昨日味わった死の恐怖に縛られ、一瞬脚がすくむ。

 だが、その目に怪物に組み伏せられた倉木の姿が飛び込んでくる。

 倉木はうつ伏せにされて、床に押し付けられていた。

 怪物の視線と、倉木の視線がほぼ同時に上がり、リビングに飛び込んだユウトを捉えたえた。

 

「ユウト君!」

「シィイイイイ……」

 

 叫ぶ声と、呼気が重なって聞こえる。

 

「ユウト君、逃げて!」

 

 倉木の悲痛な声。その声が癇にさわったのか、怪物の爪が倉木の背中に走った。

 

「キャアアアアア!!」

 

 再び、悲鳴。それを彩るかのように布を裂く音がリビングに響く。

 上着が、怪物の爪によって引き裂かれた。倉木の白い肌が、ユウトの目に映る。

 その瞬間、ユウトの中に昨日感じた感情とは別な感情が湧き上がった。

 それは、闘争の渇望ではなく、純粋な怒りだった。

 怒りによって、疑問も恐怖も全てが塗りつぶされていく。

 気がついたときには、怪物目掛けて走り出していた。

 

「手前ぇえ! 美奈から離れろぉお!」

 

 床を蹴る。ユウトは自分が信じられない速度で怪物に迫っていくのを感じた。

 右手を固めて引き絞る。右手から一斉に血の気が引いた。筋肉が異常に収縮していく。

 

「うわああああああ!!」

 

 右手を打ち出す。限界を超えて収縮した筋肉に、肩でせき止められていた血が爆発的な勢いで流れ込む。

 血液というオイルを得た筋肉は弾丸にも勝る勢いで反応した。

 

「ギィ?!」

 

 拳は過たず怪物の鼻に直撃した。炸裂音とともに、怪物の体が宙を舞う。

 まだ多少は形状を保っていたガラス戸を完全に破壊しながら、怪物は庭へと叩き出された。

 

「はぁっ! ……はぁはぁはぁ……」

 

 ユウトは、その瞬間まで止めていた呼吸をようやく再開した。

 そんなユウトを、倉木が呆然と見詰めている。

 

「倉木、大丈夫か?!」

 

 言って、顔をしかめた。右拳に痛みがある。見れば、自ら放った拳の衝撃のせいか、拳からは血が流れていた。

 その血が、ユウトの中の忘れていた何かを刺激する。

 

 血だ。

 赤い血が、流れた。

 何故だ?

 

 ……戦いが、始まったからだ。

 

 顔の筋肉が動くのがわかる。唇が吊り上っていく。

 

「ユ、ユウト君……?」

 

 なにか信じられないものを見たかのような、倉木の声。

 その後に続く言葉は、しかし、ある声によってかき消された。

 

「はは! 昨日目覚めたとは思えない力だね。でも、もう一押し、足りないな」

 

 声は、庭から聞こえてきた。

 ユウトが庭に視線を向けると、立ち上がった怪物がユウトのことを見ていた。

 その顔面の中央は大きく陥没している。常人なら確実に病院送りになっている一撃だった。

 だが、怪物は立っている。しかも、口元には永谷のあの嘲笑を浮かべながら。

 

「ふーん? どうやらまだ本気ってわけじゃないんだね。それじゃあ、ちょっと後押しさせてもらおうか」

 

 そう怪物が言った瞬間、ユウトの視界から色が失われた。

 白黒の世界の中、まともな色を保っていたのは怪物とユウトだけだった。

 

「っっ!」

 

 直後、ユウトの中からあの感情が湧き上がった。唐突に。衝動的に。

 

 ……戦いたい。

 ……力を、全力で使って。

 ……目の前のアイツと、闘いたい。

 

 闘争心。生ある者全てのもつ本能。自分が死んでも構わない。殺してしまえば、それは結果だ。

 ユウトの、衝動。

 

「フフ……フフフ……」

 

 笑いがこみ上げてくる。 心の底から。

 

「フフ、フフフフ……ハハハハハ……」

 

 笑いが高まる。 楽しい。闘うことを考えるだけでこんなにも楽しい。

 

「ハハ! アハハハハハハハハ!」

 

 笑いが極まる。

 さあ、闘いを始めよう。

 楽しい。血に塗れた凄惨な殺し合いを。

 俺の、お前の全てを賭けて。

 

 ユウトは哄笑する。

 今から始まる最高の愉悦を想像して。

 

 そして。

 

 怪物も笑ったような、気がした。