八・そして、崩壊
「なるほど……大した力だ。本当に、昨日目覚めたとは思えないほど、ねぇ」
その声は、串刺しにされた怪物から聞こえていた。
だが、それはおかしい。なぜなら、怪物の口は岩石の槍に貫かれ、塞がれているからままだからだ。
怪物は確かに死んでいる。すでに何も映していない濁った瞳が、弛緩している四肢が、ユウトにそう思わせる。
それなのに、怪物は喋りつづけていた。
「この程度の『従者』じゃあ、やっぱり勝てないなぁ。だけど……」
怪物は、話しつづける。
その声を聞き続けているうちに、ユウトの中から高揚が消えていく。その代わりに、全身からイヤな汗が滲み出してくる。
頬を、一筋の冷たい汗が流れた。
「俺の目的は果たせたよ。言ったよねぇ……?」
にやぁり。
怪物が笑った。口一杯に岩の槍を詰め込まれ、限界にまで開かれた口の端が吊り上り、嘲笑を形作る。
あの、嘲笑を。
「さあ、後ろを向いてみなよ。君が助けた女が、どんな顔をしているか。見てみるといい」
そう言われた瞬間、ユウトは全身に冷水を浴びせ掛けられた気がした。
唐突に、夢から醒めた感じがする。高揚なんて、もう欠片も残ってはいない。
残っているのは、待ち受ける現実に対する恐れのみ。
ぎこちない動きで、振り向こうとする。だが、全身の筋肉がそれを拒否する。
当然だ、理性も感情もそれを拒否しているのだから。
しかし、それでもユウトは振り向いた。そして。振り向いた先には。
「あ、あぁ……」
恐怖に怯える、一人の少女。
たった今、目の前で繰り広げられた非日常の光景。
怪物と自分の知らない少年――いや、2匹の怪物。
それらを目の当たりにした倉木の目には、耐え難い恐怖だけが浮かぶ。
「いや……」
震える声でそう言いながら、目の前の、生き残った怪物――ユウトから、自分の身を守ろうとするかのように、
両腕で体を抱きしめて、じりじりと後退っていく。
その姿を、ユウトは呆然と見るだけだ。声をかけようとしても、声が出ない。
「く、倉木……俺……」
「ひぃっ!」
ようやく、それだけを口にして、ユウトは一歩踏み出す。
だが、それに対する倉木は、必死でその倍以上の距離を後退った。
言葉で言われるよりも、はっきりとした拒絶の意思。
倉木は後退りながら、それでもユウトからは目を離さない。
まるで、目を離した瞬間、この少年が自分に襲い掛かってくると信じきった様子で。
その目には、変わることのない絶対の恐怖と、目の前の存在に対する嫌悪しかない。
「ば、化け物ぉっ! ち、近づかないで! お願い、来ないでよぉ!」
ユウトがそれ以上近づいてもいないのに、半分泣きながら、倉木は近くにあった物を手当たり次第にユウト目掛けて投げつけた。
クッション、壊れたテーブルの破片、その上に乗っていた皿の欠片。
その多くは見当違いの方向に飛んでいき、ユウトに当たることはない。
「あ……」
ユウトはそれらを避けようともせず、呆然と立ち尽くした。
皿の破片が、ユウトの頬をかすり一筋の傷をつける。
それでも、ユウトは動くことが出来なかった。
目の前で、自分に対して恐怖の表情を浮かべる倉木。
幼馴染の少女に言われた「化け物」の一言が、ユウトの胸を深く抉る。
呆然と立ち尽くすユウトの背に、叩きつけられる声がある。
怪物の、声だ。
「ははは!! そう、その顔だよ。 俺は君のそんな顔が見たかったんだ!
俺の従者を打ち倒し、あまつさえ、俺の血すら奪おうとする。
君のそんな打ちのめされた顔がねぇ!」
嘲笑が、ユウトの背を叩く。
しかし、ユウトはそちらを見なかった。耳に入ってくる言葉が、ユウトの中を食い荒らしていく。
「ふふ……けど、まだだなぁ。もう少しいい顔が見たい。もっともっと、しょぼくれた情けない顔がねぇ
……だけど、今日は十分かな。見せたかった人間には見せたしね」
その時、ユウトが振り向いていれば見えただろう。
庭に縛り付けられた怪物が、その色と輪郭を失い、その形すら失って一塊の血に変わるのを。
「まあ、それはまた、別の機会にさせてもらおうかなぁ?」
その声を残して、血の塊は庭の壁を飛び越えて消えた。
最後に嘲笑を叩きつけて。
「ははは! 次は誰が君のことを否定するのかな? 楽しみだよ、ユウト君!」
ユウトは動かなかった。
嘲笑の声は耳に入っていた。それでも、心の中に怒りは浮かばない。
それよりも遥かに深い絶望が、その足を縛り付ける。
視線は、いまだ立ち上がることのできない倉木に注がれていた。
その視線を受け止める倉木もまた、一歩も動かない。
ただ、恐怖を瞳と表情に込めて、ユウトを見る。
「……」
「……」
二人の間に横たわる沈黙。
ユウトが一歩、前に進む。倉木の背後はすでに壁に接しており、下がることは出来ない。
ただ、ユウトが距離を詰めるだけ、その顔の恐怖は色濃くなっていく。
そして、ユウトは少女の目の前に立つ。
倉木の背に、自分が着ていた上着をそっとかけた。
そうしようとした時に、倉木が身をすくめるのがわかって、ユウトは泣きそうになった。
「……ごめん。怖い思い、させちゃって……」
背を向けて、ただ一言呟くと、ユウトは自分の家から飛び出した。