九・絶望の淵で。

 

「ハァハァハァ……」

 

 ユウトは走っていた。

 

(見られた見られた見られた!)

 

 その単語ばかりが頭の中を駆け巡る。

 

 どれだけの時間を走ったのだろう。

 足が痛い。だが、止めることが出来ない。

 胸はもっと痛い。だが、止まることを拒否する。

 酸素が足りない。息が上がる。

 それでもユウトは走りつづけた。

 途中、何回も道を行く人にぶつかり、何度も転倒した。

 しかし、その度に立ち上がり、走り始める。

 

 ただ、1歩でも遠く、家から遠ざかるために。

 そして、1歩でも遠く、現実から遠ざかるため。

 

「ハァ……ハァ……」

 

 しかし、やがて体が限界に達して足を止めてしまう。

 立ち止まった場所の景色を見て、ユウトは荒い息をつきながら呟いた。

 

「……あれ。ここ……どこだ……?」

 

 辺りの風景に、ユウトは見覚えがなかった。どうやら、自分の知らない路地裏にでも迷い込んでしまったらしい。

 だが、そのことを考えるよりも先に、棒のようになった足がもつれて、ユウトは地面にうつ伏せに倒れこんだ。

 走った後の火照った体に、アスファルトの冷たさがやけに心地よく思える。

 ごろりと転がって、仰向けになると、ビルの谷間から赤く染まった空が見えた。

 

「……借りてた制服、あっという間にダメにしちゃったな……」

 

 のろのろと腕を上げ、制服の肘を見て、ユウトはぼんやりと言葉を浮かべる。

 何度も転んだせいで、制服の袖はズタボロになっていた。

 ズボンの膝や裾も擦り切れているだろうし、土や汚れもついているだろう。

 

「……でも、いいか。どうせもう、戻れやしない……」

 

 ユウトは赤く染まる空を見上げたまま、抑揚の無い声で呟いた。

 不意に、その赤い空が滲む。

 その目から、涙が溢れた。

 一度溢れたら、後は止まらない。

 

「クソォ……なんでだよ……なんで……!!」

 

 しばらくの間、ユウトは言葉にならない声を上げて、涙を流し続けた。

 

 自分に起きた理不尽さに対する、怒りの。

 自分が人ではないことを知った、悲しみの。

 自分の中にある、何かへの、恐怖の。

 

 全てを含んだ、涙だった。

 

 ……どれだけの時間、そうしていただろうか。

 気が付けば日は落ちきり、周囲は暗闇に包まれていた。

 空を見上げれば、星は出ておらず、暗い雲が立ち込めるばかりだった。

 

 アスファルトの冷たさが、体に染み込んでくる。

 それでも、ユウトは立とうとはせずにただ曇った空を見上げていた。

 涙はとっくに止まっていた。

 その代わりに、ユウトの目は何の感情も浮かべていない。

 虚ろなガラス球のような目が、ただぼんやりと周囲の景色を映し出す。

 

(このまま、眠れば楽になるかな)

 

 ふと、そんなことを考える。

 

 あらかじめ、覚悟はしておいたはずだった。

 知り合いに、こんな力を持っていると知られてしまえば、どんな反応があるかなんて。

 そんなことは容易に想像することが出来た。最近の世の中に、反応のレパートリーなんてそれほど多くない。

 どこかを見れば、似たようなケースはいくらでもあるだろう。ただし、現実ではない世界に、だが。

 だが、そんな虚構の世界からの情報で想像した、どんな最悪の想像も、現実よりははるかに優しい物だった。

 

「化け物」。

 

 たった一言のその言葉が、痛烈に胸に刺さる。

 この言葉の痛みに耐えられる自信なんて、ユウトの中にはこれっぽっちも無かった。

 家族を裏切りたくない思いも、倉木に対する約束も、もうどうだってよかった。

 頭の中で一番初めに却下した選択肢が、再びユウトの前に戻ってくる。

 

「死にたい」。

 

 今は痛切にそう思った。

 その頬に、冷たい水滴が当たる。

 暗く垂れ込めた雲から、何時しか雨が降り始めていた。

 雨足は見る見るうちに強まり、ユウトの全身から熱を奪っていく。

 しかし、それでもユウトは動こうとはしなかった。

 ただ、雨に打たれてぼんやりと虚ろに空を見上げているだけだった。

 

(寒い、な)

 

 そう感じて、ユウトは少し体を震えさせた。

 走った後には心地よかったアスファルトの冷たさも、汗が引いた今では、過剰に体温を奪っていくだけだ。

 このまま雨が降り続き、そしてこのまま横たわっていれば、明日の朝までに自分は眠るように死ねる。

 ユウトは何の感情も浮かべずに、そう考えた。

 もう、何もかもがどうでもいい。

 そんな無気力さがユウトを地面に縛り付け、ユウトは静かに目を閉じた。

 頬に当たる雨の感触だけを感じて、そのまま眠ってしまおうとした。

 しかし、不意に降り注ぐ雨が遮られる。

 誰かが、自分を上から覗き込んでいるのだと気づくのに、数秒かかった。

 そして、ユウトは虚ろな視線をその何者かに向けた。

 表通りの光が逆光となり、その顔はわからない。

 しかし、その口から吐き出された、嘲笑と悪意に満ちた声で、ユウトはそれが誰なのかを知った。

 

「……おやおや。たった一回の挫折でここまで駄目になるとはね……これは、少々やりすぎたかな?」

 

 表情はわからない。しかし、口元にあの嫌な笑いを浮かべているのは、はっきりとわかった。

 

「……」

 

 だが、ユウトは何も答えない。怒りも、憎しみも湧いてはこない。

 今はただ僅かに煩わしいと思うだけだ。

 しかし、それすらもどうでもいいと言う様子で、虚ろな目を人影に向けるだけだ。

 人影は、その視線を受けて面白そうに言葉を続ける。

 

「いいねぇ。その顔もいい。全てを諦めた顔だ……それで、どうだい? 舞台から追い出された感想は?」

 

 その人影――永谷は、その場に屈み込むと、顔を近づけてユウトの目を覗き込んだ。

 ユウトの虚ろな瞳が、永谷の悪意と嘲りに満ちた瞳を映し出す。

 

「もう、君の出る幕はない。あの女が俺の物になることは、これで確定だ……けど、ね。例えば、の話だけど……」

 

 顔を離すと、永谷は立ち上がり、両手を後ろ手に組んだ。

 そして、とても楽しそうにユウトに語りかけてくる。

 

「例えば。出番が終わり、舞台袖に引っ込んだ役者が、無理やり舞台に乱入して劇自体を台無しにしてしまうこともある」

 

 語り続ける永谷の腕から、異音が響く。

 後ろ手に組んだ腕を解くと、永谷は今や凶器と化した自らの腕を誇示するかのようにユウトの前に差し出した。

 それは、あの怪物の爪とまったく同じ物だった。

 

「だからね。俺はその出番の終わった役者に、舞台袖からも退場してもらおうと思うんだ。

……折角、俺の演出通りに劇が終わりそうなんだ。不安要素は取り除いておくべきだろう?」

 

 だが、それにもユウトは答えず、ただ何の感情もこもらない目で永谷を見ているだけだ。

 永谷は嘲笑を顔に浮かべ、しかし、声だけは嫌に優しく、囁くようにして言う。

 

「ああ、心配はいらないよ。君の死体は残らない。君は行方不明になるだけだ。

その後で、君の家族も連続で失踪する。近所の皆さんは『きっと夜逃げか何かだろう』と思うだろうさ」

 

 永谷が腕を振り上げる。闇の中、爪が鈍い光を放った。

 

「君だけじゃない。すぐに君の家族も、あの女も君のいる所に行く。だから、君も寂しくはない……」

 

 腕を振り上げた状態で静止させると、永谷は口元の嫌な笑いを一層大きくした。

 

「だからさ、竹塚君。皆仲良く、俺の血になりなよ」

 

 静止していた爪が、虚ろな眼差しのままのユウトに向かって振り下ろされる。

 ユウトは身動き一つせずに、自らに死をもたらすそれを見つめ続けた。

 そして、爪の先がユウトの顔に突き刺さろうとした、その刹那。

 

「……そこまでです」

 

 抑揚に乏しい声と共に、路地裏に銃声が轟いた。