十五・『いつもと違う場所』
無人の校舎にユウトと木ノ坂の足音が響く。
廊下の窓から月明かりが差し込む以外は光源となるような物はない。
月光が微妙な影を作り出し、薄い雲がかかる度にそれを様々な形に変えていく。
(誰もいない学校ってのは……気味悪いなぁ)
いかにも月並みな感想を抱きながら、ユウトは周囲を見回した。
普段とはまったく違う表情を浮かべている見知った空間。
そして、正門をくぐった瞬間から肌を刺激し続ける違和感。
ユウトはまるで別の世界に迷い込んだような錯覚を覚えていた。
「……ねぇ木ノ坂さん?」
気が付けば一人になっているんじゃないか。
そんな訳もない不安に駆られて、思わず隣を歩く木ノ坂に声をかけてしまう。
「……なんですか」
そんなユウトの様子に気づいているのかいないのか、普段とまったく変わらない、淡々とした口調で木ノ坂が答える。
木ノ坂は周囲を気にする素振りも見せず、時折鋭い視線を投げかける程度だ。
「……すごい落ち着いてるね」
「別に普段と変わりませんから」
淡々と言われて、ユウトは少し眉をしかめた。
確かに、校舎自体は変わらない。だが、雰囲気が明らかに違う、ようにユウトには感じられている。
「……そーかなぁ?」
思ったことが正直に口をつく。
その言葉に、木ノ坂は無表情に、だが律儀に返事をする。
「変わりませんよ。違うことと言えば、今が夜で、灯りがない程度です」
「いや、そうだけどさ……」
口を尖らせて、ユウトは周囲を見回した。
やはり、何かがいる。そんな気がしてならない。
いや、確かに何かはいる。二人はその何かを探してここに来ているのだから。
「けど、灯りがないってだけで、ここまで雰囲気変わるかぁ?」
「考え方ですよ、竹塚さん」
木ノ坂は相変わらず落ち着き払った声で答える。
「何かが出そうだ、何かが潜んでいる。そう思うと人間と言う生物はそれを実際に感じるものです。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、と昔から言うでしょう?」
「……いや、それはそーなんだけどさぁ」
少し不満げに、ユウトは進行方向にある曲がり角を指した。
曲がれば、そこには教室棟の二階に続く階段があるはずだ。
丁度、窓が途切れていて、その辺りは一際濃い暗闇に包まれており、いかにもな雰囲気を漂わしている。
普段通りの木ノ坂と話しているうちに、少しは緊張がほぐれたのか、口調を少し冗談めかして言う。
「あの辺とかさ、いかにもなんか出てきそうじゃ……?」
そう言った瞬間、ユウトの顔から音を立てて血の気が引いた。
「……は?」
曲がり角には、何時からいたのか人影らしきものがひっそりと立っていた。
「で、出たぁ?!」
思わずユウトの口から裏返った叫び声が上がる。
その叫びに反応したのか、人影らしきものはゆっくりとユウト達の方を向くと、よたよたとした足取りで近づき始めた。
窓から差し込む月明かりに照らされて、その姿が明らかとなる。
「……って。人?」
ユウトが信じられないと言ったような口調で呟いた。
ユウト達に向かって歩いてくるそれは、確かに人だった。
まだ若い。それも女性の姿をしている。怪我をしているようで脇腹を抑え顔はうつむき、その足取りはおぼつかない。
身に付けているのはユウト達の見慣れたこの学校の制服だ。しかし、ズタズタに切り裂かれている。
そこまで確認した瞬間、ユウトの中から驚きと僅かな恐怖が消え失せた。
「おい! アンタ!」
「待ってください!」
永谷に襲われて、何とか逃げ出して来た女子生徒。ユウトの目にはそうとしか映らなかった。
だから、木ノ坂の静止も聞かず、ユウトはその女子生徒に向けて駆け出していた。
あっという間に女子生徒の所まで辿り着き、その肩に手をかける。
「大丈夫か?!」
そう声をかけ、顔を覗き込もうとした瞬間。
「竹塚さん! 離れて!!」
木ノ坂の厳しい声が廊下に響く。
それは女子生徒がうつむいていた顔を上げるのと同時だった。
「え……?」
ユウトは今目の前にある物がなんであるのか、一瞬理解できなかった。
それも当然だろう。うつむいた顔が上がったそこには、到底人とは言えない異相があったのだから。
あるのは、ただ大きく開いた口だけ。それ以外に人の顔と言えるパーツはない。
ただ一つの口でさえ、文字通り耳まで裂けている代物で、その中にはずらりと生えた鋭い牙が覗く。
次の瞬間、その大きく開かれた口が、ユウトの喉へ喰らいつく。
「……?!」
突き飛ばすことも払いのけることも忘れて、ユウトは自分に迫ってくる大きな口を呆然と見詰めていた。
噛み合わされば、自分の首は胴体と離れるだろう。
そんな益体も考えが、ふと脳裏をよぎる。鋭い牙が自らの喉を食い千切る感触を、ユウトは夢想した。
だが、一瞬早く響き渡った轟音が、ユウトを現実へと引き戻す。
「……まったく。危なっかしいですね」
呆れたような木ノ坂の声に、ユウトはそちらを振り向いた。
そこには自動拳銃を構えたままの木ノ坂がいる。
それと逆の方向に視線をめぐらせると、数メートル弾き飛ばされた所に、女子生徒の形をした何かが倒れていた。
頭に当たる部分を大きく抉り取られているにも関わらず、それは立ち上がろうとしてもがいている。
「き、木ノ坂さん……?」
「竹塚さん、もう少し状況を考えて動いてくれませんか?」
木ノ坂はゆっくりとユウトの所まで歩み寄ると、少し厳しい口調で言った。
その目は油断無く、起き上がろうとしている女子生徒の形をした何かを見据えている。
「ここに入る前にワーディングについては説明したはずです。そして、ここは彼のワーディングの範囲内です。
その中で、動ける一般人がいるでしょうか?」
そう言われて、ユウトははっとした表情を浮かべた。
その表情を横目で見て、木ノ坂は軽く頭を振る。
「……まったく思いもしなかった、という顔ですね」
「すいません……」
しゅんとうな垂れるユウトに、木ノ坂は淡々と答える。
「いいえ。竹塚さんがそう言う人だったことを忘れていた私のミスです。気にしないで下さい」
言いながら、もう一発銃弾を起き上がりかけたそれに叩き込んだ。
また数メートルも弾き飛ばされて、それは倒れこむ。
「あれは恐らく彼の作り出した『従者』でしょう」
淡々と、狙いをつけたまま木ノ坂が言う。
ユウトも倒れたままもがく女子生徒の形をした何かに視線を向ける。
二発の銃弾を撃ち込まれたそれは、最早女子生徒の形を保てず、元々の形へと戻りつつあった。
全身の色が赤に変わり、形も崩れ、不定形の液体の塊と変わっている。しかし、それでもまだ動くのを止めようとはしない。
「従者……?」
「そうです。ブラム=ストーカー・シンドロームの能力者が、自分の血液から作り出す擬似生命体。
確か、ここに来る前に簡単に説明はしましたね?」
木ノ坂の言葉に、ユウトは無言で頷きを返す。
そして、思い出す。ユウトの能力の一環として、自分の血液を媒介として生み出すことができる能力の事を。
「中にはああいう風に、まるで人と変わらない形を作り出すこともできるんです」
なおも蠢く液体に油断の無い視線を送りながら、木ノ坂はほんの僅かに口調に苦い物を滲ませた。
「……恐らく、この学校の中にも犠牲者がいたんでしょうね」
「それって……?」
どういうことだと問いかけようとして、ユウトは足元にある制服の残骸に気が付いた。
見れば、あちこちに乾いて黒くなった血の痕がこびり付いている。
無惨に引き裂かれた制服。それは元々この学校に通う生徒が着ていた物で。
それが今、永谷が作り出したと思しき従者が身に付けていた。
その二つがユウトの中で結びつき、一つの答えが浮かんでくる。
「……ヤロウ」
ユウトの中に、新たな怒りが湧いてくる。
つまりは、この制服の本来の持ち主は既に永谷の『食事』の犠牲となっている。
そして、恐らくはもうこの世にいない。
「ふざけやがって……っ」
その怒りに呼応するかのように、ユウトの体内に奇妙な感覚が生まれる。
体の中で何かがざわめく。それは徐々に全身に行き渡り、どこかに吐き出されることを望んでいるようだった。
ユウトの目が、まだ蠢き続ける永谷の血の塊を捉える。
あれは、奴の一部だ。
そう認識する。
吐き出されるのを待ち望む何かが、目標を見つけた。
「……?」
その瞬間、唐突にユウトは自分の感覚が広がるのを感じた。
自分が立っている周囲、その中に存在する水分まで知覚できる。
見えている範囲は変わらないのに、全てを感じる。
自分と言う存在が世界に融けたような、とてつもない違和感。
だが、不安ではない。その全てが自分の思い通りに動かせる『領域』であると言う確信がある。
この感覚は、以前にも感じたことがあった。
あの怪人と、二度目に争った時だ。あの時も、こんな感じがしたと、ユウトはおぼろげに感じていた。
(なんだ……これ?)
ユウトが訝しんでいると、領域の一点、永谷の従者がいる辺りに別種の違和感が生じた。
自分の領域に異物が混入したと言う事がはっきりと分かる。
そして、それがこちらに明確な敵意を持っているということも。
(また、くる?!)
そう感じた瞬間、空間が変化した。
領域内に存在する大気中の水分が、ユウトの目の高さに集まってくる。
まず小さな水滴に、そして、水滴はより合わさり、一塊の水を作り出す。
水は形を変えながらなおも集まり続け、そして。
「……っ?!」
伸び上がり、ユウト達に襲い掛かろうとしていた従者に向かって撃ちこまれる。
それはまるで水で作られた刃のように、従者の体を真っ二つに切り裂いた。
切り裂かれた従者は、伸び上がった姿勢のまま僅かに身を震わせた後、力尽きたように崩れ落ちた。
水音と共に、従者の体を構成していた血が廊下に広がっていく。
「……なるほど、領域内の水分を凝集。高水圧の水の刃として相手に撃ち込むと」
時間にしてみれば、僅か数秒の展開。それを見ていた木ノ坂は驚く訳でもなく、淡々と言った。
「如何ですか。自分の能力がどういうものか、少しは掴めましたか?」
「……」
だが、ユウトは木ノ坂の問いには答えず、自分の手の平と床に広がった血を交互に見ていた。
以前感じた時とは違う。高揚感はない。ただ、無我夢中だった。
正直、自分が何をしたかも分かっていないような状態だった。
少しぼうっとしたような顔で、隣に立つ木ノ坂の顔を見る。
「……木ノ坂さん、俺、今……?」
「ああ、なるほど。通常状態で能力の行使をするのは初めてと言う訳ですか」
「いや、前も使ったって記憶はあるんだけど……なんか、そん時とは違って……」
ユウトが戸惑いながら言うと、木ノ坂はただ首を縦に振った。
「ええ、そうでしょうね。以前能力を使った時の竹塚さんは、一種のトランス状態でしたから」
「トランス……?」
「ええ、覚えていませんか? 自分の中に沸き起こった抑えようもない感情を」
そう言われて、ユウトははっとしたように身を強張らせた。
覚えている。体の内側から湧き上がってくるあの感情。
『闘いたい』という、衝動。
「……覚えているようですね。ウィルスが活性化する時、必ずと言っていいほど起こるのが、
感情や本能の異常な反応……私達の間で『衝動』と呼ばれるものです」
「ああ、聞いたことある。あのヤロウがなんかそんな事言ってた」
ユウトがそう言うと、木ノ坂は一瞬片眉を吊り上げたが、すぐに表情を打ち消すと淡々と説明を続けた。
「その衝動に流されると、私達は往々にして異常な精神状態に陥ります。
そして、その際の行動と言うのは、無意識での行動に近いものになることが多い。
従って、通常の精神状態では覚えていないことも多いのですよ。ですから、違和感を覚えるのも仕方が無いことでしょう」
「そうなんだ……」
神妙に頷いていたユウトに釘を差すように、木ノ坂は言葉を継ぐ。
「ですが、これからは注意してください。衝動に流されれば、それだけジャームとなる危険性も増えるのですから」
「え? なんで?」
ユウトがきょとんとして答えると、木ノ坂は軽く溜息をついて、噛んで含めるようにして言った。
「いいですか? 衝動が起こる、と言うことは、体内のウィルスが活性化している。と言うことです。
そして、衝動に流されると言うことはウィルスを制御することを放棄している。と言うことに繋がります」
「……あ、なるほど……ウィルスを制御するのを止めれば、体をウィルスに乗っ取られるってことか……」
「ご明察」
ユウトがようやく納得がいったと言うように頷きながら答えるのを見て、木ノ坂はやや皮肉げに言葉を返した。
その口調に少し顔をしかめながら、ユウトは浮かんだ疑問を投げかける。
「けど、俺まだこの力の使い方、よく分かってないんだけど……大丈夫かな?」
「今、使ったじゃありませんか……これから、嫌でも慣れてもらいますよ」
木ノ坂の答えはにべも無い。視線はユウトに向いておらず、階段の先を見据えている。
その口調に少し冷たい物を感じたユウトは、僅かに不満を滲ませて自分の状態を説明しようと試みた。
「いやだから。今のは無我夢中で……」
だが、その先を話すことは出来なかった。
なぜならば、階段の踊り場から、また数体の影が姿を表したからだ。
今度は偽装をすることも無く、最初から異形の姿をあらわにしている従者が3体。
先頭に立つ従者に銃口を向けながら、木ノ坂が淡々とした口調で言った。
「……彼らが、教師役です」
「……随分と、スパルタ式なことで……」
ユウトもひきつった笑みを浮かべながら答えた。
その言葉を引き金に、従者達が階段を跳躍し、ユウト達へと襲い掛かった。