十八・『巣』の中にて

 

 しかし、ユウトの予想に反して、扉が開ききっても、そこには永谷の姿はなかった。

 開ききった扉の向こうは、しんと静まり返っていた。

 

「……なんだ、肩透かし……」

 

 ユウトは何時の間にか止めていた息をゆっくりと吐き出した。

 ユウトの予想では、扉を開けた瞬間、永谷の姿が目に飛び込んでくるはずだった。

 だが、実際には先程よりも薄い暗闇が広がっているだけだ。

 どうやらここは、体育館の基礎部分に当たるらしい。

 扉の先は地面が剥き出しになっており、壁には一定の間隔で通風孔が開いてるらしく、外の月明かりが微かに差し込んでいる。

 その月明かりに照らされて、体育館を支える鉄骨が整然と並んでいるのが見える。

 

「……」

 

 木ノ坂は壁際に体を寄せ、目を細めて暗闇の先を見据えている。

 やがて、その口からぽつりと言葉が漏れた。

 

「……そうでしょうか」

 

 その言葉に、ユウトは怪訝そうな表情を浮かべる。

 

「そうでしょうかって、木ノ坂さん。実際、誰もいないじゃん?」

「気付きませんか。この匂い」

 

 そう言われて初めて、ユウトの鼻腔にその匂いが届いた。

 生臭い匂いだ。ここに来るまでに散々嗅がされた匂いでもある。

 それは即ち、血の匂い。

 

「……うぇ」

 

 そのあまりの濃密さに、ユウト思わず顔をしかめる。

 ここに篭っていたそれは、これまでの数倍の濃さを持っているようだった。

 それを自覚すれば、空気すらもねっとりと粘りつくようなものに感じられる。

 

「これだけの血臭がするとなると、随分多くの被害がここで出たようですね」

 

 淡々と言葉を紡ぎながら、木ノ坂が一歩足を進めた。

 木ノ坂の胸ポケットに差されたペンライトが周囲の暗闇を払い、月明かりと合わさって、少しだけ辺りの光景をあらわにする。

 そこに映し出されたものを見て、ユウトは息を呑み、木ノ坂ですら僅かに顔をしかめた。

 

「……!」

「これは……流石に」

 

 そこかしこに転がる、無数の人骨。

 中にはまだ血を流している新鮮なものもあった。

 それらが二人が歩く傍らに次々と浮かび上がる。

 その数は、視界に入るだけでも十をくだらない。

 ユウトは、一瞬地下墓地という単語を連想する。

 だが、ここには訪れる者はいない。供えられる花もない。

 死者に安らぎはなく。ただ、恐怖が色濃く浮かぶ。

 

「……」

 

 ユウトは言葉もなく、目に飛び込んでくる死体の数々を見つめていた。

 ここは、巣だ。

 巣は身を休める為だけにあるのではない。

 餌を食らう為の場所でもある。

 ここは、紛れもなく『永谷 昭弘』と言う怪物の巣なのだ。

 その事を、ようやくユウトは認識した。

 

「……なんで、こんな事ができんだよ?」

 

 うつむいたユウトの口から漏れた静かな声が、辺りに響く。

 その目は、自分と同じ制服を着た少女を見つけていた。

 まだ血を流しているその顔は、絶望の表情を浮かべていた。

 

「なんで……こんな事ができんだよ!!」

 

 うつむいていた顔を上げ、ユウトは叫んだ。

 

「答えろや、永谷ぃっ!!!」

 

 その声が辺りに響き、そして暗闇に飲み込まれてから、答える声がある。

 

『言っただろ……? 渇くんだって……』

 

 土を蹴る音が微かに聞こえた。

 木ノ坂が瞬時にそちらに銃口を向けた。

 永谷の薄ら笑いを浮かべた顔が、一瞬月明かりに晒される。

 

『そうなると……我慢が出来ないんだよ……何とかして、それを癒したくなる……』

 

 土を蹴る音が近づいてくる。

 ユウトはその方向を睨み付けた。

 薄ら笑いを浮かべたままの永谷の姿が、また一瞬だけ浮かぶ。

 

『どんな手を使ってでも……ね』

 

 土を蹴る音がやんだ。

 月明かりの中に、右手で何かを引きずるようにして現れた永谷の姿が、まるで幽鬼のように浮かび上がる。

 その姿は最早、人とは言えなかった。

 時間にすれば数時間前、木ノ坂によって吹き飛ばされた頭部はほぼ元に戻っていた。

 ただし、半分だけ。

 永谷の顔面。その左半分だけが、元の顔を取り戻している。

 だが、残る右半分は硬質な甲羅のような物に覆われ、そこには捻れた角のような突起が伸びている。

 赤黒い血管が縦横に走っていることから、それは恐らく皮膚が変化したものだと分かる。

 体も似たようなものだ。所々から覗く肌は刺々しい鱗に覆われ、剥き出しとなった左手は異常に膨れている。

 さらに、その左腕は地面をこする程に長く変化し、その手は、濁った白色の太い鉤爪へと変わっていた。

 だが、以前と変わらないところもある。

 一つは口だ。

 永谷は、口元にあの嫌らしい笑みを貼り付けていた。

 

「今もそうなんだ……」

 

 そう言うと、永谷はこれも以前と変わらない、ユウトと同じ制服に包まれた右腕を体の前へ回した。

 その動きに引きずられ、右手に掴まれた物が月明かりに晒される。

 

「……!」

 

 ユウトが息を呑む。

 それは、虚ろな目をした少女の体だった。年はユウト達と同じ位だろう。

 既に息絶えているのは一目で分かる。

 永谷はまるでぬいぐるみを引きずるかのように、少女の体を引きずっていたのだった。

 

「ちょっと失礼」

 

 永谷はそう言うと、少女の体を右腕一本で軽々と吊り上げた。

 ユウトの目線に、丁度少女の頭が映る。そして、その奥にある永谷の口が。

 大きく開かれた永谷の口の中には、まるで鮫の歯のような鋭い牙が、ずらりと並んでいた。

 その鮫の牙が、少女の喉に喰らいつく。

 

「てめっ……!」

 

 何をする、とユウトは言えなかった。

 永谷の体から発せられる、獣のような雰囲気と、溢れ出す血の匂いに体が縛り付けられていた。

 少女の首から血が迸ることはない。既に死んでいるからだ。

 だが、体内に残っていた血が、その部分から静かに伝い落ちていく。

 世界から色が消えていく。

 灰色の世界の中で、色を保っているのは自分と永谷。

 そして、永谷の口から零れ落ちる、赤い液体。

 

「ククク……」

 

 永谷は、ユウトを嘲るかのような視線を向けたまま、血を飲み下した。

 そして、喰らいついたままの口に力を込めていく。

 硬いものが砕けるような音と、何かが引き千切られる音がが、響いた。

 それは少女の頚骨が砕かれ、その中を通っていた神経が千切られている音だった。

 音を立てて、永谷の口が閉じあわされる。

 それと同時に、少女の頭が地面に落ち、ユウトの方に転がってきた。

 少女の虚ろな目が、ユウトを見上げる。

 

「……手前、人じゃねぇよ」

 

 ユウトの声は掠れていた。

 恐怖ではなく、嫌悪と敵意のために。

 こいつを野放しにしてはいけない。

 こいつを放って置けば、次は自分の大事な人達が、同じ目にあう。

 ユウトの脳裏に、同じように喰らわれる家族が、友人の姿が浮かんだ。

 そして、倉木の姿が。

 ここで、止めなければいけない。

 

────そうだ、その為には闘うしかない────

 

 ユウトの中で何かが囁いた。

 それは明らかな違和感をユウトに与える。

 だが、その違和感は永谷の言葉に注意を払った瞬間に掻き消えた。

 

「そうだね。俺は人じゃあない……人を超えた、存在なのさ」

 

 そう言って、永谷は芝居がかった仕草で両手を大きく広げてみせる。

 極端に肥大化した左手と、人と変わらない右手が酷くアンバランスで、醜悪に映る。

 

(何が人を超えた存在だ。手前は、化け物だ。それ以上でも以下でもない……)

 

────だが、強そうだ────

 

 ユウトの中で、また何かが囁く。

 その声が先程よりもはっきりと聞こえる。

 だが、それが与える違和感は、先程よりも弱い。

 永谷の言葉が耳に入った瞬間には、もう感じなくなるほどに。

 

「君では俺には勝てないよ、竹塚君。君は所詮人間だもの……」

 

 大げさな動作で首を振り、明らかに挑発している口調で永谷は言った。

 その嫌らしい笑みが、ユウトの目に映る。

 ユウトは心の中で吐き捨てた。

 

(言ってろ、化け物。今すぐに)

 

────どちらが上か、思い知らせてやろう────

 

 ユウトの中の囁く声が強くなる。

 それはもう囁きではなかった。

 また感じる違和感。

 しかし、それはもうほとんど感じ取れないほど、微かなものだった。

 背後に誰かが立つ気配がする。

 ここには、ユウトと木ノ坂、そして永谷しかいない。

 だが、ユウトは振り向く事もなく、それが誰であるかを悟っていた。

 血に塗れた、もう一人の自分だ。

 

────血は流れた。闘争の合図だ────

 

 もう一人の自分の声がする。

 すぐ耳元で囁くように。しかし、囁きと言うには、あまりに明確に。

 

────俺が、あいつを倒してやろう────

 

 肩を掴まれる感触。

 もう一人の自分が、心の底から喜んでいる表情を浮かべているのが分かる。

 闘争だ、闘争だ。とても、楽しい時間の始まりだ。

 体中のレネゲイド・ウィルスが騒ぎ立てる。

 

────さあ。楽しい楽しい、闘争の始まりだ────

 

 もう一人の自分が嗤う。闘争への期待に顔を歪めて。

 それは、自然とユウトの感情と同調していく。

 ユウトの顔が、笑いの形に歪んでいく。

 もう一人の自分と同じように、闘争への期待を抑えきれずに。

 

(ああ、そうか……これが)

 

 急速に思考が闘争心で塗りつぶされていく中、ユウトははっきりと自覚した。

 これが、自分の衝動。

 目の前の敵を打ち倒さずにはいられない。自分の命を賭けてもいい。

 怖れが消える。そして、「守る」という決意すら、消えていく。

 そんなものは余計だ。大事な事は闘う事。それだけ。

 

(なんだっていい……こいつを倒せるなら……)

 

 「力を振るいたい」。

 ただその思いだけが、ユウトの中に膨れ上がる。

 心のどこかでそれを止めようとする声が聞こえるが、無視する。

 心の中から何かが欠け落ちていく感覚がするが、それも無視する。

 力を振るい、思う存分闘う。

 それができるなら。

 

(化け物にだって、なってやる)

 

────フフ、フフフ────

「フフ、フフフ……」

 

 知らず、ユウトは嗤っていた。

 色を失った世界に低く静かに、狂笑が響く。

 そうだ。化け物を倒すには、自分も化け物になればいい。

 それが一番手っ取り早い。

 目の前の敵も、自分と同じような笑みを浮かべている。

 面白い。お前も楽しみなんだな? 

 では、始めよう。

 化け物同士、思う存分、力を振るい。

 血みどろの闘争を。

 

(──だけど、それでいいのか?)

 

 無視していた言葉が、心の片隅に浮かぶ。

 自分は化け物じゃないと、言ったんじゃなかったのか。

 微かな意識が疑問を浮かべる。

 

────だが、闘うんだろう?――――

 

 もう一人の自分が、そう問い掛けたような気がした。

 答えを返そうとした時、ユウトの意識は自分の奥底へと沈んでいった。