十八・血の海

 

 気がついた時、ユウトは見知らぬ夜の海岸に立っていた。

 寄せては返す波の音が、耳に響く。

 雲一つない空は真っ黒に塗りつぶされ、そこには星も月もなかった。

 辺りを見回す。だが、なにもない。

 どこまでも続く白い砂浜と、真っ暗な海が広がるだけだ。

 

「……ここは?」

「お前の中、さ」

 

 不意に聞こえてきた声に振り向く。

 すると、つい先ほどまで誰もいなかった波打ち際に、こちらに背を向けて座っている人影があった。

 その人影はユウトと同じ制服を身につけている。背格好もユウトと同じだ。

 人影はゆっくりと立ち上がると、腰の辺りを手で払った。

 そして、振り向く。

 

「よお、俺。やっと会えたな」

 

 ニッと牙を剥くようにして笑ったその人影は、ユウトと同じ顔をしていた。

 波打ち際から、ゆっくりとユウトのいる方に向かって歩いてくる。

 

「前会った時は、お前死にかけてたからな。ゆっくり話せなかったけど……」

 

 そう言いながら、もう一人のユウトは、ユウトの目の前に立った。

 そして、ユウトの顔を覗き込むと、嬉しそうに何度か頷く。

 

「今度は、大丈夫そうだな」

「……お前は……」

 

 ユウトが呆然として呟くと、もう一人のユウトは不満げな表情を浮かべた。

 

「おいおい。今更俺が誰かなんて聞くなよな?」

「誰だよ、お前は。ここはどこだよ?」

 

 ユウトがそう問い掛けると、もう一人のユウトは呆れたような表情で深く溜息をついた。

 そして、困った奴だとでも言わんばかりの表情を浮かべて、言った。

 

「……言っただろ? 俺はお前だって」

 

 そう言うと、もう一人のユウトは手を背後の海へと差し向けた。

 

「で、さっきも言ったけど。ここはお前の中。俺の中でもあるけどな」

 

 差し向けた手を顎へ回し、難しい表情を浮かべながら、もう一人のユウトは続ける。

 

「なんてーかな、言ってみれば俺達の心の中とか、脳みその中。ま、そんな感じだ」

 

 ユウトはそう言われて戸惑った。なんで、こんな所に今いるんだ。

 自分は、ついさっきまで永谷と対峙していたじゃないか。

 そんな疑問が浮かんでくる。

 

「ああ、俺が呼んだんだ。お前が闘うって言うからな」

 

 ユウトの疑問を聞いていたかのように、もう一人のユウトが言った。

 呼んだ? 何故? 新たな疑問が湧いたが、それもすぐに答えが返ってくる。

 

「闘うなら、俺の出番だろ?」

「……訳わかんねーよ」

「そか? お前はよく分かってると思ったんだけどなぁ」

 

 とても意外そうに、もう一人のユウトが言う。

 そして、ユウトの肩に手を置いた。

 

「じゃあ、こうすれば分かるか……?」

 

 囁くような声で言うと、もう一人のユウトの様相が一変した。

 今までユウトとまったく同じ顔、同じ制服を着ていた姿が、唐突に赤く染まり始める。

 どろりと滲み出すように、もう一人のユウトを血が染め上げていく。

 すぐに、その姿がユウトが何度か見た血塗れの姿に変わった。

 

「どうだ……まだ分からないか?」

 

 ニッともう一度笑うと、もう一人のユウトは言った。

 その姿を見て。ユウトは搾り出すように声を出した。

 

「……お前だったのか」

 

 闘うなら自分の出番だと言う、もう一人のユウト。

 血で染まったその姿。

 その二つが、ユウトの中で一つの答えを導き出す。

 つまり、このもう一人のユウトこそが、衝動と共にやってくる存在なのだ。

 ユウトの思考が通じたのか。もう一人のユウトはニヤっと笑った。

 

「……正解だ。俺は全力で闘う為のお前って訳だ」

「……そのお前が、なんで俺を呼ぶんだよ?」

「言っただろ? 闘うなら、俺の力が必要だからだよ」

 

 血に塗れたままのもう一人のユウトが、肩をすくめた。

 

「お前さ、今のままで自分が永谷に勝てると思うか?」

「……んなもん、やってみなけりゃ……」

「わかんないってか? そりゃ甘い。甘すぎだよ先生」

 

 ちっちと立てた人差し指を左右に振りながら、もう一人のユウトが言った。

 自分と同じ顔をしているだけに、かなり苛立たしい仕草だ。

 

「そりゃどういう意味だよ。おい」

「どうって、そのままさ」

 

 ユウトが苛立った様子で問うと、もう一人のユウトは不思議そうな顔をして返した。

 大袈裟に肩をすくめて言葉を重ねる。

 

「今のお前のままじゃ、いくら木ノ坂さんのサポートでも無理だね。無理無理。

あっさりとあのヤロウの胃袋に収まって、はい、しゅーりょーってのがオチだね」

 

 こちらを馬鹿にしきった口調で、もう一人の自分が笑う。

 

「今のお前じゃ戦うなんて無理だね。未だに人間なんてモンにこだわってるお前じゃさ……」

 

 獣のような笑みを浮かべて、もう一人のユウトが囁く。

 

「なんだと……」

「分かってるんじゃないか? 自分じゃ、アイツには勝てないってさ」

 

 歪な笑いを浮かべながら、もう一人のユウトはユウトの目を覗き込む。

 

「……お前は、ビビってる。力を振るうことに。

それが自分が化け物に近づく事だって分かっているから。

でも、気付いてもいる。このままじゃあ、永谷に勝てないだろうって事を。

だから、お前は不安を感じ、恐怖を感じていた。違うか?」

「……っ」

 

 ニヤニヤと笑う自分の顔から、ユウトは目をそらした。

 もう一人の自分が言う事が、真実だったから。

 

「だからな、俺が代わりに出てやるよ」

 

 そう言うと、もう一人のユウトは血に濡れた手で、ユウトの頬に触れた。

 生暖かい血が、ユウトの頬を赤く彩る。

 肌を伝う血の感触が、ユウトの体を強張らせた。咄嗟に振り払おうとする。

 だが、振り払えない。なぜか腕が重い。

 急に自由がきかなくなった体に戸惑うユウトの耳に、もう一人の自分の囁きが滑り込んでくる。

 

「お前の代わりに、俺が闘ってやる……」

 

 ユウトの顔を両手で挟み、もう一人のユウトは囁いた。

 

「お前の望みどおり、俺がアイツを、この血の海に沈めてやるからさ……。

お前は、ここでゆっくり休んでればいいんだよ……」

 

 ユウトの全身から力が抜けていく。

 気がつけば、足元は寄せてくる波に膝までが浸っていた。

 その波の色に、ユウトは目を見開いた。

 

「赤い……波……血の、海……?」

 

 押し寄せてくる波は深紅に染まっていた。

 それは、血の赤。

 打ち寄せるたびに、水位は増していく。

 不思議な事に、ユウトの体だけが血の海の中に沈んでいく。

 赤い波は瞬く間にユウトの首まで押し寄せていた。

 

「さあ、もう眠るんだ……そうすれば、悩む事はなくなるんだから……」

「悩む……?」

「そうさ。人間だとか、化け物だとか。どうでもいいじゃないか……。

お前は俺で、俺はお前だ。人間でも、化け物でもいいじゃないか……楽しめればさ……」

 

 海面に浮かぶようにして立つもう一人のユウトは、血に飢えた笑みを浮かべていた。

 それも、押し寄せてくる赤い波に飲み込まれて、見えなくなっていく。

 もう一人の自分の言葉だけが、はっきりと聞こえた。

 

「さあ、この世界で。この血の海の底で、お前は眠るんだ……永久に」

 

 その言葉を聞いて、ユウトは悟った。

 自分が、人ではなくなりかけていることに。

 

(……マジかよ)

 

 あの路地で、自分が何者かを決めたのではなかったか。

 自分は、『竹塚 ユウト』と言う、人間ではなかったのか。

 

(こんなあっさり……終わるのか?)

 

 自分自身の中に、沈んで。

 表には、自分が決してならないと誓った「化け物」としての自分が現れる。

 

(冗談じゃ……ないっ!)

 

 腕を必死で海面に伸ばそうとする。

 だが、体は動かない。まるで全身を縛り付けられたかのように、指一本動かない。

 むしろ、何かに引きずられるかのように、海面が遠ざかっていく。

 

「無駄さ……お前は、もう戻れないんだ……後は俺がお前になるんだよ」

 

 もう一人の自分の、嘲るような声が聞こえる。

 ユウトは歯を食いしばった。

 

(ふざ……けん……なっ!)

 

 ありったけの意思を総動員して、腕を伸ばそうとする。

 すると、先ほどまで動こうとしなかった腕が、かすかに動いた。

 しかし、それはまるで重石をつけたかのように重い。

 

(俺は……俺は、人間だ……ただの人間なんだ……!)

 

 だが、それでもユウトは腕を伸ばした。まとわりつく血をかき、体を浮かべようとする。

 ここで、沈んでしまえばもう戻れなくなる。

 人間として。『竹塚 ユウト』として、戻れなくなってしまう。

 

「いいや、お前は化け物さ……お前は衝動に負けて沈んでいく……」

 

 もう一人の自分の言葉に、ユウトは歯を食いしばって、吼えた。

 

(負けてない……俺は人間だ……っ!)

 

 血の海の中では、その叫びは声になることはなかった。

 だが、その言葉が、その言葉を吐き出した意思が、体に力を呼び戻す。

 ユウトは重い腕を死に物狂いで伸ばし、血の海をかき分ける。

 

「諦めが悪いな……何でそこまで人にこだわる?」

 

 もう一人の自分の理解に苦しむといった様子の声が、耳に届く。

 

「人なんて、脆くて弱い。ちょっと本気を出せば、簡単に死んでしまう」

 

 ユウトはその声に答えることなく、全身にまとわりついてくる血をかき分けて、浮かぼうとする。

 腕をかく度に、自分の体を引きずろうとする力が強くなる。

 

「お前だって感じていたじゃないか。アイツらが鬱陶しいってさ」

 

 もう一人の自分の声が耳に響く。

 その瞬間、ユウトの脳裏に自分を探るような目で見てくる級友達の顔が浮かんだ。

 確かに、それは事実だ。

 腕にまとわりつく重さが増したように感じ、僅かにかき分ける腕の動きが鈍る。

 それを間近で見ているかのように、もう一人のユウトの嬉しそうな声がする。

 

「それに、もう忘れたのか? お前が体を張って守ったアイツが、お前になんて言ったのか」

 

 その言葉に、ユウトの脳裏に鮮明に浮かび上がる、あの言葉。

 

『化け物っ!』

 

 恐怖の表情を浮かべた倉木の顔が、大写しに蘇る。

 ユウトは伸ばしていた腕を下ろした。

 すぐに、自分の体が血の海の底へと引きずられていくのが分かる。

 

「そうさ。それでいいんだ」

 

 もう一人の自分の声を聞きながら、ユウトはうつむいたまま、血の海の底へと引きずられていく。

 

「お前がどう言い張っても、もう世界はお前を化け物としてしか見ないんだよ」

 

 優しい声色で、もう一人の自分が言う。

 

「それなら、認めちまえ。化け物なら、化け物らしく生きてやろうぜ……」

 

 その言葉に答えず、ユウトは沈んでいく。

 かすかに感じていた光も感じない程深く、自らの心の中へと。

 

(……ああ、それもいいのかも、しれない)

 

 沈みながら、ユウトはぼそりと呟いた。

 その言葉を吐き出した時、なぜかユウトの体が沈む速度が遅くなった。

 

(……けど、それでも……)

 

 もう一度、ぼそりと呟く。

 しかし、その言葉を吐き出した後、ユウトの体は沈まなくなった。

 

(それでも……俺は人間で、いたいんだ)

 

 うつむいていた顔を上げる。

 その瞳はまっすぐに水面を、いや、そこに立っているもう一人の自分を見据えていた。

 

(世界が――いや、アイツが俺を化け物と呼んでも)

 

 ゆっくりと、ユウトの体が浮かび上がる。

 思い浮かべる顔がある。

 あの日、自分が人の領域を踏み越えてしまった日に見た顔。

 

(俺は、アイツを守りたい)

 

 ゆっくりと、ユウトの体が浮かんでいく。

 一人の顔を思い浮かべながら。

 その人が落ち込んでいると、なぜか自分の気分も落ち込んで。

 その人が笑ってくれれば、なぜか自分も嬉しくなって。

 

(ああ、そういや……)

 

 そう言えば、来週一緒に遊びに行く約束をしていた。

 約束は、もう守れないかもしれない。

 けど、それでも。

 

「俺は、アイツと同じ世界に生きていたい」

 

 ユウトの目は、もう一人の自分の顔を正面から見ていた。

 もう一人のユウトは怒るでもなく、笑うでもなく。ただ真剣な表情を浮かべて、ユウトを見ていた。

 

「そうかよ。じゃあ、好きにしな」

 

 そう言うと、もう一人のユウトは背を向けた。

 そのまま、ゆっくりと赤い水平線へと向かって歩いていく。

 

「俺を出さないってなら、お前自身で頑張るこった。少しくらいなら力も貸してやるさ」

 

 もう一人のユウトは背を向けたまま手を振った。

 それと共に、夢から覚めるようなそんな感覚と共に、ユウトの意識が薄れていく。

 

(じゃあな、俺。せいぜい頑張れ……いつまでも、そのままでいられる訳、ねぇけどな)

「……うるせぇよ」 

 

 最後に届いた声なき声に答え、ユウトの意識は再び戦場へと戻っていった。