十九・幕を引くのは

 

「……っ」

 

 ユウトの目に、唐突に世界が戻ってきた。

 意識が飛んだのは、時間にしてみればほんの瞬き程度だったようだ。

 状況は先程とまったく変わっていない。

 横には木ノ坂が立ち、正面には永谷がいる。

 

「乗り切ったようですね。竹塚さん」

 

 視線は永谷から外さずに、木ノ坂が声をかけてきた。

 その声はまったく変わらない。

 自分が衝動に襲われていたのだから、木ノ坂も間違いなく襲われていたはずなのだが。

 

「……何とかね」

 

 自分とのあまりの違いに、苦笑いを浮かべてユウトは答える。

 そして、目の前にいる敵を改めて睨みつけた。

 

「……おやおや。衝動には流されなかったんだね。残念残念」

 

 芝居がかった動作で肩をすくめながら、永谷が言う。

 

「自滅してくれれば、楽でよかったんだけどなぁ」

 

 右手でブラブラと少女の残骸を振り回しながら、永谷は心底残念そうに言った。

 振り回していた手を止めて、上半身のみを残しているその残骸を少し見た後、

 永谷はつまらなさそうに言った。

 

「それじゃ。もうコレはいらないや」

 

 そう言うと、永谷は右手に持った少女の残骸をユウトめがけて無造作に投げつけた。

 何気ない動作なのに、少女の体が唸りを上げてユウトに襲い掛かる。

 

「っ?!」

 

 ユウトが咄嗟に体を避けると、その上を凶器と化した少女の残骸が通りすぎていく。

 少女の体はそのまま飛びすぎ、暗がりの中の鉄骨に衝突した。

 耳を塞ぎたくなるような音が、薄暗がりに響く。

 人の肉が、過剰な圧力に耐えかねて押し潰される音と、鉄骨が軋む音とが混ざり合う。

 

「テメエ……!」

「別に怒る事でもないだろ? どうせアレ、死んでたんだしさぁ」

 

 ユウトの怒りに満ちた声に、永谷はどうでもよさそうに答える。

 

「それよりも、自分の事を心配した方がいいんじゃないかな?」

 

 ニヤっとまた嫌らしい笑みを浮かべて、永谷が言う。

 その声に答えるように、暗がりに赤い点が合わせて八つ、生まれ出た。

 土を踏む音と共に、その姿が暗がりから歩み出る。

 

「……なるほど。まだ隠し持っていましたか」

 

 木ノ坂が、その姿を認めて呟いた。

 それは、トレンチ・コートに身を包んだ大柄な男の姿をしていた。

 ユウトにも見覚えがある。

 自分が打ち倒した、あの従者だ。

 従者達は永谷を守るかのように、その周囲を固める。

 

「まあね。折角来てもらったんだから、それなりのもてなしは必要……そうだろ?」

 

 従者で出来た壁の向こうで、永谷はゆっくりと数歩、後ろに下がった。 

 嫌らしい笑みを貼り付けたまま、ユウトと木ノ坂を交互に見る。

 

「それに、俺は慎重だからね。絶対に勝てる勝負しか、しないんだ」

 

 その体が音を立てて変化していく。

 内側からの圧力に耐えられなくなった制服が千切れ飛び、その体躯がおよそ二倍程に膨れ上がる。

 左腕はさらに膨れ上がり、右腕もそれに合わせて大きく太く、膨れていく。

 

「だから、俺も本気を出させてもらうよ……正直、渇くからあまりやりたくはないけどね」

 

 膨れ上がった体躯を支えるべく、両足もまた太くなり、内側からズボンが引き裂かれ、

 その腰からは蜥蜴の尾のような長く太い尾が伸びる。

 そして、全身を覆い隠すように、刺々しい、あの赤黒い鱗が覆っていく。

 

「実は、さっき飲んだ冷たい血じゃあ、あまり満たされていなくてね……」

 

 そう言う永谷の顔も変わっていく。

 口が文字通り耳まで裂け、その口の中からでたらめに伸びた牙が、永谷の様相をまさしく怪物に変えていく。

 

「やっぱり、血は温もりのあるうちが一番だしね……。

だからね。とりあえず、君達の血を飲み干すとするよ。それから、ここを包囲しているUGNの人達……」

 

 右半面を鎧っていた甲羅が、顔の上半分を覆い隠す。捻れた角が左右に備わった。

 仕上げに、背中から蝙蝠を連想させる皮膜を持った翼が生え、永谷の変異は終わった。

 そこにいたのは、まるで物語の『悪魔』の姿そのものだった。

 怪物は、その大きな牙を、先が二つに割れた舌で舐めながらうっとりとした口調で言った。

 

「そして、最後はあの女の血でしめる。ああ、考えただけでワクワクしてくるよ……」

 

 あの女。それが誰を指しているのか、ユウトには言われなくても分かった。

 脳裏に先ほどの永谷の行為が浮かんでくる。

 ただ、想像の中の永谷の獲物は、倉木だった。

 倉木の首筋に突き立つ牙、噴出す赤い血。食い千切られる喉。落ちる首。

 そして、虚ろに自分を見上げる、倉木の瞳。

 

「……絶対に、行かせるかよ」

 

 静かな声で、ユウトは言った。

 怒りが沸いてくる。こいつは絶対にここで止める。

 心に誓って、ユウトは拳を握り締めた。

 

「君達に、出来るかな?」

 

 嫌らしい笑みを浮かべたまま、怪物が言った。

 その声だけは、人の姿の時のままだ。

 仰々しく、芝居がかっていて、聞いているだけで神経が逆撫でされる。

 その事が、一層ユウトに嫌悪感を抱かせる。

 知らず、ユウトはうつむいていた。

 ユウトとは対照的に、木ノ坂は相変わらず淡々とした口調で言った。

 

「出来ないと思うなら、ここにはいませんがね」

 

 表情はあくまで微動だにせず。

 そして、銃口の狙いも逸らさないままに。

 それは、強がりでもなんでもなく、ただ事実を告げているに過ぎないと言った様子だった。

 だが、永谷の顔から余裕の表情を消すことは出来ない。

 

「いいねぇ、面白いよ。その台詞……でも、残念だけど君達の運命は決まってるんだ」

 

 そう言うと、永谷の周りを囲んでいた従者達が一斉に構えた。

 その両手は、既に永谷と同じような鉤爪へと変わっている。

 

「君達は、俺の血になるのさ……俺がそう決めたんだ。だから……」

 

 耳まで裂けた口の端を、ニイィッと吊り上げながら、悪魔が嗤う。

 さらに言葉を紡ごうとしたその瞬間、その言葉を遮るように、永谷の足元から一本の石の槍が現れた。

 その槍は、一直線に永谷の顎を狙う。

 

「……やれやれ、人がまだ話していると言うのに……」

 

 だが、永谷はその槍を避けようともしなかった。

 従者の一体が無言のまま永谷の前に飛び出し、その身で槍を受け止める。

 ぞぶり、と言う柔らかな物を貫く音がした。

 従者の体を貫いた石の槍、その切っ先は永谷の顎を貫く僅か手前で止まっていた。

 永谷はその切っ先を一瞥した後、それを放った者を不快そうに睨み付けた。

 即ち、ユウトの事を。

 

「……何の真似かな、竹塚君。俺がまだ喋ってるんだけど……大人し」

「うるさい。黙れ」

 

 不快そうな永谷の言葉を遮って、ユウトが低いがよく通る声で言った。

 永谷が、一瞬叩かれたように、ビクリと身を硬くした。

 その目は、今はじめて見るかのような表情を浮かべて、ユウトを見ていた。

 そんな視線にも気付かず、うつむいたままユウトが口を開く。

 

「いい加減、テメエのヘタクソな芝居にはウンザリだ……」

 

 低く、静かな声が地下に響き渡る。

 その声に気圧されるように、永谷の体が一歩下がった。

 見る者が見れば分かっただろう。ユウトの『領域』が秒単位で拡大していく様子が。

 

「いいか。よく聞けよ?……テメエがどんな事を決めようが……」

 

 うつむいた顔をゆっくりと上げる。

 その目は半眼に細められ、永谷を真正面から睨んでいる。

 『領域』はさらに拡大を続ける。それは既に従者を圏内に収め、さらに永谷本体も収めようとする。

 

「俺には知ったこっちゃないんだよ……俺がテメエにしてやることは、たった一つだ……」

 

 『領域』内に全ての敵が収まった。

 ユウトは『領域』内の地面に命じる。

 その命令は、たった一言。

 即ち、『貫け』。

 

「それはな。テメエを、ここで……」

 

 命令が地面に伝わっていく。そして、ユウトだけが感じる変化がある。

 大地が、ユウトの命令に応じた事で生じる変化が。

 

「ボッコボコに、叩き潰すって事だ!」

 

 ユウトが吼えて、大地が応えた。

 そして、戦いが始まった。