二十一・血戦

 

 渦に飛び込んだ直後、ユウトの体を奇妙な感覚が包み込んだ。

 周囲の一切が消え失せて、虚空にいきなり放り出されたかのような浮遊感。

 しかし、その感覚は一瞬で過ぎ去り、次の瞬間には両足に地面の感触が戻ってくる。

 

「うわっと?!」

 

 だが、唐突に戻ってきた感触に、ユウトは思わずよろめいていた。

 転倒スレスレで体勢を立て直し、周囲に視線を巡らす。

 どうやら、学校の中庭まで移動したようだ。

 正面には、先程までいた体育館が見える。

 中庭は静まり返り、遮られる事の無い月の光が草木を照らしている。

 

「成功……したみたいだな」

 

 誰に言うでもなく呟くと、ユウトは辺りを見回した。

 だが、どこにも永谷の姿は無い。

 ユウトの中に、焦燥感が湧き上がる。

 

「まさか、間に合わなかったとか言うなよな……頼むから……!」

 

 祈るように言った瞬間、体育館から轟音が響き渡った。

 視線をそちらに向けると、体育館の屋根を何かが突き破って飛び出し、そのまま上昇する。

 銃弾のように回転していた体が唐突に停止し、蝙蝠のような羽を広げた。

 ユウトはその姿を確認すると、口の端を吊り上げて笑う。

 闇夜に浮かぶその姿は、見間違えようもない。

 

「……よかった。これで間に合わなかったら、木ノ坂さんに合わせる顔が無い……」

 

 月の光が、不吉な姿を照らし出す。

 捻くれた角。蝙蝠のごとき羽。赤黒い鱗に覆われた体。月光を照り返し凶暴な光を放つ、両手の鉤爪。

 猫背気味に体を丸め、荒々しく息を吐き出すその姿は、まさしく物語から抜け出してきた悪魔そのものだ。

 ユウトはそれを見上げ、そして叫んだ。

 

「テメエは絶対、逃がさねぇぞ。永谷!」

 

 その叫びが届いたのか、中空に浮かぶ永谷がユウトの方を見た。

 今やその瞳すら異形と化したのか、その両目は濁った赤い光を放つ、二つの点となっている。

 そこに、理性の光はない。ただ、満たされることの無い激しい飢えだけがある。

 底なしの飢えを満たした目が、ユウトを見据える。

 

「竹塚、ユウトォォォ……」

 

 地の底から響くような声で、永谷が言った。

 その声も既に人の物からは程遠い。

 

「君ハ何で俺の邪魔をスる? 君だっテ俺と同じ存在じゃなイか」

 

 所々軋む声で永谷がユウトに言葉を投げつける。

 だが、ユウトはそれには答えない。

 ただ、真っ直ぐに永谷の視線を受け止めるだけだ。

 

「君だって、飢えているはズだ。だったら、その飢えを満たセばいいだロう?」

 

 永谷はそう言うと、自らの右手をまるで誇示するかのように掲げて見せる。

 そして、軋む声で誇らしげに、そして傲慢に言った。

 

「俺達にハ、それが出来る力があル!

この下らナい、毎日同じ事を繰り返すだけの日常を、思い通りに出来る力が!

分かるカ。所詮、日常なんて虚構なんだ。俺達がちょっと手ヲ出せば、崩れてしまう。

そンな、脆いものに過ぎナいんだヨ!!」

 

 永谷の高らかな宣言にも、ユウトは答えない。

 やはり、黙って永谷の目を見つめるだけだ。

 

「普通の人間なンて、その虚構の中の、下らない生き物。それヲどうしようと、構わないだろう?」

「そうかい……なるほど」

 

 そう言って、あの嫌らしい笑みを悪魔の顔に貼り付ける永谷に、ユウトはポツリと言葉を漏らした。

 ユウトはその永谷の顔を見ながら思う。

 あの笑いだけは、人の姿であった時と変わらない。

 他人を見下した、嫌らしい笑いだ。

 何故、あの笑みだけは変わらないのか。

 そして、その瞬間に理解する。

 何故、永谷がジャームと化したのかを。

 

「……今、分かった。テメエ、耐えられなかったんだな。自分が人であるって事に」

 

 ユウトのその言葉に、永谷は僅かに肩を振るわせた。

 その顔から、笑いが掻き消える。

 

「何ダと?」

「誰かに、化け物って言われる事が耐えられなくて。だから、テメエは背を向けた。

人だった頃の自分と、それまで生きてきた日常に」

 

 ユウトは静かな口調で淡々と語る。

 その瞳は永谷の赤い点となった目を見据え続ける。

 

「……確かに、こんな力を持ってるなら、そっちの方が楽だろうな。

自分が化け物だって認めないより、力があるんだから自分の方がエライ。

力を持ってない連中や、周囲の世界の方が自分よりもエラクナイ。

そうやって自分の周りの連中全部を見下してれば、自分は傷つかない。」

 

 ユウトの周囲で、風も無いのに草花がざわめき始めた。

 まるで、ユウトの内側から溢れ出す何かに呼応するかのように。

 

「けど、な」

 

 草花のざわめき共に、ユウトの中のレネゲイドがざわめく。

 そのざわめきを力に変えて、ユウトは己の領域を展開し始める。

 

「テメエの考え方、やっぱ俺は気に入らねぇ」

 

 領域が広がっていく。世界が自分と同化するような感覚をユウトは感じ取る。

 確かに、この中なら自分の思い通りに出来ない事はないだろう。

 なるほど、確かにコレは大した力だ。

 だが、ユウトはこんな大した力はいらなかった。

 何故ならば。

 

「まず一つ目。人間は下らない生き物。それはテメエの考えだ。俺はその人間でいたい」

 

 普通の人間でいたかった。それがユウトの偽らざる心。

 別に自分は望んでこんな体になったわけではない。

 だったら、自分は人でいる。

 この体が変わってしまったというのなら、心は人間であり続ける。

 

「次に二つ目。日常が下らない。それもテメエの考えだ。俺はその日常の中にいたい」

 

 普通に生きていく。自分はただそれだけで、いい。

 別に全て自分の思い通りにいかなくても、構わない。

 それが生きていくと言うことなのだから。

 だから、自分は日常の中にいる。

 この日常が虚構であるというのなら、その虚構を守り続ける。

 

「そして三つ目……俺とテメエが同じ存在」

 

 自分は人間であり、日常に生きると決めた。

 視線の先の者は、その心は既に人ではなく、日常に背を向けた。

 そんな相手が、自分と同じ存在?

 ユウトは思い切り不愉快そうな表情を浮かべて、吐き捨てた。

 

「これが一番、理解できない……ってか、気に食わない。テメエと一緒にすんな、化け物」

 

 その一言は、ユウト自身が驚くほど冷たく、夜の中庭に響く。

 永谷は、ユウトの言葉を聞いて肩を振るわせた。

 牙を剥き出しにした憎悪の表情に顔を歪める。

 

「……竹塚……ユウトォォォ!」

 

 永谷が憎悪に満ちた叫びを上げた。

 それはまさに、悪魔の咆哮と言ってもよかった。

 獣じみたその叫びは、聞く者に恐怖の感情を呼び起こさせるには十分な迫力を持っていた。

 だが、ユウトはその叫びを聞いても、表情を動かすことはない。

 

「テメエは、決断を間違った。人であり続けるって覚悟が、出来なかった」

 

 語られるその声は、あくまで静かに、中庭に響く。

 

「その覚悟が無かったから、テメエは永谷昭弘って人間から、ただの化け物になった」

 

 ユウトはそう言うと、足を踏みしめて永谷を睨みつけた。

 化け物としての力を持ちながら、人であり続ける。

 自分はそうと決めた。例えそれがどんなに辛い道だとしても。

 

「……そんなテメエに、負ける気なんかこれっぽっちもしないな。今は」

 

 その辛い道を行くと決めた覚悟に比べれば、目の前の怪物なんて、敵ではない。

 心を引き裂く、あの言葉に耐える覚悟があるのなら、肉体の傷など物の数では、ない。

 ユウトは口元に不敵な笑みを浮かべて、永谷に向かって静かに口を開いた。

 

「かかってこいよ、化け物。人間をやめなくても、テメエ程度相手にならねえって……俺が教えてやる!」

「竹塚ユウトォォォッ! オ前ェェェェッ!」

 

 永谷が憎しみに満ちた雄叫びを上げる。そして、その体が再び銃弾のように回転を始めた。

 地下からここまで突き破ってきた、あの体当たりだ。

 その威力は既に目にしている。かすりでもすれば、ユウトの五体は易々と引き裂かれるだろう。

 

「殺ス! 殺しテやルッ!! オ前も、俺ノ血に変えテヤるゥゥッ!!!」

 

 その身を竜巻と変えながら、永谷が叫んだ。

 空気を引き裂きながら、永谷は一直線にユウト目掛けて雪崩落ちるように襲い掛かる。

 迫り来る永谷を見据えたまま、ユウトは己の領域に働きかけた。

 領域内の全てが、『主』を守るために答え始める。

 そして、何の前触れもなく、一陣の突風が吹き付けた。

 

「シィィィッ!!」

 

 だが、それが何を意味をしていたかを知るよりも、永谷の突撃の方が、早い。

 奇怪な雄叫びを上げながら、竜巻と化した永谷の体が、ユウトの立っていた空間を通り過ぎる。

 その勢いに、永谷の進路にある大地が抉られて、凄まじい土煙を吹き上げた。

 避ける素振りを見せる暇すらなく、ユウトの姿が土煙の中に飲み込まれる。

 地面を抉りつつ、十分な距離を飛び過ぎて、永谷は再び上昇した。

 その目が満足そうな光をたたえて、立ち込める土煙を見る。

 夜空に浮かび、口元には再びあの嫌らしい笑みを刻みながら、永谷は独白した。

 

「ククク……いくら大きな口を叩いテモ、所詮人間……俺ニ勝てるはずがナイ……」

「それはどうかな」

 

 だが、吹き上がる土煙の向こうから聞こえてきた声に、その笑みが吹き飛んだ。

 うろたえる永谷の周囲に、いつの間にか、無数の水の塊が生まれている。

 

「何っ?!」

「人間は化け物に勝てない。そんなの、誰が決めたよ?」

 

 いまだ晴れない土煙の中から声が聞こえ、水の塊が姿を変える。

 鋼鉄すら切り裂く、水の刃へと。

 

「小説で読んだ事、ないのか? ラストで化け物を倒すのは……」

 

 その言葉と共に、水の刃が永谷へと降り注いだ。

 羽ばたき、身をよじって、永谷はその刃を避けようとする。

 だが、その背後から飛来した水刃が、永谷の羽を切り裂いた。

 バランスを保てず、永谷の体が大きく傾く。

 

「ガアアアッ!」

 

 そして、野獣のように吠えながら、永谷の体が地上へと落下する。

 空中で何とか体勢を整えようとするが、それも間に合わない。

 不自然な姿勢で、永谷の体が地面と衝突する。

 だが、その落下の衝撃も大して苦にしていない様子で、永谷は舌打ちを一つすると跳ね起きる。

 即座に体を起こすと、一瞬で傷の癒えた羽を羽ばたかせ、再び空へと舞い上がろうとした。

 だが、次の瞬間。

 

「ナンダトッ?!」

 

 それを待ち構えていたかのように、永谷の周囲から蔦が次々と走り出て、その体を絡め取った。

 地面に縛りつけられ、身動きが取れなくなった永谷が顔を上げる。

 その視線の先には、ようやく晴れつつある土煙と、そして。

 

「そう。物語のラストで、化け物を倒すのは……いつだって、人間なんだぜ?」

 

 不敵な笑みを浮かべたユウトが立っていた。

 

「嘘ダ……そんなハズない……お前は、かわす事すら出来なカッタ……」

「ああ、確かにな」

 

 永谷の信じられないと言った呟きに、ユウトは肩をすくめて答えた。

 

「我ながら、運がいいと思うよ。急に吹いた風に一歩よろけたら、その横をテメエが通り過ぎていくなんて、な?」

 

 にやりと笑いながら、ユウトは言った。

 永谷の突撃の瞬間に吹き付けた突風。それは、永谷の突撃を遮る力は無かった。

 だが、ユウトの体をほんの一歩、突撃の軸から動かすには十分な力を持っていた。

 結果として、ユウトは難を逃れた。まさに、幸運としかいいようがない。

 だが、永谷はそれを単なる幸運と見てはいないようだった。

 食いしばった歯の隙間から、漏れるような声を出す。

 

「……ソウカ。領域に干渉して、回避した……」

「……さぁな?」

 

 笑みを浮かべ続けながら、ユウトはとぼけるように返事を返す。

 そして、ユウトは片膝をつくと、右手を地面へと添えた。

 ゆっくりと、己の領域を地下に向けて拡大していく。

 

「さてと。そろそろ、このお話もオチをつけなきゃな」

 

 動きを封じられた永谷の足元の大地に呼びかける。

 今までで最も強力な一撃を与えるべく、その力を隅々まで浸透させていく。

 そして、準備が整った事をユウトは領域を通して理解した。

 ユウトはゆっくりと立ち上がると、手を払いながら、永谷を見る。

 

「エンディングはお前の希望通りにはならないけど……?」

 

 だが、そこでユウトの目に映ったものは。

 

「……テメエ、何が可笑しい?」

 

 悪魔めいた顔に、悪魔そのものよりも邪悪な笑みを浮かべて、永谷が笑っていた。

 その身をユウトの能力で強化された蔦で絡め取られ、身動き一つ取れないにも関わらず。

 そして、この後何が待っているかも十分理解しているはずなのに。

 それでも、永谷は笑っていた。

 

「クク……イヤ? もう勝ったと思ってイル君が可笑しくてね?」

「何……?」

 

 訝しげに問いかけるユウトの目の前で、永谷の体を縛る蔦が震え始めた。

 何かを引き千切るような音が、最初は小さく、だが、次第にはっきりとユウトの耳に聞こえてくる。

 

「っ!」

 

 その音に危機感を感じたユウトは、領域に攻撃を命じる。

 だが、攻撃が実行に移されるよりも、ほんの一瞬早く。

 

「この程度の縛めで、俺を止められると……思っていたのカイ?」

 

 一際大きく、永谷の体が震える。

 それと同時に、音を立てて永谷の体を縛めていた蔦が弾けとんだ。

 体の自由を取り戻した永谷目掛けて、大地が牙を剥く。

 引き千切られた蔦の残骸を吹き飛ばすような勢いで、巨大な岩の槍が永谷へ襲い掛かる。

 

「動けさえすレバ……」

 

 だが、打ち出された岩の槍を、永谷は余裕の表情を浮かべて見据えた。

 両腕を大きく広げ、まるで岩の槍を迎え入れるような姿勢を取る。

 永谷の胸板目掛けて、岩の槍が突き進む。

 その穂先が永谷の胸を貫く瞬間、永谷は笑みを一層深くした。

 

「コノ程度」

 

 そして、真正面から岩の槍を受け止める。

 穂先は永谷を貫くことなく、停止した。

 永谷は開いた両腕で岩の槍を抱え、そのまま抱きしめるように力を込めていく。

 ジリジリと、岩の槍に永谷の両腕が食い込み、そして、限界がやってきた。

 盛大な破砕音を立てて、岩の槍が砕け散る。

 永谷が再び腕を開くと、砕けた岩の破片が地面へと降り注いだ。

 

「別に何の問題もナイんだよネェ……」

 

 永谷は笑みを浮かべたまま、手の中に残った岩の破片を握り締める。

 バキバキと、砕ける音がする。永谷がユウトに見せ付けるように、握り締めた手をゆっくりと開く。

 その手の中で砂と化した破片が、風に吹き散らされた。

 

「サテ。君の言うとおり、そろそろ幕を引コウ……ただし」

 

 永谷は、開いたその手をゆっくりと引いた。

 まるで、弓を引き絞るような動作は、今から、これでユウトを打つという予告をしているようだった。

 笑みを浮かべたまま、永谷が言う。

 

「エンディングはやはり、俺が決めさせてもらウヨ?」

 

 ピタリ、と引き絞られた手とは逆の手が、ユウトに狙いを定めた。

 

「君ハ俺の血になる。そして、アノ女も俺の血になる。それが……」

 

 永谷の言葉が尾を引いたように、伸びる。

 その姿もまた、言葉と同じように、伸びた。

 そして、そこまでがユウトに知覚できた全てだった。

 

「俺ノ決めた、エンディングだよ」

 

 次に感じたのは、鈍い衝撃。そして、耳元で聞こえる永谷の囁くような言葉。

 気がつけば、目の前に嘲笑う永谷の顔があり、そして。

 

「……ゴブッ」

 

 口から、鉄錆の味がする液体が溢れ出し、そして胸を中心に焼けるような感覚が広がった。

 目だけを動かし、自分の胸を見る。

 見えるのは、永谷の腕が自分の胸を深々と貫いている光景。

 そして、それはゆっくりと引き抜かれていく所だった。

 

「……」

 

 鉤爪が完全に引き抜かれ、永谷が一歩後ろに下がる。

 そうすると、ユウトの胸に大きな赤い穴が開き、そしてそこから真っ赤な血が溢れ出す。

 確実な致命傷。胸に開いた穴とそこから溢れ出す血の量が、それを証明する。

 その光景を、ユウトは無言のまま見た。

 

「クク……人が、人を超えた者に勝てるノハ、お話の中だけ。と言う事ダネ?」

 

 鉤爪についたユウトの血を舐め取りながら、永谷が馬鹿にしたような口調で言い捨てる。

 ユウトはそれに答えず、一歩後ろへと下がった。

 ゆっくりと、手を胸に開いた穴へと添える。

 溢れ出す血が、瞬く間にその手を赤く染め上げた。

 

「……かもな」

 

 ユウトは胸に開いた穴から流れ続ける己の血の温もりを感じながら、自嘲気味に呟いた。

 

「確かに……現実ってのはそんなに甘いもんじゃない……よな」

 

 口からも、とめどなく血が溢れ出す。

 荒い息をつくたびに、焼け付くような痛みが全身を襲う。

 だが、それでもなお、ユウトは笑った。

 

「やっぱり……化け物を倒すなら、それなりの力が必要ってわけか……」

「オヤオヤ。気が付くのが随分と遅いネ……もう、手遅れじゃないか?」

 

 ユウトが笑いながら言う言葉を、永谷が嘲笑う。

 しかし、ユウトの顔から笑みが消えることは無い。

 口元を鮮血に染め上げて、ユウトが笑う。

 

「いいや……まだ、遅くはないさ……」

 

 その言葉に、永谷の顔から嘲笑が消える。

 いや、言葉に、ではない。ユウトの目を見たためだ。

 その目は、大量の失血にも関わらず輝きを失っていない。

 闘志を失わず、ただまっすぐに、永谷を見据えて動かない。

 

「……マダ、あがくと言うのカイ?」

 

 その目の光を訝しむように永谷が言った。

 ユウトはその言葉には答えずに、胸に添えていた手をゆっくりと下ろした。

 胸に開いた穴からは、まだ血が流れ続けている。

 流れ出した血は、ユウトの体を伝い、その足元に真っ赤な水溜りを作り出した。

 そして、その水溜りは急速にその範囲を広げていく。

 中庭に広がり続けるそれは、最早血の海であると言ってもよかった。

 

「……正直、使いたくなかったんだけどな」

 

 自らが作り出した血の海の上に立ち、ユウトは自嘲気味な笑みを浮かべたまま言った。

 そう言っている間にも、血の海は広がり続ける。

 その先が永谷の足元にも届きかけた時、もう一度ユウトが口を開いた。

 

「けど、やっぱ片方だけで勝とうなんてのは、ムシのいい話だよな……」

 

 闘志に輝く瞳を永谷に向けたまま、ユウトが言う。

 

「片方ダト? 何を言っているんだい、君ハ……?」

「テメエも知ってるだろ? 俺が……何と、何の能力者かって、さ」

 

 ユウトの言葉に、永谷がはっとしたような顔で己の足元を見た。

 そこは、既に赤い海の中。

 その海を作り出しているのは、ユウトの血。

 ブラム=ストーカーの能力者の、血だ。

 

「!!」

「気が付いた、みたいだな……」 

 

 己がいる場所の意味を知り、驚愕の表情を浮かべる永谷に、ユウトは血で染まった笑みを投げかける。

 そして、笑みが浮かんだ瞬間、手から伝い落ちた血が、かすかな水音を立てた。

 その音をきっかけに、永谷が羽を羽ばたかせて空へと逃げようとする。

 永谷の体が、わずかに宙へと浮かんだ。

 

「けど……もう、遅いんだよ」

 

 だが、ユウトの言葉と共に、永谷の足元から何条もの赤い線が、その体を追いかけるように伸び上がった。

 その赤い線は、永谷の足や腕、羽をも絡め取り、永谷の動きを封じていく。

 

「ク、こ、この程度デ……!」

 

 全身を縛り付けていく赤い縛めを、永谷は全身の力を振り絞り、先ほどのように引き千切ろうとする。

 だが、ユウトの血から生み出されたその赤い鎖は、自在にその太さを変えて、決して引き千切られることは無い。

 それどころか、次々と永谷の体にまとわりつき、その全身を縛り上げていく。

 その様を見ながら、ユウトは口元に笑みを浮かべたまま、呟いた。

 

「……無駄、無駄……」 

「ク、グ、グオォォォッ?!」

 

 全身の自由を奪われた永谷が、獣めいた雄たけびを上げた。

 しかし、それは罠にかかった獣のそれに等しい。

 そして、捕らわれた獣にさらに赤い鎖が打たれていく。

 その四肢が引き伸ばされ、まるで磔刑にされる罪人のような形で、永谷の動きは封じられた。

 

「く、クソ。こんな、コンな事デ! コノ俺ガ、終ワル訳がナイッ! 終わって、たまルカッ!!」

 

 怒りをあらわにして、永谷が縛めの中でもがき、暴れる。

 だが、その全身を縛り付ける赤い鎖は微動だにしない。

 ユウトは暴れ続ける永谷を見上げていた。

 その顔から、笑みは消えている。それどころか、どんな表情も浮んではいなかった。

 ゆっくりと、動きを封じられた永谷に向かって近づいていく。

 一歩踏み出す度に広がった血の海に波紋が広がり、中庭には水音が響く。

 そして、永谷の目の前まで来ると、ユウトは赤い鎖に手を添えて、言った。

 

「これで、幕にしようぜ。永谷」

 

 その言葉と共に、ユウトは己の領域に干渉した。

 命令に従い、領域内に広がった血が一斉に伸び上がる。

 永谷の足元から、見えない器に注ぐようにして、血が満たされていく。

 

「竹塚、竹塚ユウトォォォッ!」

 

 永谷の叫びも、満たされていくユウトの血によって飲み込まれ、かき消されていく。

 己の血の中に飲み込まれていく永谷から、ユウトはわずかに目をそらした。

 そして、やがてそれは完成する。ユウトがイメージする、最後の一撃を生み出す物。

 それは闇夜に浮ぶ、深紅の宝珠。

 己の血を固めて作ったその球から、ユウトは添えていた手を引き抜いた。

 真っ赤に染まった手から、一滴の血が滴り落ちて、中庭に水音を響かせる。

 そして、ユウトは静かに口を開いた。

 

「チェック、メイト」

 

 静かな言葉と共に、幾重にも重なる肉を貫く音が中庭に響き渡る。

 その音の余韻が消えうせると、球が一度だけ震え、そして弾けた。

 球の中に収まっていた血が、雨となって降り注ぐ。

 そして、赤い雨が中庭に降り注ぐ中、その中に捕らわれていた者が地面に落ちた。

 ドサリという鈍い音が響き、そして、それを最後に中庭に静寂が戻ってくる。

 

「……」

 

 ユウトは無言のまま、地面に落ちたそれを見た。

 永谷昭弘であったものは、全身を貫かれ、倒れ伏していた。

 元の姿に戻ったその体は、もう動こうとはしない。

 その事を確認すると、ユウトは自分の足から急に力が抜けて行くのを感じた。

 自らが作り出した血の海の中に、一際高い水音を立てて座り込む。

 そして、赤く染まった己の手を見て小さく呟く。

 

「……これで、終わったんだよ、な……」

 

 その呟きに答える者はいない。はずだった。

 だがその時。

 かすかな笑い声が中庭に響いた。

 

「ク、クク……これで……終わりだって?」