Scene5:『冷酷な観察者』
――その頃。
薄暗い部屋に、その男はいた。
そこは、とても殺風景な部屋だった。
部屋の中にあるものは、無数のコンピュータとモニター、そして男が座っている椅子。
コンピュータが唸るような音を立てる他には、音らしい音もない。
生活感をまるで感じさせない、無機質な部屋。
そんな部屋で、男は椅子に腰掛けたまま、モニターに次々と表示される情報を眺めていた。
ミラーシェードに覆われたその顔に、表情は無い。白衣に包まれた体は身動き一つしない。
部屋と同じように、ひどく無機質な印象を与える男だった。
男の背後で空気が動いた。部屋の中に気配が増える。
男は振り向く事もせずに口を開いた。感情と言うものを一切感じさせない言葉が、部屋の中に流れる。
「サンプルはどうした」
男の言葉に、答えはない。
男は少しの間を置いて、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「サンプルは、どうした」
「……申し訳ございません。北条主任」
答える声は震えていた。
それは、北条と呼ばれた男に対する恐怖からだった。
だが、北条は答えた者の感情を無視するかのように問い掛ける。
「謝罪の必要はない。質問に答えろ」
「……逃走いたしました。一度は捕捉に成功しましたが、邪魔が入った為、確保には失敗したとの事です」
「そうか」
「現在、行方を追跡中です」
特に驚く素振りも見せずに、北条は頷いた。
北条にとって、報告された事は大きな問題ではなかった。
ただ、自分の実験に若干の遅れが生じるだけの事。それだけだ。
だが、北条の顔にはかすかな苛立ちが浮かんだ。
大きな問題ではないにせよ、実験に遅れが生じる事は決して好ましい事ではない。
しかし、北条はその苛立ちを一瞬で表情から消した。
実験に事故はつき物だ。多少の事故に備えて、実験計画には十分な時間的余裕を持たせてある。多少の遅れは許容できる。
そう考えて、一人軽く頷いた。
しかし、放置するわけにもいかない。今回の実験には、サンプルの存在が不可欠だ。
北条は部下の顔を見る事も無く、指示を出す。
「分かった。早急にサンプルを確保しろ」
「かしこまりました」
北条はもう一度頷くと、部下に向かって問い掛けた。
「それで、そこに転がっているのは誰だ」
「サンプルの逃走を手助けした者です」
頭を下げた部下の横には、後ろ手に縛り上げられた、北条と似た白衣を着た男が転がされている。
顔は到る所が腫れ上がり、口元や鼻からは血が流れている。
だが、その目に強い嫌悪と反感の色を込めて、北条を睨んでいた。
「あんたのやってる事は……許される事じゃない……」
白衣の男が、荒い息をつきながら吐き棄てる。
その言葉を聞いて、モニターを眺めていた北条の表情がわずかに動いた。
舌打ちをこらえるような表情が、一瞬だけ北条の顔に浮かぶ。
それは、白衣の男に向けた憎悪に近い侮蔑だった。
北条が何よりも嫌うのは、己の計画を邪魔する者だ。
単なる事故での遅れならば許容できる。だが、それが他者の手からなるとなれば、話は別だ。
意図的に実験を妨害し、その進行に悪影響を及ぼす。
北条にとって、それは何よりも許しがたい行為だった。
北条は深い失望をこめて、溜息をつく。
背後の二人が息を飲んだ。
まるで、自分自身が死刑宣告を受けたかのような表情を、それぞれが浮かべる。
だが、北条の口から発せられた言葉は、あくまで淡々としていた。
「そうか」
そう言って、組んでいた腕をほどくと、軽く片手を上げる。
すると、北条の背後にモニターの明かりとは違う青白い光がいくつか灯った。
それは、薄暗い部屋の中にあって、まるで鬼火のような不気味な光だった。
そして、鬼火は部屋の中を漂いながら、転がされた男の周囲を取り囲む。
自分を取り囲む鬼火を見て、男が恐怖に引きつった声を上げた。
「やっ! やめ……っ!!」
「ご苦労」
短い言葉と共に、上げた手が振り下ろされる。
それと同時に、鬼火が大きく輝いた。
一瞬、薄暗い部屋の中が青白い光と空気の焼ける独特の音とで満たされる。
鬼火の正体は、青白く輝く雷球であった。
雷球から放たれた凄まじい電流が、男の姿を黒い影に変えていく。
男はくぐもった悲鳴を上げたが、それも一瞬の事だった。
北条が腕を組み直した時、既に鬼火は姿を消し、部屋の中はまた薄暗くなっていた。
男の姿は無い。その代わりに、男が転がっていた場所には一握りの灰が積もっていた。
「……サンプルはロスト、か」
北条は背後を一瞥する事も無く、モニターを眺めながら言った。
その背中に、報告をした部下が頭を下げたまま言葉をかける。
その声には、自らの主に対する畏怖の色がはっきりと現れていた。
「すぐに追跡部隊を編成いたします」
北条はその言葉に頷いた。
「状況は逐一レポートにして提出しろ」
「はっ!」
その返事を最後に、部屋から部下の気配が消える。
再び薄暗い部屋に一人きりになった北条は、情報を表示し続けるモニターを眺めて呟いた。
「さて」
呟いて、キーボードを叩く。北条の指がキーを叩く度に、モニターの情報が変化していく。
キーを叩き続けるうちに、その口元が軽く吊り上がり、微笑のようなものを形作った。
その微笑はとても機械的で、心と言うものを感じさせないものだった。
「このアクシデントがどう影響するか……興味深い」
あくまで感情の無い声で呟くと、北条はキーを打つ手を止めた。
実験に遅れが生じるのは許しがたい。だが、最終的な結果が良好になるのならば。
「観察するのも、悪くは無い……」
そう呟く顔は、まさに実験を観察する科学者のそれだった。
『ハートレス・ウォッチャー』
それが、北条の名乗るコードネームである。