Scene8:いつもと違う朝
竹塚家に新しい家族が増えた、その次の日の朝。
いつも通り、CDプレーヤーが起動する微かな音で、ユウトは目を覚ました。
CDの回り出す音に続いて、起き抜けに聴くには騒々しすぎる音楽が流れ始める。
ユウトはまだ完全に目覚めきってない状態で、その音を聴いていた。
「……ん〜……」
布団をはがし、むくりと起き上がると、ユウトは寝癖のついた頭をガリガリと掻いた。
そうしている間も、CDプレーヤーからは音楽が流れ続けている。その音が少し大きいと、ユウトは寝ぼけた頭で考えた。
まだ半分閉じた目で、枕元に置いてあるはずのリモコンを探す。
「ん……?」
リモコンを手にした辺りで、腰の辺りの寝間着を何かに引っ張られるような感触を覚える。
それに違和感を覚えて、ユウトの目は自然とそちらの方を向いた。
視線が、自分の脇にある銀色の塊を捉える。
一瞬、それが何なのか理解できない。
「……なんだこれ……」
寝ぼけた声で呟きながら、それを眺める。
数秒それを眺めて、ようやくそれが髪の毛であると理解する。
銀色の塊の中からは、白く細い腕が伸びていてそれが自分の寝間着を掴んでいるというわけだ。
と言う事は、これは人間だ。
銀色の塊の中から伸びる腕は、規則正しいリズムで動いている。
「んー……」
リモコンを手にしたまま、これがどういう状況なのかを考える。
自分の部屋の自分のベッドで、銀色の髪を持った人が自分と一緒に寝ている。
半分寝ている頭を、徐々に目覚めさせていく。
そして、唐突にユウトの目が大きく見開かれた。
「……どぅあっ?!」
状況を理解すると、ユウトは奇怪な叫びを上げてベッドから転げ落ちた。
そのまま慌ててベッドから離れて、忙しく息をつく。
呼吸が落ち着くのを待って、ユウトはこっそりと自分のベッドを覗き込んだ。
ベッドの中では、汐がすやすやと安らかな寝息を立てていた。
着ているのは、希梨花のパジャマだろうか。随分とブカブカだ。手がすっぽりと袖の中に隠れてしまっている。
これは、着ると言うより着られている。
そんな大きなパジャマに着られながら、汐は両手足を折り曲げて、丸くなるような姿勢で眠っていた。
部屋の中に流れる音楽も、ユウトの叫び声もその眠りを妨げてはいないようだ。
「……なんで、俺のベッドに?」
思わず呟くユウト。昨日、眠りについた時は確かに自分一人だった。それは間違いない。
とすれば、眠っている間に潜り込んだのだろうが。
しかし、なんと言うか。
「し、心臓に悪いな……」
ユウトは胸の辺りを押さえて呟いた。まだバクバクと音を立てている。
その動悸が治まるのを待って、ユウトは音を立てないように注意しながら、CDプレーヤーを止めた。
あれだけ大騒ぎをしておいて、今更なような気もするが。まだ寝ている事には変わりない。
そして、気持ちよさそうに寝入っている汐の顔を覗き込んだ。
安心しきった寝顔が、そこにはある。
とても気持ちよさそうだ。
「……ったく」
苦笑を浮かべながら、ユウトは壁の時計に目をやった。
普段の起床時間より、まだ三十分は早い。いつもであれば、音楽が停止するまで完全に目覚める事はない。
なので、それも見越してタイマーは長めにセットしてあるのだが、今日は一発で目が覚めた。
それは、いい事であるはずなのだが。
「……毎日だと、身がもたないなぁ……」
ベッドから転がり落ちた時に打った腰の辺りをさすりながら、ユウトはひとりごちた。
さて、どうするか。
とりあえず、自分が起きた時にはいだ布団を汐にかけ直してやりながら、ユウトは思案した。
いつもなら迷わず寝直すのだが。
「……流石に……それはなぁ」
ベッドの中で寝息を立てている汐を見下ろして、ユウトは困ったような表情を浮かべた。
その時、かけ直された布団に埋もれていた銀色の塊が、モゾモゾと動いた。
どうやら、目が覚めたらしい。
銀色の塊が動いて、汐の顔が布団から出てくる。
その目は、まだ半開きだった。
それでもユウトを見つけると、にぱーっと笑う。
その表情はなんとも間が抜けていて、ユウトも思わず笑ってしまう。
「起きちゃったか……おはよう」
「……」
半開きの目のまま、カクンと首を傾ける汐。何を言われたのか、理解していないようだ。
ユウトは苦笑を浮かべながら、自分の言った事を説明してやる事にした。
希梨花からも、汐に言葉を教えてやるように言われている事だし。何事も小さな積み重ねが大事だ。
「朝、目が覚めたらね。おはようって挨拶するんだよ」
「オー……ハ……ヨ…………オ?」
「そう。お・は・よ・う」
「オハヨウ……」
「はい、よろしい」
まだ半分寝ている顔で微笑みながら、汐がもう一度繰り返した。
ユウトはその様子を見て軽く頷きつつ、もう一度時計を見た。
まだ早い。早いのだが、汐も起きてしまった以上、こうしているわけにも行かないだろう。
「さて、それじゃあ下に行こうか。朝ごはん食べなきゃね」
「……?」
ユウトがそう言うと、汐はまた首をカクンと傾けた。
「……」
そして、そのままベッドにまた倒れこもうとする。
「ああ、こらこら。寝ない寝ない! ……ったく、しょうがないなぁ」
ユウトは慌てて汐の体を抱き止めると、軽く溜息をついて、汐の体を抱えてベッドから下ろしてやった。
ベッドから下ろされても、汐の目は半分以上閉じたままだ。手を放すとその上半身がフラフラと頼りなく揺れる。
どうやら、完全に目が覚めるまでしばらく掛かる方らしい。
「ほら、汐。行くよー」
ユウトはもう一度溜息をつくと、仕方なく汐の手を引いた。
汐は手を引かれるまま、時折空いた手で自分の目元をぐしぐしとこすりながら付いてくる。
その様子が、ユウトの顔に自然と微笑を浮かべさせた。
「階段、気をつけて……ああ、ほら! 気をつけてって!」
――*――
「おはよー」
「ん? おぉ。おはよう」
「あら。おはよう、ユウト」
ユウトが居間の扉を開けると、要と敬一郎が中に居た。
汐の手を引きながら入ってきたユウトを見て、テーブルについて新聞を広げていた敬一郎が意外そうに言う。
「なんだ。今日はやけに早いじゃないか」
その言葉を予想していたユウトは、軽く口元を歪ませながら答える。
「ま、たまにはそういう日もあるんだよ」
そう言いながら、汐をテーブルの空いている椅子に座らせてやる。
普段は希梨花が座る席だが、まだ起きてきていないからいいだろう。
汐はと言えば、ようやく目が半分開いてきた、と言った感じだ。まだ少し体が揺れている。
その様子を見て、敬一郎が新聞を広げたまま尋ねる。
「おや、汐も一緒か?」
「んー。起きたら俺のベッドに居てさ。仕方なくねー」
ユウトが汐の体を真っ直ぐにしてやりながら、何気なく答えると、敬一郎が片眉を上げた。
「おい、ユウト」
「ん? 何、どうかした?」
ユウトが顔を上げると、新聞を畳んで真剣な表情を浮かべている敬一郎の顔が飛び込んでくる。
「まさかお前。自分で引っ張り込んだんじゃないだろうな」
「……あのね」
真顔でそう言う父親に、ユウトの肩ががっくりと落ちた。
深い溜息を一つ、返してやる。
「んなわけねーでしょ? この子が勝手に潜り込んでたんだよ」
くいくい。
ユウトが答えていると、服の袖を引かれる。
視線を落すと、ようやく目が覚めた様子の汐が、不思議そうな顔で見上げていた。
なんのこと? と問い掛けているように見える。
「ああ、気にしない。このおじさんが変な事を言ってるだけだから」
「……?」
「あ、おい。父親に対してその言い草はなんだ?」
「あのねぇ……んじゃ、朝一番で実の息子にそういう事言うのはどうなのさ? ほら、汐も何か言ってやりなよ」
ユウトがそう言い返すと、汐は不思議そうな表情のまま敬一郎の方を向いた。
そして、じっと敬一郎の顔を見つめる。
汐に見つめられて、敬一郎が言葉に詰まる。
「いや、そのなんだ。俺は父親としてだな……?」
「……?」
敬一郎がしどろもどろで返そうとしても、汐の視線は動かない。
不思議そうな表情で敬一郎の顔を見つめ続ける。
「あー……いや、その、な……」
「……?」
「あー……」
答えに窮する敬一郎を放っておいて、ユウトは台所に向かう。
台所では、要が起きてきたユウトと汐の為に、目玉焼きを焼いていた。
「おはよ、お母さん」
「おはよう、ユウト。今日は早いわね?」
「それ、お父さんにも言われたよ」
冷蔵庫の中から牛乳を取り出し、脇に置きながら、ユウトは苦笑を浮かべた。
「いつもだったら寝直すんだけどね。今日はあの子が居たから目が覚めちゃった」
「あらそう? でも、二度寝は駄目よ?」
「分かってるよ……おっと?」
いつも朝食用の菓子パンが入ってる籠を覗き込んで、ユウトは少し困った表情を浮かべた。
中には菓子パンが丁度二つしか入っていない。
一個は自分の分として、もう一個は希梨花の分だろう。
要は自分用のトーストを焼いているから、問題はない。
ユウトは籠から視線を上げると、目玉焼きを皿に移している要に問い掛けた。
「お母さん、パン二つしかないんだけど。あの子の分、どうしよ?」
「んー。そうねぇ……希梨花の分あげちゃって」
「え、いいの? お姉ちゃんの分は?」
「希梨花、今日はお昼からだって聞いてるし」
「あ、そ。ならいいか」
納得して両方を手に取ると、ユウトは出しておいた牛乳とコップも持って、居間に引き返そうとした。
その背中に、要が声をかける。
「あ、そうそう。ユウト」
「んー?」
「あの子を呼ぶ時は、ちゃんと汐って、呼んであげなさい?」
「え?」
要はそう言い残して、焼きあがった目玉焼きを持って居間に入っていった。
居間では、まだ敬一郎が汐に見つめられている。
敬一郎があれこれと説明しているが、汐は不思議そうな顔のままだ。
「はい、汐ちゃん。お父さんを苛めるのはそれ位にしておいて。朝ごはんにしましょう?」
要はそう言いながら、汐の前に目玉焼きの乗った皿を置いている。
その様子を見て、ユウトは眉を寄せた。
「順応、早すぎだって……」
そう呟いて、自分も居間に戻る。
そして、目玉焼きを興味深げに見つめている汐の前に、持ってきた物を並べてやる。
「ほい、お待たせ。これ朝ごはんねー」
「?」
新しく置かれた物を見て、汐がまた不思議そうな表情でユウトを見上げた。
なに、これ? と表情が語っている。
ユウトは困ったように頭を掻いた。
「パンも見たことないのかな……?」
汐の前に置かれたのは、ごく普通のアンパンだ。
ユウトはその一つを手に取ると、包みを開けてパンを出す。
そして、それを半分に割り、その片方を汐に手渡した。
「ほい」
「??」
渡された物を素直に受け取るが、汐は両手で抱えたパンに視線を落としただけだ。
パンとユウトを交互に見ている。
「それは、そのまま食べていいんだよ? ほら、こうやって」
ユウトは自分の分のアンパンを袋から出すと、そのまま一口かじった。
その様子を、汐は昨日の晩と同じように、じっと見つめている。
口の中の物を飲み込むと、ユウトは汐の方を向く。
「うん。美味しい! ……と、まあ。こんな感じ。さ、食べて食べて」
「……」
ユウトが勧めても汐は少し迷っているようだった。
だが、やがて意を決したように、手に持ったパンを半分に割ると、恐る恐る小さく一口かじった。
ゆっくりとパンを噛み締めると、徐々にその目が丸くなっていく。
そして、大きく喉を鳴らして飲み込むと、ぱっと顔を上げて、驚いたような顔でユウトを見上げた。
「美味しい?」
「……!!」
こくこく!!
ユウトに答えるように汐は大きく頷くと、すぐに一心不乱にアンパンを食べ始めた。
瞬く間に半分が無くなり、もう片方もさほど時間をあけずになくなってしまう。
最後の一口を飲み込むと、汐は幸せそうな吐息をついた。
よほどアンパンの味が気に入ったらしい。
ユウトはその食べっぷりを見て、感心したような、呆れたような声を上げる。
「はー。あっという間だねぇ……」
言いながら、自分のアンパンをかじる。
ごく普通の、どこにでもあるアンパンだ。有名なパン屋で扱っている高級品、と言うわけでもない。
昨日のムニエルの時といい、この子は一体今までどんな食生活を送っていたのだろう。
そんな風に思いながら、ユウトは食事を続ける汐を見る。
こちらも初めてだったらしく、割れた黄身に驚きながら口に運んでいる。
ユウトの視線に気付いたのか、汐が格闘中の目玉焼きから顔を上げた。
「?」
小首を傾げて見上げてくる汐の頬には、卵の黄身がアチコチに跳ねていた。
見た目よりも随分幼く見えるその仕草に、ユウトはつい笑ってしまう。
「なんでもないよ。ほら、慌てて食べるからスゴイ事になってるじゃん?」
そう言いながら、ティッシュで顔を拭いてやる。顔を綺麗にしてやると、汐はまたにぱーっと笑った。
その微笑みは、とても幸せそうだ。見ていると、こちらもつい微笑んでしまうような。
汐と二人で笑い合っていると、時計に目をやっていた敬一郎が不意にユウトに声をかけた。
「ところで、ユウト。そろそろ準備した方がいいんじゃないか?」
そう言われて、ユウトは今の時計に目をやった。
敬一郎の言う通り、そろそろ学校に行く準備をする時間だ。
今日はいつもより余裕がある。敬一郎の車で駅まで送って行ってもらわなくても済みそうだ。
「ん、そうだね」
ユウトはそう答えて、何気なく席を立とうとした。
すると、両手でコップを持って牛乳を飲んでいた汐が、急に慌てだした。
持っていたコップを投げ出して、ユウトの裾を掴む。
コップが倒れて、その中にまだ残っていた牛乳が撒き散らされる。
「ちょっ!?」
「お? なんだ、どうした?」
「あら、大変」
その突然の行動に、その場に居た他の三人は目を丸くした。
敬一郎がこぼれた牛乳を拭き、要が汐にもかかったそれを拭う間も、汐は今にも泣き出しそうな顔でユウトを見上げたままだった。
精一杯の力で、ユウトの服の裾を引いてくる。
まるで、ユウトの傍を離れたくない、と言うような素振りだ。
「ど、どしたのさ急に?」
ユウトが尋ねても汐は答えず、ユウトの裾を放さない。
その様子が尋常ではないのは、一目見れば分かる。
泣きそうな汐の顔を覗き込みながら、ユウトは言い聞かせるように言う。
「べ、別にいなくなるってわけじゃないよ? ただ、学校に行ってくるだけ。また帰ってくるよ?」
「……!!」
ユウトがそう言っても、汐は服の裾を放そうとしなかった。
必死で首を横に振り、ユウトの裾を引き続ける。
「こ、困ったなぁ……どうすればいいと思う?」
無理に振りほどく事も出来ず、困り果てたユウトは両親に助け舟を求めた。
それを受けて、汐にかかった牛乳を拭き終えた要が、そっとその手を汐の手に添えた。
汐の体が、一瞬ひどく強張る。だが、要はゆっくりと言い聞かせるように言った。
「ねえ、汐ちゃん? お兄ちゃんはね、学校って所に行かないといけないの」
要の言葉に、それでも汐は頑として裾を放そうとしなかった。
ただ、ぎゅっと目をつむって首を強く横に振る。
要は汐の頭を抱いて、その髪をゆっくりと撫でながら言葉を続ける。
「大丈夫よ。あなたを置いて、どこにも行ったりしないから。ちゃぁんと帰ってくるから……」
要が優しくそう言うと、ほんの少しだけ汐の手から力が抜けた。
「大丈夫……大丈夫だから……ね?」
「……」
要が言い聞かせるように繰り返すと、ようやく汐はユウトの服から手を放した。
今は涙すら浮かんだ目で、ユウトの事を見上げている。
ほんとう? と問われているように感じて、ユウトは汐と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
その頭に手を載せて、優しく撫でてやる。
「お母さんの言ってる事は本当だよ? 俺はちゃーんと帰ってくるから」
「……」
微笑みながらそう言うと、汐はやっと納得したように小さく頷いた。
ユウトもそれにう頷きを一つ返してやると、立ち上がった。
「んじゃ、俺支度して行ってくるけど。お母さん、後頼んでいい?」
ユウトがそう聞くと、要は汐の頭を抱いたまま、にっこりと微笑んだ。
「ええ、大丈夫よ。気をつけて行ってらっしゃい?」
「ん、じゃあちっと行ってくるね……」
そう言って、ユウトは居間から自室に戻ろうとした。
居間から出る時に、もう一度汐の方を振り返る。
汐は真っ直ぐにユウトの方を見ていた。今にも泣き出しそうな顔のままで。
「……」
ユウトはその様子に後ろ髪を引かれつつ、居間を後にした。