第3回
「イエローウィザーズの日常」
ヤンが食器を返却するためのカウンターの近くへとたどり着くと、そこでは食堂を取り仕切るカミラ・ノーマンが、
苦い顔をして立っていた。
「おばちゃん」という通称から中年女性を連想されるが、実際のところ、ヤンともそれほど年は離れていない。
カミラが厨房の外にいることは滅多にない。「厨房=彼女の部屋」という見解が部隊全体に浸透しているくらいだ。
そのカミラが、ほんの僅かな距離とはいえ、厨房から出ている。
そのことを不思議に思いながらも、ヤンは食器をカウンターへと置いた。
「ごちそうさまでした〜」
「はい、お粗末様……」
普段ならその一喝で歴戦の軍人たちを沈黙させるほどの迫力の持ち主だが、今の声にその迫力はなかった。
「え〜と? カミラおねーさん?」
ヤンは恐る恐るといった様子で声をかけた。以前、ヤンが不用意に「おばちゃん」といったら、
『歳もほとんど変わらないアンタに、おばちゃん呼ばわりされる筋合いは、ないわ〜!!』
と、思いっきりどつかれた経験がある。しかも、『ぐー』で。それ以来、ヤンはカミラのことを「おねーさん」と呼んでいる。
だが、他の隊員がいくら「おばちゃん」と呼んでも怒らない。そのことに関して、ヤンは少し納得のいかないものを感じている。
「ん? あ、ああ。なんだ、ヤンじゃない」
ヤンが呼びかけてようやくその存在に気がついたのか、カミラはヤンの方に視線を向けた。
そして、ヤンの顔を見た瞬間、何かを思いついた表情をする。思いつきはカミラに劇的な思考を促したようだ。
すぐさま、その目に剣呑な光が帯びる。
「……ヤぁン? あの見た事ないオッサンは誰なんだい?」
「はい?」
「とぼけんじゃないよ。あの妙に馴れた手つきで料理をこなす、ヒゲ親父だよ!」
「え?……あ、ああ。ユーリさんのことですね、それは」
ヤンはポン、と手を打った。
ユーリ・フィアールカ少尉。ベテランの人材が不足していた『イエローウィザーズ』に配属されたパイロットである。
プロフィールを見る限り、軍人としては申し分のない能力を有している。ヤンが希望した通りの人材だ。
「ええっと、ユーリさんが何か?」
「何かじゃないよ! あの親父、アタシの厨房でなんか怪しいもん作ってんだよ!」
「……へ?」
カミラの言葉はヤンを少なからず驚かせた。
ヤンがユーリと会ったのは、ユーリの着任時、その挨拶に来たときである。
第一印象はこれぞ軍人、といった感じだった。
言葉こそ多くは語らなかったが、隙なく着こなした制服や経験に裏打ちされた自信がにじむ声、鍛えられ無駄の省かれた行動は、
いかにもたたき上げ、ベテランといった言葉が似合った。
「ユーリさんが、料理ねえ……」
「信じてないね? なら見てみるといいさ!」
ヤンが首をかしげていると、カミラはいらだった様子で厨房へと続くドアまでヤンを引きずっていく。
そして、ヤンの目の前でドアを開いた。
「……?! なんだ? この……名状しがたい匂いは?」
開かれたドアから漂ってきたのは、甘ったるく、それでいて何かが発酵したような、かつスパイシー……。
とてもではないが一言では言い表せない、独特な匂いだった。
カミラは鼻の頭にシワを寄せると、奥の大鍋の方を指差した。
「ほら、あそこだよ! アンタも隊長名乗ってるなら、なんとかしな!」
そう言うとカミラはさっさと厨房から出ていってしまった。
ヤンは仕方なく大鍋の方に向かって歩き出した。一歩進むごとに匂いはますます強くなる。
一歩また一歩と、大鍋とその中身を楽しそうにかき混ぜるユーリに近づいていく。
ある程度近寄ると、ユーリの方が気がついて陽気にヤンに話しかけてきた。
「おお! これはヤン隊長! いい所に来ましたな。もうすぐ特製ボルシチが出来上がりますぞ?」
「はあ。あの、それ、ボルシチなんですか?」
ヤンはともすれば遠のきかける意識を必死でつなぎとめながら、大鍋の中を覗きこんだ。
……たしかに、ボルシチと言えばボルシチだが。
だが、しかし。ボルシチはこんなに濃いチョコレート色をしていただろうか? また、こんなに愉快な匂いが漂うものだろうか?
「あの、参考までに、何を入れたか教えていただけます?」
「勿論! 喜んでお教えしましょう! いいですか? まず基本は普通のボルシチの材料です。鳥のもも肉、ジャガイモ、キャベツ等々。
……ここの厨房は良質な材料が多くてよろしいですな。私も腕の振るい甲斐があるというものです」
ユーリは嬉々と様子で特製ボルシチの作り方について講釈をはじめた。その間も大鍋の中の特製ボルシチはグツグツと煮え、
ますます凄い匂いがあたりに満ちてくる。
「……そして! ここが特製たる所以なのですが……。隠し味として、『ミソペースト』と『ココアパウダー』をたっぷりと加えてあります!」
「………………」
「隊長? いかがしました?」
「あ、いえ。何でも……」
ヤンは刺激臭の原因を知り、再び意識が遠のきかけた。
なるほど。確かに『特製』だ。
ヤンはよろよろと後ずさると、弱々しい足取りで厨房を後にした。
後ろからユーリの声が聞こえたが、これ以上厨房にいると本気で意識が危ない。そう判断しての行動だった。
「ぷはぁ……」
「どうだい、ヤン。何とかしてきたかい?」
厨房から出てくると、カミラが心配そうな表情で近寄ってきた。
しかし、ヤンが力なく首を振ると、途端に落胆した様子で肩を落とした。
「なんだい。隊長だって言うからあてにしてみれば。部下の一人も満足に扱えないのかい?……まあ、あんまり期待もしてなかったけど」
「それはあんまりだなぁ……」
ヤンは苦笑いを浮かべると、ポケットから愛用のパイプを取出し、火をつけようとした。
葉はすでに詰めてある。後は火をつけるだけでいい。
だが、ヤンはお気に入りのタバコを味わう前にパイプをひったくられた。
「何を……」
「食堂内は禁煙だよ」
流石にむっとして反論しようとしたヤンに先んじて、カミラが無常な宣告をする。
言葉に詰まるヤンに対して、カミラはパイプを返しながらニッコリと微笑むと、やさしい声色を作って言った。
「もし、御喫煙がなさりたいのでしたら、是非ともご自分の個室にお帰りになられてからにしてくださいねぇ?……わかった?」
最後だけ、やたらとドスが利いている。
「はい……」
ヤンは仕方なく食堂を後にした。
向かう先もなく、悄然として歩くその後姿に、隊長としての威厳はやっぱり、ない。