2002年11月

誕生前夜〜誕生
誕生前後は特に詳細に記しています。※

11月20日

夕方6時頃、私はいつもと違う様子の「ぼうず」(画像診断で男の子と判ってからそう呼んでいた)が気になっていた。今は逆子の状態。明日の検診まで逆子なら帝王切開の可能性が高いと医師から言われ、ここ数日”逆子体操”をしていた。

「頭は下だよ〜。」何度もお腹を触ってぼうずの位置を確認。

ゆうべまでは触れなかったが、今は脇腹の位置で頭らしき丸いものに触れることが出来る。横向きにはなったようだけど、そこからぼうずの動きが鈍い。

夜になっても横向きのまま、ほとんど動きを感じない。昨日まであんなに元気に蹴ってたのにどうしたんだろう。
4年前の流産を思い出し、だんだん不安に…。

11月21日

深夜遅く、仕事から戻った夫に話すと、「車に乗るといつも動くって言ってたし、試しにやってみる?」と、車で外に出た。しばらく走ったけど、相変わらず動きを感じない。かすかながら動いているような気もするが、確信が持てない。もし違っていたらと思うと、どちらとも判断出来ない。

夫は産院の近くまで車を走らせ、「これから病院に行く?」と聞いてきた。どうしよう。明日は検診日。時刻はその時AM4時。悩んだ末、あと数時間待って、予約より早めの時間に行くことに決め、自宅に引き返した。

自宅に戻ったものの、結局私は不安で眠れなかった。朝8時。寝てる夫を起こさずに病院に行く支度を始めると、夫が目をさまし、連れていってくれることに。

(そのまま入院になるかもしれない。)

念のためシャワーを浴びてから家を出たが、入院準備品を詰めたバッグが押入れに用意してあるのを確認はしたのに‥なぜか、持って行くことはあえて、しなかった。

<病院で>
病院に着いた時には10時をまわり、混んでいた。胎動がないようだと窓口の女性に声を潜めて伝えると、順番を先に回して診てもらえた。
ぼうずの心音が少し弱いらしい。提携先のK大学病院に急きょ行くことになった。別室で心音をモニターするよう言われる。

私は駐車場で待つ夫にそれを伝え、30分かかるから、その間に先に食事しておくよう言った。二人ともまだ朝食をとっていなかった。

ベッドで横になり、モニター開始。「もしブザー(警告音)が鳴ったらナースコールを押してください。」装着するとすぐに医師と看護士は席を外した。ところが、モニターをはじめてまもなく警告音が鳴りはじめた。
自分の心臓がドクドクと耳元で大きく鳴り響いている感じがした。ナースコールを押すのに躊躇していると、外来に行ったはずの先生が駆け込んで来た。外来を他の先生に頼んですぐに引き返してきたらブザーが聞こえて走ってきたそうだ。

「もう待てない!すぐ出しちゃうから!先生方みんな呼んで来て!早く!」

院内にエマージェンシーコールらしきものが聞こえた。病室に医療スタッフが次々と駆けつけ、担当医の指示する大きな声が響く。身体につけたモニターを何人かで一瞬のうちに外し、ストレッチャーに移され、すぐに廊下へと出ていく。先頭の、人払いの声が聞こえる。「ストレッチャー通りまーす!空けてくださーい!空けてくださーい!」
すごいスピードで手術室へと運ばれていく。あっという間に衣服を脱がされ、手術台に移された。寒いのか、恐いのか、身体中の血の気が引いていくような感覚。気が遠くなりそうだ。大きく震え、ガチガチと歯が鳴って、思うように声も出せない。側にいた看護婦さんに「駐車場で‥待ってる‥夫に(この状況を)伝えて‥」と絞りだすように言うのがやっとだった。

腹部に消毒液であろう、冷たい感覚が広がる。医師は慌ただしく処置を進めながらも、ゆっくりと大きな声で説明をしてくれた。「赤ちゃん、早く出してあげたいので時間がないから消毒してすぐ帝王切開術になります。」説明を聞きながら、すでに下半身麻酔で帝王切開による出産は慌ただしく始まっていた。「がんばってね!赤ちゃんもがんばってるから!」

ふっと軽くなった気がした。産まれた?でも、声は聞こえない。なぜ?

「これから全身麻酔をかけます。眠くなりますよ。」まだ泣き声は聞こえない。力を振り絞り、「赤ちゃんは…?」と尋ねる。先生が大きな声で答えてくれた。「大丈夫。今、ちょっと泣いたから。赤ちゃんはお父さんと一緒に救急車でこれから別の大きな病院に行くけど、大丈夫だからね!」

「よかった」声に出したかどうかわからない。すうっと視界が狭くなっていった。


(最近になってパパから聞いた話によると、「(産直後は)泣かなかったと思う。とてもそんな状態じゃなかったよ…。」との事。私を安心させるためにそう言ったのかな?)

ぼうずの心音低下の原因は、臍帯の血流が悪くなったため。一時は逆流していたそうだ。血流が悪くなった原因は不明。この臍帯の血流異常について詳しい先生がたまたまその日、提携先の病院からお見えになっていたのは幸運だった。


最初は(車で約1時間の)K大学病院へ行くようにという指示だったが、モニター中に胎児の心音が落ち、母子搬送では間に合わないと判断。産院で出産し、そこから程近いNICUのある病院へ新生児搬送することになった。帝王切開が決まってすぐに搬送先へ連絡、NICUの医師が救急車に同乗して迎えに来たらしい。この産院の医師の判断、行動が非常に迅速で的確だったのが良かった、とあとになって外科の先生に言われた。

2002年11月21日AM11:03 

予定日より1ケ月8日早い(34週4日)誕生。


離ればなれの日々

麻酔から覚める。まだ身体がほとんど動かせない。ベッドから見えるところに時計がなく、時間もわからない。どのくらい経ったのだろう?すぐに先生が説明に来てくださった。あと5分か10分も遅かったら(赤ちゃんの命は)危なかった、と言われた。

◎息をしてなかったが、しばらくしてかすかだが泣いた。(と、この時点では聞いた)

◎その後、NICUのある病院へ搬送(パパも一緒)、そこの医師も救急車に乗って迎えに来てくださった。

◎体重を計る余裕もなく、出生体重が(この時点では)わからない。

◎本当に緊急手術だったので、剃毛もせずに急いで切開したため、お母さんは今晩から明日あたり高熱が出るかもしれません。

◎搬送先の病院からはまだ連絡がないので、詳しくはご主人が戻ったら直接聞いてください。

ひとつひとつ、頭に刻み込むようにして先生の話を聞いていたが、結局のところ夫が戻ってこないことには、ぼうずの様子は何もわからない。もどかしい。


PM7時。ようやく夫が戻ってきた。

デジカメでぼうずの写真を見せてくれた。今朝まで私のお腹の中にいたぼうずを、やっと見ることが出来た。保育器の中、裸のぼうず。人工呼吸器、点滴などのチューブ、胸と足にモニター。包帯が巻かれた小さな手。顔や身体は黒ずんだような色をしていた。

夫からの報告は思った以上に厳しいものだった。仮死のまま産まれてきて、しばらく息をしていなかったので、その影響がいろいろ出ているとのことだった。

特に心配なのが心臓と肺の状態。肺出血を起こし、輸血をしたらしい。心臓が肥大し、圧迫されているために心拍も非常に弱く、極めて危険な状態。この時点ではここ3日が山との説明だった。赤ちゃん自身の生命力を信じるしかなかった。

早く名前をつけてあげようと、夫が名前を決めた。ひいおじいちゃんの名前から一字を取って「樹(たつき)」と名付けた。
今日から「ぼうず」じゃなくて、「樹」だね。


後日談:この時、夫は、樹が生きて私と会うことが出来るのか、不安だったようだ。名前を早くつけたのも「生きて」という願いからだった。それほど、樹の容態は悪かったのだ。→(未熟児のページのアプガースコアの項目に詳しく記載しています)


衛生上の理由から「へその緒」は処分されるので、ご両親にはお渡しできません、と言われた。早く産まれただけで、大切な母子の絆も失われるのか…と悲しい思いがした。