だんだんと暑くなってきて、世の中はもう初夏らしい。 実家を出てからというものの、優紀ちゃんからはしょっちゅう連絡があって、その度に適当にごまかしてはいたけれど、あまりに帰らないと怪しまれるから時々は実家に戻っていた。 色々と聞かれると嘘がばれそうだから嫌だな……と思うけど、こんなの、きっといつかは知られてしまうことだろう。それは、ずっと前からわかってるんだけど。 でも、もしそうなったら……。私が、仁を男としてしか見られずにいることが周囲に知れたその時は。私は一体、どうしたらいいのだろうか。 「……オイ」 「……」 「」 「……ん、」 シャ、とカーテンの開く音がして、それと同時に部屋の中が急に明るくなり、眩しさに思わず手で目を抑える。 「いい加減起きろ」 近くで聞こえる声に少しずつ目を開くと、そこにはすっかり身支度を整え終えた仁の姿。なんだか最近は、毎朝こうやって起こされている気がする。 とりあえず起き上がってはみたものの、まだ脳がちっとも働いておらず、ぼーっとして何も考えられないまま何回か瞬きする。 「お前、今日は大学行けよ」 「……」 この頃、私はあまり短大の授業に出ていなかった。特に嫌なことがあったわけじゃないけど、なんだかちっとも行く気にならなくて、最低限の単位が取れるくらいしか通っていない。 これまでは仁もべつに何も言わなかったけど、いよいよ目を瞑れないほどになったのか、サボり常連の不良にそんなこと注意されるなんて夢にも思ってなかった。 とりあえず顔を洗い、服を着替えて化粧をし、出掛ける支度を整えると用意してくれてあった朝ご飯を、まだ夢の中にいる様な気分で食べる。 「……仁、今日は授業あるの」 「ああ」 「へえ、何限からなの」 「もう始まってんだよ……。お前が出ねえと行けねえだろが、さっさとしろや」 べつに私なんて放っといて早く行けばいいのに……、でもそんなこと本当は思ってないから言わない。やっと食べ終わり、それから二人で玄関を出た後に、私は仁と手を絡ませる様にしてぎゅっと繋いだ。 「私も仁と一緒に行く」 「……はあ?お前、いい加減にしろ」 仁は眉間に皺を寄せて怒ってるけど、手を振りほどいたりはしない。じっと睨まれても、べつにそんなの慣れてるし、気にしない。見つめ返しているうちに、仁は軽く溜息を吐いた。諦めたのか、そのまま歩き出したので私も手を繋いだままくっついて歩く。 「留年しても知らねえぞ」 「大丈夫。今日の授業は、べつに出なくても」 「ケッ、本当かよ。お前馬鹿だからな」 計算ミスってんじゃねえのか、とかなんとか色々言われたけど、平気だよと答えた。 最近は、自分の短大へ行かず、仁の大学へ通っている回数の方が多いくらいだった。手を繋いだまま電車に乗り、扉の近くに立つ仁の胸に顔をぴったりと付けて寄り掛かってみても怒らないので、いつもそうしていた。 そのまま大学の構内へ入って行くと、時々視線を感じるけどべつに気にしない。前なら外で手を繋いだりしなかったけど、最近は、なんだかまあいいかという気持ちになってきていた。この大学なら、私が妹だって知ってる人、いないだろうし。 「お前はここにいろ」 「うん」 仁が授業を受けている間、私はいつもカフェテリアで待っていた。ここは学生以外が使ってもいいから、よく部外者の人なんかも食べに来てるみたいだ。 適当に飲み物と、何か軽めの食べ物を買うと、それからは端の方の席に座って仁が迎えに来るまで、ずっとそこにいた。特にすることもないし、退屈だけど、ちっとも苦痛には感じない。 周囲の人達や、窓の外をぼんやり眺めたりしているうちに、そういえば……と清純くんや壇くんの顔がぼんやり思い浮かんできて、随分と会ってないけど元気にしてるか気になった。 たまには私から連絡してみようかな、などと思っていると、「ねえ」と近くで誰かの声がする。 「……?」 でも仁の声じゃない。誰だろう、ここに知り合いなんているはずなのに、と思って声のした方へ首を向けるとそこには男の人が一人、立っていた。 「きみ、よくここにいるよね」 「……」 となりのテーブルに腰掛けながら、彼は明るい調子で言った。それには何も答えないでいると、不審に思っているのに気付いたのか、笑いながらごめんごめんと謝る。 「俺、ここの学生でさ、4年なんだ。亜久津の同級生」 「……仁のこと知ってるの」 「うん、当然。あ、友達じゃないんだけどね。ほら亜久津って目立つからさ、良くも悪くも」 どうやらナンパ目的とかではなさそうだ。そう思えば、急に彼に対する警戒心がなくなった。確かによく見てみれば、なんだか善良そうな人だし。 「亜久津の彼女?」 「……うん」 「へえ。見た感じ、きみのが歳下みたいだけど」 「うん、二つ下」 「そうなんだ」 色々聞いてきてもべつに嫌な感じもしなくて、コミュニケーション能力の高そうな人だなと思えば、ふと清純くんのことを思い出した。清純くんも、割とこんな感じだったかな。 「亜久津ってモテるよなあ、ほんと」 「……そうなの?」 「うん。あ、ごめん彼女にこんなこと。でもさー、大学内でも何故か女子人気高くて俺は不思議なんだよな……やっぱり寡黙で悪そうなとこに女子は惹かれるものなのかな。きみもそういうとこが好きなの?」 「……え、うん、まあ」 「そっかー。俺も亜久津みたいに悪ぶればちょっとはモテるかなあ」 仁に憧れているのだろうか?割と真剣に思い悩んだ様子で溜息を吐く彼は、なんだか、話す内容まで清純くんに似てるなと思った。……でも、そんなことより、さっき彼の言った仁がモテるという話の方が胸に引っ掛かる。 「きみはここの学生じゃないみたいだけど、どこであいつと知り合ったの」 「……子どもの時から、近くにいたの」 「へえ、幼なじみってやつ?」 「まあ……そうかな」 まさか妹だなんて言えないし、適当にごまかしたけど彼はそこまで深くは考えてないみたいでそれには「へー」と言うだけで終わった。 「あいつの彼女ってみんなレベル高いよなあ。ほんと何故だ、羨ましい」 「……え?」 「でも今は歳下の可愛い系かあ、女の趣味変わったのかな……」 何やらぶつぶつ呟いていてよく聞こえないけど、どうも仁の彼女の話みたいで、私は彼に「ねえ」と声を掛けると、はっとしたようにこちらを見る。 「仁に彼女がいたの?」 「……あ!いや、いないよ?違う違う」 「嘘。さっき、なにか言ってなかった」 「え、言わないよ」 「……」 「すみません言いました……」 無言でじっと見つめると、彼は妙な汗をかきながら謝った。そんな彼の姿に、私は一体何やってるのだろう……とふと我に返る。彼女のことなんか聞いて、それでどうするつもり?そんなのべつに知る必要なんてないのに。 「亜久津はよく歳上に好かれてさ、うちの先輩とか、外部の……誰だっけ?でも綺麗な人とよく一緒にいたから、噂ではそれが彼女だって。ごめん俺もよくは知らないんだけど」 「……」 「あ、でも今はもう別れてるし、多分。いや当然。それにさ、あいつが手繋いで構内連れ歩いてる彼女なんて、きみだけだよ」 「……」 ……やっぱり聞かなきゃよかった。私って本当馬鹿。 一瞬で脳裏によみがえってくる、あの、街で腕組んでた人とか、大学でとなりを歩いてた人とか。きっともっと他にもいるんだろうけど、もうそれで十分過ぎるくらい。 「……ありがとう、変なこと聞いてごめん」 それだけ言うと私は立ち上がり、自分のバッグと一緒にトレイを手に持って、それを返すとそのままカフェテリアを後にした。 建物の外に出て、少し歩いてから近くにあったベンチに腰掛ける。そう言えば、このベンチはずっと前にここへ来た時に座ったのと同じかもしれない。それから仁のことを見つけて、その後に女の人が……。 「……はあ」 妹のくせに、兄の彼女に嫉妬したりして、私って本当どうかしてる。そんな自分のことが心底嫌になる。そう自覚はしていても、胸の中のモヤっとした感情や、チリチリした痛みみたいなものはちっとも消えてなくならない。 (私は、勝手に彼女気取りしてるだけだ……) 「」 聞き慣れた声に、知らないうちに俯いていたらしい顔を上げると、そこにはいつも通り不機嫌そうな仁の顔。でも、笑った顔より怒った顔の方が好きだなんて、私やっぱり変かな。 「なに勝手に歩き回ってんだ」 「……もう終わったの?」 「ああ」 「そう……」 立ち上がって仁の横に並び、大学の出口へ向かって歩きながらも、来た時の様に手を繋いだりはしなかった。そんな私を不思議に思ったのかとなりから視線を感じたけど、でも仁は何も言わない。 それから門に近付いて来たところで、突然、私じゃない誰かの声が「仁」と名前を呼ぶのが聞こえた。 見れば、向こうからやって来た大人っぽい綺麗な女の人が、なんだか瞳をうるうるさせて仁のことを見つめている。私は何が起こったのかよくわからず、誰……?と思っても口になんて出せずにただその様子を傍観するだけ。 「急にごめんなさい。ここへ来れば会えるかと思って……」 「……」 「……連絡しても、仁、ちっとも出てくれないから……」 黙ったまま何も言わない仁に近付きながら、今にも泣き出しそうなその人は、私の存在が気になるのかちらりとこちらを見る。私は思わず反射的に視線を逸らし、ぱっとその場から駆け出すと先に門を出て、しばらく離れたところまでとりあえず走った。 ……胸がどきどきして、息が苦しい。それは走ったせいなのか、あの女の人と目が合ったせいなのか、わからないけど。呼吸を荒くしながら一人で駅まで辿り着くと改札を通ってホームへと入り、目に付いた空いている椅子に腰掛けた。 仁、って呼ぶあの人の声がまだ耳に残ってる……。 カフェテリアで会った男の人が言ってた別れた彼女ってあの人のことなのかな。綺麗で歳上ぽかったし、きっとそうなんだろう。いつか街で見掛けた人かな。それとも、大学で追い掛けて来てた人?嫌な記憶は残っていても、顔までははっきりと思い出せない。 何しに来たんだろう。連絡がどうとか言ってたけど……。続きを聞く前に逃げて来ちゃったからわからないな。でも、なんだか未練のありそうな感じだった。 …………。 しばらく待ってみたけど、仁はちっともやって来ない。まだあの人と話してるんだろうか。あの後泣き出したりして、慰めたりしてるんだろうか。 そう考えれば無性に苛立つ気持ちがして、私は立ち上がると、ホームに滑り込んで来た電車に乗って先にアパートへ帰った。 私が家に着いた時はまだ外は明るかったのに、仁が戻って来た頃には、もうすっかり暗くなっていた。 全然興味のないテレビ番組だったけどとりあえず見てる振りをして、仁の方を向かないまま小さく「おかえり」と言った。ヤキモチやいてるなんて知られたくないから、なるべく平然としていつも通りに振る舞う。 本当はあの後どうしたのか、今までどこでどうしてたのか気になるけど、そんなの聞けない。仁も何も言わないし、だからなんでもない顔して、作ってくれた夕ご飯を食べてお風呂に入り、仁より先にベッドへ入った。 (…………) 横になってじっと壁を見つめながら、思い出したくもないのにあの女の人の顔ばかりが頭の中に浮かんでくる。少しして仁が部屋に入ってくると、掛け布団を掴んでいる自分の手に無意識に力が入るのがわかった。 明かりを消して部屋が暗くなると、中へ入り込んできた仁の重みでベッドが軋む。それから私に近付いてきて、ぴったりと体をくっつけて横になった。 「」 どこか優しい声で名前を呼ばれても、それには答えない。私、全然普段通りにできてない……と思いつつも黙ったままでいると、仁の手がすっと伸びてきて私の頭を撫でた。 それから首元に掛かる髪の毛をそっと払い、首筋にキスされたので思わず身をよじる。音を立てながら、耳から鎖骨にかけて何度かそれを繰り返されると、いよいよ我慢できずに溜息にも似た熱い吐息が口から漏れた。 それでもそっぽを向く私の顔を覗き込む様にして唇にキスされてから、そっとパジャマの中に仁の手が入り込もうとしたところ、思わず彼の胸の辺りを押し返し、拒否してしまった。 「だめ……、今日はしたくないの……」 それだけ言うとまた、ぷいと壁の方を向いた。すると仁の腕は私の体の下に入り込んで包み込む様に抱き締め、手は私のと絡んでぎゅっと繋がれる。 ……やっぱり、ヤキモチやいてること気付いてるんだろうな……。仁が自分から誘ってくるなんて。嬉しいはずなのに、くだらない意地を張ってしまう子どもっぽい自分が、本当に嫌。 きっとあの人とはもうなんでもないのに……そう、思うのに。 朝目が覚めてもそのままの体勢で、ぼんやりしながら少し首を動かすと、私のことを見ていた仁と目が合ってそれをすぐに逸らす。起き上がって仁の体から離れると、いつもよりずっと短い時間で身支度を済ませ、朝ご飯もいらないと言って早々に家を出た。 (……なにやってるんだ) 電車の窓ガラスを流れていく景色を眺めながら、また後悔する。 久しぶりに短大へ行って授業に出ている間も、違うことばかり考えていた。今日家へ帰ったら、きっと今まで通りにしよう。仁にだって、なんでもない振りして、普通に接しよう。……そう、決めてたのに。 やっぱりいざ顔を見ると上手くできなくて、拒絶まではしなくても妙に口数は減り、適当に話す言葉も思い付かないし、目だって真っ直ぐに見られない。 夜、今日は仁の方が先にベッドの上に座っていた。そっちが壁近くにいるから、私は反対の際まで近付いて腰を下ろす。それから掛け布団をめくろうとしたところで「」と名前を呼ばれたので手を止めた。 「知らねえ女だ。べつになにもねえよ」 「……」 ずっと黙ってたくせに、全部見透かしたみたいに急にそんなこと言い出すから心臓がどきっと跳ねる。私はそのまま動けず、仁の方も見られず。それなのに、口からは勝手に不機嫌そうな声が出る。 「……知らない女は、大学まで会いに来ない」 「……」 「仁、なんて呼んだりしない……」 わかってる、私のことを思って嘘吐いてくれたことくらい。でも私は子どもだから、それに騙されてあげることができない。そうなんだ、って笑いながら言ってあげられない。 そんな自分に心底嫌気が差しても、だって、もう感情のコントロールができないくらい、仁のことが好きだから……。 「……携帯見せて」 伏し目がちに仁の方を向き、ぼそりとそう言うと、一旦取りにベッドから下りてまた戻った仁は黙ったままロックを解除し、それを私に手渡した。 一体何してるんだと思いつつも、平べったいその画面の中を確認してみると、電話の履歴に確かに誰かの着信が残っていた。同じ番号が何回も。他の履歴には””や”優紀”と入ってるけど、それは数字だけで、名前は付いてない。 「……」 きっとこれはあの人が掛けたんだろう、と思えばまた顔を思い出してしまい、私は、ぽいとベッドの上にそれを放って返した。それから俯いたまま黙っていると、仁が口を開く。 「せがまれて何度か会っただけだ」 「……」 仁がそう言うなら……そうなのだろう。だから信じるべきなのに。それなのに、私の頭の中では勝手に、あの女の人が仁の背中に爪を立てているところを思い浮かべる。 煙草と香水の匂いが混ざって、溶け合うところを、……想像してる。…………。 「……、」 「やだ、触らないで」 仁が横からそっと腕を回し、私を抱き込む様にして近付いてきたのを思わず拒んでしまい、その胸の辺りを強く突き飛ばしたら、そんなことされると思っていなかったのか反動で後ろに傾いた仁の頭が壁にぶつかって静かな部屋の中にゴン、という鈍い音が響いた。 一瞬、あ、と思ったけど、それには謝らなかった。仁は眉間に皺寄せて怖い顔してるけど、何も言わない。 「……」 無言で布団を被り、仁とは反対側を向いてぎゅっと目を閉じる。そのまま黙ってじっとしていると、少ししてから部屋の照明が消え、仁もベッドの中に入る音が聞こえた。 仁だってきっと悪いと思っててああしたはずなのに、私は、また酷い態度を取ってしまった。どうしようもなく子どもだ。こんなこと、暗闇の中でいくら後悔したところで、仕方ないのに……。 ……仁、怒っちゃったかな……。私って、妹のくせに彼女ぶって嫉妬して、本当馬鹿みたい。それなのに、何度そう思ってもちっとも直せない。 くるりと体を返すと仁も私に背を向けて寝ていて、自分のせいなのに、それをとても寂しく感じてしまい胸が苦しくなる。しばらくの間、ただ、その大きな背中をじっと見つめていた。 「……ごめんね。痛かった……?」 そう聞いてみても返事はない。あまり寝付きの良い方じゃなかったから、きっとまだ眠ってはいないはず。私は体を少し近付けると、仁の着ている部屋着の生地を、ぎゅっと引っ張る。 「ねえ、こっち向いてよ……」 無視されるかと思ったけど、少しして仁はゆっくりと体を返して私の方を向いた。暗い部屋の中でその表情はよく見えないけれど、きっと不機嫌なのに違いない。近付いてその腕の中に入り込み、胸に顔をぴったりくっ付けると、手で仁の服を掴む。 「……ごめん。仁、怒ってる……?」 「……」 だけど仁は何も答えなくて、せっかく気遣ってくれたのに私があんなことしたからやっぱり怒ってるのかな、と心配になる。 「ねえ、怒っちゃやだ」 甘えた声を出し、背中に腕を回すとぎゅっと抱き付いた。……すると、少ししてから仁も腕を伸ばして私のことを抱き締める。 それから軽く頭を撫でられた後、すっと顔が近付いてくると、唇にキスをされた。それは一度離れてもまたすぐに重なって、離れてはすぐ重なって……を何度も繰り返す。 心地良い感触に身を委ねながら、怒ってるわけじゃないんだと心のどこかで安堵していたけれど、本当は……仁が私に本気で怒るはずないって、知っていた。だから、こんな風に甘えながら謝ればどんなことでも許してくれるだろうって……わかってた。 仁は私のことが好きだから。 それなのに、何故いつも不安になるの……。こんなにも、愛してくれているのに。 どんなに大事にされても、優しく抱かれても。名前も知らないあの女の人に嫉妬してしまうのは、どうして。 |