短大も冬休みに入って少し経った頃。ここのところちっとも実家に帰っておらず、いい加減仁にも「たまには帰れ」と言われてしまったので、戻って来ていた。ちょうどアパートに持って行きたい冬服があったし、それに報告したいこともあったから。 あの後も、私はいくつかまだ募集のある企業を受けていて、その中で一つだけなんとか内定を貰うことができた。真っ白だった卒業後の未来が少しは見えた様な気がして、社会に出ることに色々不安もあるけど、とりあえずはほっとしていた。 「そう、よかったわね」 そう話すと優紀ちゃんは笑ってくれたし、それは一緒に聞いてくれたお父さんも同じだった。仁は「大丈夫かよその会社」と、私にじゃなく採った会社に対して心配してたけど。 「お友達はどうしたの?卒業してもまだルームシェア続けるの」 「……」 仁には、いくら優紀ちゃんがあまり深いこと気にしないタイプだからっていい加減バレるぞと言われていて、私もまさかいつまでもそんな嘘が続くとは思っていないけど、でも今のところ他の理由が思い付かない。 いっそ、就職を機に一人暮らしするってことにしようかな……などと、今色々考えているところだった。 「うん、まあ……後で連絡するよ」 とりあえず今日も適当にはぐらかして、ダイニングからリビングへ移ってソファに座ると、お父さんがとなりまでやって来て腰掛けた。その手にはお財布があって、そこから何枚もの一万札を取り出して私に差し出す。 「……え、いいよ。いらないよ」 お父さんは私が実家で暮らしていた頃からずっと、今でも戻って来る度にたくさんお小遣いをくれる。いらない、と言ってもいつも結局は根負けしてもらうことになるのだけど、今日も初めは軽く手を振って断った。 けど、そうするとなんだか寂しそうな顔されるので、最終的には私の手の中に収まることになる。このお金は、今はそのまま仁に渡していた。でも「いらねえ」と言われるので、仕方なく必要な分だけ使わせてもらって後は貯金してる。 お父さんはいつも「ちゃんがいなくて寂しいよ」と言う。せっかく家族になったのに、ちっとも一緒に暮らせてなくて悪いな……とは思いつつ「ごめんね」と謝ることしかできない。 成人式で着る振り袖も、私はべつに興味ないし欲しいとも思ってなかったのに、すごくいい着物を買ってくれた。初め断ろうとしたけど、お父さんは父親として私に色々したいのかもしれないな、と察してなるべく喜んだ顔をしてお礼を言った。 たまには泊まっていけば?と優紀ちゃんに提案され、まあしばらく来なかったしと思ってそれに頷き、それから仁には「今日は泊まるから」と連絡して、もうどっちが本当の家なのか自分でもよくわからない。 これからもずっと仁と一緒に暮らしたいけど……誰にも知られずに、そんなことできるものなのだろうか?不安はいつもぼんやりと私に付き纏う。 仁と、一生、このまま。今の関係を続けられるのかな……。 でもそんなこと誰にも相談できないし、仁にも言えないし、結局自分一人で考えていた。恋人同士に見えたって本当は違うし、どんなに好きでも結婚はできないし。なるべくそういうこと考えない様にしていたけど、やっぱり将来のことを思うとどうしても捨て置けない。 「ちゃんには彼氏がいるのかい」 「……え?」 ぼんやり考え込んでいたら、急にお父さんにそんな質問をされて思わずその顔を見た。そんなこと一度も話した覚えないんだけど……と思いつつ、その視線は私の左手に向いていたので指輪で察したのかもしれない。 「あ、うん……まあね」 「どんな男の人なの、真面目な良い人?」 「いや、良い人ではないと思うけど」 真面目かどうかも……と言い掛けて、お父さんの目が心配の色で溢れていることに気が付き、慌てて「とっても真面目な良い人だよ」と笑って取り繕った。まさか札付きのワル……それも自分の兄が彼氏だなんてそんなこと絶対に言えるわけない。 何か少しでもひどいことされてないか聞かれて、「してないよ」と首を横に振った。どちらかと言えば我儘ばかり言って困らせてるのは私の方だし……と思いつつ、すごく優しい人なの、だから大丈夫だよと説明すればやっと安心したみたいだった。 「お父さん、優紀ちゃんには内緒にしてね」 絶対に彼氏についてあれこれ追求されるから、ぽろっと仁のこと話してしまうかもしれない危険性がある。指輪はいつも実家に来る時には外してたけど、今日はうっかりしていた。今のところまだ優紀ちゃんには気付かれていないみたいだから、もう外しておこう。 お父さんには、なんでか聞かれてもそれには「なんででも」で押し切って、絶対に話さないと約束してもらった。 その日、私は思い切ってずっと連絡できていなかった壇くんに電話してみることにした。夕ご飯を食べた後、自室に戻ってベッドの上に座り、一度深呼吸した後にボタンを押す。割と長い間コールして、もしかして怒ってるのかな……と不安になったところで「はい」と柔らかい声がした。 「そうなんだ。おめでとう、よかったねちゃん」 電話口で近況を伝えると、内定を祝ってくれる壇くんに「ありがとう」とお礼を言った。初めに、以前に連絡をくれていたけど気付かず返せていなかったことを謝ったけど、「気にしないでよ、忙しかったのに僕もごめんね」と気遣ってくれた。 壇くんのことは、今でももちろん大切な友人だと思ってる。だけど、私はもう以前と私とはちょっと違うから。きっと変わらずに優しく純粋なままでいるだろう彼と接するのは、なんだかちょっとだけ緊張した。 「でも、元気そうでよかった。僕、心配してたんだ」 「本当にごめんね」 「ううん、ちゃんが元気ならそれでいいよ」 「壇くんは、大学どうしてる?今も絵、頑張ってるんでしょ」 「うん!それが課題とかいっぱいあって、結構大変なんだ〜」 そっか、と相槌を打ちながら、久しぶりでもちっとも違和感なく会話できることにほっとしていた。そもそも彼は私達の関係なんて知らないのだし、多少の後ろめたさはありながらももっと早く連絡すればよかったな、とちょっと後悔していた。 「そういえば、亜久津先輩ってどうしてるか、ちゃん知ってる?」 「……え?」 「この前ね、山吹のテニス部だった人達で集まったんだけど、亜久津先輩どうしてるかな〜って話題になったんだ。でもね誰も知らなかったんだよ。あ、僕もなんだけど……」 「そうなんだ……」 「今はもう大学4年生だよね」 「……うん」 違う、深い意味はない。ただ単純に、私の兄の話をしてるだけだ。仁が家を出て行ってから、私がずっと寂しそうにしてたから、それを覚えてて気に掛けてくれてるだけだ。そうはわかっていても、なんだか少し緊張してしまう。 「ちゃん、あれから亜久津先輩には会えたの」 「え、うん……まあね」 「そうなんだ、じゃあよかったね。先輩、元気そうだった?」 「まあ……うん」 「そっかあ。あ!そういえばね、室町先輩がちょっと前に街で亜久津先輩のこと見たらしいんだけど、先輩、女の人と一緒だったんだって〜」 「……え?」 無邪気にそう話す壇くんの言葉に、私は同じ様には笑えなかった。だって、仁が街を一緒に歩く女なんて……。 「それでね、その人どうやら彼女さんみたいなんだけど、亜久津先輩のお母さんに似てた、って言うんだ。本当かな?そんな偶然ってあるんだね」 「……」 「ちゃんなにか知ってる?亜久津先輩の、彼女さんのこと」 「……知らない」 どうやら壇くんは全然気が付いてはいないみたいで、わざとそう聞いてる訳じゃなさそうだ。室町先輩っていう人も知らないし会ったことないから、私の顔を見てもきっとわからないだろうけど。でも、山吹のテニス部の人達っていうなら……。 「ねえ、その集まりには清純く……千石さんもいたの」 「うん、もちろんいたよ」 「そうなんだ……。なにか言ってた?」 「なにかって?」 「……ううん、なんでもない」 「そう?あ、千石先輩ってばね面白いんだよ。亜久津先輩に彼女がいるって知ってがっかりしててさあ、それで……」 楽しそうにその時のことを話してくれる彼の話は、その後もうほとんど頭に入っては来なかった。 清純くんは仁に会ったと言ってた。詳しい内容は聞かなかったけど……でも仁が私のこと話すわけないし、べつに大丈夫だろうとは思いつつもなんだか少し不安になる。だって、よく考えてみれば住所なんて教えるはずないのに。あの家には私がいるんだから、なんで教えたりしたんだろう。 段々疑問が湧いてくるけど、なんでかなんて私にはそんなことわからない。仁は、「誰か訪ねて来たか」と聞いた。あれはもしかして、清純くんのことを言っていたのかな……。でも、来たことは仁に話さないって約束したし。それにどうしてあんなに慌てていたのだろう。 「……ちゃん?どうかした?」 「え、あ、ごめん。それでなんだっけ……」 はっとして考え込んでいた意識をまた元の会話に戻し、それからもしばらく雑談をした後、また今度会おうねと約束して電話を切った。 仁は目立つからな。それに、散々グレてた時代の知り合いなんてたくさんいるだろうし、不良で有名だったから、本人は覚えてなくても相手の人にはわかるってこともあるかもしれない。普通に手を繋いで街歩いてたりしたけど、もうそういうのやめた方がいいのかな。 なんで……?私が妹だから? そう思う度にこの胸には鈍い痛みが広がっていく。妹だから、彼女じゃないから、一緒にいるところ見られちゃいけないんだ。恋人同士みたいに愛し合ってセックスしてること、知られちゃいけないんだ。 べつにそんなことわかってたけど。それなら、なんでこんなに苦しくなるんだろう……。 夜、久しぶりに一人で寝ると、急に寂しくなってくる。たった一日のことなのに、同じベッドに仁がいないとなんだか寝付けない。 (……私は子どもか……) 何年か前まではそれでも全然平気だったのに、不思議だな。今はもう、仁のいない生活なんて考えられない。仁が私のとなりにいない、未来なんて……。でも、やっぱり私がずっとそばにいるのはおかしいのだろうか。 仁は何も言わないけど、いずれ結婚したいとか、子どもが欲しいとか思ったりしてるのかな。私は仁のことしか好きになれないけど、あっちはべつにそうでもなくて、いつか他にもっと好きな女の人ができたりしたらどうしよう。 (…………) どこか遠い所へ行けたらいいのに。誰も私達のことを知らない場所へ行って、ずっとそこで二人だけで暮らせたらいいのに。 (……そんなの、無理なのに。馬鹿みたい) 「ただいま」 もっと泊まっていけばいいのに、という両親の勧めを心苦しいとは思いつつも断って、次の日の昼過ぎにはまたアパートに戻って来た。だけど鍵を開けて入ってみれば部屋の中は薄暗くて、どうやら仁は出掛けていていないみたいだった。 (どこか行ったのかな……) 外出くらいして当然なのに。帰ってすぐに仁の顔が見られなくて寂しい、と思ってしまう随分子どもっぽい私のことを、我ながら阿呆らしくなるけどそう感じてしまうのだから仕方ない。 照明と暖房を点けて床の上のクッションに座り、早く帰って来ないかな、と思いながら待っていた。何もせず、ただぼうっとしているだけのつもりなのに、どうしても楽しくない考えばかりが浮かんできてしまう。 それが嫌でテレビの電源を入れると、急に部屋の中が騒がしくなった。番組の内容はべつに面白いとも感じなかったけど、それでもまだ気が紛れるだけずっとマシに思えた。 陽が暮れてしばらく経つと、ガチャ、と玄関の開く音がしたので私はすぐにリモコンでテレビを消し、立ち上がって迎えに行った。 「仁、おかえり」 「なんだお前、もう帰って来たのかよ」 「……うん」 意外そうな顔をされて、何故かちょっと傷付いた。私がもう戻って来てるとは思ってなかったのかな。仁が靴を脱いで中へ上がってくると、すぐにその胸に顔をくっ付けて、背中に腕を回しぎゅっと抱き付く。 「なんで……?帰って来ちゃいけない?」 「んなこと言ってねえだろ」 仁は一日くらい、一人でも全然平気だろう。ううん、きっと何日だって。寂しかったのは私だけだ。私は子どもだから……と思いながらしばらくそのままでいると「いい加減離れろ」と仁に背中を撫でられて、仕方なく腕を解いた。 それから家の中を移動する仁の横にくっ付いて歩き、「なんだよ」と鬱陶しがられてもずっと離れなかった。夕ご飯を作ってもらっている間もその背中にぴったり抱き付いていると、「邪魔だ」とは言っても、私を振り払ったりはしない。 「仁、私それ嫌い。入れないで」 「ガキみてえなこと言ってんじゃねえよ」 仁が料理に入れようとしていた苦手な野菜を見て嫌そうな声を出すと、叱られた。結局入れてたけど、最終的に私のお皿に盛り付けた分には、その野菜は入ってなかった。 普段から散々仁に「ガキか」と怒られて、自分でも子どもっぽいなとは思っていても、なかなか直せない。だけど私は、昔からずっとこんな性格をしていただろうか。 子どもの頃は、周囲の人から大人っぽい、落ち着いてる、と言われることが多かった。冷めてる、クール、素っ気ない……。そんな風には言われても、子どもっぽい、幼稚だ、と言われることはなかった。 (……なんでだろ) 向かい合って食事を取りながら、お皿の上のおかずを見つめ、そんなことを考える。 仁が以前に付き合っていた彼女は、歳上ばかりなのだと聞いた。みんな綺麗な人だったって。私がたまたま見掛けた人もそうだったし、きっと他の女の人も、大人っぽくて華やかな感じの美人ばかりなんだろう。 そういえば、中高時代に噂で仁が女教師と付き合ってるというのを聞いた。その時は「なんだそれ」と大して信じなかったしべつに興味もなかったけど、今思えばあれは本当だったのかもしれないな。その女教師っていうのも、綺麗な人だった。随分と時間差で、今頃になって胸が痛い。 元々はそういう人がタイプなのだろう。どっちから好意を寄せたのかは知らないけど、仮に女側からだったとしても嫌だったら付き合ったりしないだろうし。それに、私みたいにくだらない我儘言って困らせたりなんてしなかったはずだ。だって、歳上で大人なんだから。 私とは、きっと全然違う……。 「オイ」 「……」 「」 「……え?」 名前を呼ばれて顔を上げると、仁は呆れた様な顔してる。「なに?」って聞くと「なにじゃねえよ」と言われ、手元を見るとどうやらお箸でおかずを掴んだまま考え込み、手が止まっていたみたいだ。 「メシ食いながらぼーっとすんな」 「……ごめん」 私がぼんやりしてる間に、仁はとっくに食べ終わってる。また怒られちゃったな……とちょっとしゅんとしつつ食べ終えて食器を片づけようと流しに行くと「お前は皿割るからやるな」と言われて止められた。 べつに、お皿割ったことないんだけど……と思いつつ、どうせ聞いて貰えないから仕方なくとなりに立っていつもの拭く係をやる。私にさせないのは彼なりに優しくしてくれてるからなのだとはわかっていても、本当は子ども扱いしてるからなんじゃ……とまた余計なことを邪推してしまう。 片付け終わって部屋に戻ると、仁はベットの上にごろっと横になったのでその近くに座った。 「膝枕してあげようか」 「……いらねえよ」 近くにあった雑誌を手に取りながら素っ気なくそう言われ、あっそ、じゃもう二度としてあげない。と言いそうになったけどやめた。だって、そもそもこれまで仁に膝枕希望されたことなかったんだった。 ついでによく思い出してみると、私は仁に甘えられた記憶がない。そりゃ歳上だから当然かもしれないけど、でもよく男の人って彼女や奥さんの前では子どもっぽくなって甘えたりするって聞くけど……。嘘だったのかな。 それともたまたま、仁がそういう男じゃないだけ?まあ確かに仁が誰かに甘えてるとこなんて見たことないし想像 もできないけど。でも、もしかして相手が歳上の彼女なら、そうなったりするのかもしれない……。 ……また勝手に前の彼女のこと考えて嫉妬してる自分に、一体何やってんだ、と呆れる。 俯いてじっと自分の足を見つめていると、急に仁の手が伸びてきて私の頬を触ったのでちょっと驚き、反射的にそっちに視線をやると仁も私のことを見ていた。 「そんなにしてえのかよ、膝枕が」 「……違うよ」 べつにどうしても膝枕がしたかったわけじゃなくて。私もちょっとは必要とされてみたいな、と思っただけ。子どもの自分と大人な元カノを比べて、勝手に落ち込んでただけ。 「じゃ、なんだよ」 「べつに……、なんでもないよ」 多分、今の私は全然なんでもなくない顔してるけど。そんなこと正直に言えないからそう答えるしかない。すると仁はさっと上半身を起こすと、ちょっと溜息交じりに私の頬を撫でる。 「俺が、もう帰って来たのかっつったからか?」 「……違う……」 拗ねる様な態度を取ってしまい、また子どもっぽいことしてる……と嫌になりつつも、それでも仁に気に掛けて貰えれば嬉しいと思ってしまう。こんな調子じゃ、仁に甘えられるなんて、到底無理な話だ。だって、私の方が仁に甘えたくて甘えたくて、仕方がないのだから。 仁に向かって軽く腕を伸ばすと、私の望むことがわかったのか抱き締めてくれた。その腕の中に体を預けながら、 ずっと一緒にいたいならこんな自分のままじゃいけないのに、と思う。 子どもの頃から、仁はすごくしっかりしてて、なんだってできた。聡く早熟な子で、泣き言や幼稚な我儘を言ったりもしない。じきに非行には走ったけれど、私の様な表面上だけではない本当の大人っぽさがあって、精神的には実年齢よりもずっと上に思えた。 (もっと大人にならなきゃ……) ……だけど、大人になったところで……。 仁に、顔を覗き込む様にじっと見つめられて、また私の胸の中にはジリジリとした鈍い痛みが広がる。その上、昨日の夜感じたみたいな苦しさで、上手く呼吸ができない。 私が妹じゃなければ、みんなに仁のこと好きなのってはっきり言えたし、誰にも隠さずに付き合えた。それにいずれは籍入れて結婚式したりして、周囲の人には祝福して貰えるし。子どもだって作れるのに。 だけど……、全部できない。一つもできない。 仁は、ずっと私と一緒にいたいと思う?何もかもみんな諦めたって、それでもいいと思う?全てを叶えてくれる他の女の人よりも、妹の私のことを、選んでくれるの。 (……そんなこと、怖くて聞けない) |