2月ともなれば、昼間でも肌に触れる空気は氷りつく様に冷たかった。今年に入ってから何度か雪も降って、道路の隅なんかには解け切れずにまだ塊が残ってる。

少し前、仁に何か欲しい物があるか聞かれた。理由は言わなかったから、急になんでそんなこと聞くのかな、と不思議に思ったけど。多分、卒業とか成人とか就職とか、色々重なってるから仁なりに祝ってくれるつもりなのかな、と自分なりにそう解釈した。

欲しい物と言われても、今のところ特にはない。食事でもいいかな?と思って、それなら私は河村すしに行きたいんだけど、絶対に仁の機嫌が悪くなるからやめた。

(うーん……)

せっかくそう言ってくれてるんだから、「いらない」と断るのも悪いしな……と数日の間ずっと考えた結果、以前から密かに夢に見ていたことを思い切って言ってみることにした。

「本当になんでもいいの」

伝える前に一応確認すると、仁は待ちくたびれた顔で適当に頷いてる。「物じゃなくて、やりたいことなんだけど」と付け加えれば「いいから早く言え」と催促され、私はちょっとどきどきしつつ、「二人で旅行に行きたいの」と言った。

べつに行き先はどこでもいい。近くだろうと遠くだろうと。いつか、仁と二人でどこかへ旅行に出掛けてみたいなって、ずっと思ってた。

無理を承知で言ってみたけど、案外、仁はあっさり了承してくれた。それから当然行き先を聞かれて、それには「わかんない」と答えたら「それぐらい決めとけ」と呆れた顔をされた。

「じゃあ……、温泉がいい」

自分の知っている、そこまで遠くないであろう温泉地を挙げると仁は黙ったまま軽く頷いた。それから、日にちとか宿とか、具体的に決まっていくと、本当なんだ……とやっと実感が湧いてきた。





ちょうどよく宿が空いていたので、旅行に出掛けたのはそれから割とすぐのことだった。予約は全部仁がやってくれて、目的地は少し山の方だったのでレンタカーも借りてくれた。

いつの間にか、車の免許も取ってたなんて知らなかった。大丈夫だろうとは思いつつも、一応「本当に免許取ったんだよね」と聞いてみると免許証を見せてくれたのでほっとした。まあバイクの免許も高校生になったらちゃんと取ってたし、心配のし過ぎかもしれない。

昔の仁は悪いことばっかりして、人の言う事になんて耳を貸さなかったけど、あの頃に比べれは今は随分と落ち着いて、私のことあれこれ叱るくらいになった。不思議だな、あんな不良だった仁に何かと注意される日が来るなんて。

車の助手席に座りながら、すっかり大人なその横顔を時々見つめていたけど、向こうはそんなことには気が付いていないのか、最初からずっと前しか見てない。

まあ運転してるんだから当然だよね、と思いつつもちょっと寂しくなる。信号で止まってる時くらい見てくれたっていいのに……なんて、そんなこと言えないけど。

車内にはラジオがかかっているだけで、仁はずっと黙ったままなので私も何も喋らない。サービスエリアに寄った時だけ、「降りろ」と言われるので無言でその通りにするだけだった。


ぼんやり車窓を眺めていると、いけないとはわかっていてもつい、うとうととしてしまう。仁の運転は案外、安全運転ではらはらする必要もない。だから安心して乗っていたら、なんだか眠くなってきてしまった。

昨日なかなか寝付けなかったからかな……。私そんなに楽しみにしてたんだ、子どもみたい。なんて考えている間にも瞼はどんどん重たくなり、すでに夢見心地になっていた。

それから私は眠ってしまい、時折目を覚ますけど、でもまたすぐに眠る……を繰り返していた。目を瞑ったまま、起きているのか寝ているのか自分でもよくわからない意識の中、時々そっと頭を撫でられている様な……感覚がした。


、起きろ」
「……んー、……」

何度か名前を呼ばれてから、やっと目を覚ますといつの間にか目的地の宿に到着していた。「ごめん」と寝てしまったことを謝ると、「寝過ぎだろ」と素っ気なく言いつつ先に車を降りて荷台のドアを開けると、私の分の荷物も下ろして持ってくれた。

通された旅館の部屋はとても綺麗で、畳もどうやら新しそう。荷物を置いた後、夕食までまだ時間があったので近くの温泉街をふらりと散歩することにした。

女性の友人同士で来ている人や、カップル、夫婦、小さな子どもを連れた親子など、色んな人達がいる。それを横目に、仁と手を繋いでのんびり歩きながら、時々その横顔を見つめていると視線に気付いたのか向こうも私のことを見た。

「なんだよ。腹減ったのか」
「……違うよ」

私達はみんなの目にどう映ってるのかな、って聞こうと思っただけ。やっぱり、恋人同士かな。それとも、若い夫婦だったりして。仁はどう思う?なんて、呆れた顔されそうでやっぱりそんなことは聞けなかった。



夕食をとって、温泉にも入った後、することもなく退屈で部屋の窓辺でぼんやりと夜空を眺めていたけど、浴衣姿ではガラス越しにも外の空気は冷たく感じ、寒くなってきたのでカーテンを閉めて敷いてある布団の上に戻った。

まだ早い気もするけど他にすることもないし、と思って「もう寝てもいい?」と聞けば、異常にチャンネル数の少ないテレビをつまらなそうに眺めていた仁は小さく「ああ」と言いながらリモコンですぐにそれを消し、それから少しだけの明かりを残し部屋は暗くなった。

布団は二つくっ付いているというのに、私は自分の布団へは入らずに仁の布団へ潜り込む。「自分のとこで寝ろよ」と鬱陶しがられても「だって、寒いんだもん」といつもの様にその体にくっ付くと、それ以上は言わなかった。

「ねえねえ」
「……」
「仁」
「……なんだよ」
「なんか、新婚旅行みたいだね」

ね、と言ってみても仁は何も答えないけど。私の願い通り、旅行に連れて来てくれて嬉しかった。家族で旅行に出掛けた記憶なんて、ほとんどないし。

「いつか、本当の新婚旅行もしてみたいな」
「……」

国内でもいいし、仁は英語喋れるから海外でも……って、自分で言っておきながら、本当の新婚旅行ってなんだ。結婚することなんかないでしょ。だってできないし。

そういえば、今日は昼間、親子連れをたくさん見掛けたな。子ども達はみんな楽しそうだった。母親や、父親と仲良く手を繋いだりして……。

「……あのさ……。仁は、パパのことなにか覚えてる……?」
「……あ?」

私は、自分の実の父親のことを知らない。優紀ちゃんが話さないから、聞いてはいけないのかなと思ってそのことについてはずっと触れずにいた。べつに興味なんてないし、誰だろうがどうでもいいつもりだったけど、やっぱり本当は気になって、時々考えてしまう。

こんなこと、仁に話すのは初めてだ。仁だけじゃなくて、他の人にも……。

仁は私より歳が上だし、小さい時から既に利発だったからもし会ってたとしたら何か覚えてるかもしれない、と思いつつもずっと聞けなかった。

「んなこと聞いてどうすんだよ」
「だって……。ねえ、仁はパパに会ったことあるの」
「あったらなんだよ」
「べつに……ちょっと、どんな人なのかなって……」

仁はなんだか機嫌が悪そうだ。やっぱり会ったことがあるのかもしれない。パパは、仁に似てたりするのかな。顔とか、性格とか……。今は一体、どこで何してるんだろう。私達のこと、覚えてくれてるだろうか。

「私は会ったことある……?一緒に暮らしてたりしたの」
「どうだっていいだろ」
「……」
「……お前、会いてえのか?」
「……」

さあ……どうだろう、自分でもよくわからない。今さら会ったところでどうしたらいいかわからないし。再会に喜べばいいのか、それとも怒ればいいのか。

だけど、子どもの頃から、道行く親子を見掛ける度に私はパパのことを思い浮かべてしまっていた。どうして私のとなりにはいてくれないの。優しく子どもに笑い掛ける誰とも知れぬ父親の笑顔が、なんだか胸に痛くて。

「あんなクソみてえな野郎に会ってどうすんだ」
「……」
「無駄だ、やめとけ」
「……会うなんて言ってないでしょ。どこにいるのかも知らないし……」

仁は知ってるんだ、パパのこと。そして嫌いなんだな。まあそれもそうか、私達家族のことなんて放ったまま一度も顔なんて見せないんだし。あんまり良い人とは思えない。何があったのか知らないけど、それなりに込み入った事情があるのだろう。

この話はもうやめよう、と思ってそれ以上は何も言わなかった。せっかくの旅行なのに、仁も随分機嫌悪くなっちゃったし、やっぱり聞かなければよかったかな……と後悔しつつ、その胸に顔をくっ付ける。本当はもっと甘えたりしたかったのに。ちょっと残念だけど、仕方なく目を瞑った。


慣れない場所だからか、それとも道中寝てしまったからか。しばらく経ってもなかなか寝付けない。もう仁は寝ちゃったかな……と思っていると、昼間感じたのと同じに、そっと頭を撫でられている感覚がした。

(………)

やっぱりあれは夢じゃなかったのか、と思わず瞼を開きそうになるのを我慢する。あんなこと聞いたけど、べつに怒ってるわけじゃないんだ、とほっとした。

それから仁の腕が私の背中に回って、軽く抱き締められるとその温かさにだんだん眠たくなってきて、じきに寝てしまった様だった。





宿には二泊する予定で、次の日は近くの観光名所なんかをいくつか回った。どこへ行っても仁はあまり興味なさそうだったけど、かといってべつに文句を言うこともない。

「……寒い」

晴れてる昼間でも真冬の風は冷たくて、私は目の前に広がる湖を眺めながら、今ここに落ちたら凍えて死ぬな、などとせっかくの風景の美しさよりもそんなことばかりが頭の中に浮かんでいた。

「んな格好してるからだろうが」

タイツを履いているとはいえ、ミニスカート姿の私を見て仁は呆れ顔をする。「だって、可愛いでしょ」と言ってみてもそれは無視されて何も反応はなかった。

仁だって、全然厚着してる感じじゃないのになんでそんなに平気そうなんだろう。マフラーもしてないし。私なんてぐるぐる巻きにしてもこんなに寒いのに。なんで、男だから?本当は強がってやせ我慢してるんじゃないの。

「仁、寒くないの」
「……」
「風が冷たいね?」

話し掛けてみても返事はない。べつにいつものことだけど、今日は寒さのせいか、何も言ってくれないとちょっと寂しく感じてしまう。

「風より仁の方が冷たい」
「……」
「寒い……」
「うるせえなお前」

それでも、繋いでいた手をそのまま仁の上着のポケットにぎゅうっと入れてくれると、少しは寒さが和らぐ様な気がした。






もう今夜寝てしまえば明日は帰るわけだし、なんだかあっという間だったな……と思いつつすっかり温泉で温まった体を、昨日と同じに仁の布団へ潜り込ませると今度は何も言われなかった。

薄暗い部屋の中、昨日は甘えられなかったから今日は……なんて期待を抱きつつ、仁にすり寄ってぴったりとくっ付く。だけどしばらく待ってみても何もしてこないので、手で仁の胸辺りをそっと撫でてみる。

そのまま浴衣の中に手を入れて直接肌を触りつつ、布団の中では浴衣のはだけた自分の足を仁の足に絡ませる。それから甘えた声で名前を呼べば、「なんだよ」と割と優しい声が返ってきた。

浴衣の中に入れていた手を出すと今度は仁の手を掴んで自分の太股まで持っていき、すうっと撫でさせる。じきに私が動かさなくても勝手に撫でてくれる様になると、唇にキスされて、それから私の浴衣の帯に手が掛かり、するりと解かれた。



「……ねえ、着けなくてもいいよ」

自分から誘ってこない割には、ちゃんと避妊具なんて用意してきてる仁にそう言ってみると、あからさまに不機嫌な顔をされた。

「着けないでしてみたいと思ったりしないの」
「……あ?」
「私、いいよ……仁なら」

一瞬手を止めて、「なに言ってんだお前」と低い声を出した後、結局は装着してから私の中に入ってくる。顔はちょっと怖いけど、動きはいつもと変わらずに優しくて、それに身を任せながら私は少しぼんやりしていた。

着けないでしたがる男の人が結構いる、って短大の同級生達がしていた話を、以前にこっそり聞いたけど。やっぱり違うのかな……。それとも、本当はそう思ってるけどそうじゃない振りしてるとか。

終始優しく抱かれ、与えられる柔らかな快感に包まれながらも、頭の中では彼の思いやりに反してやましいことばかり考えてしまう。

「……仁、」

その肩から背中に掛けてを、両手でそっと撫でる。着けないでいいなんて、初めは仁のためだなどと思ってそんなことを言いつつも、実際にはきっと自分がそうして欲しかったからに違いない。

「……中に出して欲しいの……」
「……」
「お願い……ね、いいでしょ……?」

甘くねだる様な声を出すと、仁は真っ直ぐにこちらを見下ろして、じっと私の目を見た。それから、私の顔に掛かった髪をそっと指で払う。

「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」

それだけ言うと背中に腕を回してぎゅっと抱き締められたので、もう仁の顔は見えなくなってしまった。そんなこと望む私の方がどう考えてもおかしいし、誰に話したって叱られるだろう。

だけど、仁がいつも黙ったままいく時に、私の中に出してくれたらいいのになといつも思っていた。仁が欲しい、仁のすべてが欲しい。そんな気味の悪い独占欲は、私の考えなんてお構いなしに勝手に大きく膨れていくばかり。

全部間違っていることはわかっているのに。仁のことを好きと想って、愛すれば愛するほど、私は孤独になる。この胸を蝕んでいく、妹であるがゆえの寂しさや不安という厄介な感情は、自分だけじゃなく、仁まで浸食するつもりなのだろうか……。






翌朝、目を覚ますととなりで横になっている仁はもう起きていて、時々瞬きしながら何か考え事でもしているのか、どこかぼんやりとしている様子だった。

「……仁、おはよう」

まだ眠たい気持ちでそう言うと、仁はちらりと私のことを見た。何も返事はないけど、手が伸びてきてそっと私の頬を撫でる。私は、昨日の夜からずっと、仁に言われた言葉を思い出すと胸がチクリと痛んでいた。それは今もで、やっぱりあんな風に言ったのは馬鹿だったのだろうか。

「ねえ……、仁は子ども欲しいと思ったりする?」
「……」

普段は絶対にこんなこと聞けないのに。怖くて、口になんて出せないはずだったのに。いつもとは違う場所だからだろうか。それとも、まだ眠くてどこか意識がぼんやりとしているから?

「……いらねえよ、んなもん」

少し経った後に、仁はそう答えた。だけど、私は本当なんだろうかとどこか疑ってしまう。仁は割と面倒見がいいし、なんでもできるから。案外、子どもに慕われるいい父親になりそうだ。

仁が望めば、相手になってくれる女の人なんて山といるだろうし。誰か他の人と付き合って、結婚して家庭持って、子ども達と一緒に幸せに暮らせるかもしれない。もしかしたら、そんな未来を思い描いているんじゃないのか。私じゃない、誰かとの……。

「お前、ガキが欲しいのかよ」
「……え?」

またそんなことばかり勝手に考えていると、逆に自分に聞かれるとは思っておらず一瞬思考が止まってしまった。さっきの質問に加えて、私が昨日、仁にあんなことをねだったからだろうか。

自分が母親になるなんて想像すらできないし、べつに、仁の全部を独り占めにしたかっただけで子どもが欲しくてああ言ったわけじゃなかった。でも、気付かないうちにそう思っていたのかもしれないな。

だって、仁との子どもなら欲しい……。男の子だったら、きっと仁に似てすごく生意気そうな子で、可愛いだろうな。私と仁と、三人で一緒に、仲良く暮らすの。

「……うん、……欲しい」
「……」

そんなの無理だけど。夢のまた夢だけど、まあ、夢見るくらいいいよね。と思ってそう答えてみると、仁は自分で質問してきた割には聞いているのかいないのか。何も返事はしてくれなかった。

そんなこと聞いてどうするのかな。でもまさか、仁との間に欲しいだなんてそんなこと言えないし。それ以上は追求されなかったから、私もそのことはもう話さなかった。




帰り道の車の中でも、やっぱり仁は黙ったまま。時々じっと横顔を見つめてみてもこちらを向くこともない。

風景が過ぎ去って行く車窓を眺めながら、旅行楽しかったな、と思いつつもこの胸の中には少しだけ痛みが残っていた。恋人同士に見えたとしても本当は違うし。私達は、一生結婚なんてできないし。

私はそれでよくても、仁は違ったとしたら……?今は結婚したり子どもを持つつもりなんかなくたって、いずれ気が変わるかもしれない。

(……痛い)

胸が痛い。仁もいつか、パパみたいに私のこと置いてどこかへ行っちゃうの。他の女の人と一緒になって、知らない場所で家族作ったりするの。


赤信号待ちになり、段々見慣れた風景になってきたな……と思いつつずっと窓の外を眺めていた視線を前へ戻すと、ふと視線を感じる。ぱっと右へ首を向けると、仁が私のことを見ていたけどそれはすぐに逸らされてしまった。

「なに?仁」

聞いてみても何も答えない。なんだろう、と不思議に思っているうちに信号は青に変わって、また車は走り出したけどそれからも仁はずっと黙ったまま。

家に帰った後、私が旅行に連れて行ってくれたことに対して「ありがとう」と感謝しても、ちらりとこちらを見るだけで、何も言わなかった。









BACK TOP NEXT