夏休みが終わり、二学期が始まって少し経った頃。二人で一緒に夕ご飯を食べながらさっきまで笑っていた優紀ちゃんは、なんだか急に改まって私のことを見たので不思議に思った。 「、あのね……」 「なに?」 「私……結婚しようと思うの」 「……え、」 お箸を動かす手を止めて、優紀ちゃんの顔を真っ直ぐに見るといつになく真剣そうな表情をしているので冗談じゃないことはわかった。 「……あの人と?」 私がそう聞くと、優紀ちゃんは「うん」とだけ言って小さく頷いた。”あの人”というのは何年か前から優紀ちゃんが付き合っている男の人のことで、私も何回か会ったことがある。 優紀ちゃんよりかはだいぶ年上の落ち着いた大人の男の人という感じで、べつに私も嫌な印象は持っていなかった。それに、以前から私達の生活の資金援助もしてくれていたし、文句なんて付け様がない。私のことも、「ちゃん」と呼んで可愛がってくれていた。 「そう、いいんじゃないの」 「……本当にそう思う?」 「うん。よかったね」 ほっとしたように笑う優紀ちゃんの顔を見て、私は本当に心からおめでとうと思っていた。ずっと色々なことを我慢して、苦労してきた優紀ちゃんだから、これからは自分の好きな様に生きて幸せになって欲しい。 私の本当の父親のことは話してくれないのでよく知らないし、べつに興味もないし、そもそも父親ってどういうものなのかわからない。一緒に暮らしたこともない、顔すらも知らない。そんなの、父親と呼べるのだろうか。 「じゃあ、ちゃん引っ越すの?」 「うん。そんなには離れてない所なんだけど、新しくマンション借りたの」 「へえ、そっかあ。よかったね、お母さんにもおめでとうって伝えてね」 「うん、ありがとう」 優紀ちゃんが結婚する話をしたら、壇くんは思った以上に喜んでくれた。いつもの様に屋上で並んで座りながら、彼のことをいくつになっても思いやりのある真っ直ぐで優しい子なんだな、と思った。 「あれ、そしたら名前は?亜久津から変わっちゃうですか?」 「ううん、名字はそのままにするの。変わるのは優紀ちゃんだけ」 「そっか。じゃあ僕、亜久津先輩って呼んでても大丈夫だね」 「……」 ほっとしたように壇くんが笑うのとは反対に、私は急にその人のことを思い出して黙り込んでしまった。 優紀ちゃんが結婚すると話したら、仁くんは予想通りすごく怒った。そして、あんな奴と一緒に暮らせるか、自分は家を出ていくと言い出した。 お父さんは、仁くんも一緒に暮らして欲しいと思ってるみたいだけど、そもそも仁くんはこれまでにお父さんと一度も顔を合わせていないし、そうなったところで大変なことになりそうだから会わないで欲しい気持ちもいくらかある。 優紀ちゃんは止めたけれど、結局気が変わることもなければ、家族で話し合いの場を持つこともなく、仁くんは家を出て行くことになった。 ……でも、どうしてだろう。以前の私はずっとそれを望んでいたはずなのに。いなくなってしまえばいいと、心のどこかではいつも思っていただろうに、それが叶った今、ちっとも嬉しいとは思えないでいた。 いつの頃からか、私は仁くんのことを好きだと思うようになっていて。そんなわけないと否定してみても、あの彼女らしき人の姿を想像すればまるでヤキモチみたいに苛立つ気分になる。 あれから、私はなんでもない様な振りを続けながらも、家の中で仁くんがそばにいれば妙に胸が苦しくなって、よくわからない気持ちになる。 それは兄に対する気持ちとは少し違う様な気がしながらも、それ以上詳しくは知りたくなくて、なるべく考えない様にしていた。 仁くんは、あっという間に家を出て行った。空っぽになったその部屋の前を通りかかる度、この胸の中にぽっかりと穴が空いてしまったようなその感覚は、寂しさという感情なのだろうか。 新しい家に引っ越す荷造りをしながら、ずっと優紀ちゃんと仁くんと三人で過ごしたこの家を離れることがなんだか急に寂しくなってきて、一人荷物を詰めながら胸のきゅっと苦しくなるような思いがした。 「いやあ、それにしてもめでたい!さ、さ、今日は貸し切りですから、どうぞ遠慮なく」 新居に越してから少しして、私と優紀ちゃんとお父さんの三人は隆くんの実家のお寿司屋さんへ来ていた。お店に電話をしたら出たのは隆くんで、その時に何気なく優紀ちゃんの結婚の話をしたらどうやら隆くんのお父さんがすごく喜んでくれたらしく、いざ来てみると他にお客さんはおらず貸し切りにしてくれていた。 そこまでしてくれなくてもいいのに……と少々申し訳なく思いながらも、こんな風に明るく楽しそうに二人のことを祝ってくれて、私も嬉しかった。 「いやー、しかしちゃんがこんなにも美人さんになってるとは驚きだ。どうだい、将来うちの隆の嫁さんになる気はないかい?」 「……。あの、」 「やめろよ親父、ちゃん困ってるだろ。いいから、ほらここは俺に任せて」 冗談とはわかっていても、何て答えようか考えていると横から隆くんがやって来ておじさんのことを軽く押すと、おじさんはわかったわかったと言いながらいなくなった。それから、今度は優紀ちゃんやお父さん達と楽しそうに話してる。 「ごめんよちゃん、親父が……」 「べつに平気だよ。それより、今日はありがとう」 「ううん、こっちこそ。本当に来てくれたんだね、嬉しいよ。それに、優紀ちゃんもよかったね、おめでとう」 「うん、ありがとう」 「そういえば、今日は亜久津は……来るわけないか」 隆くんは自分で言って苦笑いする。優紀ちゃんが仁くんも誘ったみたいだけど、当然来るはずなんてなかった。それどころか、家を出て行ってからまだ一度も顔を見せていない。 「あいつだけ家を出て行ったんだって?」 「……うん」 「そっか。亜久津、あれで結構優紀ちゃんのこと好きだからさ、色々と複雑なんだよきっと」 「……」 確かに、仁くんは優紀ちゃんのことババアとか呼んで当たりが強い割には、なんだかんだ母親として想っていたように私も感じていた。ずっと三人で暮らしてきたのに、急に他人が一人増えたら、仁くんの様な人間はそれを嫌と思って当然なのかもしれない。 「ちゃん、亜久津がいなくなって寂しいかい……?」 「……え?」 思わず視線を手元の湯呑みから、カウンター席の前に立っている隆くんに移すと、彼はなんだか心配そうな顔をしている。私は、いつの間にかそんな顔をしてしまっていたのだろうか。 「べつに。全然寂しくなんかないよ、いなくなってくれてよかった」 「……そっか。優しそうなお父さんだね、ちゃんよかったね」 そんな嘘に気付いているのかいないのか、知らないけど、隆くんはお父さんの方を見てそう言うとにこりと笑った。うん、と私も笑い返したかったけれど、この顔は少しも笑顔を作ってはくれない。 新しい生活の中で、温かい家族に囲まれて。子どもの頃からずっと欲しかったお父さんができて、幸せなはずなのに。それなのに、私の胸の中の隙間みたいなものはどんどん大きくなっていくばかりだった。 もう二度と、仁くんとは会えないのかもしれない、と思えば途端に苦しくなる。自分でもよくわからない。隆くんが言う様に、あの人がいなくなって寂しいのだろうか……。 「ちゃん、またいつでもおいでよ。待ってるからさ」 「……うん」 小さい頃に会ったきりなのに、隆くんは今でもこうやって親しく、優しくしてくれる。隆くんのお父さんがすごく温かい人だから、息子の隆くんもそうなのかもしれない。その笑顔を見れば、この頃の苦しく感じる心も、少しだけ安らぐ様な気がした。 それからしばらく経っても、相変わらず仁くんは私達の前に姿を現さなかった。優紀ちゃんは時々連絡をしているみたいだけど、私はそんなこともできず、最後の兄の記憶は家を出て行った日から更新されないまま。 夕食後にリビングのソファに座っていたら、お父さんがやって来て学校の話なんかをされた。いつも私のことを気に掛けてくれていて、よくこんな風に私の周りのことを聞かれたりする。 だけど女の子の友達の話とかされても、私の友達壇くんと清純くんしかいないから、いつも適当に笑ってごまかす。最近は少しクラスの子も話し掛けてくる様になったけど、それは最低限必要なことだけで、世間話とまではいかない。 いくらあの兄の影響があるとは言え、もう卒業してから1年半以上経った今もこうなのは、私にも原因があるとわかっていた。だって、私からも話し掛けたりしないから。関わろうとしない私も悪いのだし、誰も責められない。 そんな中、話の流れで進路の話題になった。お父さんは、行きたい学校とか将来なりたい職業とかを聞くけど、結局それにも答えられない。まだ考え中なの、と言えば、「ちゃんの好きな通りにしていいんだよ」と優しく笑ったので、それには「うん」と頷いた。 自分の部屋に戻り、ベッドの上に座ってさっき言われたことを思い出す。大学、専門、就職……なんでも好きな様に進んでいいと言ってもらえても、希望するものが何もない。 そんな中、ふと頭に思い浮かんだのは、仁くんの通っている大学の名前だった。 (……私も、あの大学に行こうかな) 何考えてるんだろう……。同じ大学に行ったところで、どうしようと言うのだろう。それに、あの大学は予想以上に偏差値が高くて、私なんかじゃ絶対に入れない。これからどんなに勉強を頑張ったところで無理な話だ。 ヤンキーのくせに頭良い大学なんか行くな、と八つ当たりしながら後ろに体を倒してベッドの上に仰向けになる。やっぱりあの人は、不良でもなんでも、色々と才能を持っていて私とは違うのだと思ってしまった。 私なんて、問題を起こさないように一見真面目そうにしていても、実際のところ授業の内容なんかロクに聞いてないし、協調性がなくてクラスの中で浮いているし、もしかしたら同じくらい問題児なのかもしれない。 ……だから、仁くんのことが好きだったのかな。変わってるから、誰かを殴る兄を見て、怖いと感じながらも格好いいと思ってしまったのかな。 気が付けば、今一体どうしているのだろうといつも考えてしまう自分がいた。今頃は、あの女の人と一緒に過ごしているのだろうか。一人暮らししてる家に、呼んだりしてるんだろうか。 (…………) そう考えれば、この胸はまたぎゅっと苦しくなるけど、なんでかなんてやっぱり知りたくない。 解決法は一つだけ。以前みたいに、嫌いだと思えばいいんだ。嫌い、大嫌い、って思い込めばいなくてもちっとも寂しいことなんかないし、二度と会えなくたって、彼女がいたってそんなのべつにどうでもいい。 そう思うのに、頭の中によみがえる記憶は嫌なことばかりなのに、何故か懐かしく感じてしまう。目を閉じてみたところで、嫌いという感情には行きつかず、それは秋が過ぎて冬になっても、同じことだった。 屋上で昼休みを過ごすのはさすがに寒くて無理な季節になり、仕方なく私は冬の間、暖かい図書室に避難していた。隅っこの方の席に座って、興味もないけどいつも適当な本を掴む。だけどそれはページをペラペラとめくっているだけで文字は全然読んでない。 「ちゃん、お昼食べたの」 この場所にも、ちょくちょく壇くんは様子を見に来ていた。となりの席に座って私にそう聞く壇くんに「食べたよ」と答えるけど、本当は食べてないし、お昼すら持って来てない。 優紀ちゃんには何か適当に買うからいいと言っていた。べつにお昼食べないくらいで、死ぬこともない。お腹がすいたら、適当にお菓子とか食べてるし。 「それなんの本?面白いですか」 「……え、うん。面白いよ」 本当は一文字も読んでいないのでどんな話なのかも知らない。でもそんなことも言えないからとっさに嘘を吐いてしまうと、壇くんはへえ、そうなんだと笑って返した。 図書室にあまり人はいなくて、私がいれば近くの席に座る人もいない。壇くんと小声で話していると、途中で進路の話になった。 「……壇くん、美術の大学に行くの?」 「うん。でも、まだ受けるって決めただけだけど……」 「そうなんだ、すごいね。絵上手だもんね、きっと受かるよ」 そうかな、と言う壇くんに頷いてみせる。聞けば、実は絵の教室にも通っているのだと言う。私が何もせずにただぼうっと過ごしていた間にも、壇くんは自分の将来のことをちゃんと考えていたんだ……と思えば急に遠い人に感じた。 「ちゃんは、どうするか決めたですか?」 「え、うんまあ……。うちの短大に入るつもり」 興味がない、どうでもいい、と思っていてもだからって何も決めないわけにはいかない。山吹の内部進学なら他に入るより簡単だし、優紀ちゃんやお父さんもそれがいいと言ってくれたので、結局、このまま上に行くことにした。 「そうなんだ。決まってよかったね」 そう言って笑う壇くんの笑顔は眩しかった。やりたいことがあって羨ましいなんて、そんなのみんなが一生懸命探してる間に何もしてなかった私が言えたことじゃない。 もうじき年が変わって、あっという間に春になれば、こうして壇くんと学校で話すこともなくなるのかと思えば急に寂しいと思ってしまった。中学一年生の時から6年間ずっと、こんな私のことを気に掛けてくれて友達でいてくれた彼に、本当に感謝している。 「ちゃん。……亜久津先輩は、帰ってきた?」 そんなことを考えてしみじみしていると、壇くんが急に話題を変えたのでしんみりした気持ちはどこかへ飛んでいった。 「……帰らないよ。帰ってくるわけないじゃん」 「そうですか……」 つい、素っ気ない言い方をしてしまったことを心の中でごめんと思う。壇くんは寂しそうな顔して、少し俯きがちになった……かと思えば、ぱっと顔を上げて私の目を見る。 「亜久津先輩は、ちゃんのこと忘れたわけじゃないよ。きっと、いや絶対」 「……え?」 「ちゃんと覚えてるし、今でも、とっても大事に思ってると……思うです!」 「……なにそれ。なに、急に」 「だって……ちゃん、亜久津先輩が家を出て行ってからずっと寂しそうだったから……」 私よりも寂しそうに思える目をして、壇くんはこちらを見た。なんだか、心の中で私のことを「かわいそう」と思っている様な、そんな感じだった。 寂しい、だなんてそんなこと一度だって誰かに言ったことないし、そんな素振りも見せていないつもりでいた。 「気のせいだよ。私、べつにあの人のことなんてどうでもいいんだけど」 「でも……」 「壇くん、私が仁くん嫌いなこと知ってるでしょ。大嫌いなの。だからいなくなってくれてよかったって思ってるし、帰って来て欲しくなんかない」 「……」 「それに、あっちだって私のことなんか嫌いだと思ってるよ」 ずっと心の中で自分に言い聞かせてきた言葉を口に出せば、壇くんだけじゃなくて自分自身だって本当にそう信じられるような気がした。だけどなるべく平気な顔してみても、壇くんはちっとも笑顔にはならなくて、私のことを憐れむような表情は変わらない。 「なんで、そんな思ってもいないこと言うですか……?」 壇くんは悲しそうで、それは怒られるよりもずっとつらい気持ちになる。だけどそういう振りをするしかない。 仁くんが出て行くと言った時も、家を出て行く日も、私は何も言えなかった。心の中では行かないで欲しいと思っていても、口になんて出せなかった。あの時言えなかったのに、今さらそんなこと、誰かに言ったところでなんの意味がある? 「亜久津先輩は、ちゃんのこと本当に好きだと思ってたよ。だって、ちゃんと話す先輩は、他の人の時とは違ったから……」 「……」 まだ仁くんが卒業する前。二人で一緒にいる時に仁くんのことを校内で見掛けると、話し掛けようとする彼に腕を引っ張られて連れて行かれたことが何度かあった。 壇くんが笑顔で話し掛けて、向こうがそれに返すのを、となりで黙って見ていた。時々、ついでに私にも何か言われることがあったけど、自分では他の人と違うなんてわからなかった。 「声も目も、すごく優しい様な気がしたです……。だから亜久津先輩は、」 「もういい。もう、やめて」 「……ちゃん」 優しかったのは、壇くんが一緒だったからじゃないのか。それに、仁くんが私を好きとか嫌いとか、そんなこともう意味ない。どうでもいい。だってあの人はもう家を出て行ってしまって、以降私の前に姿を見せないしそれはこれからずっとかもしれない。 私の知らないうちに、私の知らない人と付き合って、結婚したりするのだろう。そうしてそのうち私のことも忘れてしまい、いつかは私が知らない人になるのだろう。 ……私が嫌いと言うのだから、平気な振りをするの、嘘だとわかっても騙されてよ。 「かわいそう」って視線向けないで、「そうなんだ」って笑って頷いてよ。だって、もう、そうするしかないんだから。 |