初めは、何を言われているのかわからなかった。

「お前、この家出てけ」

3月も半ばに差し掛かったある夜。夕ご飯を食べて片付けも終わり、そろそろお風呂に入ろうかな、なんて思っていたところ仁が急にそんなことを言い出して私はしばらくの間何も返事ができなかった。

「……え、」

当然、何故なんだろうと思って、「急にどうしたの?」と聞いてみるけどそれには何も答えない。

「ねえ……仁」
「……」
「理由言ってくれないと、わからないんだけど……」

仁が何も言わなくたって、いつもならべつにそれでもいいけど、今度だけは黙って頷くわけにはいかなかった。質問すると、床に座ってそれまでずっと顔を背けていた仁は、ベッドの上にいる私のことを見る。

「テメエとなんざもう暮らせねえからだよ」
「……、なんで……?」
「わかんねえのか」
「……」

いつもの仁の話し方とは全然違う。低くてすごく冷たい声で、心底私のことを鬱陶しいと思ってそうな、そんな感じ。仁のそういう声は怖くて、だから、もう何も言えない。

「くだらねえことにこれ以上俺を付き合わせんな、っつってんだよ」
「……」
「お前、いつまでいんだ。いい加減帰れ」

それだけ言うと仁はぱっと立ち上がって、部屋を出て行ってしまった。突然のことに私は理解が追いつかず、仁が何を話しているのか、言われている時は全然わからなかったけど、しばらく経ってからじわじわと頭の中に広がってきた。

(……なんで……?)

……わからない。……だけど、

ここのところ、なんとなく不安に感じていたのも事実だった。だって、べつにケンカしたわけでもないのに最近、仁は態度が随分と素っ気ないし、やけに冷たくて。口だってほとんど利いてくれないし。

いつもの不機嫌な時の態度とは違って、なんだか私のことを避けているような感じだったから。特に何かした覚えはないのに、一体どうしたのかな、と思いつつも聞けなかった。

だけど仁のことだから、そのうちまた元に戻るだろう、なんてどこか楽観視していたかもしれない。だって仁が私のこと嫌いになるだなんて、そんなこと夢にも思っていなかったから。

でも、そうじゃなかったのだろうか……?

……なんだか呼吸が苦しくなってきて、思わず手で胸の辺りを抑える。なんで、どうして。仁は私に、そんなこと言うの……?


半ば呆然としながらもお風呂に入り、ベッドで寝る時、仁は私に背を向けていた。この頃はずっとそんな調子で、こっち向いてって服を引っ張ってみても、私の方を向いてはくれなかった。

じっとその背中を見つめて、一体どうしてなのかずっと考えていたけど、それでもやっぱり答えなんてわからない。もしかしたら私の気付かないうちに、仁に何か嫌なことをしていたのだろうか……。

いっそ聞いてみようかと思っても、声が出ない。仁の冷たい声と、鬱陶しいと思っていそうなあの表情がフラッシュバックして、怖くて……何も言えなかった。





朝目が覚めたら、あんな風に言われたことは全部夢だったらよかったのにと思ったけど、顔を合わせた仁は相変わらず冷たくて、やっぱりそんなことはなかった。

ずっと黙ったまま朝ご飯を食べていると、どこかへ出掛けるのか支度の終わった仁はそんな私のことを見て素っ気なく言った。

「三日以内に出てけ」
「……」

思わず仁のことを見上げると、その目は昨日と同じに冷たい。そんな風に見られるのは嫌で、胸が苦しくて仕方なくなる。

「……なんで……?私、仁になにかした……?」

恐る恐る質問する私の声は、微かに震えていた。知りたいけど、知りたくない。もしかしたら仁は私のこと嫌いになったのかも……なんて。考えるのも嫌だ。仁の口からそんな言葉、聞きたくない。

「まだわかんねえのか」
「……」
「テメエみてえな奴の相手すんのには、もううんざりなんだよ。俺が好きで付き合ってやってるとでも思ってんのか」
「……」
「いい加減気付けよ」

仁はそれだけ言うと、さっさと部屋を出て行き、すぐに玄関のドアが閉まる音が聞こえた。一人部屋の中に残された私は、それからしばらくの間俯いたまま。少しも、動けなかった。



どうして急にそんなこと言い出したんだろう……それとも、黙ってただけで仁は心の中で私のことずっとそんな風に思っていたのかな。まだわからないことはたくさんあるけど、仁の出掛けているうちに自分の荷物をまとめていた。

嫌だとか寂しいとか、そんな感情よりも先に、とにかく仁のことが怖くて、言われた通りにするしかなかった。

なんで、どうして、って昨日から数え切れないくらい頭の中で考えてた。仁はああ言っても、本当は違うんじゃないか、嘘なんじゃないかって。思いたかったけど、とてもそんな風には見えなかった。

(……ずっと私のこと嫌いだったのかな)

無理して付き合ってただけで、我慢してたのかな……。

混乱し、泣きたくなる気持ちを堪えながら、とりあえず自分の物を全部段ボールの箱に詰めると、それは郵送することにして預けてきた。

また最初の様に仁の物だけになった部屋の中で、ぽつんと座りながら、仁が戻って来るのを待っていた。会うのは怖いから帰る前にいなくなろうかとも思ったけど、せめて最後にもう一度聞いてみるつもりで、残った。

もしかしたら……もしかしたら、本気じゃなかったかもしれないし。仁の気が変わってるかもしれないし。と、僅かな期待を抱きながら、ただじっとしていた。

夜になって、玄関のドアが開く音がして、それに自分の体がびくっと反応する。少しして部屋に入って来た仁は、床に座っている私には目もくれず、ベッドに腰掛けた。部屋の中から明らかに私の物だけなくなっているから気付いているはずだろうけど、それには何も言わない。

緊張してどきどきしながらも、「……あの」と小さく声を出すと仁はちらりと私のことを見たので、より鼓動が速くなっていく様な気がした。

「……本当、なの……?」
「……」
「私のこと、もううんざりって……」
「嘘吐いてどうすんだよ」
「……」

冷たく言われて、また胸に痛みを感じ、呼吸が浅くなる。いつもとは別人みたいな仁の目を見るのが怖くて、私は俯き、膝の上に置いている自分の手ばかりをじっと見つめていた。

「荷物まとめたんなら、とっとと出てけ。邪魔だ」
「……」

全部嘘みたい。だって、仁がそんなこと言うはずない。あんなに優しかったのに、どうして急に、そんなひどいことばっかり言うの……?


「じきにこの部屋は引き払うからな。どっちにしろお前はここにはいられねえんだよ」
「……え、?」

そんなこと初めて聞いた、と思って驚き、ぱっと顔を上げてしまうと、仁も私の方を見ていたらしく目が合った。じゃあ、仁もこのアパートから引っ越すっていうこと?

「仁、どこに行くの……?」
「お前には関係ねえ」
「……」
「どこへ行こうが、誰と暮らそうが俺の勝手だろうが」
「……」

なんて言ったの……?と思ってもそれは口には出せなかった。誰と、って何。もしかして、仁はここを出て、どこか別の場所で誰かと暮らすの。まさか、なんで。そんなこと一言だって言ってなかったのに。

なんで、そんなこと急に。仁、どうしちゃったの。

「誰かと……一緒に暮らすの……?」
「……」

仁は何も言わないけど、きっと違うなら違うって言うから、そうなのだろう。でも、それって一体誰と。いつの間に、そういう話になってたの。私、そんなこと全然知らなかった。

まだ、これが夢ならいいのにって、心のどこかでは思ってたけど、やっぱりそんなことはなくて紛れもない現実だ。だって夢なら、こんなに胸が苦しいはずない。

少しも知りたくなんかないけど、それでも私は堪らず震える声で「誰……?」と仁に聞いた。仁は逸らしていた視線を動かして、私のことを見たので目が合う。だから、一瞬呼吸が止まる様な気がした。

「女」

短くそれだけ言うと、またぱっと視線は外れる。私は仁が何を言ったのかがすぐには理解できず、しばらくの間固まったままだった。

女……オンナ、って言ったの……?今、仁が……?嘘でしょ。そんなわけない。仁が、そんなこと言うはずない。

「冗談だよね……?」
「俺がお前に冗談言ったことあるかよ」
「……」

固まったまま動けない。さっきからずっと、耳に入って来る言葉が信じられない。次から次に、聞きたくないことばかり流れ込んで来て、もう何がなんだかわからない。

「……浮気してた、ってこと……?」

そんな素振りなかったし、まさか仁がそんなことするなんて思ってなかったから、これまで疑いもしなかった。知らない間に、誰か別の女の人と付き合っていたのだろうか。

……けど、そんな私を見て仁は馬鹿じゃねえのか、と嘲る様に笑った。

「なにが浮気だよ。お前俺の女でもねえくせに、偉そうな口利いてんじゃねえよ」
「……」
「いつまでもテメエみてえなガキの相手するわけねえだろ。他に女がいねえとでも思ってたのか」
「……」

まるでサッと体温が下がるみたいに、心ごと私の体は冷たくなっていく気がした。

ずっと思ってた。私は妹だから、どんなに彼女の振りしてても本当は違うんだって。いくら望んだところで恋人にも妻にもなれないんだって。だから仁にそう言われても、その通りだから何も言い返せない。

その女の人と暮らすの……?私の知らない間に付き合ってたその人と、どこかべつの場所で二人で暮らすの?

(……嘘)

嘘なんでしょ、って、縋りつく思いも、もう怖くて口には出せない。代わりに震えながらじっと視線を向けて、怯える様に見つめていると、仁は察したのか何も言わなくても聞きたいことがわかったみたいだった。

「嘘じゃねえよ」
「……」
「信じられねえなら、その女に会わせてやろうか」
「……」

もう嫌だ、もう聞きたくない。仁が嘘や冗談なんか言わないこと、初めからわかってた。だから全部本当だってこと、聞かなくたって知ってた。

私は近くにあったバッグを掴むと、そろそろと立ち上がる。仁のことを見つめて、向こうも私を見るけど黙ったままだし、私も何を言ったらいいのか、もうわからなかった。怒ればいいのか、泣けばいいのか。

とにかく、もう茫然としていて、頭の中には言葉が浮かんでこない。

まさかこんな日が来るなんて想像もしていなかった。それも急に、突然。だけどそう思ってるのは私だけで、仁の中ではずっと前から決まっていたことなのかもしれない。私が気付かなかっただけで。とっくに終わってたのかもしれない……。

「……」

しばらくの間無言で見つめ合っていたけど、結局お互いに何も言葉を発することはなかった。

私はバッグの中から取り出した合い鍵をテーブルの上に置くと、そのまま部屋を出て、仁のアパートから去った。




暗い夜道を一人で歩き、体に冷たい風が吹き付けてきても寒いとも感じないくらい、私はぼんやりとしていた。

当然の様にこれからもずっと一緒にいられると思っていた自分が馬鹿みたい。知らない間に、仁の気持ちはきっとずっと遠くに離れていっていたのに、ちっとも気付かなかった。

また仁がいなくなって、一人になって。私、これからどうすればいいの……?一つもわからない。何も思い浮かばない。だけど、そんなこと、誰にも聞けない。

だって、誰も知らないんだから。









「あら?、どうしたの」

ふらふらと実家に戻ると、突然の、それも夜分の帰宅に優紀ちゃんとお父さんは当然驚いた顔をしてる。

「……帰ってきたの」
「え?」
「また今日からここに住んでもいい……?」
「それはもちろんいいけど……」

でも随分と急ね、と優紀ちゃんは続けて言った。正直なところ、私自身もあまりに突然のことで現状がよくわかっていない。昨日の今頃はまだ仁のアパートにいたというのに。

お友達はどうしたの、と色々聞いてくる優紀ちゃんに、「ごめん明日話す」と言って私は早々に自分の部屋へ行き、ベッドへと上がる気力もなく扉を閉めてすぐに床へ倒れ込んだ。

(…………)

黙ったまま仁のアパートを出て、道を歩いて電車に乗って、ここへ帰って来るまでの間。私は、これは仕方のないことなのだ、と思い込もうとしていた。

だって仁には自分の人生があって、彼の言う通りこっちの都合にいつまでも付き合わせているわけにはいかない。私とは違って、仁にはたくさんの才能があるんだから、もっとやるべきことや望まれることがたくさんあるはずだ。

それに、他に好き人がいるというのなら、妹の私と一緒にいるよりもその方がずっといい。だって、それならいずれは結婚できるし、子どもも持てる。仁もきっとそうしたいのだろうし、優紀ちゃんやお父さんも喜んで祝ってくれるだろう。

それでいいんだ、仁のためには。


……と、頭の中で自分には説明していた。それで納得したつもりだった。だけど一時はそう思えても、また少し経てば「どうして」と泣きたい気持ちに襲われる。嘘だ、仁がそんなこと言うはずない、と信じられなくて、全部夢だったんじゃないか、とすら思っている。

(……違う)

だから、夢なんかじゃないんだってば。

「俺の女でもねえくせに」と冷たく言い放つ仁の言葉が、ナイフみたいな鋭い凶器に変わり、この胸をグサリと突き刺す。叫びたくなる程の痛みに、私は思わず飛び起きた。

心臓がどきどきして、息が荒くなる。胸を押さえて浅く呼吸を繰り返しているうちに、まるで途方もない喪失感に、体ごと飲み込まれていく様な感覚に陥った。

(なんで)

なんでそんなこと言うの。なんで、私のことそんな冷たい目で見るの。嫌だ、他の女の人のことなんて好きにならないで。どこにも行かないで、ずっとそばにいてよ。

「……仁」

でも、言えなかった。仁が家を出て行ってしまった時みたいに、心の中ではそう思っているのに、口には出せなかった。本当は泣いて縋りついて、そんなの嫌だって引き留めたかったのに……できなかった。

記憶の中によみがえるのは、仁と一緒に暮らしていた思い出ばかり。不器用でもすごく優しくて、いつも私のこと大切にしてくれていた。だから、毎日、とても幸せだった。

私が仁のことを好きな様に、仁も私のこと好きと思ってくれてると、痛いくらいに感じてたのに。それなのに、なんで。

私が、妹だから……?

妹だから。仁は兄だから。二人の関係がずっと続くわけない。だから、いつか終わりがくることくらいわかっていたのに。それでも、こんな風にいざそう言われると少しも受け入れることなんてできない。


(……仁も、私のこと置いてどこか行っちゃうの……)

やだ。そんなのやだ。

ずっと、心の中でどこか不安に感じ続けていたこと。仁には他にもっと好きな人ができて、いつか私なんて捨てられてしまうのではないか。仁の温かい体に包まれながらも、いつもどこか怯えていた。

いっそもう眠ってしまって、朝目が覚めたらやっぱりこれは全部夢で、いつも通りに仁のアパートで暮らしていたらいいのに。と、何度も思った。


仁と別れたその日から、私は夜になる度に、明日の朝目が覚めたら……と心の底から願った。

それでもやっぱり、瞼を開ければ見えるのは自分の部屋の天井で、ベッドには私一人だけ。横を見ても、となりに仁はいない。たとえ何度繰り返そうとも、それは、同じことだった。









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