短大を卒業した後、私は内定が決まっていた企業へ就職した。初めは仕事内容を覚えたり、職場の雰囲気に慣れることに必死で、悩んだり疲れたりしているうちに時間はあっという間に過ぎていった。 朝起きて仕事へ行って、また家に帰る……毎日そんなことの繰り返しで、べつに楽しいとは感じなかったけれど、それでも仕事中は気を紛らわせることができるだけ、随分マシに思えた。 だけど、お風呂に入っている間や、寝る前ベッドの中で目を瞑る時。ふとした瞬間に仁の姿を思い出してしまい、あれからもう何カ月も経っているというのに、その度に繰り返すこの胸の痛みは少しも和らぐことなんてない。 今頃、どこにいるんだろう。誰といるんだろう……。もう会うことなどできないのに、頭の中に浮かんでくるのはいつもそんな考えばかり。 優紀ちゃんとお父さんは、私がまた実家に戻って来たことをすごく喜んでくれていた。二人ともとても優しくて、温かい家庭の中に身を置くことを幸せに感じながらも、私の心はいつも寂しさに喘いでいて、仁がいない。仁がいなくて、寂しくて、死んでしまいそうだ、と叫んでいた。 そんなこと聞いても無駄だと思うのに、時々、我慢できず優紀ちゃんに仁はどうしてるか尋ねてしまうことがあった。だけど、その返事はいつも「知らない」ばかり。 連絡してみてもちっとも繋がらないけれど、稀に向こうから無事を知らせる連絡が来ることがあり、だけどそれだけを伝えるとすぐにプツリと切れるらしい。 仁が今どこにいるのか、何してるのか。誰も知らない。 いっそ忘れてしまえたらいいのに、と何度願ったことか。朝起きる度に、となりに仁がいないことへの寂しさなんて、もう感じたくない。そう思うのに、むしろそれは時間が経てば経つほどに大きくなり、寂しさや胸の痛みはより強くなっていった。 仕事内容は思いの外過酷だった。膨大な仕事量に加え、毎日の様に夜遅くまでの残業が続き、一緒に入った同期は一年と経たないうちに辞めてしまう人も多かった。 私は、どんなにつらくても頭の中に蔓延る雑念を忘れられるならそれでいい、と思っていたけれど、無理が祟ってかじきに体調を崩してしまい、それを両親にひどく心配された。私は、自分のことなんてべつにどうでもよかった。でも、お父さんにちゃんの体が一番大事だから、と説得され、悩んだ末に退職させてもらった。 体調が良くなるまでは自宅で休んでいたけど、何もしていないと今度は寂しさが襲ってくる。仁のことばかり思い出して、苦しくて、気がどうにかなりそうになる。どうして、なんで、って。もう何度考えたかわからないのに、いつまで経ってもそんなことばかりを繰り返す。 何もかもどうでもいい。興味がない。誰にも会いたくないし、話したくない。時々壇くんや隆くんが連絡をくれても、それには何も返さなかった。 私はとにかく気を紛らわせたい気持ちで適当にバイトを始めてみては、しばらくして辞める、というのを繰り返していた。勤めているうちに次第に人間関係が深くなっていくのが嫌で、誰か、私に興味や好意を持つ人が現れる度に、そこを辞めてしまった。 何をやっているんだろう……そう思っても、どうにもできない。人とは関わりたくなくても、でも家に一人でいれば余計なことばかり考えてしまう。寂しさで、おかしくなりそうになる。 今、どこにいるの。誰といるの。 ……そんなの、答えなんて帰って来るはずもないのに。 「亜久津さんて、彼氏いるの」 人間というのは、何故そんなにも他人の恋愛に興味があるのか。 仁とのペアリングは、あれからすぐに外して自室の引き出しの中にしまっていた。いっそ捨ててしまおうかとも思ったけれど、どうしてもできなくて、今でもそのまま。他にも仁に貰った物は、同じ様に捨てられずにまだ持っている。 「……さあ、どうなんですかね」 自分のことなのに、私はいつも曖昧な返事ばかりをしていた。もしもそれが男の人で、私に興味があるのだろうかと感じれば、それ以上深く関わる前にさっと距離をとり、すぐにその仕事を辞めた。そうしなければ、また、私は誰か身代わりにしてしまうかもしれないから。 街で、仁に似ている人を見掛ければ、はっとして思わず振り返る。けれど、それはやっぱりいつも人違い。こんな所にいるはずないのに。いい加減未練がましい自分のことが嫌になっても、その癖は、どれだけ時間が経とうとも直らなかった。 仁と離れてから、2年近くが経った頃。 「仁ね、結婚したんですって」 しばらくの間なんの音沙汰もなかった仁から、突然、優紀ちゃんに連絡があったのだという。今どこにいるのか、何してるのか。詳しい事は尋ねても教えてはくれずに、いつもみたいにただ、それだけを伝えて切れたらしい。 「あの子ってば、本当に勝手なんだから」 口ではそう言いながらも、優紀ちゃんはどこか嬉しそうだった。やっぱり、自分の子どもが結婚するのは嬉しいものなのかもしれない……。 そのうちまた連絡してみるわね、と話し掛ける優紀ちゃんの言葉なんてちっとも耳に入って来ず、ソファに座って俯く私の胸は引き裂かれる様な痛みを感じていた。その結婚相手というのは、きっと、仁が一緒に暮らすと言っていた女の人なのだろう。 あの人と結婚したんだ……。 よかったね、と言いたいのに言えない。他の女の人と仁が一緒にいるところなんて、想像さえもしたくなくて、たとえ嘘でもそんなこと口には出せなかった。 それでも、拒否したって、頭の中に勝手に浮かんでくる。幸せそうに寄り添う二人。いずれその間には子どもが出来て、家族みんなで、笑って幸せに暮らしてる。 私の知らない場所で、知らない人と過ごす仁は、きっともう私のことなんて忘れてしまっている。だって、もう思い出す必要なんてないから。私の存在なんて、いない方がいいに決まってるから。……それなのに。 「……ねえ、私のこと、なにか言ってた……?」 楽しそうに何か談笑している両親に向かって独り言の様に話し掛ける。何を聞いてるんだ、と心では思うのに勝手に口から出てしまう。 「ううん、なにも言ってなかったけど」 初め少し不思議そうにしつつも、笑いながら優紀ちゃんはそう答えた。言うわけない、私のことなんか。そんなの、聞かなくたってわかっていたのに。仁が、私のことなんて覚えてるわけないのに。 (……馬鹿じゃないの) それからじきに、私は実家を出ることにした。当然、優紀ちゃんに言えば止められると思ったから、お父さんに相談した。なんでか理由を聞かれたけど、それにはもっともらしい言葉を適当に並べる。 「ね、いいよね?お願い、お父さん」 お父さんは私に頼みごとをされたら絶対に断れないって、知っている。だから、わざと甘えた振りをして抱き付き、優紀ちゃんのことも説得してくれる様に頼んだ。 予想通り優紀ちゃんにはあれこれ言われたけど、お父さんが味方になってくれたから、最終的には私は家を出て一人暮らしを始めた。 家の中はあんなに温かいのに、どうしてか、私の心は冷たくなっていくばかり。両親の仲が良ければ良い程、そばにいる私が感じる寂しさは大きくなって、それは次第に耐えられなくなっていった。 私はとにかく、一人になりたかった。一人になって、何もかも忘れてしまいたかった。 仁のことも、家族のことも、誰のことも……。 特になんの目的もないまま、バイトして貰ったお給料や以前に貯金していたお金を使って、毎日ぼんやりと過ごしていた。ただなんとなく生きている様な、そんな日々に疑問を感じることすらないくらい、私は自分のことがどうでもよかった。 季節はあっという間に巡っていき、この前春だったかと思えば、気付くともうじき秋も近付いている。 相変わらず職を転々し、以前に勤めていたバイト先を辞めてから何日か経った頃、家に一人でいることに耐え切れず、飲みにでも行こうかと夜の繁華街を歩いていると男の人に声を掛けられた。 可愛い、綺麗だ、といやに私のことを褒めるその人は、どうやらこの辺りにある店のスカウトの人らしかった。興味なんてなかったし、適当に断っていなくなろうと思ったけれどやけにしつこくて、なんだか面倒になったので仕方なく話だけでも聞くことにしたら、いつのまにか私はその店で働いていた。 そこは女の人だけが接客するバーで、同僚も、みんな私と同じくらいの年齢の人ばかり。まあいいや、嫌になったらすぐに辞めよう、という適当な考えでそのまましばらく働いてみることにした。 同僚はみんな明るく優しい子ばかりで、店の雰囲気も待遇も悪くはない。女だけの中でやっていけるか多少不安もあったけど、仕事中は基本お客と話すのだし、そのお客というのもほとんどが男性だったので、私でもなんとかやっていけていた。 適当につけた店用の名前で呼ばれることにも慣れた頃、次第に、私目当てにやってくるお客も増えて来た。 「そんなにその元彼っての、いい男なんだ」 二十代半ばのその男性は、よく私に会いに来ていた。気に入ってもらえるのは有り難いけど、私自身や、彼氏のことなんかを色々と問い詰められるのを少し面倒だな、と感じていた。 私に気があるかどうかは知らないけど、いないと答えればなんでだと追及され、その上何度か自身を推薦されていて、それには「元彼が忘れられないから」という理由でいつも断る。 今日も相変わらず私の男の好みの話になった。カウンターに立ち、奢ってもらったお酒を飲みながら、向かいに座っている彼に対して適当に相槌を打つ。他の女の子とは違って、さほど愛想の良くないだろう私をわざわざ目当てにくるのだから、随分と物好きだなと思いつつそんなこと口には出せない。 唯一いつもと違うのは、今日は友人の男性が一緒ということだった。「な、可愛いだろ?」と言って彼が横を向いて話し掛けると、その人は無理やりにでも連れて来られたのか、「ふうん」と私を一瞥するだけであまり関心がなさそうに見える。 「試しにさ、違う男とも付き合ってみなよ。ほら、俺とか」 「やだ」 「なんでー。案外、すぐに元彼のことなんか忘れられるかもしんないじゃん」 「あいつ以上の男なんていない」 仁は、何もかもが私の理想だった。あの人以上の男なんて、他にいるはずがない。そんなことはもうわかりきっている。だから、仁のことを忘れられるくらい好きになれる人なんて、きっと、一生私にはできない。 「なに、そいつのどこがそんなにいいわけ」 「全部」 「げー、マジ。じゃあ、なんでそんな好きなのに別れちゃったんだよ」 「知らないよ」 「わかった、そいつに浮気されたんだろ」 その言葉に思い切りグラスをカウンターの上に置くと、ゴン!という音が響いた。すると彼は「図星か」としたり顔で笑い、お客だというのに私は思わず睨み付けてしまった。 「よせよせ、そんなの。可愛い彼女ほっといて、他の女と寝てる様な男だぜ?」 「……」 「きみのことだってどうせ体目当てだったんだよ、セックス目的」 違う。そんなんじゃない。そう思うのに、何も言い返せずに黙ったまま、私は、体が次第に熱くなっていくのを感じていた。理由がどうであろうと、仁のことを誰かに悪く言われるのは、酷く腹が立つ。 「ケンカが強いんだっけ?そいつ。そもそもが、ろくでもない奴じゃん」 「……」 「ケンカして女と遊んで浮気して、最低な男なんだよ」 「うるさい、仁のこと悪く言うな」 思わず強めに言ってしまい、私ははっとして口を噤んだ。さっきまで笑っていた彼は、急にそんな態度をとったからきょとんとしている。いくらなんでもお客に対してまずかったな、と思っていると、さっきからずっと黙っていたそのとなりに座る友人の男性がぱっと顔を上げて口を開いた。 「わかった。俺、なんか見たことある、ってずっと思ってたんだよな」 私の顔をじっと眺められ、なんだろう、と思っていると常連の彼が「なんだよ?」と不思議そうに質問する。 「お前、亜久津の妹だろ」 急にその名前が出て、私はどきりとした。一体誰なんだろう、そう思いながらもとりあえず認めずにシラを切ることにした。 「知らない。誰それ」 「いや、絶対そうだよ。だって俺、お前に会ったことあるし」 「……」 誰……?山吹の人?なんで私のことを知っているんだろう。口には出さないままじっとその目を見ていると、その態度で私が仁の妹だということを確信したのか、にやりと笑った。 「おい誰だよ、その亜久津っての」 「山吹ってとこにいた、すげえヤバい奴だよ」 「ヤバいってなにが」 「ケンカに決まってんだろ」 常連の彼が色々問い詰めるのを何も言わず眺めていた。その人が答えるには、山吹の出身ではなく、近くの学校に通っていたのだという。あの辺りでは仁は不良で有名だったし、だから当然、色々と知っていてもおかしくない。 「じゃ、なにそいつ強いの?」 「強いなんてもんじゃねえよ、あいつは。頭のネジぶっ飛んでるからな」 「へえ」 「いかれてんだよ、話なんか通じる奴じゃねえし。顔を合わせたら最後、運が良くて半殺しってとこか」 「マジかよ、怖え」 「あの亜久津知らねえんなら、幸せ者だよお前」 彼の発する言葉に苛立ちながらも、黙ったまま聞いていた。 何故私のことまで知っているのかは、以前にガラの悪い他校の男子生徒数名に絡まれた際、どうやら友人に誘われてその人もいたことがあるらしい。だけど、やっぱり私は顔なんて覚えていないし、どこの学校の人だったのかも、まるで記憶にない。 「妹の名前は確か……、だったよな?」 「……」 「やっぱそうだろ」 当たったことが面白いのか、その人は可笑しそうに笑った。もう私が妹だって完全に気付かれてしまった様だけど、だったらなんだと言うのだ。私は澄ました顔をして「だからなに」と素っ気なく言った。 「お前、さっきから聞いてればその忘れられない元彼っての、ケンカが強いだの頭が良いだの、運動できるだのさ。それに背がでかくて、バイクにも乗ってんだろ?」 常連の彼に問い詰められて面倒だなと思いつつも仕方なく答えていたこと、全然興味なさそうにしていたのに、実は聞いていたのだろうか。 「まさか、それ兄貴じゃねえよな」 「……」 どき、と心臓の跳ねた後、サッと体温が下がっていく様な感覚がした。 「元彼のこと、仁って呼んでただろ。お前の兄貴の下の名前さ、確か仁じゃなかったっけ?なあ」 「……」 そういえば。さっき、いらっとして思わずそんなことを口に出してしまった様な気がする。私は一瞬動揺したけど、でも、またすぐになんでもない振りをした。 「あいつは関係ない」 「だけど歳だって二つ上とかさ、そんな奴、他にはそういねえだろ」 「……」 「なに、お前ってブラコン?兄貴とやってんの?」 「……」 明らかに興味本位で半笑いを浮かべる彼に、しばらくの間何も返せないまま。どきどきと脈打つ心臓の音ばかりが耳に響いて、私のことを見る二人の視線に思わず「うるさい」と叫びたくなる。 「……なに言ってんの、そんなわけないでしょ。馬鹿じゃないの」 それだけ言って、ぱっとその場を離れると、まだ仕事中だというのに私は控室に戻り、そのまま「気分が悪いからもう帰りたい」と店長にお願いして帰らせてもらった。 ネオンがぎらぎらと輝く騒がしい夜の繁華街を一人、行き交う人波をすり抜ける様に歩きながら、さっき言われた言葉が頭の中にまた浮かんでくる。秋の冷たい夜風に吹かれながら、必死に振り切ろうとしてもそれは消えたりしない。 揶揄する様なあの表情に、なんだか涙がにじむ。 やっぱり、男として兄を好きと思うのはおかしいんだ。だからきっと、みんなもそう思ってる。仁だってそうだったから、だから私から離れていったんだ。 誰かに話してみたところで、こんなこと、理解してもらえるはずがない。優紀ちゃんだってお父さんだって、絶対におかしいと言う。壇くんだって、隆くんだって……清純くんだって。 頭の中で、誰もが薄笑いを浮かべてる。突然途方もない孤独感に襲われて、いっそ泣いてしまいそうだったけど、堪えて、夜の道を駅まで黙々と歩いた。 それから私は一度も店に出勤することなく、数日後に辞めた。 携帯電話の番号を変更して、登録してあった連絡先もすべて消去した。優紀ちゃんのでさえも。そして、いつまでも消せずに残していた、仁と二人で映っている写真のデータも……全部残らず。消去した。 |