会社に入って早3年目、なんだかあっという間だ。仕事の内容については当然、色々と苦労はありながらも、暗くなったって仕方ないし。俺は相変わらずのポジティブシンキングで、まあそれなりに楽しく過ごしていた。

年も暮れのある日。夜、仕事から一人暮らしをしている自宅に戻ると、俺の携帯に知らない電話番号から着信があった。誰だろう。でも、もしかしたら仕事の関係かもしれないし、とりあえず出てみるとそれは優紀ちゃんからだった。

なんで俺の番号知ってるんだろう?一瞬、疑問が湧くけどそういえば以前に亜久津の連絡先を教えて貰った時に、俺の番号も教えた様な気がすることを思い出した。

「ああ、どーも。お久しぶりです」
「ごめんなさいね、急に電話したりして……」
「いえ、全然平気ですよ。なにか用事ですか?」

明るいトーンで話す俺とは違い、優紀ちゃんはどこか沈んだ様な声をしていたのが気に掛かる。何か言いづらいことでもあるのか、少しの間沈黙が続き、俺はそれを黙ったまま待っていた。

「その……、千石くん」
「はい」
「……のこと、なにか知らないかしら……?」
「え?」

優紀ちゃんが、恐らく電話口で浮かない表情をしているだろうことは容易に想像できる。だけど、なぜ急にそんなことを、しかもわざわざ俺に聞いてくるのか。不思議だった。

ちゃんが、どうかしたんですか」
「……」

彼女には、以前に亜久津のアパートに行って以来、ほとんど連絡を取っていなかった。なんだか気が引けたというのもあるし、特段用事もなかったから、最後に電話で話したのはもう数年前だろうか。

記憶の中によみがえるのは、兄と嬉しそうに手を繋いで歩く彼女の後ろ姿。あれから、街でも見掛けることはなかった。だけどそんな彼女が、一体、どうしたというのだろう。

「それが……」

優紀ちゃんが話すには、ちゃんは去年の今頃に突然、一人暮らしをしたいのだと言って家を出て行ったきり、一度も実家に戻って来ないらしい。

それでも最初のうちは着信を残せば時々折り返しがあったけれど次第にその回数も減り、二か月ほど前、ついに繋がらなくなってしまったのだという。住んでいるアパートへ行ってみてもいつも留守らしく、優紀ちゃんは酷く心配している様子だった。

壇くんや、青学にいた河村くんにも聞いてみたけれど、心当たりはないらしい。以前にルームシェアしていた女の子の友達に至っては名前すらわからず、当然連絡先も不明。俺は恐らくそれは彼女の嘘だったのではないかと思ったけれど、今は余計なことは言わないでおいた。

「仁もちっとも電話に出ないし……」

俺はその時、兄の亜久津も今どこで何しているかのわからない、ということを初めて知った。どうやら既に結婚しているらしく、それには正直かなり驚いた。気になって色々と聞いてみたいことはあっても、母親ですら詳細を把握していない。

数年前、街で見掛けた二人は随分と幸せそうだったのに。一体、何があったのだろう……?

もし、何かわかったら教えて欲しいと頼まれて、それには「わかりました」と返事をして電話を切った。しばらく連絡していなかったから、俺はちゃんの電話番号が変わっていることにも気付かなかった。

それにしても亜久津が結婚なんて……どういうことなんだ?そりゃ、べつに誰と結婚しようがそんなの、あいつの勝手だけど。でも、妹とは恋人当然の関係だったんじゃないのか。ちゃんとはどうなったんだ?

……だけどそんなの、俺が考えたところでわかるはずない。

もちろん心配だし、気に掛かるけど、だって今の俺にはどうすることもできない。もし何か協力できることがあれば、その時必ずしよう。とりあえず、そう思うしかなかった。











年が明けて、気付けば1月も半ばに入っていた。夜ともなれば、風は頬を刺す様に冷たい。

週末、俺は久しぶりに大学時代の友人達と飲みに出掛けていた。夕方から集まっていた俺達は既に何軒か回った後で、だいぶ良い感じに酔っていた。くだらない話をしては笑いながら、次はどこにしようか。まだ飲むのかよ、などと言い合う。

もう夜も遅い時間だろうと飲み屋街はまだまだ明るくて、店の名前を照らすネオンが眩しい。週末ということもあってか人通りも多くて騒がしいのでなんだか時間の感覚がおかしくなる。

吐く息は白く、「さみい」と誰かが声を漏らした。そのうち雪でも降るのかな、なんて思いながら人混みを歩いていると、ふと誰かの声が耳に入ってくる。

「やだ、あっち行ってよ」

それは女の人の声だった。喧騒にまみれて、内容まではよく聞き取れないけれど、なんだか嫌がっていそうな声だ。誰か男に話し掛けられているみたいだけど、そいつの後ろ姿でその人の姿はよく見えない。

何か嫌なことでもされてるのかな、と少し気になって、スタスタと先に歩いて行ってしまう友人達に遅れながら、時々振り返っては様子を窺っていた。

「おーい、千石どうしたんだよ」と、いつの間にか随分と距離の空いていることに気付いた一人が、振り返って軽く手を振る。俺ははっとして、それにごめんと笑い、追い付こうと速度を上げようとしたけれど。

「やめて、触らないで。あんたなんか大っ嫌い!」

その声は、俺の耳に飛び込んできた。それもこの人混みの喧騒の中で、あまりにも真っ直ぐに。気が付けば、俺は友人に「ごめん、俺用事思い出したから帰るわ」と言っていた。おい千石、と名前を呼ばれるのも無視して声のした方へ、向かって歩いて来る人達を潜り抜けながら戻る。

辿り着くとそのまま二人の間に割って入り、女性の背中に回す男の腕をグイと掴んで引き剥がせば、当然そいつは俺を見て驚いた顔してる。

「いやあ、すみません。この子俺の連れなもんで」
「はあ?誰だお前」
「じゃ、まあそういうことで。どーも失礼しました」

怒り出して面倒臭くなる前に、へらっと笑ってそれだけ言うと、俺は「さ、行こっか」と女性の背中を軽く抱いてさっさと歩き出す。人混みに紛れながら、何度か振り返ってみたけど呆気に取られているのか、追い掛けては来ない様子だった。

しばらく黙ったまま歩き、大通りを曲がって人通りの少ない道へ入ると、ここまで来れば大丈夫かなと思って足を止め、女性の顔を見た。彼女だって当然、いきなりの出来事に不思議そうな顔してる。

「……清純くん……」

どこかで聞いた声だなと思っていた。

ちゃん、大丈夫?」
「うん……」

なんでこんな場所にいるんだろうとか、一人なのかなとか。とりあえず、そんなことよりかも彼女の無事が気になる。「乱暴されなかった?」と心配して聞いてみてると、「大丈夫」と答えたので、とりあえずほっとした。

「さっきの人は知り合い?」
「よく行く店でたまに会うの」
「店……?」

この辺りは飲み屋街だから、当然、店というなら飲み屋しかない。なら、ちゃんはよく飲みに行っているということなのだろうか。それもまさか、一人で?頭の中に疑問が浮かぶ俺に、彼女は「さっきいた場所の近くにあるんだよ」と言った。

(……、それにしても)

まさかこんな場所で会うなんて。幸運なのかはわからないけれど、それでもあんなに心配していた優紀ちゃんの様子を思い返せば、とりあえず彼女が無事でいたことに心底安堵していた。

「清純くんは?」
「えっ」
「なにしてたの、一人?」
「ああ……大学の時の友達と飲んでたんだけどさ。もう帰るとこだったんだ」
「そうなんだ」

答えたところで、そういえば急に抜けちゃってあいつらどうしてるかな、とちょっと気になった。まあいいや、後で謝っておこう。

「じゃあ、これから私と一緒に飲もうよ」
「え?」
「ね、いいよね。せっかく久しぶりに会ったんだもん」

いつの間にか俺と腕を組みながら、にこっと笑った。彼女のふわふわとした白いコートに、随分と明るくなったその髪色がよく映えて見える。

割と飲んだ後だけど、まあ彼女の言う通りせっかくこうやって再会できたんだし、聞きたいことも色々とあるし。と思って、「いいよ」と返事をし、適当に近くの飲み屋に入った。

よく通う店に行ったはいいものの、さっきの男がしつこく絡んできてすぐに出て来てしまったらしいちゃんは、ろくに飲めなかったらしくちょっと怒った様にそう話し、あっという間にカクテルを一杯飲み干していた。

「いつも一人で飲み行くの?」
「そうだよ」

コートを脱いだ彼女の服装は、真冬にはあまり似つかわしくない感じの薄着だった。柔らかい素材のブラウスは透けるほど薄いし、タイトなミニスカートからは惜しげもなくその白い太股が晒されている。

そんな格好して一人で飲んでたら危ないんじゃ……と思うけど、どんな服装をしようとそれは個人の自由なのでそんなこと俺に口出しする権利はない。

母親譲りの可愛らしい甘い顔立ちは変わらないけれど、綺麗に化粧して髪も巻き、耳や手首にキラキラとしたアクセサリーの輝いている彼女の横顔は、以前に会った時よりもずっと大人の女性になっていて思わずどきりとする。

「清純くんどうしたの」
「ううん、なんでもないよ」

じっと眺めていると、不思議そうな顔した彼女と目が合ってはっとし、それに軽く首を振るとそれから初めのうちはしばらく他愛もない話なんかをしていた。

ちゃん、今はなにか仕事してるの?」
「うん」
「なにしてるの」
「んー、アパレル系……?みたいな。でも、もう辞めよっかなあ」
「へえ。そうなんだ」
「清純くんはお仕事、頑張ってるの?サラリーマンなんでしょ」

俺の目を見てにこっと笑い、なんだか甘えた声で話すちゃんは以前の俺に対する素っ気ない態度とはまるで別人の様に思える。

ぴったりとくっついて横へ座り、時々肩や腕を触ってくるので他の男にもこんなことしてるのかなあとちょっと心配になりつつ、本人だとはわかっていても「本当にちゃんだよね?」と度々確認したくなった。

無防備過ぎるそのスカート丈に対して、彼女が動く度にパンツが見えてしまうのではとこっちの方が気が気じゃない。はらはらとしてしまって、嬉しいだなんてとてもそんな気持ちにはなれなかった。

思わず自分の脱いでいたコートを彼女の膝の上に掛けると、「なに?」ときょとんした顔をされる。

「いや、足寒いでしょ」
「んー?平気だよ」
「だめだめ、今日寒いし。体冷えちゃうからさ」
「あはは、清純くんて面白ーい」

べつに何もウケるようなことはしていないつもりなのに、さっきからもう数杯は飲み進めている彼女はすっかり酔っ払っているのだろうか。可笑しそうに、グラス片手に俺の肩を軽く叩きながら上機嫌で笑っている。

しまった、完全に酔ってしまったら肝心な話が聞けない。既に手遅れかもしれないけど、とりあえず俺は優紀ちゃんの話を持ち出してみることにしてみた。

ちゃん、今一人暮らししてるんだってね」
「えーよく知ってるね」
「実はさ、この前優紀ちゃんから連絡があったんだよ」
「……」
ちゃんがちっとも実家に帰らないからって、すごく心配してたよ?」

そう言うと、ちゃんはさっきまで笑っていたのに急に黙り込み、無言で数杯目のグラスをグイと煽って空にする。

「たまには帰って顔見せてあげなよ」
「やだ」
「電話番号だって変えたまま、教えてないんだって?どうしてなの」
「いいでしょ、べつに」
「……ちゃん」

嗜める様に名前を呼ぶと、ちょっと不機嫌そうな顔になる。ちゃんは真面目な良い子だったし、母親の優紀ちゃんすら無視するなんて、この子がそんなことするなんて到底思えないのに。

「優紀ちゃんだけじゃなくて、お父さんだってきっと心配してるよ」
「……あの人はお父さんじゃない」
「え?」
「優紀ちゃんの彼氏だもん……、のパパじゃない」

一瞬寂しそうな表情をした時、ちょうど店員が持ってきた新しい酒のグラスを掴んでそれを口へ運ぶ。自分のパパじゃないというのは、実の父親ではないという意味なのだろうか。

「でも、ちゃんのこと随分可愛がってくれてたんでしょ?優紀ちゃんが言ってたよ」
「……」
「血が繋がってなくたってお父さんには変わりないんだし、そんな風に言ったらお父さんがかわいそうだよ」
「……わかってるよ、そんなの」

コン、と音を立ててグラスをテーブルの上に置くと、彼女は少し頬を膨らませて俯きがちになる。なんだかだいぶ子どもっぽい感じがするけど、この子は、以前からこんな風だっただろうか……?それとも、酔っているせいなのか。

ちゃん、どうして家族にも連絡しないの」
「清純くんには関係ない」
「あるよ、だって友達じゃん。俺だってきみのこと心配なんだよ」
「嘘……」
「嘘なわけないだろ」

つい、ちょっと強い言い方をしてしまうと、彼女は一瞬俺のことを見た後すぐに逸らしてまた下の方を向く。その左手を見れば、薬指には指輪がはまっていない。以前に会った時には確かにあったのに。

……やっぱり、亜久津と、何か関係があるのだろうか?

ちゃん、あいつはどうしたの」
「……誰、あいつって」
「亜久津。きみのお兄ちゃんだよ」
「……」

優紀ちゃんは、亜久津は結婚したのだと言っていた。だけど、わかっているのはそれだけ。詳しいことは何も知らなかった。どうしてなのか、不思議で、でもそれを聞ける人すらいない。

「……知らないよ、あんな奴」

少しの間黙った後、彼女は不機嫌そうな声で答えるとまたグラスを手に取ってそれを煽る。

「結婚したんだってね……?」
「……」
ちゃん、亜久津とは……」
「知らない。だから、知らないって言ってるでしょ」

グラスを口に付けたまま、俺とは目を合わせずにテーブルの上辺りを睨み付ける様にじっと見つめる。

やっぱり、そのことが原因なんだろうけど随分と機嫌が悪いし、気にはなってもやっぱりこの話題を出すのはまずかったのかな。と思っていると、彼女はグイと一口飲んだ後自分から喋り始めた。

「ずっと連絡寄越さなかったくせに、急に、どっかの知らない女と結婚するって言って来たんだってさ」
「……」
「べつに、どこでも好きなとこで誰とでも勝手に暮らせばいいよ。そんなの私には関係ないし、どうでもいい。あんな奴」
「……」
「今頃、その女と子どもでも作ってるんじゃない」

それだけ言うと、憂さを晴らすかの様にまたグラスを煽るので、いい加減心配になって思わずその手を掴むと俺のことを見る。

ちゃん、そんなに飲んで大丈夫?もうそのくらいにしておいたら」
「いいの」
「だめだよ、もうやめた方がいいって」
「やだ。私のことなんかどうでもいいでしょ、ほっといてよ」
「ほっとけるわけないだろ」

嫌がる彼女の手から無理やりグラスを取り上げると、より一層機嫌が悪くなるけどでもこうするしかない。いつも一人でこんなに飲んでいるのだろうか?俺はちゃんのことが心配で仕方ない。

一体、会わない間に何があったというのだろう……。

あの日、街で二人を見掛けた時。ちゃんも亜久津も、幸せそうに見えた。お互いが好きなのならべつに兄妹でもいいのではないか、と俺自身はそう思っていた。だけど、確かに、どこか心配にも思える部分もあって。

果たして、好きの気持ちだけで、やっていけるのだろうか。二人が永遠に愛し合うには、あまりに障害が多過ぎる。

きゅっと口を紡いだ彼女の横顔を眺めながら、俺は、酷く切なくなる気持ちがしていた。