前のバイト先を辞めてからというもの、またどこか新しいところを見つけなければなと思いつつもちょっと風邪を引いたりして体調を崩していたので、少し休んでいた。 こんな休んでていいのかな……と不安に思っても、通帳を見れば、いつだって残高は十分過ぎるくらいにある。それは、自分の働いたお金だけじゃなくて、いつも誰かが入金してくれているから。定期的に、多額のお金が振り込まれていて、いっそ働かなくてもそれだけでやっていけるのではないかと思えるくらい。 誰が、なんてそんなことはわかっていた。そんなの、お父さんの他にはいない。いつだって私が困らない様にたくさんお金をくれて、それは家を出た今も同じ。一度も帰らないのに、ずっと変わらずにそうしてくれる。 でも、それに頼るのは悪いなと思ったし、家にずっといるのは耐えられなかったから。目的もなく、なんのために働いているのかわからなかったけど、とりあえずバイトばかりしていた。 私は、お父さんのこと……酷く思っていたのに。実の娘でもない私のことをこんなにも愛してくれているのに、なんで、私はこんな風なんだろう……。ごめんなさい、と思って、ぽろりとまた涙がこぼれる。 いつかまた会える日が来たら、私のこと、許してくれる……?お父さんも、優紀ちゃんも。ごめんなさい、って素直に言える日が来たら。許してくれるだろうか。 ある日私は、体調もすっかり良くなったので、昼間少し遠い街まで一人で出掛けた。夕方には帰るつもりだったけれど、いつの間にか時間が経っていて随分と遅くなってしまい、すると家に戻る途中、清純くんから電話が掛かって来た。 「ちゃんもしかしてまだ外にいるの」 「うん、ちょっと帰るの遅くなっちゃった」 「だめだよ、今日はすっごく寒いんだからね。早く帰りなよ」 「わかったよ、ごめんね」 確かにその日は、もう3月も下旬だというのにすごく寒かった。風は肌を刺す様に冷たくて、吐く息も白い。見れば、空からはふわふわとした小さな白い塊がちらほらと落ちて来ている。 「……雪だ」 「ええっ、嘘。どうりで寒いわけだよ」 それから、こんな寒い日に出掛けちゃだめだよ。せっかく風邪が治ったばかりなんだから。それに女の子なんだからね危ないよ、と家に着くまでの間私のことを心配するあまり清純くんに懇々と諭され、それにずっと「ごめん」と謝っていた。 「もう着いたから、大丈夫だよ。ありがとう」 「そう?今度からちゃんと俺の言うこと聞くんだよ」 「うん、ごめんね。もうしない……うん、わかったよ」 仁よりお兄ちゃんみたいだな、と思いつつ通話を切ると、真っ白な雪の舞う中、誰かが私の部屋の前に座り込んでいるのが見えた。 (……?、誰だろう) なんだか嫌だ。まだ電話切らなきゃよかったな、とちょっと後悔しつつ、もしかしたら他の人の部屋と間違えてるのかな……と思ってそろそろと様子を見ながら近付いていくと、俯いていた顔を上げたその人と、目が合った。 「……、え……」 固まったまま動けないでいると、その人は立ち上がって、じっと私のことを見る。 「…………仁……?」 名前を呼ぶのと共に吐く息は白く。吸い込んだ空気で、肺の中もなんだかひんやりとする。周囲には誰もいなくて、まるで世界には私達二人きりの様な、すごく静かな夜だった。 なんで、どうしてこんな所にいるんだろう。ずっと、待っていたのだろうか。それともこれは夢。本当に、仁なの……?突然の出来事に混乱しながらも、ゆっくりと近付き、すぐ目の前まで行ってその顔を見上げればやっぱり紛れもなく、仁だった。 仁は何も言わない。ただじっと私のことを見下ろして、黙って立っている。しばらくの間、私もその目を見つめ返すだけで、言葉が出なかった。 長く離れている間に感じていた悲しみや寂しさ。つらくて、ずっと泣いて、苦しかった。聞きたいことも知りたいことも、数え切れないくらいにあるのに。静かなその目をじっと見つめれば、様々な感情が涙となって、瞳に滲む。 「…………どこに行ってたの……?」 震えた声でそう尋ねれば、仁は少しだけ目を細めて瞬きする。懐かしさと、切なさと。溢れ出す涙が、堪え切れずに目から零れ落ちる。そして気が付けば、私はその背中に腕を回して抱き付いていた。 「仁……、会いたかったよぉ……」 涙はそれからも次から次へと溢れて来る。これは夢なのだろうか。もしも夢なら、それでもいい。いっそ、このまま一生目が覚めなければいい……。仁の腕が私の背中を撫でた後、ぎゅっと抱き締められながら、涙が止まらなかった。 部屋の中に入った後も、私はずっと泣き続けていた。ベッドの上に座って抱き締められたまま、仁はずっと何も言わず、時折頭を撫でるだけ。 しばらくしてようやく落ち着き、過呼吸の様な苦しさが収まると、抱き付いたままそろそろと顔を見上げる。静かに見つめる仁は黙ったまま、手で頬の涙を拭い、張り付いた私の髪をそっと払った。 泣き疲れたせいかぼんやりとして、私はゆっくりと呼吸しながらその胸に頬を付けて寄り掛かったまま。夢じゃない……そう思っても、ちゃんと理解にするまでには時間が掛かった。 やっと体を離して真っ直ぐにその顔を見てみると、3年振りに会う仁は、なんだか随分と大人の男の人の様に感じた。だって、もうじき仁は26歳になる。離れている間、何があったのだろう。どうしていたのだろう。 ……結婚。その言葉を思い出せば、また、胸が痛くなる。 「……どうしたの……。急に、来たりして……」 「……」 「なんで、ここがわかったの……?」 よくよく考えてみれば不思議だ。いくら仁でも、魔法が使えるわけじゃないし、私がここに住んでいることは勝手にはわからないだろう。誰かに聞いたのかな。考え付くのは、優紀ちゃんくらいしかいないけど。 だけど仁はゆっくり瞬きするだけで何も答えないからわからない。 「その、……なにか用だったの」 「……」 「……仁、……」 「……お前の顔、見に来た」 「……」 私の……?どうして。嬉しいのに、嬉しいはずなのに、やっぱり疑問ばかり湧いてくる。これまでずっと、私には連絡もくれなかったのに。当然、会いにも来てくれなくて。だからもう嫌われているのだと思っていた。 私のことなんて忘れて、どこかで好きな人と一緒に過ごして結婚して、幸せに暮らしているのだとばかり。そんなのは嫌なのに、信じたくないのに。でも、それが現実だからって。必死に自分に、言い聞かせていた。 「……なんで……?」 お前、俺の女でもねえくせに。と冷たく言い放った仁のあの言葉が、ずっとこの胸に鋭く深く突き刺さっていて、今でも痛くて……。時々、呼吸が浅くなる。 それをまた、思い出せば、じわりと瞳に涙が滲んでしまう。 「……だって、仁……私のこと、うんざりって……」 「……」 「だって……出てけって……、」 「……」 「女の人と暮らす、って言うから……だから、私……」 あの日、仁に冷たく突き放された日。何度も勝手に頭の中によみがえってはその度に泣いていた。離れたくなんてないのに、部屋を出て行くしかなかった。悲しみに暮れた記憶に、せっかく泣き止んだというのに再び涙が溢れ出す。 怖くて、ずっと連絡できなかった。何度もしようと思っても、また冷たくされたら。無視されたら。と考えたら、指が震えて、どうしてもボタンが押せない。 「……だって、嫌いなんだと思ったからぁ……」 私のことなんて大嫌いなんだ。もう顔も見たくないんだ。だから、もう一生会えない。声も聞けない。仁は誰かのものになってしまって、もっと他にずっと大事な人がいて。二度と戻って来ない。そう……思っていたのに。 しゃくり上げながら泣いていると、また仁に抱き締められた。ぎゅっと包み込み込まれて、その温かさに、余計悲しみが込み上げて来る。あの冷たい、仁を思い出して、胸が苦しくなる。 「なんで……なんで、ひどいこと言うの……っ」 「……」 「なんで冷たくするの……、出てけって言うのぉ……」 あの日、言えなかった言葉が今さらになって溢れ出してくる。怖くて聞けなかった。ずっと胸に仕舞い込み続けて、忘れようと思ってもできずにいた。悲しくて、つらくて仕方なくて。涙をぼろぼろと零しながら、仁を責める。 「やだ、他の人好きになっちゃやだ……結婚しちゃやだあ」 「……」 「なんで勝手なことするの……っ、いつものこと置いて、どっかいっちゃうのぉ……」 抱き締めるだけで何も答えない仁に、一方的に想いをぶつけてばかり。それでも一度言葉に出してしまえば、もう自分でも止められない。どうしたらいいのかわからない。 「仁のばかぁ……」 「……悪かった」 「ばかばかばかばか、……大きらいっ」 「悪かったよ」 頭を撫でながら、悪かったと謝る仁に泣きじゃくりながら、嫌い嫌いと連呼する。それから、一生分の「嫌い」を言い続けている間、仁はずっと私に、「悪かった」と謝り続けていた。 気の済むまで仁のことを責めて、一つ息を吐くと、ふと我に返った。私は、また子どもみたいなことしてる。だけど、もう他にこの想いの行き場がない……。そう思いながら、仁の服をぎゅっと掴み、その胸に顔を押し付ける。 (……仁の匂いだ……) 寂しさのあまり自分も同じ香りを身に纏っていた、懐かしく心の落ち着く、あの匂いがする。 それからは黙ったまま、仁に頬を撫でられながらぼんやりとしていたけれど、私はあることに気が付いてその手を軽く掴んだ。 「……仁、なんで……この指輪してるの……?」 仁の左手にはまっているのは、以前に私がねだって買ってもらったペアリングだった。最初は似ているだけかと思ったけれど、よくよく見ればやっぱり私も持っているのと同じ物だ。その手を掴んだまま、仁の顔を見上げる。 「お前が、絶対外すなって言ったんだろ」 「……え……?」 確かに、これを初めてつけた時に私は仁にそう約束させて、仁はそれに「ああ」と頷いていた。だけど、あの時はまだ一緒にいたから。でも、今はもう違うのに……。 当然、なんで。という疑問が湧いてくる。 「だって……。仁、結婚指輪は……?」 「んなもんねえ」 「……なんで?今は奥さんと……同じの、してるんじゃないの」 「そんな奴いねえよ」 ……?仁が何を言っているのかよくわからない。さっきまで泣いていたせいなのか、ちっとも頭が働かなくて、思考が追いつかない。 「……離婚したの?」 「してねえ」 「じゃ、なに……?よくわかんない……」 「はなから結婚なんざしてねえんだよ」 「……なにが?なに、言ってるの……?」 結婚なんかしてない、って言ったの、今。でも、だって、優紀ちゃんが仁は結婚したって……電話があったって。だから、当然信じていたのに。それなのに……。 「嘘、だったってこと……?」 「……」 「だって、結婚しちゃったって、優紀ちゃんが言うから……だから私……。だって、仁……嘘じゃないって、あの時」 「……」 「なんで……なんで、そんな嘘吐くの」 「……」 「仁……」 仁の部屋を出て行けと言われた時、嘘ならいいと思った。だけど、仁は嘘じゃないと言うから。信じたくもないけれど、信じるしかなった。なんで、と問い詰める私のことを見て仁は黙っていたけれど、しばらくすると静かな声でぼそりと呟く様に言った。 「……お前のことが、好きだからだ」 「……」 ぎゅ、っとより一層抱き締められた。私のことが好きだから……?言われた通りの言葉を頭の中で繰り返してみてもちっともわからなくて、理解できない。 「お前が好きだ」 じっ、と目を見つめられる。真っ直ぐ過ぎるその言葉と眼差しに、一瞬、呼吸をするのを忘れてしまうくらい。……それなら、嫌いだから離れて行ったのではないのだろうか。私が邪魔だから、いらないから、冷たくしたのでは。 「私のことが……好きなの?」 「……ああ」 「ほんとに……?」 「ああ」 「……じゃあ、出てけって言ったのも……私のため?」 もしかしたら……もしかしたら、私が子どもを欲しいなんて言ったりしたから。仁は私のためを想ってのことだったのかもしれない、とふと思った。自分のことしか考えられない私とは違って仁は聡いから。そうしたのかも、なんて。 「……」 だけど、そう思っても口には出せずに黙ったまま、どこか寂しげなその目を見つめ、話してくれるのを待っていた。だけど、いくら時間が経っても仁はそれ以上何も言わない。 何か事情があるのだろう。言いたくないのなら、無理に追求する必要もないと思いつつ、やっぱりどうしても気になってしまうけれど。でも、今は、仁が私のことを「好き」と言ってくれたそれだけで心の底からほっとして、もう十分な気持ちだった。 ……私も、仁のことが好き……。 離れている間、たとえ仁が結婚したのだと聞いても、忘れることなんてできるはずなかった。ずっと、誰よりも、好きだった。今も、これからも。 「仁……」 「……」 「……私も、好き……」 いっそ叫んでしまいたいくらい。だけど、喉の奥から小さく出たその声は微かに震えていた。 「お前……、男がいんのか」 「……いないよ」 「……」 「あれから、ずっと……。ほんとだよ」 「……」 「好きなのは、仁だけ……」 そう答えると、ゆっくりと瞬きする仁の目は、どこか安堵した様子に見える。そして頭をそっと撫でられた後、顔が近付いて唇にキスされると、目を瞑り、数秒の間そのまま懐かしい感触を味わっていた。 ……全然わからない。仁はいつも言葉足らずで、勝手なことばっかりして。どこかへ行ってしまい連絡も寄越さないかと思えば急に戻って来たりする。私は理解できないし、きっとこれからもできないだろう。 それでも、もういい。仁がここに、私のそばに、いてくれるのなら……。唇が離れ、ゆっくり瞼を開けた後にまたその目をじっと見つめ、静かに尋ねる。 「帰って来てくれたんだよね……?」 「……ああ」 「じゃあ……もうどこにも行かない?ずっと一緒にいてくれる……?」 「ああ」 夢みたい……。仁が帰って来てくれるなんて。また、そばにいてくれるなんて。私のことなんてもうとっくに忘れてしまったのだと思っていたけれど、違ったんだ。嬉しい……。そんな期待しちゃいけないと自分に言いながらも、本当は、ずっとそんなことばかり願っていた。 「寂しかった……」 「……」 「……ん、」 優しいけれど、貪っているみたいにも感じるキスはいつもの仁らしくないけど、でも今はそれでちょうどよかった。まるで離れていた時間を取り戻すかの様に、私達はしばらくの間、何度もキスを繰り返していた。 そのまま、そっとベッドの上に押し倒されると、仁は私の頬を撫でる。 「お前、ちゃんとメシ食ってんのか」 どこか心配そうな色をするその瞳を見つめ、「うん」とは返せなかった。私は元々食事を取ることにあまり関心がなく、その傾向は仁と別れてからより顕著になった。清純くんにも心配されて、何度も注意されていたほどで。 私は、仁がいないと生きていけない。仁がそばにいなければ生きていく気になれない。だから何もかもがどうでもよくて、ごはんも食べたくない。いっそもう死んでしまってもいいとさえ、思っていた。それがどんなに愚かな考えだとはわかっていても。 「……仁の作ったごはんが食べたい……」 そう言うと、仁は私の頭を撫でた後、優しく髪を梳いた。柔らかな懐かしい眼差しに、冷たく凍りついていたこの心が溶け出して、次第に温かさを帯びていく感覚がする。 「好きなだけ食わせてやるよ」 「……うん」 指を絡ませて、手を繋ぎながら落とされたキスの甘さに、この胸に巣食っていた悲しみや苦しみは消えて失くなっていくかの様でも、それでも僅かに残った氷に、小さく痛みを感じる。 「……ずっと私のこと、好きだったの……?離れてる間も……」 「ああ」 「じゃあ今も……、今でも私のことが好き……?」 さっき「好き」と言われたというのに私はなんだかまだどこか不安で、じっと見つめながらそう聞いてみると、仁の目は少し笑って見える。 「……ああ。吐き気がするくらいな」 ぎゅっと握られた手に力が入り、頬に優しくキスされる。私だけじゃなくて、仁も、私のことをずっと好きでいてくれたんだ。私は妹なのに……。他の人と同じ様な未来を手に入れることはできなくても、それでもいいと言うのだろうか。 そんなこと考えたくもないのに。だけど、どんなに怖くても聞かずにはいられない。 「でも……私、妹だよ……?」 「……」 「……私でいいの……?」 だから離れて行ったのだと思った。仁は、結婚して家庭を持ちたいからなんじゃないかって。だから、妹の私とはそんなことできないから、仕方がないと苦しみながらも納得せざるを得なかった。 だけど、また私の元へ戻って来てくれたのなら。そんなの全部嘘で、本当は奥さんなんていなかったというのなら。そうではないのだろうか。 「お前がいいんだよ」 私はずっと、仁に私だから好きなのだと言って欲しかった。もしかしたら、兄である仁は妹の私の我儘に付き合ってくれているだけなんじゃないかと、いつも不安だった。 「お前が好きだ……」 真っ直ぐなその言葉と視線に、じわじわと視界に涙が滲む。そして瞳に溜まった涙がぽろりと零れ、横へと滑り落ちた。仁が私でいいと言ってくれるのなら、もう、他に欲しいものなど何もない。 「……私も、好き……」 「……そうか」 「好き……大好き、仁…………愛してる……」 頬をそっと撫でられて、それからも涙はぽろぽろと零れ落ちる。優しくキスされてぎゅうっと抱き締められるとその温かさに、まるで何もかもが満たされていく心地が、していた……。 |