「亜久津さんの旦那さん、今日も来てるね」 いつもと同じ窓際の席に座って食事を取る仁のことを遠巻きに眺めながら、少し歳上の女の先輩は明るい口調でこっそりと話し掛けてくる。 私はあれから少しして、喫茶店でアルバイトを始めていた。初め仁には反対されたけど、せっかくだから私も何か新しいことをしてみたいのだと話せば最終的には仕方なさそうに認めてくれた。 まあそれは建前で、実際にはこれ以上仁を振り回さないためにはどうしたらいいのか自分なりに考えた結果だったのだけど。日中数時間とはいえ働いていれば、少しは仁が家にいないことの寂しさも紛れるかと思って。 それにここは、自宅からも近かった。もともと仁の職場近くにマンションを借りていて、この店はその職場に近い所にしたから。仁が認めてくれた理由も、そこが大きいのだと思う。 「寡黙でクールだし。背も高いし。それに、ちょっと悪そうな感じで格好いい〜」 「そうですか?」 「そうだよ〜。いいなあ亜久津さん、格好いい旦那さんがいて。あんな男の人、この辺りにはなかなかいないよ」 「ふうん……」 どうやら、いつの間にか仁のファンになっている様子の彼女は、いつもそんなことを言ってはなんだか楽しそうにしている。 「毎日来てくれるよね、奥さんの顔見に」 「なんか勝手に来るんですよね」 仁はいつもランチの時間になるとやって来る。入店しても私が席に案内するまで待ってるし、注文も、私以外の従業員には「あいつに頼むからいい」と言って断るらしい。だから当然、お店の人に「あの人誰」と聞かれることとなり、私は少し考えた後、それに「旦那です」と答えた。 名字が一緒だから、同じマンションの中には私達のことを夫婦だと思い込んる人もいるみたいだ。私はそう思われるのが嬉しかったから、たとえ勘違いされていたとしても否定はしないでままでいた。 お店の人には、仁が私に会うために足繁く通っていると言われているけれど、実際には私の方が仁に会いたくて仕方がないのだ。だから、わざわざバイト先に喫茶店を選んだ。仁はそれがわかっているのか、何も言わなくてもここで働くと伝えれば、毎日顔を出してくれる。 たまに、何かの都合で来るのが遅くなったりした時なんて気になって仕事が手に付かないし、最終的に来なかった日なんてあれば、家に帰った後にどうして来てくれなかったのだと泣き付いてしまう。それを仁になだめられながら、自分は子どもかと思っても、だって寂しくて仕方がない。 でも、そんなの恥ずかしいから他の人には知られたくなくて、だからいつも素っ気ない振りをしていた。 「いつも晩ご飯なにがいいか聞いて行くでしょ。旦那さんがごはん作ってくれるの?」 「はい。私、旦那にお前は料理するなって言われてるので」 「へえー!いいなあ」 「それに家事はみんな旦那がやっちゃうから、私、家にいても暇なんですよね」 「え〜優しい〜!愛妻家なんだあ」 「そんなんじゃないですよ」 「いや絶対大好きだよ、そんなに尽くしてくれるなんて。だって知ってる?旦那さんいつも、さり気なーく亜久津さんのこと見てるんだよ……きゃ、こっち来る」 食べ終わった仁が席を立ってレジにいた私達のところへやって来ると、彼女はさっと私の後ろへ隠れてしまった。お会計も、私にしか頼まないと知っているのだろう。 「……オイ」 レシートとお釣りを渡した後、仁がぼそりと口を開く。 「なに?」 「晩メシなに食いてえか決まってんのか」 「うーん……、なんでもいい」 「あ?昨日もそう言ってただろうが」 「だって、本当になんでもいいんだもん」 仁の作るごはんなら全部好きだし、という意味で言ったのだけれど。伝わったのだろうか、それ以上は聞いてこなかった。後ろでその様子を見ていた先輩が、小声で「格好いい」と漏らす言葉が耳に入るのと同時に、ぎゅっと私の腕の辺りの服の生地を掴まれるのを感じる。 気が付いたのか仁はちらりと私の後ろにいる彼女を一瞬だけ見ると、またすぐに私に視線を戻し、「終わったらとっとと帰れよ」とだけ言うと去って行った。そしてドアが閉まったその後には、そこにくっ付いている鈴がカラコロと鳴る音が残る。 「格好良過ぎる……!」 「そうですか?」 「亜久津さんてクールだね。旦那さんのこと好きじゃないの」 「べつに」 「えー嘘でしょ!素敵な旦那さんじゃん、もっと優しくしてあげればいいのに」 「いいんですよ、あんな奴」 あんな奴?!と驚いた声を上げる先輩のことを横目に、レジへお金を仕舞った後、仁が出て行った店のドアを黙ったままじっと眺めていた。 「ねえ好きって言って……、が一番好きだって言ってよぉ」 夜になると私は、ベッドの中で仁に抱かれながら、甘えた声でそんなことをねだっていた。そして「が一番好きだ」と、仁の口から望み通りの言葉が返って来るとこの瞳からは涙が溢れ、ぽろぽろと零れ落ちる。 「……泣くな」 「だって、だってぇ仁のこと好き……好きなの、っ」 「わかったよ」 頭を撫でられた後に、ぎゅっと抱き締められる。自分でも何故こんなに涙が出るのかはよくわからない。だけど、最近はもう、仁と肌を重ねる度にまるで子どもの様に泣きじゃくってしまう。 この頃は、いつも仁と抱き合っていないとなんだか落ち着かない。いつか、仁を他の誰かにとられてしまうのではないか……。どこへも行かないと何度も言ってくれるのに。それでも行く宛てもない不安は、時間が経つにつれてこの心の中で、静かに大きくなってゆくばかり。 昼も夜も関係なく、暇さえあればしたいとねだり、仁は黙ってそれに付き合ってくれた。仁が私の中にいてくれさえすれば、途方もない不安や寂しさについてもなんだか気が紛れて満たされる様な気がしたし、それにその間は私だけが仁のことを独り占めにできる……。 「ぎゅってして、ねえ仁ぎゅってして」 「さっきからずっとしてんだろが」 「もっと、もっと強くぎゅってしてよぉ仁……」 「……ったく」 痛くなることを気に掛けて加減してくれているのだとわかってはいても、本当は、窒息してしまうくらいにきつく抱き締めてられてみたかった。息ができないくらい、もう、他には何も考えられないくらいに……。 だけど仁がそんなことするわけない。結局は、少し力が強くなるだけ。その優しさをなんだか歯がゆく思いながらも、同時に、愛されているのだとも感じていた。 「仁……好き、好きぃ……」 自分もその背中に回す腕にぎゅっと力を込めながら、何度も好きとばかり繰り返す。もう私を置いては行かないとわかっているのに、何故こんなにも不安になるの。昼間の、バイト先の先輩の言葉を思い出して、また涙が溢れてくる。 仁はすべては私のものだ。だから、誰にもあげない。ほんの少しだって……。 「やだ、他の女の人のこと見ちゃやだ……考えちゃやだ、思い出しちゃやだぁっ……」 くだらない駄々をこねていることは痛いくらいに承知でも、何故だか仁を前にしては抑えられない。優しく抱かれる度に、いつまでも昔の彼女や仁に関わる他の女性のことを思い出してヤキモチをやく自分にいい加減うんざりとしても、心の中の自分は「愛しているから」などと体のいい言い訳をする。 「お前しか見てねえよ」 そう言ってぼろぼろと零れる涙を手で拭い、舌を絡めながら深くキスをされると少しだけ気持ちが落ち着いた。そんなこと無理やり言わせたところで意味などあるのか、と思っても、嬉しいと喜んでしまう。 「のこと好き……?」 「ああ」 「だけだよね、だけが好きなんだよね」 「ああ……お前だけだ」 頭を撫でながら穏やかな声音でそう言うと、チュ、と音を立てて頬に口付けられる。柔らかい唇の感触や、絶えずこの体に与えられる快感に、甘い溜息が漏れた。この上もない優しさに満たされているというのに、それでも私にはまだ欲しい物があるのか。 仁の視界や思い出の中に自分だけが映るなんて、そんなの不可能だ。できるわけない。誰かがそんなことを言ったらきっと、「何言ってるの」と答えてしまうのに。私はそれを今、思ってる……。 「……っあ……仁……、仁」 逞しく大きな背中に回した腕に一層力を込め、泣き声の様な喘ぎに混ざりながらその名前を繰り返す。仁と一つになるのは、こんなにも気持ちが良くて幸せな思いがするのに、何故だか切ない。 ぴったりとくっついた二人の体が混ざって溶け合って、もう、永遠にこのまま離れずにいられたらいいのに。ずっとずっと一緒ならいいのに……。涙がまた一粒、零れ落ちる。 「……中に出してやろうか?」 指で私の髪を梳きながら、仁が耳元で囁いた。 私の機嫌が悪いと、仁は時々、そんなことを言う。良いも悪いも関係なく、それはただ私の機嫌を取るためだけに。いけないこととはわかっていながらも、「うん」と頷けば、その通りにしてくれるのだろう。 ……仁は随分と優しい男になってしまった。以前の鋭く尖った仁に心惹かれる部分のあった私は、今やすっかり牙の抜かれてしまった彼のことをなんだか物足りなくも感じてしまうけれど。それでも溶けてしまうくらいに毎日甘やかされ、約束通り大事にされる生活はあまりにも幸せで。 仁は私のためならなんでもしてくれるから、次第に、物事の分別が付かなくなっていくのがなんだか怖い。堕ちるのならば簡単だ。私が願いさえすれば、仁はきっとどこまでも一緒に堕ちてくれるだろう。それはそれで幸せに思える。……だけど。 「……ううん、……いい」 私は僅かに首を横に振った。 「仁が私のそばにいてくれれば、それでいい……」 欲望なんてどこまでも果てしない。一つ叶えば、またすぐに違う望みが湧いてくる。それが人間の性なのか、それとも私が強欲なだけなのか……。 でも、何を置いても私には仁の他に欲しいものなどない。それは紛れもない真実で、生涯絶対に変わることはない。離れている三年の間、私はこれまで当たり前だった日常がどんなにか尊くて大切なものであったのかを嫌というほどに痛感していた。 だから、もう二度と戻らないと思っていた唯一無二のものがまたこの手の中に戻ってきてくれた今、これ以上を望むことなどしない。してはいけない。 ……今にも失いそうになる理性の中で、かろうじて、そう思えた。 事が終わってからも仁から離れずに、照明を消して枕元の小さなライトの明かりだけに包まれた後もちっとも眠りには付かないまま。さっきからずっと、仁に話し掛けていた。それに仁はちょっと眠たそうにしながらも、特に文句は言わずに付き合ってくれる。 「ねえ私のこと好き?」 「……ああ」 「ちゃんと言って」 「が好きだ」 「愛してる?」 「愛してる……」 ちょっと瞼の重たくなってきた様子の仁の胸を軽くさすって、「寝ちゃだめ、起きてよぉ」と言うと黙ったまま何度か瞬きをする。だってまだ仁と話していたい……と、ちっとも自分自身に対するの反省の効果がない私が、相変わらず仁のことを振り回す。 「一生そばにいて、私のことだけ見つめるって、誓う?」 そう言うと、仁はとろんとした目をしながらも私の頬を撫で、そして「誓う」と口に出した。 「最初から全部言って」 「が好きだ……愛してる。一生そばにいてお前のことだけ見つめる……」 「……だめ。誓う、が入ってない。もう一回」 このやり取りは一体、何度目だろう。これまでに、もうどれくらい仁にそう言わせたか覚えていない。だけど仁は、いつも私の気が済むまで付き合ってくれる。一晩に何回でも、何時間でも。 私のダメ出しに、少し目が覚めたらしい仁はさっきよりも目を大きく開くと、もう一度今度はちゃんと”誓う”を入れて要求した通りの言葉を繰り返した。それはふざけた様子もなく、私を見つめながら真剣な表情で言うので、なんだか愉しさから笑いが込み上げてくる。 真面目な顔した仁と、変なこと言わせてる自分と、こんな夜中に何やってるんだろうという思いが混ざりあって、声を上げながらけらけらと笑ってしまう。 「……笑ってんじゃねえよ」 仁はそんな私の頭を撫でながら不機嫌そうな顔をするものの、その声は優しくて、ちっとも怒ってなんかいないことはわかっている。 じっとその目を見つめていると、仁は寝ていた体を少し起こして、唇にキスをした。それを二度、三度と続けているうちに瞼がとろりと重たくなってきて、今度は私の方がなんだか眠たい気持ちになってしまう。 「ん、……」 目を瞑ったまま仁の部屋着の生地をきゅ、と軽く掴んでさり気なく「眠い」という意思表示をしてみても、わざとなのか気付いていないのかキスは続いたまま。音を立てながら繰り返し、まだ終わる気配はない。仕方なく仁の肩を軽く押してみると、少しして唇が離れた。 「……なんだ、ねみぃのかよ」 「うん……」 「まだ寝るな、つったのはお前だろ」 「……だってぇ……」 「ぐずったり急に眠たがったり……、ガキ通り越して赤ん坊みてえだな」 「ちがうもん……」 「違うのかよ」 「……うん……」 頭を撫でられながら、半ばぼんやりとした意識の中で小さく抗議する。この頃では、私はよく仁にお前は赤ん坊だと言われていた。確かに泣きじゃくっているからそう思われても仕方ないけれど、でももう大人なのにそんなの受け入れるわけにはいかないからその度に反論してみる。だけど、聞き入れてはもらえていない。 「じゃ、なんだよ」 「奥さんだもん……」 「……あ?」 「仁の奥さんなの……」 眠くてぼんやりしているせいなのか、私はそんなことを口に出していた。これまで、何度も心の中では勝手に自分のことを仁の奥さんにしていたけれど、なんだか恥ずかしくて本人に言ったことはなかった。 でも本当はずっと憧れてて、そうなりたくて、仕方なかった。妹なんだから無理だとはわかっていても。だから勝手に、お店の人には仁のこと旦那だなんて言ったりして。 「こんな赤ん坊みてぇな嫁がいるかよ」 「ちがうよ……私、赤ちゃんじゃないもん……」 「そう思ってんのはお前だけだろが。娘だってんならまだ納得できるけどな」 「やだぁ……奥さんがいい」 「そんなに嫁になりてえのかよ」 「……うん」 てっきり呆れられるかと思ったけれど、仁はなんだか優しい目をしてる。将来の夢を語る小さな子どもでも眺めているつもりなのかな……。 「私のこと、仁の奥さんにして……」 「……わかったよ」 柔らかく笑った後に、頬をむにっと軽く摘まれる。それに「いひゃい」と声が漏れると、手はすぐにぱっと離れた後、前髪を払うとおでこにキスをされた。それから黙ったまま、じっと見つめられる。仁にとっては子ども相手に思っているかもしれないけれど、それでも嬉しかった。 ぎゅっと抱き付いて目を瞑ると、「好き」という言葉が口から漏れる。同じ様に抱き締め返されて頭を撫でられると、なんだか胸がいっぱいで、私はこの上もなく幸せな気持ちで眠りについた……。 仁がさり気なく私のことを見ている、という先輩の言葉は本当かもしれない。他のお客の給仕をしながら時々、席に座っている仁の方を向いてみると、その度に目が合った。そして、それはすぐにぱっと逸れてしまう。 「仁、なにか用」 「……あ?」 「だって、私のこと見てなかった?」 食べ終わった頃合いを見計らって近付き、わざとそんなことを聞いてみると眉間に皺を寄せて明らかに不機嫌そうな顔をする。三年の間に禁煙していたらしく、テーブルの上に置かれた灰皿は使われることもなく綺麗なままだ。 「見てねえよ」 「嘘、見てたでしょ。さっきからずっと」 「馬鹿か、なにが面白くてテメエのツラなんざ見なきゃなんねえんだよ」 「可愛いと思って眺めてたんじゃないの」 「……ついにいかれやがったか」 仁は軽く息を吐いてばっと立ち上がると、じっと私のことを見下ろす。それから、ぼそりと「勘定」とだけ言うとさっさとレジの方へ向かって歩いて行ってしまった。レジにいた先輩は、仁が近付いて来ることに気が付くと、手招きしながら口パクで私の名前を呼んでいる。 交代して私がレジに立つと、仁は無言でポケットから財布を取り出す。今日は晩ご飯どうするか聞かないのかな……と思っていると、突然、頬を摘まれたので思わず顔を上げて仁のことを見ると、口の端をつり上げて笑ってる。 少し離れた所に立っている先輩が、目を丸くしているのが視界の隅に映った。外なのに珍しい、急にどうしたのだろうとなんだか私の方が慌ててしまい仁の手を掴むと、それはすぐに離れて何事もなかったかの様に何食わぬ顔で代金を支払う。 「……で?可愛い奥サンは、晩メシなにが食いてえんだ?」 「……え、……?」 思わずお釣りを掴む手が滑り、うっかり落としそうになった。仁は私のそんな様子を見て笑ってる。何言ってるんだろう……、途端に恥ずかしくなって、なんだか体が熱くなっていくのを感じた。 「な、なんでもいい……」 「そうかよ。なら離乳食でも作ってやるよ」 「赤ちゃんじゃないってばっ」 そう言い返すと、絶対にからかってる仁は珍しく可笑しそうに笑いながら、ポンと私の頭に手を置き、軽くくしゃっとするとくるりと反対を向いて店を出て行った。するとすぐに先輩が駆けて来て、「なに?!今の!!」と問い詰められたけど、そんなの私が聞きたい。 「……知りません」 「なんだ〜、実はラブラブなんじゃん」 「違います」 「ふーん」 「……」 「亜久津さん。顔、赤いよ?」 そんなの言われなくてもわかってるけど、それにも私は無理やり「違います」と否定しながら、お金をレジに仕舞う。俯いて早く熱が冷めるのを待ちながら、ドアの鈴の音がまだカラコロと残っているのを耳で聞いていた。 |