つまらないと感じていた高校生活も思い返せばあっという間だった様な気もする。卒業式、周囲の生徒はみんな鼻をすすってたみたいだけど、それにつられて私の目から涙がこぼれたりすることはなかった。 「ちゃん元気でね。学校が違っても、僕達これからもずっと友達だよ」 校舎前で抱き合って別れを惜しむ生徒達の中、卒業証書の筒を握りながら壇くんは笑った。あの後、壇くんは志望通りの美術大学に無事合格し、私はそのまま山吹の短大に進むことになった。 そんな風に言ってくれる友人を得ることができるなんて、中学に入学したばかりの頃の私にはまるで想像もできず、この6年間彼がいつもそばにいてくれて、私はどんなに救われただろう。 嫌だったこともつらかったことも、壇くんのおかげでなんでもない、平気なことの様に思えた。 「うん……壇くん今まで本当にありがとう。私がちゃんと卒業できたのは壇くんのお陰だよ」 「そんな、大げさだよ。僕の方こそ、ちゃんがいてくれて楽しかったよ」 彼は変わった人だ。あの不良の仁くんを尊敬してたり、その妹の私に臆さず話し掛けてきたり。優しくて柔らかい印象なのに、実は芯が強くて簡単に折れたりしないし。それにテニスを頑張っていたりちゃんと絵の勉強をしてたりしていて、とてもしっかりしてる。 卒業式には優紀ちゃんとお父さんも来てくれて、優紀ちゃんは壇くんのこと抱き締めてお礼を言っていた。「のこと、どうもありがとう」って、泣いてた。 「じゃあね、ちゃん。またね」 最後の言葉は「さよなら」じゃなかった。涙に濡れてもいなかった。手を振りながら、笑顔で別れた私たちの道は、たとえ遠く離れていたとしても、不思議と寂しさは感じなかった。 新しい生活には、べつに興味もなかったけど、以前ほどの苦痛はない。短大だから女子ばかりで、女友達を作るのが苦手な私は相変わらず一人で過ごしてたけど、高校ほどの息苦しさもなかった。 春になっても、仁くんは私達のところへ来たりはしないまま。優紀ちゃんはまめに連絡したり、一人暮らししてるアパートまで行ったりしてるみたいだけど、私は一緒には行けなかった。今さら、どんな顔して会えばいいのかわからなかったから。 このまま嫌いと思い続けて、それがいつか本当になればいい。だって、あの人を好きと思って、彼女にヤキモチをやいたところで、べつにどうにもできないし。何の意味もないってわかっている。 だから、これでよかったのだと、なんとか自分を納得させようとしていたけれど、まだ完全には思い込めずにいた。 今日の授業を終わった後、まだ教室に残ってお喋りに盛り上がる他の生徒達の間をすり抜けて外へ出た。そのまま歩いていると、校門の辺りでよく見知った顔がこちらへ手を振っている。 「……清純くん?」 「やあちゃん、久しぶり」 「なんで……?私のこと待ってたの?」 そう聞けば清純くんは「うん」と明るく笑った。彼が通う山吹の大学のキャンパスはここから少し離れたところにあって、授業が早く終わった今日は帰り掛けに寄ってみたのだと言う。 「私がここに入ったことよく知ってたね」 「この前壇くんに会ってさ、聞いたんだ。ごめんね、急に来て。迷惑だったかな」 「そんなことないよ、嬉しい」 「そっか。そう言ってもらえると、俺も嬉しいよ〜。この後時間あるかな、よかったらデートしない?」 「いいよ」 そう頷くと、清純くんはにっこりと笑った。平気な振りをしていても、新しい場所での生活は自分で思うより不安だったのだろうか、久しぶりに彼の顔を見てすごくほっとした。 清純くんおすすめのカフェは、ケーキが美味しくて内装もオシャレなので女子に人気があるらしい。慣れた様子で私の分も注文してくれた後、賑やかな店内で、「さて」と私の方に向き直った。 「前にお茶した時以来かな。ちゃんもちょっと大人っぽくなったね、前も可愛かったけど今はもっと可愛いよ」 「……そうかな」 「うん。しばらく連絡できなくてごめんね、元気にしてた?」 「元気だったよ。清純くんは?」 「元気元気。いや〜大学なんて暇とばかり思ってたけど、ゼミとか課題とかバイトとか合コンとか、色々忙しくてさ」 「そうなんだ」 最後の方は大学関係ない様な気もするけど、彼らしくて少し笑った。優しくて明るくて人気者だし、気を使って褒めてくれるしきっとモテるだろうに今でもこうして時々私のことを思い出してくれるのが嬉しかった。 大学の話とか、友達の話とか、今女子の間で流行ってるものとか色々知ってる清純くんはいつも明るく楽しく盛り上げてくれる。気の利いた返しができなくても、そんなの気に病む必要もないくらい話し上手だった。 「そうだ。優紀ちゃん結婚したんだってね、壇くんに聞いたよ。遅くなっちゃったけどおめでとうって伝えてくれるかな」 「うん、わかった。きっと喜ぶよ」 「お父さんにもよろしくね。あ、そう言えば、亜久津って今どうしてる?家出たんでしょ」 「……え、うん。べつに、そのままだけど」 「そっかあ。ねえちゃん、あいつの連絡先知らない?」 「……。なんで?」 さっきまでずっと楽しい気分だったのに、その名前を出されて私は急に笑えなくなってしまう。 「いや俺大学の女の子何人かにさ、亜久津紹介して欲しいって頼まれてるんだよ〜」 「……」 「あいつより俺の方がいいのにって言っても聞いてくれないんだ。なんかさあ、あの悪い感じがいいんだって。強引にされたいのかな?女の子ってよくわかんないよね〜。ね?ちゃん」 「……」 「あ、ごめんね女の子よくわかんないとか言っちゃって……もしかして怒ってる?」 「……べつに怒ってない」 清純くんはこちらの機嫌を窺う様な顔してるけど、正直後半は全然聞いてなかった。忘れようとしていたはずの、モヤモヤとした感情がまた胸の中に広がっていく気がする。 「なんで、違う大学の仁くんのこと、知ってるの」 「ん?ああ、中高から山吹の子多いからね。実は気になってたって子、結構いるんだよ。あいつも大人になってちょっとは丸くなっただろうし、今がチャンス的な?」 「……」 「いや〜でもやっぱり俺のがいいと思うけどなあ。ちゃんもそう思うよねえ?」 清純くんの問いにも私は何も答えられない。店内の明るいBGMも、周囲の客の楽しげな話し声も、なんだか急に鬱陶しく感じる。もう会うこともないから、べつにあの人がどうなろうとどうでもいいと思っていたのに。 それなのに今でもこんな風に話題に出されると普段通りではいられなくなる自分がいた。だから、本当は連絡先を知っているけど、「知らない」と素っ気なく言い、清純くんはそんな私に「そっかごめんね」と気遣うように笑った。 それから少しして「さて、そろそろ行こうか」と言われ、自分の分を払うと言った時にはもうすでに会計を済ませた後で、一体いつ払ったのだろう。不思議に思いながらお礼を言ったその時も、そこを出て歩いている間も、私は清純くんの言ったことが頭から離れなかった。 「久しぶりにちゃんの顔が見られて良かったよ。今日は付き合ってくれてありがとね」 「……うん」 「ちゃん、どうかした?もしかして眠くなっちゃった?」 「べつに……平気。私こそありがとう」 恐らく私は笑えていなかったけど、それでも彼はそう言えば笑ってくれた。これからバイトがあるらしく、駅で別れる時、清純くんは「またね」と言って手を振っていた。 ……早く忘れたいのに。 瞼の裏に残るあの姿を、もう、忘れてしまいたいのに。覚えていたって、仕方ない。そう思っても、いつまで経ってもそれはできないままでいた。 「ねえ、亜久津さん。今日の授業終わった後って、暇だったりする?」 「……?」 短大の休み時間、教室の長い机の端に一人で座り、次の授業で使う教科書をバッグから出していると突然、そう言いながら私のとなりに腰掛けてきた女の子がいた。 「うん、べつに、なにもないけど」 「やった。ね、ね、亜久津さんて彼氏いるの?」 初めて話すというのにやけに親しげな雰囲気で質問を続ける彼女は、外部の高校からうちの短大に入った子みたいで、私の兄のことについては何も知らない様子だった。 「いないけど」 何故そんなことを聞くのだろう、と思ったけど、とりあえずその質問にそう答えると彼女は「そうなんだ!」と嬉しそうな顔をした。 「実は今日ね、私の知り合いがいる大学の人と、うちの短大の子とで合コンやるんだけどさ。急に来れなくなっちゃった子がいて人数が足りないの。よかったら来てくれないかな?」 「……え?」 まさかそんなことを私に言われるとは思わず、数秒間彼女の顔を見つめてしまった。 「……私は、いない方がいいと思うけど」 「えーなんで?」 「なんででも……」 彼女は無邪気に質問する。だって、もし、相手の男の人が”亜久津”のことを知っていたとしたら……。みんなに迷惑を掛けてしまうかもしれないという不安が頭をよぎった。 それに、うちの短大の子達とだって今日初めて話すというのに、そんな中に混ざって楽しそうにできる自信もないし、そもそもべつに彼氏欲しいと思ってないし。 「大丈夫だよ。可愛い子連れて来てって頼まれてるの、亜久津さんみたいな子が来てくれたら男の子達も喜ぶと思うからさ」 「……でも」 「席に座っててくれるだけでいいから、ね、お願い!」 顔の前で手を合わせてお願いされてしまい、断るつもりだったのになんだか悪い様な気がしてきて、ごめんとは言えなくなってしまった。それに、今までこんな風に話し掛けてくれる子なんていなかったから、私はどこか嬉しいと感じていたのかもしれない。 「……わかった。じゃあいいよ」 授業開始のチャイムが鳴るのと同時にそう答えれば、彼女の顔はパッと明るくなって「ありがとう!」と笑った。そして、授業が終わった後、彼女含めた女の子数人の後ろについて行き、「ここだよ」と指差されたのはオシャレな感じの居酒屋だった。 お互いに自己紹介した時、私は下の名前だけを名乗った。周りの人はフルネームを言うのに、私だけそうだから不思議に思ったのかもしれない。 しばらくして「名字は?」と一人の男の人に聞かれ、それに黙ったままでいると、となりの席に座る私を誘った彼女が、緊張していると思ったのか「亜久津だよ」と代わりに答えた。 「ちゃんの名字って、亜久津っていうんだ」 その瞬間、彼等の様子を窺ってみたけど、みんなどうやらこの辺りの出身ではないらしく、全く気が付かない様子で「へえ」という声を上げるだけだった。大学ともなれば遠くから来てる人だって多いし、私の心配し過ぎだったのかもしれない。 「ちゃん可愛いでしょ、頼んで来てもらったんだよ」 いつの間にか私のことを下の名前で呼んでいる彼女は、誘った手前気を遣っているのか先程からやたらと私のことを褒めていた。 「本当に可愛いね。ちゃんは、山吹の中高出身なの?」 「……うん」 「そうなんだ。じゃあ今も家から通ってるの?」 「……うん」 男の人達は彼女の知り合いの1年生以外、上級生ばかりで、私の向かいの席に座る男の人は3年生なのだと言った。さっきからやたらと私にばかり質問してくるけど、たまたま前にいるからだろうか。それには頷くばかりで、必要以上に答えなかった。 ジュースのグラスに刺さるストローをぐるぐる回して氷が回転するのを眺めながら、早く終わらないかなと思う。 未成年ばかりの女子側とは違って、20歳を超えている人の多い男性側の人達はみんなお酒が入っているせいかやけに楽しそうだ。さっきからやらしい下ネタなんかを言ってはにやりと笑い、周りの女の子達はそれに対して「やだー」と嫌がりながらも、顔は笑っていて面白がっている様子だった。 (……くだらない) 仁くんと同じくらいの歳の人ばかりなのに、彼らはなんだかやけに子どもっぽく感じた。仁くんはこんな風にくだらない下ネタとか、ふざけた冗談とか、そんなこと絶対言ったりしなかったのに。 私だけそれにちっとも笑わず、つまらなそうな顔をしていたのだろう。向かいの席の彼はそんな様子を見て気に掛けてくれてるのか、みんなの方には参加せず相変わらず私にばかり話題を振ったり、質問したりしていた。 「ちゃんてさ、好きな男の芸能人とかいる?」 「いない」 「そうなんだ。じゃ、どういうタイプの男が好きなの?」 「……」 そんなこと聞いてどうするの、と言おうとしたけどそういえばこの集まりは合コンだったことを思い出した。こういう場ではやっぱりそういう質問をするのが定番なのだろうか。 確かこの前、清純くんが合コンの話をしていた気がする。あの時は自分が参加することになるとは思わなかったからそこまで真剣に聞いていなかったけど、もうちょっと詳しく聞いておけばよかったかな。 「……強い人」 「強い、っていうのは、お酒?それともスポーツとか?」 まさか、ケンカが強い人とは言えず、適当に「うん」と頷いた。その時、盛り上がっている方の一人が「席替えしよう」と言い出し、周りの人達が席を移り始めたので私は空いた一番端の席へ移動した。 帰りたいな、と思いながらすっかり冷めてしまったかわいそうな料理を眺めていると、私のとなりに座ったのはさっき向かいの席にいた彼だった。 「ちゃんてクールだね。いつもそんな感じなの?」 「……そうなんじゃない」 「へえ、休みの日とかはさ、なにしてるの」 「なにもしてない」 なんで私にばっかり、他の人にも聞けばいいのに、と思って周りを見ると向かいの人達はすっかり良い雰囲気のようで、男の人が女の子の肩に手を回し、やたら近い距離で何やら笑い合っているのが目に入った。 (…………) となりの彼は、他の男の人達とは少し違って割と落ち着いている様な印象だけど、べつにだからといってどうとういうこともない。もう放っておいてくれないかな、と思ってもさすがに口には出せなかった。 「ちゃんには兄弟とかいるの?」 「……」 一番されたくない質問をされて、べつに仁くんのこと知らないこの人になら本当のことを言っても大丈夫だろうとわかってはいても、気が付けば「いない」と嘘を吐いていた。 「じゃあ、一人っ子なんだ」 ……本当にそうだったなら、どんなによかっただろう。これまではずっと不良の兄の存在に悩まされて、嫌な思いをたくさんして、大嫌いだと思っていたのに。それなのに、今度は好きと思って苦しんでいる自分がいる。 いっそ、あの人がいなければ、こんな思いすることもなかったのに。 結局それからも彼から投げ掛けられる質問には適当に答えるばかりで、逆に聞き返したりはしなかった。べつに気に入られなくてもいいや、と思っていたので無理に愛想笑いもしない。 最後に全員で連絡先を交換することになり、知らないままでもよかったけど自分だけ断る訳にもいかず、仕方なくそれに習う。そして、家族の他には壇くんと清純くんしか登録されていなかった私の連絡先に、急に名前が増えた。 「ちゃん、今日はありがとね。助かっちゃった」 何組かの男女はそのまま連れ立っていなくなり、帰り道、最終的に二人きりになったところで私を誘った彼女はにこっと笑いながらこちらを向いたので、それには頷いて返した。 案外義理堅いのか、幹事らしい彼女は誰かと抜けていなくなることなどなく、最後まで誘った私や周りのことを気に掛けてくれている様子だった。 「どう、誰か気になる人いた?」 「いない」 「えー、ちゃんのことすごく気に入ってる人いたじゃん。あの人なんかどう?」 「べつに興味ない」 帰り道送ると言われたけど断って、残った女の子達に混ざって一緒に帰った。あの人、私のこと気に入ってたんだ。やけに色々聞いてくるけど、なんでだろうと思ってた。あんなに素っ気なく返してたのに、変な人だな。 「そっか。でもさ、全体的に良い感じの人多かったよね」 (……どの辺が?) と思っても、そうとは言えずにただ頷く。気が付けば私は彼らを仁くんと比べてばかりいて、結局合コンの時間はずっと仁くんのことを考えてしまっていた。 ケンカして殴り合って、自分も怪我して。額や口元から血を流す殺気立ったあの姿を思い出せば、なんだか、堪らない気持ちになる。 付き合うのだったら、彼氏にするのなら、仁くんみたいな人じゃなければ嫌だ。と考えている自分のいることに、今日気が付いた。……違う、きっと心の奥ではずっとそう思ってた。そして、そんな人が他にいるわけないことも、わかっていた。 「ちゃんて、どんな男の人がタイプなのー?」 私のことをもっと知りたい、楽しくお喋りしたい、といった雰囲気の彼女はべつに聞いていないけれど先に「私はね〜」と自分の好みのタイプの男性を教えてくれた。色々と条件を挙げてたけど、結局最後には「やっぱり優しさかな」という結論になった。 「ちゃんは?」 「……私、強い男じゃなきゃ嫌なの」 春の夜はまだ肌寒くて、風に吹かれた頬や髪の毛はひんやりとしている。そんな夜の街を歩きながらそう答えれば、彼女は「へえ、そうなんだ〜」と意外そうな声を出した。 それから、「ケンカ上等、みたいな?」と顔の前に握り拳を作り、やけに低い声でそう言ったので、私はそれを見て「そう」と返しながら、笑った。 |