その日の空は朝からどんよりとした天気で、街並みは午後になっても薄暗かった。

「……ちゃんて、俺のこと好きじゃないよね」

街と同じ様に、薄暗いホテルの一室。彼は私から離れてベッドから下りると、寂しそうな顔をして言った。太股の辺りまでめくれているスカートもそのままに、私は黙って俯くことしかできない。

彼と付き合ってから数カ月が経ったものの、キスまではできても、どうしてもその先には進めないでいた。怖かったわけでも、不安だったわけでもない。べつに、どうでもいいと思っていた。彼の手が、私の下着の中に入り込むまでは。

何度も抵抗して拒否するうちに、彼の瞳が次第に沈んだ色に変わっていくのをわかっていながらも、どうしようもできなかった。心の中の私はべつにいいじゃん、平気だよと言うのに、何故かいつも体が拒絶する。

「俺と一緒にいる時、いつも楽しそうじゃないし」
「……」
「初めは、そのうち俺のこと好きになってくれればいいと思ってた。でも、無理だったね」

そんなこと言わせるつもりじゃなかったのに。私だって好きだよ、って笑いたいのに、できない。なんでかなんて、そんなの……わかりたくないけど、痛いくらいわかっていた。

「誰か他に好きな人がいるんじゃないの」

その言葉に顔を上げて目が合った彼の表情はやっぱりどこか悲しそうで。あなたは何も悪くないのに、知らないうちにずっと傷つけていた。こんな私のこと、好きと思ってくれた大事な人なのに。

「……ごめん」

言い訳なんてできない。私は兄と同い年の彼に、ずっとその姿を重ねていたのかもしれない。彼が仁くんだったらいいのに、なんてそんなことばかり考えて、きっと彼自身のことなんて見てはいなかった。

兄を好きでこの胸が苦しいなんて、そんなの、彼の方がもっと苦しいと思ってるだろう。俯きがちに「俺達、もう別れよう」と彼は言い、私はそれにもう一度ごめんと謝った。

ホテルを出て少し歩き、駅が見えてきたところで彼とは別れて帰ることにした。散々ひどいことをしてしまったというのに、彼は怒りもせず、「じゃあ元気でね」と言ってくれた。

「本当にごめん」
「べつに謝って欲しいわけじゃないよ」
「……あなたが、もっと素敵な人と出会って、幸せになれる様に願ってる」

そんなこと私になんて言われたくないだろうけど、彼は本当にいい人だから。私のことなんてすっかり忘れて、幸せになって欲しい。そう思って口に出してしまったら、彼は少し目を見開いた後、「ちゃんも」と笑った。











電車に乗って、扉にもたれかかり、流れて行く街並みをぼんやりと眺めていた。周囲の人達の雑談も、車内のアナウンスも、まるで聞こえてないかの様に何も耳に入って来ない。

自分の降りるはずだった駅を過ぎてもそのままだったけど、とある駅の名前がアナウンスされた時、目が覚めたみたいにはっとして、私はそこで降りた。

駅を出て歩いていると、じきに雨が降り出してきた。初めはぱらぱらしている程度でも、いくらも経たないうちに本降りになり、結構な降雨量だったけれど傘を持っていない私は走ることもなくそのまま濡れて歩いていた。

なんで私、こんなところにいるんだろう。そう思っても結局足を止めることはできずに、黙々と歩いた。大通りを曲がって細い路地に入れば、雨のせいなのかそれとももう夕方だからなのか、人通りは全くない。

(……この辺りだったはず……)

そう思って周辺を見回すと、探していたアパートを見つけた。まだ割と新しそうなその建物は、以前に優紀ちゃんと出掛けたついでに一緒に来てはみたものの、「私やっぱり帰る」と逃げる様に先に帰ってしまった時以来だった。

階段を上がっていくらか進むと、プレートに”亜久津”と書いてあるドアを見つけた。その前に立ち、優紀ちゃんが「勝手に書いて怒られちゃった」と言っていた名字を少しの間見つめる。

呼び鈴のボタンに人差し指を近付けて、押すかどうかしばらく悩んだけど、もういいやと思い切って押してしまった。けれど、しばらくしても何も返事はなく、中からは物音も聞こえない。

留守なのか……それとも居留守なのか。わざわざやって来て呼び鈴まで押したくせに、どこかほっとしていた。そしてなんだか急に正気に戻って、こんな場所で何してるんだ……と心の中のもう一人の自分が、なんだか冷めた目をして見ている。

ここへ来て、会ったところで、だからなんだというのだろう……くだらない。帰ろうと思って踵を返し、さっき上って来た階段を今度は降りようとすると、誰かがやって来たので見てみればそれは仁くんで、私は思わず立ち止まり、固まってしまった。

「…………?お前、なにしてんだ」
「……」

当たり前だけど、仁くんは少し驚いた様な顔してる。望んでここまで来たというのに、やっぱりこの前みたいにいざとなればどうしたらいいのかわからなくなってしまう。

ずっと会いたい思ってたのに、寂しかったのに。なんで一度も帰って来てくれないのかとか、あの女の人のこととか。色々思い出して、聞きたいことはたくさんあるのに、そんなこと口には出せなくて。

「べつに……、たまたま通り掛かっただけ……。用なんかないよ」

素っ気なくそう言う私の声は随分と不機嫌そうだった。仁くんのとなりを通り過ぎてそのまま帰ろうとすると、柔らかい力で肩を掴まれたのでその顔を見上げた。

「……」

仁くんは何も言わない。離して、って振り払うつもりだったのに、できなかった。だって、本当は帰りたくなんかなくて、こうやって引き止めて欲しかったから。

黙ったまま背中を押される様にして家の中に入れてもらうと、「服着たまま海水浴でもしたのかよ」と言われるくらい、全身びしょ濡れなことに気付く。化粧も大体落ちちゃってるし。着ていた物を全部脱いで洗濯してもらい、沸かしてくれたお風呂に入った。

お風呂を出た後に「着てろ」と渡された上下セットの部屋着は仁くんの物らしく、大きくて手も足も捲らないと指先が出ないくらいだった。

ベッドに座る様言われたのでその通り腰掛け、無言で出された温かいお茶を飲みながら、部屋の中を見回してみる。ここにはベッドと低いテーブル、それに小さめのテレビがあるくらいで、片付いているというよりかは物自体が全然置いてない。

さっき、お風呂の中や洗面所をさりげなく観察してみたけど特に女性物などは見つからず、歯ブラシも1本しかなかった。部屋の中も、収納棚なんてないから隠してる訳でもなさそうだ。

勝手に、彼女と同棲でもしているのかと思っていたけど、私の思い過ごしだったのだろうか……。そんな風に色々考えていたら、仁くんがキッチンから戻って来たので慌てて止まっていた手を動かしてまたお茶を口に含み、なんでもない振りをした。

仁くんは床の上に胡坐をかくと煙草を咥えてそれに火を点ける。吐き出す白い煙を眺めながら、その風景をなんだか懐かしく感じていたら視線を気付いたのか、目が合った。

「なんだよ」
「……なんでもない」

そのまましばらく経っても、仁くんはなんで私がここへ来たのか聞かなかったので私からも言わなかった。時計を見てみるともう7時近かったけど、服や下着はまださっき干したばかりだから、しばらくは乾かないだろう。普通なら、この部屋着を借りたまま帰るのだろうか。

(……帰りたくない)

まだここにいたいと思う自分がいる。……だって、ずっと会いたかった。

仁くんの顔を見れば、なんだか胸がどきどきして、苦しい様な気持ちになる。だけどそれは嫌な感覚じゃなくて、苦しいのになんだか心地良い。さっきあんなにひどくあの人を傷つけたばかりだというのに、今はもうそんなことを考える自分のことを最低だ……と思ってしまう。

「お前、どうすんだ」
「……どう、って……?」
「帰んのか」

何本目かの煙草の吸殻を灰皿に押し付けながら、仁くんが言った。まだちょっとお茶の残っているカップをテーブルの上に置くと、私は俯いた。やっぱり、帰らなくちゃいけないんだろうな……。そう思って、「帰るよ」と言うつもりだったのに、

「……帰りたくない」

口から出たのは全く逆の言葉だった。私、何言ってんだろう、と思ってもそれが本心だったので、言ってしまったことをどこかほっとした様にも感じていた。


「あいつに、なんか言われたのかよ」

少ししてから仁くんは口を開くと、低い声でそう言った。”あいつ”というのはお父さんのことだろう。お父さんは本当に優しくて、嫌と思う様なことを言われたこともされたことも、一度もない。だからそれには首を横に振った。

「……優紀にだけは連絡しとけ。うるせえからな」

仁くんはそれ以上は何も聞かなかった。そして、そう言ったということは泊まってもいいという意味なのだろうか。表情に出すことはなかったけど、心の中では嬉しいと感じていて、兄と一緒にいてそんな風に思う日が来るなんて、自分でも不思議だった。

私は「うん」と頷くと、優紀ちゃんに電話して今日は友達の家に泊まると伝えた。友達って誰?どこの子?と聞かれたけれど、短大で仲良くなった女の子だよと答えれば納得してくれた様子だった。

夕ご飯は仁くんが作ってくれた。手慣れた様子で、案外きちんと自炊しているのだろうか。最後にお皿に盛るのだけ手伝う時に、キッチンを見回してみたけれど、調理器具は必要最低限で、食器も一人分しかなかった。





「お前そこ使え」

そう顎で示されたのはベッドだった。私は床で寝ればいいと思っていたので、「べつにいい」と言ったけれど聞いているのかいないのか、それには何も返事をしないままどこかから出してきたタオルケットを床の上に置いている。

「ねえ、私、床でいいよ」
「うるせえ、ガキはとっとと寝ろ」

(ガキじゃないし……)

結局、私は言われるままにベッドへ上がり、柔らかいその中に入ると、タオルケットを掛けて床の上に横になろうとしている仁くんのことを見る。お風呂に入って髪を下ろしているその顔はいつもより少し幼く感じた。上げてセットしてるのもいいけど、下ろしてるのもいいな、などと思っていると目が合う。

「んだよ」
「……べつに。不良なのに、寝るの早いんだね」

まだ23時になってないけど。実家に住んでた時は、いつも帰って来るの遅かったし、寝るのも夜中みたいだったのに。一人暮らしを始めてから生活態度を改めたのか、それとも今日はたまたまなのか。それには片方の眉をつり上げるだけで、何も返さなかった。

「仁くん、大学楽しい?」
「……あ?」
「辞めないでまだ通ってるから。楽しいのかと思って」
「ふざけたこと言ってんな」

素っ気ない態度も乱暴な言葉遣いも、なんだか無性に懐かしい。会話の内容なんてべつになんだってよくて、私はただ、あと少しだけ私のことを見ていて欲しかった。

……あの女の人みたいに、私だってそばにいたいのに。

(……馬鹿みたい)

記憶の中のその姿に何を思ったところで、意味なんてない。彼女になれるわけでもない。あんた、あんなに嫌いだったくせに、今さら何を、と自分をなじってみても厄介な想いは消えてなくなりはしない。


「……ねえ、また来てもいい……?」

仁くんが家を出行ってから、ずっと、いなくたってべつに平気だと思い込もうとしていた。例え誰かにそうではないと指摘されたって、そんな訳はないと言った。それでも、やっぱり実際に顔を見てしまうとみんなの言う様に「寂しい」という感情が溢れ出してくる。

気が付けばそう口に出してしまっていた私に、しばらく続いた沈黙の後、仁くんは「好きにしろ」とだけ答えた。

それから、「消すぞ」と言って手元のリモコンで部屋の明かりを消すと、その姿は見えなくなった。暗闇の中で、布の生地が擦れる音と、痛えな、と小声で呟く声が聞こえる。

素肌に纏う部屋着の感触はやっぱりなんだか違和感があるけれど、これをいつも仁くんが着ているのだと思えば不思議と安心して、私は心地良い気分で目を瞑った。











「……

「オイ、

聞いたことのある声が、私の名前を呼んでいる。いつかもこんな風に起こされたことがある様な気がする。ゆっくり目を開けてみるとそばに立っているのは仁くんで、まだ意識がはっきりとしない私には何故彼がここにいるのか、理解できなかった。

「仁くん……?なんでここにいるの」
「お前、自分からやって来といていい度胸してんな」
「……?」

あれ、どこだっけここ、なんで私自分の部屋にいないんだろう……とぼんやり考えたところで、昨日自分で仁くんの家まで来て泊めてもらったことを思い出した。

「いい加減起きろ」
「……うん」

体を起して時計を見ると8時を過ぎていた。今日は何曜日だっけ。昨日日曜日だったから、月曜日か……。そしたら当然授業はあるよな、何限からだったっけ……?確か……2限からだった様な気がするから、今から直接行けばまだ間に合う。

でも授業に必要なもの全部家に置いてきちゃったし、化粧道具も今持ってないし、これから電車で帰って支度してから向かったら遅刻しちゃうな……。

とりあえず顔を洗って、若干まだ湿っている気がする服を無理やり着ると、焼いてくれてあった食パンを食べながらそんなことで頭の中がいっぱいになる。まあいいや、サボろうかなと考えたところで、でも今日のは割と大事な授業だったことを思い出した。

(仕方ない、なんとか急いでみよう)

昨日の夜もらった歯ブラシで歯を磨いた後、一本だけ立っている歯ブラシの横にそれを並べて立てると、少しだけそれを眺めて、またここに来られたらいいのに……と思った。

それから、もう出ようと玄関に向かえば、そこには私がもたもたとしている間にすっかり身支度を整えた仁くんが立っていた。

「もう大学に行くの?」
「いいからさっさと出ろ」

ちょっと待って、と言いながら、先に靴を履いてドアを開ける仁くんに続いてそこを出た。それから「行くぞ」と言われて、何が?と思いながらもその背中について行くと、仁くんは下にとめてあったバイクに跨った。「乗れ」とヘルメットを投げられて、それを反射的に受け取ってしまう。

「……なに、どういうこと」
「チンタラすんな、早く乗れっつってんだよ」

よくわからなかったけど、そう言われたからヘルメットを被ってその後ろに跨り、その背中に体を押し付けるようにぎゅっと腰に手を回した。相変わらず自分は被ってなくて、まあそれは私に貸してくれたからなんだけど。どこへ行くのかよりも、どうか捕まりませんように……とばかり考えていて、気が付いた時には到着していた。

「……あれ、家?」

ヘルメットを外すと、そこに見えたのは自宅のマンションだった。仁くんはバイクから降りて「早く行け」と言うと、煙草に火を点ける。不思議に思いながらも「ありがとう」と言うと一度家の中に戻って、違う服に着替え、化粧をして早々に身支度を整えるとすぐにまた家を出る。

駅まで走ろう、と駆け出そうとしたところ、さっきの場所にはまだ仁くんがいて、なんでまだいるんだろうと思ったけれど、目が合うと「さっさと乗れ」と言う。

「どこに行くの」
「決まってんだろ、馬鹿かお前」

馬鹿じゃない、と言い返してもそれはちっとも聞いていない様子でさっきと同じにヘルメットを渡され、それを被るとまた走り出す。まさか、と思いながらもやっぱり着いたのは私の短大の前だった。

私がここに通ってること知ってる理由とかここまで送ってくれた意図とか、聞きたいことは色々あったけど私が降りてヘルメットを渡すと、それを被ってあっという間に走り去ってしまった。

(……なんで)

いつも何も言わないで、冷たい様な振りして、全部知ってるの。悪いことばっかりして、迷惑掛けるくせに、私の面倒見たりするの。だから そういうところが嫌なのに、 もういい加減にして欲しい。

優しくされれば嬉しいくせに、素直になれない私は、いつだって「そんなわけはない」と思い込む様にしていた。私にじゃない、違うそうじゃない。って、だってそう思わなきゃ、つらかったから。好き過ぎて、苦しくて、それが嫌だったから。









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