それからの毎日は、以前にも増して仁くんのことを考えてしまう様になった。久しぶりに会って話した仁くんは、なんだか随分と落ち着いて見えて大人の男の人なのだと感じ、思い出す度にこの胸の鼓動は速くなっていく。

(……また、会いたい)

この前会ったばかりなのにもう寂しいと感じる子どもっぽい私は、できることなら毎日だってあそこへ行きたいと思ってしまう。仁くんは「好きにしろ」と言ったけど、それを本気にとっていいのかはわからない。

あんなことを口走った私に対する気休めかもしれない。だって、きっと寂しいなんて思っているのはやっぱり私だけで、仁くんはなんともないのだろう。彼はもう大人で、昔からずっと強い人だから。











「あ、ちゃん、ここにいたんだ」

以前合コンに誘ってくれた彼女は、あれからも時々私に話し掛けてくれる様になった。いつも通り一人で短大のカフェテリアにいると、私の姿を見つけた彼女は笑いながら近寄って来て、となりの椅子に腰掛ける。

「ねえねえ、もうじき夏休みだけど、ちゃんはどこか遊びに行ったりするの?」
「べつにしない」
「じゃあさ、私のバイト先の知り合いの人達と友達の女の子何人かで海とかキャンプとか出掛ける予定なんだけど、よかったらちゃんも来ない?」
「……え」

すっかりちゃん呼びが定着したらしい彼女が、いくら仁くんのことを知らないとはいえこんな風に他の女の子達に対してと同様に私に接してくれることにいつも驚いていた。

みんな初めは私に近付いて話し掛けてきても、じきに、素っ気ない。なんか冷たい。と言って離れていってしまう。でもだからってべつに彼女達のせいじゃない。上手く付き合っていこうとしない私が悪いのだから。

だけど、それをわかってはいても、今さらどうやって女子の中に混ざっていっていいのかがよくわからず、悩みながらもそのままにするしかなかった。

「短大にちゃんていうすごく可愛い子がいるんだよって話したら、連れて来てよって言う男の人がいてね」
「……」
「どう?もしかしたら、気に入るイケメンがいるかもよ〜」
「……ごめん。私、好きな人いるから」

こうやって誘ってもらえるのはとても有り難いけど、そういう話になるとやっぱり別れた彼のことを思い出してしまい、なんだか気が引けてしまう。彼女には話していないから、そんなこと、知るはずもないけど。

「え!そうなんだ。じゃ、それってケンカが強い男?」
「そうだよ」
「へえ。……あっ!そういえば私この前、ちゃんが男の人にバイクで学校まで送ってもらうとこ見ちゃった。もしかしてあの人?」

あの時、見られてたんだ。まあ確かにバイクの音ってうるさいから嫌でも見ちゃうよな、と思いながら何も答えず、かと言って否定もせずにいると、それを”イエス”ととった彼女は「やっぱり!」と嬉しそうな顔をした。

「顔はよく見えなかったけど、雰囲気はだいぶ怖そうだったな。あれは確かにケンカ強いかも。ちゃんてああいう感じの男の人が好きなんだ」
「うん、まあ……」
「ね、ね、顔は?格好いいの?」
「格好いいよ」
「へえ、そうなんだあ。なに、彼氏?付き合ってるの?」
「違うけど」
「えーいいじゃん、教えてよ〜」

恋バナが大好きらしい彼女は、私のことを軽く肘で小突き、やけに楽しそうだ。まさか私が恋バナする日が来るとはな、と思いつつ興味ありげにあれこれ質問してくる彼女に曖昧な返事を返すばかりだった。

「告白しないの?」
「……しないよ」

途中で移動して教室に向かう間もずっと私の横を歩き、まだそんなことを聞いてくる。よく飽きないな、と思いつつ貴重な友人である彼女に素っ気なくする訳にもいかず、仕方なく付き合うしかない。

「しちゃいなよ。ちゃん可愛いから絶対大丈夫、上手くいくよ」
「無理だよ。あの人、私に興味ないから」
「えー!嘘っ、なんで」

彼女が驚いた声を出すとちょうど教室に到着し、私はそのままいつも一人で座っている席に着いた。彼女は友達に、おーいと手招きされて、まだ何か言いだけだったけど結局そちらへ歩いて行ってそこへ座った。

当たり前だよ、だって私は妹だし。それにあの人にとって見ればガキでしかない。

仁くんがどんな女の人を好きかなんて、そんなの聞いたこともないし聞けるわけないけど、多分、年上の大人っぽい人が好きなんじゃないのかな、と勝手に思っていた。私なんかには到底なれないような、落ち着いてて色っぽい、綺麗な人。

色々経験してて、色々知ってて……。そんなことを思えば、なんだかまた、以前に見た仁くんのとなりを歩く女の人の朧げな姿を思い出してしまう。

その人と仁くんが薄暗い部屋の中、キスしながら抱き合って、額には汗が滲んで、……。

……授業中に何考えてるんだろう、私は。

もうやめて。そんなこと想像するのは、と自分に言ってみてもなかなか消えてはくれず、思わず手に握っていたシャープペンシルに力が入り、芯のポキリと折れる音がした。











結局今日の授業中はずっとそんなことばかり考えてしまい、自分はこんなにやらしかったのかと自己嫌悪に陥った。

校門を出て駅へ行き、電車に乗ってつり革に捕まりながら溜息を吐く。目の前の座席に並んで腰掛ける大学生らしきカップルの、男の人の方が女の人の肩に手を回して耳元で何か囁いているのを見て、またあの姿が脳裏にチラつく。

(……いい加減にして)

私はどうしたいの。どうされたいの。想像の中のあの女の人みたいに、仁くんに抱いて欲しいと思ってるわけ、と自分のことを問い詰める。だって、そんなの無理でしょ、妹なんだから。おかしいでしょ、とわかっているつもり、なのに。

そんな葛藤を続けている間に降りる予定の駅はすっかり通り過ぎてしまい、気が付けばカップルもいなくなっていた。そして耳に入ってくるのはまたあの駅名で、私は電車から降りると、反対行きの電車には乗らず、駅を出た。

今は会わない方がいいとわかっているのに、そこへ向かう足を止めることができない。結局、私はまた仁くんの住むアパートまでやって来てしまっていた。

この前よりかは緊張せずに呼び鈴を押せたけど、相変わらず返事はない。まだ大学だろうか。それとも、誰か女の人の所……?

そんなことばかりが頭の中を駆け巡り、私何やってんだ、と思ったところで急に中で物音がして、それからすぐにドアが開いたので思わず「わ、」と声を出してしまった。ドアノブを握りながら私のことを見下ろす仁くんは髪を下ろしていて、服装は部屋着だし、やけに眩しそうな顔をしているのでどうやら寝ていたみたいだった。

「あ……、ごめん。寝てたの」
「……起こすんじゃねえよ、
「だから、ごめん」

そう言いながら、まさか中に女がいたりしないよな、とちょっと不安だった。どうやら本気で寝てた感じっぽいから、違うとは思うけど、一応玄関を覗いてみるとそこに女物の靴なんかはなくてほっとした。

「なんだよ」
「べつに……ちょっと寄っただけ」
「……」
「……、帰る」

本当はちっとも帰りたくなんかないけど、そう言うしかなくて、くるりと体を方向転換して歩き出せば、後ろから「オイ」という低い声が聞こえたので立ち止まって振り返る。

「入れ」

仁くんは扉を大きく開きながらそう言うと、そのままさっさと中へ入って行ってしまう。それを追い掛けて靴を脱いで廊下を進むと、部屋の中はカーテンが閉め切っていて薄暗く、冷房が効いていて涼しかった。

とりあえず床に座っていると仁くんが照明のスイッチを入れたので途端に明るくなり、眩しくて何回か瞬きした。それから視界に入った布団の乱れたベッドがなんだか妙にやらしく感じて、だんだんそんな自分のことが心配になってくる。

「上にいろ」

薄いラグしか敷いてない硬い床の上にいる私の腕を軽く掴んで立たせると、ベッドの上へ行く様に促されたのでそっちに移動した。さっきまで寝てたせいかまだ若干温もりがあるし、いつもの香水みたいないい匂いもして、変な気持ちになる。

(……やっぱり、今日は来ない方がよかったかな)

火の点いた煙草を咥えながら、何も言わずにお茶の入ったカップをテーブルの上に置いてくれるのを、眺める。寝起きだからかどこか気だるげで、長めの前髪が目にかかっている。それに色気を感じてしまい、思わず目線を逸らした。

そもそも私、何しに来たんだっけ……。べつに、用なんてない。ただ会いたかっただけ、顔が見たかっただけ。でも、そんなこと絶対に言えない。

寂しいから、だなんて。そんなこと。

だけど仁くんは相変わらず私に何も聞くことなく、黙って煙草を吸うだけ。シン、と静かな空間も、以前なら息苦しく感じたかもしれないけれど、今は永遠に続いて欲しい様な気分になる。帰りたくない、ずっとここにいたい。

べつに優紀ちゃんとお父さんとの暮らしが嫌なわけじゃない。二人ともとても優しくしてくれるし、温かくて幸せな家庭なのだと思う。それなのに私の中にはいつも何か欠けている、そんな感覚があって、その原因がなんなのかはもうわかってる。

彼はもう大人だし、自分の人生があって、どう生きようと勝手なのに。

ピ、とリモコンでテレビのスイッチを入れると、仁くんはそこに映るニュース番組をつまらなそうに眺めてる。こんな時間に寝てるなんて、昨日はよほど遅かったのだろうか。どこにいたんだろう、誰と一緒だったんだろう。また、頭の中をそんなことばかりが埋め尽くしていく。

(…………)

(なんだか、眠い……)

寝ている場合じゃないのに。テレビ画面と仁くんの横顔を交互に眺めていたら、安心したのかだんだん眠たい気持ちになってきた。この頃は、夜、ベッドの中でも仁くんのことばかり思い浮かべてしまいなんだか眠りが浅い。

そしていつの間にか寝てしまっていた様で、ぼんやりとした意識の中薄っすらと目を開くと私はベッドの上で横になっていた。部屋には明かりが点いていたはずなのに暗いし、テレビ画面も真っ暗なので、消してくれたのかな。それに、体にはちゃんとタオルケットが掛かってる。

(……仁くんは?)

時計を見てみるともう20時近くて、どうやら数時間も眠っていたらしい。キッチンの方から明るい光が漏れていて、なんだか美味しそうな匂いもしてくるし、夕ご飯でも作っているのだろうか。

起き上がって部屋のドアを開け、様子を覗いてみるといつの間にかきちんと髪型をセットしている仁くんは、私に気が付いた様で目が合った。

「お前、人ん家でどんだけ寝てんだ」
「……ごめん」

そう言いながらも起さないでいてくれたんだ……。私は部屋を明るくし、すっかり出来上がっていた料理を運んだりするのだけ手伝った。

不良のくせにちゃんと自炊してるんだ、と思っても口に出せば怒られるので言わない。こう見えて案外しっかりしてるところあるから、実は生活面では私よりずっとちゃんとしているのかもしれない。温かい料理を口に運びながら、ちらりとそちらの様子を見ては、逸らすの繰り返しをしていた。

……帰りたくない。私もここで一緒に暮らしたい。

(なに、考えてんの)

そんなのできるわけないじゃん、馬鹿か、と思ってみても胸の中の寂しさは一緒にいればいるほど大きくなっていくばかりで、もうそれ以外に解決法が見つからない。仁くんはべつに寂しくないし、私となんて暮らしたいとは思ってない、とわかるのに。

食べ終わった後の食器も片付けてくれて、テレビの騒がしいバラエティ番組を眺めているうち、やっぱり帰らなきゃいけないよな……と考える。仁くんは何も言わないし、このままいればまた泊まれるかもしれないけど……。

仁くんが部屋に戻って来ると、私はベッドから立ち上がり、「帰る」とだけ言った。なるべく平気そうな顔をして、横を通り過ぎて玄関まで行き、ドアを開けて外に出ると何故か仁くんもついて来て不思議に思い振り返る。

「……なに?」

私のことを見下ろすだけでそれには何も答えない。もしかして、この前みたいにバイクで送ってくれるつもりなのだろうか。でも、そんなことされたら……。

「一人で帰れるからいいよ」

きっと寂しさはもっと大きくなってしまうと思って、先にそう言った。だけど仁くんはその後もついてきて、階段を下りると軽く私の背中を押してバイクの方へ促し、「乗れ」とヘルメットを渡してくる。

「いいってば」

そう言ってもバイクのエンジンをかけててちっとも聞いてなんかいない。仕方なくそれを被って後ろに跨り、その腰にぎゅっと腕を回すと走り出した。

この人は前からこんなに優しかっただろうか。きっと以前はもっと荒れてて鋭く尖ってて、そればかりが目に付いただけでずっと小さい頃からそうだったし、私も心の奥ではそれをわかってた。

仁くんが私のこと好きって、私に優しいって、そんなの誰かに教えてなんかもらわなくたって知ってた。でも、彼は同時に凶暴性も秘めていて、そんな人を好きな自分はおかしいと思ったから。

だから、嫌いと思わなければ精神の均衡が図れなくて、そう思い込む様にするしかなかった。




自宅マンションの前に着くと、ヘルメットを外してそれを渡す。小さく「ありがとう」と言い、苦しい気持ちを悟られないうちにそこを離れようと思って早足で歩き出した。

仁くんはこの前みたいにさっさといなくなるのかと思えば、走り去る音がしないので立ち止まって振り返ってみるとエンジンを止めたまままだそこにいる。なんで、と思いつつも、また前を向く。……だけど、私の足は動いてはくれない。

数秒立ち止まってから、歩き出したのはマンションの方向じゃなくて仁くんの方だった。まだバイクに跨っている所に戻って行き、近くに寄って顔を睨み付けるようにじっと見れば当然目が合った。

「……なんで、出て行っちゃったの」

私、何を言っているんだろうと思っても一度口にすればなんだか止まらない。

「なんで一度も帰って来てくれないの」
「……」
「私、ずっと寂しかったのに」
「……」
「ねえどこにも行かないで、そばにいてよ」

ずっと誰にも言わず心の中に隠し続けてきた思いを、声に出してしまっていた。仁くんは黙ったまま何も言わなくて、まるで自分が駄々をこねる子どもの様に思えても、もうどうすることもできない。

そして、気が付けば、その体に腕を回してぎゅっと抱き付いていた。こんなこと一度もしたことないのに、私どうしちゃったんだろう。だけど仁くんはそれを振り払うこともなく、抵抗もしなかったので私もそのまま動かない。

少しして、仁くんの腕が伸びて私の頭の上にポン、と手を置くのを感じる。それが、彼なりの「ごめん」の意味だというのも、わかっていた。それでも私は抱き付いたまま、離れられない。

「一緒にいてくれなきゃ、やだ」

いよいよ本当の子どもみたいな言い方をする自分に、我ながら呆れつつも、でもそれを止められない。私はこんなに我儘で、子どもっぽかっただろうか。こんな風になんて、誰に対してもなったことなんてないのに。

だけど、胸の中で独りでに大きくなっていく想いを、もう我慢することなんてできない。

「……
「……」
「それなら、お前、俺の所に来い」
「……え、」

それって……、つまり、一緒に暮らしてもいいってこと?その体勢のまま首だけを動かして仁くんの顔を見上げると、向こうも私のことを見ていた。

「……一緒に、暮らしていいの」
「好きにしろ」

ぶっきらぼうにそう言うと、その手は私の頭の上から髪を撫でる様に滑り落ち、背中に回ると軽く肩を抱いた。

もう7月も下旬の夜の空気は生暖かくて、風もない。辺りには誰もいなくて、いくつかの街灯が照らすだけの静かな暗がりの中、私達は、黙ったまましばらくそのままでいた。









BACK TOP NEXT