「ええ、危ないわよ、そんなの」

案の上、優紀ちゃんはいい顔をしなかった。

「平気だよ」
「だめよ。大体、それどこにあるの」
「言ったら優紀ちゃん絶対来るでしょ」
「当たり前じゃない」

いきなり家を出て行くだなんて、そんなこと優紀ちゃんを前にしてとてもじゃないけど言い出せず、しかもそれが嫌っていたはずの兄と一緒に暮らすからなんて、もっと言えるはずがない。

散々頭の中であれこれ考えた結果、とりあえず夏休みの間は、短大の友達の知り合いの人が経営してるペンションで住み込みのバイトをするという理由にしようと決めた。若干無理があるけど、とりあえずは信じてるみたいだし……。それ以後のことは、またその時に考えよう。

嘘を吐いてまでなんて、やっぱり心苦しい。でも本当のことなんて話せないし、そうするしかなかった。けれど優紀ちゃんはやっぱり「だめ」の一点張りで、さっきから話は一向に先へ進まない。

「私だって、もう子どもじゃないんだから」
「なに言ってるの、まだ子どもでしょ」
「違うよ」

だって、優紀ちゃんは、今の私くらいの歳にはもう仁くんを生んでいたじゃないか。……だけど、そんなことは言えない。私のことを心配して反対してくれていることくらい、わかってるから。親不孝者でごめん、と心の中では思うけど、口には出せない。

しばらく二人でそんなやり取りを続けていたところ、見かねたお父さんが仲裁に入ってくれた。私と優紀ちゃん双方の言い分を聞いた上で、最終的に、私の希望通りにさせてあげる様、優紀ちゃんに言った。

「でも……」

優紀ちゃんは当然不満そうな顔をする。だけど、「色々経験して大人になることも大切だ」とお父さんが説得してくれて、結局は仕方ないという感じで納得し、なんとかOKしてくれた。

だけど二人に「ありがとう」と言うその時、この胸の中は、罪悪感と懺悔の気持ちでいっぱいだった。





とりあえずは両親を納得させられたものの、私は自分の部屋のベッドの上で、横になりながらどこか不安だった。

仁くんは確かに数日前、ああ言ってたけど、もしかしたら本気ではなかったのかもしれない。信じてるのは私だけで、向こうはそう思ってはいないとしたら……。

抱き付いて、駄々をこねる自分のことを思い出す度になんだか恥ずかしい気持ちがしていて、連絡することも躊躇していたけれど、思い切って電話してみることにした。数回コールした後に繋がったので、「仁くん」と名前を呼べば「……なんだよ」と低い声が返ってきて、それに、胸の鼓動が速まっていく。

「ねえ、この前言ってたあれって、本当」
「んなくだらねえ嘘吐いてどうすんだよ」
「だって……、仁くんがそんなこと言うなんて」
「お前が寂しいとかなんとか抜かして、ガキみてえに泣くからだろうが」
「泣いてない」

またあの夜のことを思い出してしまい、体が急に熱くなる。私、なんであんなことしちゃったんだろう、と後悔してみてももう遅い。だけど、やっぱりそんな私を思ってそう言ってくれたのだとわかれば、嬉しかった。

「じゃあ、夏休みになったら行くけど、いいの」
「勝手にしろ」

それだけ言うと電話は切れた。

とはいえ、不安はまだ僅かに残ってる。とりあえず小ぶりな旅行用バッグに必要最低限の物だけを詰めて行くことにして、ついでに、もしやっぱり勘違いだった時にあまりショックを受けないための心構えもしておくことにした。











それから数日が経って夏休みが始まった日の朝、私は優紀ちゃんに見送られて家を出た。それからしばらく適当な場所で時間を潰し、お昼を食べた後、約束通り仁くんの住むアパートを訪れた。

呼び鈴を押そうとする指が少し緊張して震え、バッグを握り締める手にも思わず力が入る。

そもそも家にいるのかなと思いつつ、えい、と押してみると少しししてからドアが開いた。そこには無言で私のことを見る仁くんがいて、ずっと家にいたらしく部屋着姿で髪を下ろしている。

何も言わないまま中へ入って行ったので、私も靴を脱いで後をついていく。だけど部屋の中に入ってもまだ、やっぱり来てもよかったのだろうかという心配は消えてなくならない。だから、バッグを下ろしもせずに立ったままでいた。

「なに、突っ立ってんだ」
「……」
「座ってろ」

見れば、床の薄い敷物の上にはこの前までなかったはずのクッションが置いてあった。私が来るからって用意してくれていたのだろうか……?でもそうとは聞けず、とりあえず「うん」と答えてその上に座った。

やっぱり来てもよかったんだ。そう思えば急にほっとして、体中の力が抜けて行く。ああ、夢にまで見ていたことが現実になったんだ。これから毎日一緒にいられるんだ。嘘みたい。

、昼メシは食ったのか」
「うん」

頷けば、それ以上は聞かない。仁くんはいつだって余計なことは言わないけど、それでも私のことを気遣ってくれているのを十分感じ取れるし、そんなところも好きだった。

……少し前の自分とはまるで別人の様だ。こんなにも兄のことを好きと思って、一緒にいられれば嬉しいと感じ、ずっとこのままでいたいと願うなんて。それとも、この私が本当の私なのだろうか。

誰にも、自分にすら悟られないように嫌いな振りを続けてきただけで、本当は兄のことが大好きで仕方なくて、いつだって甘えたかったのかもしれない。

(……まさか)

そう思うのに、じゃあなんでこの前仁くんに抱き付いて「一緒にいてくれなきゃ、やだ」なんて言ったの。あれが本心なんじゃないの。きっと、ずっとそう思っていたから……。

子どもっぽい自分を思い出して、また恥ずかしくなってくる。

特にすることもなく、ただ座っていると変なことばかり考えてしまうので、「なにかやることない?」と聞けば、「べつにねえよ」と言われてしまった。

じゃあ掃除でも……と思ったけど、この家の中はすでに十分過ぎるくらい片付いてるし、そもそも片付けるほど物がないし。立ち上がろうとして、やめた。

仕方なくあんまり興味ないけど、テレビをつけてそれを見る振りしながら、ベッドの上にいる仁くんの方へ時々ちらりと視線を向ける。仁くんはバイク雑誌らしきものを眺めていて、そのまま特に何か話すこともなく、気付けば夜になった。

夕ご飯はいつもみたいに仁くんが作ってくれた。手伝う、と言えば「邪魔すんな」と言われ、食べ終わった後片付けると言えば無視された。だから無理やり、洗い物をしている横に立ってすすぎ終わった食器を布巾で拭いていた。

「……オイ」
「なに」
「あのうるせえのはどうしたんだよ」
「優紀ちゃん?」
「よく素直に、お前が家出てくこと認めたな」
「うん……まあ。嘘吐いて出て来たから」
「……」

そう言うと、仁くんはまた黙ってしまった。私のことを呆れているのだろうか。だって、本当のことなんて話せないし、かといって一緒に暮らすのを諦めるのも嫌だったから。そうするしかなかった。

それに、今まで散々やりたい放題してきた不良に、そんなこと責められたくない。まあ、べつに何も言われてないけど。


夜、寝るのは私が床でいいと思っていた。一晩だけじゃなくて、これからずっとなわけだし、いくらなんでもそれは悪いなと思ったから。だから、先にお風呂に入って寝支度を整えた私はタオルケットを準備して床に座り、ベッドは空けておいた。

そのうち、布団でも買ってこようかなと思っていると仁くんがやって来て、私の背中をポンと叩くと「お前向こう行け」と言った。やっぱり、自分が床に寝るつもりなのだろうか。

「私が床で寝るよ」
「いいからどけ」

そう言って私の腕を軽く掴んで立たせると、ベッドの方向へ背中を押した。これ以上何か言ったら怒られそうなので、仕方なく言われた通り、私はまた以前の様に柔らかいベッドの上に横になった。……この場所は仁くんの匂いがして胸がどきどきする。

ぼんやり仁くんの横顔を眺めながら、これから毎晩こうやって一緒に寝られるのだと思えば、嬉しくて、心の中の私が喜んでる。同じ部屋で寝るなんて、実家で暮らしてた頃だってしたことなかったのに。

なんだか、自分が大人になればなるほど逆に子どもになっていく様な気がしていた。そばにいたい。もっと甘えたい。本当は、仁くんのとなりで寝て、ぎゅって抱き締めて欲しい。

……もう嫌だ。
私最近こんなことばっかり考えてる。おかしいよ、どうしちゃったの。

「ねえ、明かり消して」

これ以上その顔を見ているとうっかり口に出してしまいそうだったので、そう頼んで、部屋を暗くしてもらった。 けれど、目を閉じても浮かんでくるのはやっぱりその姿ばかりだった。






次の日、私がゆっくり目に起きると、もう既に仁くんは起きて出掛ける支度をしていた。

「どこか行くの」
「……ああ」
「大学?」

それには答えない。もしかしたら大学じゃないのかもしれない、と思えば急に胸がざわりとした。だけどそれ以上は聞けなくて、黙ったまま出掛けて行くのを眺めるしかない。

どこに行ったんだろう。何か用事?買い物?それとも誰かと会うのかな……。用意しておいてくれたらしい昼ご飯になってしまった朝ご飯を食べながら、心ここに在らずだった。

私を自宅に住まわせるくらいだから、もしかしたら今は彼女なんていないのかも、と勝手に思っていたけれどそれはただの私の希望で、べつに単に家には呼ばないタイプなだけかもしれないし。

……「仁」と名前を呼ぶあの女の人のことを思い出せば、また苛立ちを感じる。

気を紛らわせるために一日中洗濯したり掃除機をかけたり、お風呂を磨いたりしてみたけど、結局その間も家事に没頭することはできなかった。すっかり陽も暮れて、いい加減もうやることないな、と思っていると仁くんが帰って来た。

どこ行ってきたの、なんてそんなの聞けるわけない。今日は外で夕ご飯を買って来てくれたらしく、黙ってそれを食べている間も昼間どうしてたのだろう、なんてことばっかり考えてた。

一緒に暮らせるのは嬉しいけど、それはそれでいちいち行動が気になってしまう。ないものねだりして、どこまでも我儘になっていくどうしようもない自分がいた。






それからも仁くんは出掛けていくことが多かった。大概は昼間だけど、時々夜遅い時もあって。だけど相変わらず「どこに行くの」とは聞けずに、いつも見送って、帰って来るのを待つばかり。

(……遅いな)

今日はもう0時近いのにまだ帰って来ない。「俺がいない時はなんでも勝手に食べろ」と言われて、お金まで渡されていて、だから夕ご飯は適当に買って済ませていた。

(誰かといたりするのかな……)

ベッドの上に座って、手元のバイト求人情報誌をペラペラとめくりながら、ついつい気になってしまう。

一日中ずっと家にいるのも暇だし、元々はバイトするって嘘吐いてたんだし。それに自分の生活費くらい払わなくては悪いなと思って私はバイトを探すことにした。

この、「アットホームな職場です」とか「明るい仲間と楽しく働けます」みたいな煽り文句のついたやけに笑顔なスタッフの写真を眺めて、なんか嘘っぽい。本当かな、と疑ってしまう私は捻くれてるのだろうか。

そういえば、優紀ちゃんが言うには、仁くんは生活費とか一切受け取っていないらしい。お父さんのことが嫌いだからだと思うけど、渡そうとしても断られるんだとか。

大学も奨学金で通ってるみたいだし、親に頼らないで、お金どうしてるんだろう。やっぱり何かバイトしてるのかな。あのキレやすい仁くんがバイトなんて考えられないけど、それしかないよな。

じゃあいつも家にいないのも、きっとバイトに行ってるからに違いない。そうだ、そう思うことにしよう。……でも、仁くんがするバイトって何。なんか、危ないやつとか、変なのじゃないよね……?

結局そんなことばかりが思い浮かぶし、自分のバイト先も決まらないしで悩んでいると、玄関のドアが開く音がしたのでどうやら帰って来たらしい。時計を見ると、もう0時を大分過ぎている。いつもはそんなことしないけど、私は思わず立ち上がって様子を見に行ってしまった。

「まだ起きてんのか」
「……うん」

べつに、まだって言う程遅くないと思うけど、まあ普段なら確かにもう寝てる。というか、「ガキは寝ろ」と言われて勝手に明かりを消されるから寝ざるを得ないわけだけど。

さっさと私の横を通り過ぎてお風呂場に行く仁くんからは、煙草と、お酒の匂いがした。それに微かに香水の香りもした様な……。バイトじゃなさそう。どこかで飲んできたのだろうか?

そりゃ、大人なんだから、べつに飲みに行くくらいするでしょ。でも、あの香水の香りは……何だか、前にも嗅いだことがあるような。

(…………)

もう寝よう。きっと気のせいだ。そう思ってベッドに行き、その中に潜り込んで目を瞑った。モヤモヤとした感覚が胸中に広がっていくのがわかるけど、ひたすら気のせいだと思うしかない。

じきに仁くんがやって来てどうやら部屋の明かりを消したらしい後も、ちっとも眠りになんてつけやしない。

(嫌だ……)

彼女がいるなんて、そんなの。誰か女の人が、甘えた声で仁くんの名前を呼んだり、抱き付いたりして。考えるだけで苛々する。だって彼女だったら当然キスだってするし、きっとその先も……。

……そんなこと思う私はおかしい。兄を彼女に取られて嫉妬するなんてどうかしてる。

駄々こねて一緒に暮らして、それで、どうする気だったのだろう。彼女がいたところで私は、あんな不良のあの人に妹として大事にされてることには変わりないのに。それってすごいことなのに、これ以上まだ何を望むの。

(……妹、)


……そうか……。

自分の中でずっと感じてたよくわからない感情は。

私はずっと仁くんのことを、男として見てたんだ。子どもの頃から、心の中で、兄としてじゃなく男の子として好きだった。だから、そう感じる自分の想いが次第に大きくなっていくのがなんだか気味悪くて、怖かったから「嫌い」になることで逃げようとしてた。

「嫌い」と思い込み続けて、精神の均衡を保ってたのは、危険な兄を好きと思う妹としての自分を心配してたのじゃなくて。男として好きだと感じる、女としての自分のことを……。


本当はずっと、仁くんのこと、男としてどうしようもなく好きだったに違いない。だって、これまで他の男の子を好きと思ったことがない。同級生の女の子達はみんな、いつも好きな男の子の話で楽しそうにはしゃいでいたけど、私にはちっともそんな風に思える子はいなかった。

別れた彼のことも、いい人だし、好きになれればきっと幸せなのだろうとわかるのに、どうしても男性としては好きになれなかった。いつだって仁くんのことばかり思い出して、この人が仁くんだったらいいのに、ってそればかり。

妹として、兄の様な存在に甘えたいからなんじゃないかと思ってた。でも、違った。私は、仁くんみたいな人が好きなんじゃなくて、仁くんが好きだったんだ。

だけど、そんなことがわかったところでどうしようもない。妹じゃなくなるわけでもない。次第に上昇していく様に感じるこの体の熱は、どこにも行き場なんてなく、ひたすらに持て余すばかり。

今夜は暑いから。きっと、だからだ。

そう自分に言い聞かせて、ぎゅっと目を瞑ってみてもやっぱり眠くなんてならなくて、結局朝までそのまま。時折聞こえる仁くんの静かな寝息に、この胸は締め付けられる思いがしていた。









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