結局、バイトはアパートからそんなに離れていないコンビニですることにした。やることや覚えることがたくさんあって、やっぱり働くのって大変なんだなと思ったけど、でも忙しければその分余計なことを考えなくて済むから、丁度いいのかもしれない。 日中、仁くんがいない間にバイトに出掛けて、帰って来る前までに戻っていることがほとんどだったけど、時々仁くんが家にいる日にも私だけ出掛けたりとか、帰りが遅くなって後から帰ることもあった。 でも、家にいるとつい悶々としてしまうので、働いていればお金だって貰えるわけだし、むしろその方がいいのかもと思っていた。 「ただいま」 急に休みの人がいたから、今日は少し遅くなってしまった。家に戻ると仁くんの方が先に帰っていたらしく明かりがついていて、中に入れば夕ご飯の匂いがする。 キッチンに立つ仁くんはちらりとこちらを見るけれど、何も言わない。それから夕ご飯を食べている間も、テレビを観ている間も黙ったまま。お風呂に入ってからベッドに行き、バイトの予定を確認しようと携帯に登録してあるスケジュールを眺めていると、後から仁くんが部屋に入ってきた。 「……」 名前を呼ばれたので顔を上げてそちらを見てみたけど、向こうは床に座ったまま、私の方を見てはいなかった。 「お前、最近家にいねえな」 「え、……うん」 「……」 「それが、なに」 聞いてみても、もうそれ以上は何も言わないまま、明かりを消されてしまったので仕方なく私もベッドに横になって目を瞑った。もしかして心配でもしてるのだろうか? バイトしていることは、仁くんには話していなかった。べつに隠さなくてもいいんだけど、なんとなくタイミングがなくて、そのまま。それに、どうせ言ったところでそんな話、興味なんてなさそうだし。まあいいや……と思って、それからも言わなかった。 「……うん、元気だよ。……写真?そんなのないよ、バイトで来てるんだから。はいはい、だから大丈夫だってば。悪いけど、忙しいからもう切るよ」 バイトに向かって歩いている途中、優紀ちゃんから電話が掛かってきた。こんな風に時々連絡がある度に私は、適当にごまかして切っている。心配してくれている優紀ちゃんには悪いな、と思うけど、でもこうするしかないし。 「785円です」 そうは言っても、レジを打ちながらなんだか不安になってくる。こんなこと、一体いつまで続けられるだろう。嘘なんて、きっといつかはばれてしまう。そしたら、私を信じてくれていた優紀ちゃんとお父さんはどんな顔するかな……。 べつに、お兄ちゃんと一緒に暮らしたいからって正直に話せばいいのに、なんで言えないんだろう。嘘まで吐いて、出て来たのは、どうして。 (…………) だって私は仁くんのこと、兄としてなんて見てないから。どこかやましい気持ちがあったのかもしれない。というか、多分そうだし。素直に、兄妹として一緒に暮らしたいなんて思ってなかった。 同じ家で一緒に過ごして、いつか彼女みたいになれたらいいな、なんて。そんなの無理なのに、馬鹿みたい。馬鹿だ、私は。 ……でも、……帰りたくない。 仁くんが家を出て行ってから、いつもずっと寂しくて、だけど誰にも言えなくてつらかった。それは兄のいなくなった妹としての寂しい気持ちなんかじゃなかったけど、そんなの、どうでもいい。 (男として好きで……なにが悪いの) ありがとうございました、と言い終わる前に去って行くお客の後ろ姿を見送ることもせず、後続の人がいなかったので商品陳列に戻る。 だって仕方ない、他に誰も好きになれないんだから。仁くん以外の男を、ちっともいいと思えない。あんな人がずっと子どもの頃からそばにいて、他にどんな男好きになれっていうの。あの兄以上に強い男なんて、どこにもいないのに。 今日も遅くなってしまった。というか、私が店長に頼んでシフトを増やしてもらったから当然なんだけど。せっかく一緒に暮らしてるのに、家にいる時間を減らしたりして、私一体何やってるんだろう。 コンビニを出て家に帰る途中、携帯を見てみると電話の着信があって、それは仁くんからだった。連絡なんて滅多にしてこないのに、と不思議に思いながら折り返しかけてみると数回コールした後に繋がったけど、しばらくの間何も喋らない。 「なにか用……?」 「……お前、どこほっつき歩いてやがる」 「え……?」 「さっさと帰れや」 機嫌の悪そうな声でそれだけ言うと、電話は一方的に切れた。 家に戻ってみると、テーブルの上には私の分の夕ご飯だけ残っている。あ、そうだ、今日は遅くなるって伝えるの忘れてた。だから、怒ってるのかな。 「ごめん」 「……」 仁くんは私の方を見もせずに、黙ったまま煙草を吸っている。近付いて行ってとなりに腰を下ろすと、持っていたバッグの中から封筒を取り出して、「はい」とそれをそのまま仁くんの前に差し出した。 「……なんだよ」 「私の分の生活費」 「あ?」 今日もらったばかりのお給料を、もう一度、はいと言ってその手に渡そうとしてみても「いらねえよ」と突き返されてしまった。 「でも、」 「いらねえっつってんだろ。大体、お前その金どうしたんだよ」 「バイト代……私、バイトしてるの」 「馬鹿か、テメエみてえなガキが働けるわけねえだろ」 ガキじゃないし……。なんでいつも私のことガキ扱いするの、と言い返そうと思ったけど、できなかった。だって、もう子どもじゃないと自分では思っても、実際にはこうして面倒を見てもらってて、それに親には学校に通わせてもらってるし、お小遣いだってもらってる。 「くだらねえこと考えてんじゃねえ。んなもん、とっとと辞めろ」 「急に辞められるわけないよ」 仁くんが溜息を吐く様に吐き出した煙草の煙を眺める。自分だって、いつも出掛けて家にいないくせに。どこかで誰かと会ってるんじゃないの。バイトだって、知らないけど何かしてるんでしょ。 女の人と遊んで、お酒飲んで、煙草と香水の匂いが混ざる様なことしてるんだ。 そう考えれば、また胸がぎゅっと苦しくなる。私は立ち上がって、結局受け取ってくれないから封筒はまた自分のバッグにしまい、一人黙ったまま冷めてしまった夕ご飯を食べた。 仁くんにはああ言われちゃったし、バイトどうしようかな……。でもまだ始めてそんなに経ってないのに急に辞めますなんて言えないし、だけど家にいると変なことばっかり考えちゃうし、などとぼんやり考えながら商品を陳列していた。 窓の外はもうすっかり暗くて、夕飯の時間も過ぎたこの時間はお客もまばらだった。あの後、せめて昼間だけにしろとも言われていて、それだけでも店長に相談してみようかな、と思ったところで人がレジに向かうのが見えたのでそこへ移る。 煙草を買うその若い男の人は、なんだか私の顔を見ている様な気がしたけど気付かない振りをして金額だけ告げると、黙ったままお金を払って去って行ったのでやっぱり気のせいだったかなと思った。 結局、今日は店長に言い出せず、残っている従業員の人に挨拶だけしてバイトを上がった。 「ちゃん」 店を出たところで、やけに馴れ馴れしいトーンで私の名前を呼ぶのが聞こえて声のした方を見ると、そこにいたのは少し前にレジに来た男の人だった。近くにはもう一人、別の男の人が煙草を吸っている。 「久しぶりだね、今この辺りに住んでんの?」 「……」 「俺達さ、前よく一緒に仲良く遊んだよね」 「……」 無視して行こうとすると、「待って待って」と笑いながら近付いて来て後ろから肩をぐっと抱かれたのでその顔を見上げる。……こんな人、覚えてない。なんで、私のこと知ってるんだろう。 「お前誰だよ、その子。昔の女?」 「亜久津の妹だよ」 「亜久津……って、山吹にいた?へえ、あいつ妹なんかいんだ」 もう一人の男の人が煙草を地面に捨てて、それを靴で踏みつけるのを苛々した気持ちで黙ったまま見ていた。 「レジですげえタイプと思って名前見たら、亜久津ってあってさ。マジビビるよな」 「……」 「こうしてまた会えたのもなにかの縁じゃん。これから俺らと一緒に遊ばない?」 「やだ。私、あんたなんか知らない」 「またまたあ。相変わらず冷たいね、ちゃん。高校ん時さあ、よく一緒にカラオケとかゲーセン行ったっしょ?ちゃんいつも勝手に帰っちゃうんだもん、俺傷ついちゃったなあ」 「……」 そういえば、高校生の時、よく校門を出た先で私のこと待ち伏せてるガラの悪い他校の男子生徒が数人いたことを思い出した。仁くんは卒業してたと思うから、確か、二年生の時だっただろうか。卒業していなくなったのをいいことに、彼らはよく山吹に来ていた。 兄に手酷くやられた腹いせなのか知らないけど、いつも妹の私に絡んで来て、無理やり遊びに連れて行かれた。暴力を振るわれたりすることはなかったけど、馴れ馴れしく体を触られたり、何故か交際を迫られたりして嫌だったから、いつもトイレに行く振りをして途中で逃げた。 それは誰にも話さなかった。家族にも、先生にも。心配掛けたくなかったし、周囲に亜久津の妹だからだって言われるのが嫌で、黙ってた。 裏門からこっそり帰る様にしたり、さりげなく壇くんと一緒に帰ったりして避けている間に、彼らもじきに姿を見せなくなった。嫌な記憶だから忘れたくて、だから、それから思い出すこともしなかった。 きっとこの人は、あの他校の男子生徒達の中の一人なんだろう。顔なんて覚えてないけど。 肩を抱く腕を振り払って歩き出すけど、またすぐに追いついて来て、結局同じ様に背中から肩の辺りまでぎゅっと抱かれることになる。 「離して」 「まあまあ、急がなくてもいいじゃん」 もういい、仁くんに連絡しようと思って携帯をバッグから取り出したらそれを横からぱっととられてしまった。 「返してよ」 「そう怒んないでさ、ね、一緒に楽しく遊ぼうよ」 「ふざけないで」 取り返そうとすると、それをもう一人の男にぽい、と渡してしまった。こういう時は、いくら嫌と抵抗したって無駄だとわかってる。だから、あの時も一緒に行くしかなかった。あれから何年か経った今でも、結局そうするしかなくて、私は促されるまま二人と一緒に歩き出した。 連れて来られたのはそこから少し離れた場所にあるバーの様な所で、薄暗い店の奥の方の席に、二人に挟まれて座った。目の前にはお酒とか簡単な食べ物とか置いてあるけど、何を勧められても口にはしなかった。 「ちゃん、これ美味しいから飲んでみなよ」 「いらない。私、まだお酒飲めない」 口のそばまで近付けられたグラスを手で押し返しながらそう言うと、今日初めて会った方の男は「オイ亜久津の妹が真面目とか、うけんだけど」と言って可笑しそうに吹き出した。 この人もどうやら仁くんのことを知っているみたいで、それも随分と嫌っている様だ。さっきから、もう一人の男に昔、仁くんに酷くやられた話なんかをしている。 「あいつはマジでヤバい。頭いかれちまってるよな」 手当たり次第暴力を振るってたのも知ってるし、悪いことをたくさんしてたのもわかってる。擁護なんてできないしするつもりもないけど、それでも何も言えずに黙って聞きながら、仁くのことをそんな風に言われて面白くないと感じていた。きっとそんな私もどっかおかしいのだろう。 適当なタイミングで帰ってしまおうと思ってたのに、ずっと肩を抱かれてて動けないし、それにこの店はどうやら一番奥にトイレがあって、そのまま抜け出すのは無理そうだった。 「でもさ、最初わかんなかったよ。すげえ可愛いなと思ってて、そしたらちゃんなんだもんな。俺さ、前からちゃんのこと好きだったんだよ。知ってる?」 「……」 「なに、お前高校ん時からこの子狙ってたわけ」 「いやマジタイプなんだって。ちょっと素っ気ないとこもいいし」 お前ドMかよ、と言われてその人は笑ってるけど、私はちっとも笑えない。どうでもいいし、早く帰りたい。それからも延々と続くくだらない会話を聞きながらそう思っていると、さほど私自身には興味なさそうな方の男の手が急にぐい、と私の顎を掴んで自分の方へ向かせると、まじまじと顔を眺める。 「確かに、まあまあ可愛い顔してんじゃん。にしても似てねえな、本当にあいつの妹かよ」 「……」 何も答えないでいると、もう一人の男が「本当だよ。兄貴と全然顔違えけど」と言い、それに「へえ」と納得すると顎を掴んでいた手がぱっと離れた。 「なあ、亜久津の妹とやったら面白いと思わねえ?」 私の気持ちなんてお構いなしに、にや、と笑うその表情に、虫唾が走る。 すると今度は、その手が私の太股の上を滑り、足の間に入って来たので「やめて」と言って手を掴んでも力でなんて勝てるわけない。睨み付けてみたって、余計愉しそうにするだけ。 仁くんにケンカで敵わない人達は、どうしてかいつも、私にその憎しみの矛先を向ける。小学生の時だって、高校生の時だって、それに今だって。兄とは違い、弱くて抵抗のできない妹の私をいじめて楽しいのだろうか。 「触らないで」 胸に伸びてきた手を払いのけても、笑ってる。私を力づくで好きな様にして、それで仁くんに勝ったつもり?群れなきゃなんにもできないくせに、馬鹿じゃないの。 「いい加減にして!」 思い切り立ち上がって両脇の男達の手を振り払うと、私は出口に向かって走った。もうこの際携帯なんてどうでもいい。どっちかが私のことを呼んでるけどそれにも振り返ったりせず店を出るとそれからも走り続けた。 しばらくして振り返ってみると、ついて来てはいない様だったのでやっと立ち止まって荒い呼吸を整える。そういえば携帯だけじゃなくて、バッグも置いてきてしまったみたいで手には何も持ってない。 (……しまった) あーあ、と思いながらとぼとぼ歩く。きっと今頃は、もう夜中なんだろうな。 こっちがアパートの方向なのかなんて、そんなのわからないけど、とりあえず歩くしかない。するとしばらくして少し先から誰か歩いて来るのが見えた。あんなことがあった後だし、誰だろう、嫌だな……と警戒してしまう。 暗闇の中でちょっとずつはっきりしてくるその姿は、怒った様な顔した仁くんだった。ちっとも帰らない私のことを探しに来たのだろうか。その姿が目に入れば、私は無性にほっとした気持ちになって、緊張していた体中の力が抜けていく。 「、テメエなにしてんだ」 「……」 「電話ぐらい出ろや」 「……」 出られるわけない。だって、携帯はあの男がずっと持ってて返してくれなかったんだから。 「なんとか言えよ」 「……」 「オイ、……」 自分でも無意識のうちに、私は仁くんに抱き付いていた。背中にぎゅっと強く腕を回して、その胸に顔を押し付ける。気持ちが落ち着くまでしばらくそのままでいても、仁くんはそれを振り払ったりしなかった。 それから、これまでにあったことを話した。話すつもりなんてなかったけど、やっぱりこうなってしまっては話すしかない。それを聞きながらとなりを歩く仁くんは、ずっと黙ったまま。 アパートの前まで戻ると、私の方を見ずに「お前は先に家入ってろ」と言って、元来た道へ向かってまた歩き出した。 「どうするの」 聞いてみてもそれには答えずさっさと行ってしまう。仕方なく先に家の中に入り、床の上に座ってじっとしていた。どうするの、なんて聞かなくてもそんなのわかってた。 やっぱり言わなきゃよかったかな……と思いつつ待っていると、だいぶ経ってから玄関のドアが開く音がしたので立ち上がって迎えに行った。 おら、と手渡されたのは私のバッグで、中には携帯もちゃんと入っている。見れば仁くんの顔はちょっと怪我してて、口元が切れて血が滲んでいた。 「……ケンカしたの?」 仁くんは何も答えない。まあケンカで負けるわけないと思うけど、向こうは二人だったし、積年の恨みがありそうだったし。その傷を眺めて、ちょっと心配になる。 「大丈夫……?」 手を伸ばして頬に触ってみると、てっきり振り払われるかと思ったのにそのまま私のことを見下ろしてる。じっと目が合って、まだケンカしてきたばかりでどこかギラリとした鋭いその視線に、堪らない気持ちになって胸が高鳴る。 こういう姿を格好いいと思ってしまう自分はおかしいのだろうか。ケンカなんてもう止めて、と口ではずっと言いながらも、本当はそんなところを見るのが好きだったのかもしれない。 「……さっさと風呂入って寝ろ」 そう言って、ぱっ、と離れて行ってしまうと自分は床の上に座って煙草に火を点ける。「うん」と答えて、先にお風呂に入り、ベッドに横になって仁くんが出てくるのを待っていた。 すると少しして仁くんが部屋に入って来て、明かりを消すと横になる音がする。 「……ねえ」 「……」 「毎日、床の上に寝てて体痛くないの」 「……痛えに決まってんだろ」 「ベッドで私と一緒に寝てもいいよ」 「んでテメエが上からなんだよ、ざけんな」 俺の家だろが、と不機嫌そうな声を出す仁くんに、もう一度「ベッドで寝なよ」と言ってみるとまた無視でもされるかと思ったのによほど床の上で寝るのは体が痛いのか、少しして、ベッドへ上がって来た。 割と大きいサイズだから、私が壁際に寄れば二人で寝れないこともない。だけど仁くんは中の方まで入っては来ずに、ベッドの際辺りで反対を向いて横になった。 「ねえ、もっとこっちに来れば。寝てる間に落ちちゃうよ」 「るせえ、テメエと一緒にすんな」 ……あっそ、とそれ以上はもう言わずに、しばらくの間私は目を瞑らずにその背中をじっと眺める。すると思わずまた抱き付きそうになるけど、それは我慢した。 「仁くん、ありがとう」 「……」 まあ元はといえば仁くんのせいと言えなくもないけど。でも、助けてくれたことには変わりないから。だけどそれに返事はなく、もう寝ちゃったのかな、と思っていると、 「……お前、なにもされてねえだろうな」 とぼそりと呟く声がした。一体どこまでが”なに”の範囲に入るのかはわからないけど、とりあえず太股を触られるくらいで済んだから、「うん」とだけ答えた。 それからはもう仁くんは喋ったりせず、だから私も何も言わなかった。ずっとその背中だけぼんやり眺めてて、じきに寝息が聞こえてくると、なんだか安心したのか私も眠くなってきて、いつの間にか寝てしまった。 |