回転木馬の夢



忘れたいと思うのに、あの、美しい青みがかった瞳の色をどうしても忘れることができない。 それは、思い出す度に、私の心を鎖のように戒めて苦しくなるばかり。

泣くほど好きなの?ろくに会ったこともないくせに。跡部先輩のことなんて、なんにも知らないくせに。馬鹿じゃないの。

(……こんなの、間違ってる)

あの人は所詮は、私にとっては雲の上に存在する人。だから、そう易々と知り合いになんてなれるはずがないし、なっちゃいけない。

なら、せめて、好かれなくてもいい。嫌われたくなかった。
ただの、その他大勢の生徒の内の一人として存在していたかった。あんな形で、彼の瞳の中には入りたくなかった。

(忘れて欲しい)

私のことなんて、忘れて、何もなかったことにしてほしい。私なんて、空気みたいに消えてもいいから、跡部先輩の記憶からいなくなって欲しい。


ちゃん、テニス部どうする。入部する?」
「あ……えっと。ごめんね、もうちょっとだけ考えさせてもらってもいいかな」
「そう?わかった」

お昼休みにランチをしながら、友達にそう聞かれたけれど、ちゃんと断れなかった。元々は、男子テニス部の練習を覗きたいという思いからの、不純な入部動機だ。

それに私は運動が苦手だし、さらに跡部先輩に悪いイメージを持たれてしまったであろう今、テニス部に入部する気力も勇気も私にはなかった。

(最低だ……私って)

どんよりした気分のまま、食べ終わった後、教室を出ようとすると友達に「どこ行くの?」と聞かれたけれど「ちょっと用事思い出して」とへたな嘘をついた。

だけど本当は行くあてなんかなく、ただフラフラと校内を歩くだけ。

この学園は校舎施設が素晴らしくて、あまりにも広く大きく、キレイに整えられているので私のような人間には時折、むしろ居心地が悪いとさえ感じられてしまうくらいだった。


「……ここは、なんの部屋だろう」

気が付くと、あまり人通りのない廊下にいた。ふと立ち止まってプレートを見てみると、そこには「生徒会室」と書かれている。まだ校舎内を把握していないので、こんなところにあるなんて知らなかった。

まあいい、私には縁のない場所だと思って通り過ぎようとしたところ、キイ、と静かな音を立ててそのドアが開いた。

「……」

出てきたその人物と目が合ったのは、嘘だと思いたい。
こんなところで会いたいだなんて、私、神様にお願いなんかしてないのに。

(……跡部先輩)

「……お前は」

少しだけ目を見開いた跡部先輩は、私のことを覚えているようだった。普通だったら嬉しくて死んでしまいそうになるのに、今は、恥ずかしくて死にそうだった。

とにかく頭を下げて、その場をすぐにでも去ろうとしたところ、「ちょっと待て」と止められたので一体何事かと思う。この前のこと、やっぱり叱られるのだろうか。

なんと謝ろうかと、必死に考えながら、そろそろと振り向くと。

、お前女子テニス部に仮入部しているそうだな」
「……え?」

……?それはもしかして、私のことだろうか。なんで、跡部先輩が私の名前を知っているのだろう。それに、女子テニス部に仮入部していることも。わけがわからなくて、ただただ、ぽかんとする。

「どうした」
「……え、あ」
「ここじゃなんだ。今、時間はあるか?少し話がしたい。中に入れ」
「……は、はい……」

扉を大きく開かれて中へ促されたので、よくわからないまま、とにかく中に入った。夢なら早く覚めて欲しいと思うのに、摘んでみたほっぺたはただ痛いだけ。

「まあ、座れ。他に誰もいないから、気楽にしていい」
「あ、はい……」

すすめられるまま、近くにあった椅子に腰掛ける。恐る恐る見渡すと、たしかにこの部屋の中には私達以外に誰かの姿はなかった。

話?話って何?

跡部先輩は、窓ガラスに寄り掛かって私のことを見ている。外から差し込んできた陽の光が、彼の繊細そうな髪の毛を透けさせるのを綺麗だと思った。

「この前、男子テニスコートにも来ていたな。テニスに興味があるのか?」
「え、あ、いえ……その……」

叱られるわけではないのだろうか。でも、まさか、本当のことなんて言えない。
ただ答えを濁して、目線を下に逸らすばかりで、何も答えられなかった。そんな自分を、本当に馬鹿だと思って泣きたくなる。

「まあ、そんなことはいい。ところでは、中等部からうちに入ったのか?」
「は、はい……そうです」
「そうか。もうここには慣れたか?」
「はい、なんとか……。でも、校舎が広くて……」

この会話は、氷帝を受験したときの面接試験よりもずっと緊張する。一体何を答えたら正解なのかわからなくて、ただ、思いついたことを答えるので精一杯だった。

だけど跡部先輩は、そんな私ののろくてつたない言葉を、急かすことも苦言することもなく、ただ「そうか」と言って、頷きながら聞いてくれていた。

もう、自分が何を言っているのかもよくわからなかったし、むしろ、夢か現実なのかも未だによくわかっていなかった。本当はまだ自分の部屋の、ベッドの中で寝ているんじゃないのだろうか。

「それで、女子テニス部に入部する気はあるのか」

少しの間、跡部先輩の問いに、ただ「はい」とばかり答えるしかできなかったけれど、ふとそんなことを聞かれて急に目の覚めたようにサッと意識が戻ってきた。

(……ちゃんと、言わなきゃ……)

「あの……すみません。入部はしないつもり、なんです……」
「……そうか」

怒られるわけでもないだろうに、おずおずと答えると跡部先輩は、少し目を伏せながらただそう言った。

先輩はそれ以上何も言わなかったけれど、私はそれが申し訳なく思えて、自然と体を小さくしていた。先輩のように、真剣にテニスに取り組んでいる人に対してあまりにもふざけた考えだったと、恥ずかしかった。

「まあ、気が向いたら入るといい。その時は俺がボールの打ち方くらい教えてやる」
「は、はい……ありがとうございます」

私なんかに、跡部先輩が打ち方を……?心の中でこっそり、向けられた言葉に首を傾げる。

(どうして……)


「すまなかったな、もう帰っていいぞ」

訳がわからずに悩んでいると、急にそう言われたので「は、はい」と答えて勢いよく立ち上がったら、それに伴って私の座っていた椅子も勢いよく倒れてしまった。

「す、すみません」

おろおろと私がその椅子に手をかけるよりも早く、跡部先輩の方が先にやって来て椅子を立て直してくれた。

「すみません……」
「いや。それより、どこか打ったりしてないか」
「い、いいえ、大丈夫です」
「そうか。ならいい」

ふと、間近で見上げる跡部先輩の姿は、一瞬うろたえてしまうくらいに綺麗だった。

「どうかしたのか」
「いいえ!すみません、あの、では……」
「ああ、悪かったな。少し、お前と話がしてみたかった」

そんなことを言われ、「なんで私なんですか」とは聞けずにそのまま頭を下げて逃げるように生徒会室を出た。それから廊下を歩いてしばらくたっても、心臓の鼓動が鳴り止まない。

よくわからないけれど、あんな風に話をしてくれたということは、嫌われていたわけではなかったのだろうか。よかった……、と思うとほっとして今頃になって目頭がジンとする。

かと思えば、どっと涙が溢れてきて、通りかかる生徒たちに不思議そうに見られながら、まるで子どものように泣きながら廊下を歩いた。


これは、夢じゃないのだろうか。
もしも夢なら、永遠に醒めなければいいのに。