眠れる森



ふと瞼を開くと、そこは森の中だった。
見渡す限り、辺りはすべて木々に囲まれていて、視界には緑しか映らない。

(……ここは一体、どこだ)

俺はなぜこんな場所にいるのだろうか。

見上げれば、重なり合う葉の隙間からこぼれるように漏れてくる陽の光が、きらきらと風によって揺らめいている。

とりあえず宛てもなく歩き出して、しばらく森の中を彷徨ってみても、いつまで経っても同じような景色が続くばかりだった。どこまでもどこまでも、緑で覆われた果てしない世界。

出口などどこにもなく、建物も、人影も、何も見つけられずに完全に迷ってしまった。
ざわざわという風の音と、小鳥たちのさえずりを近くで聞きながら、途方もなく立ち尽くす。


(…………誰だ?)

しばらくして、ふと、少し先に白いワンピースを身に纏った少女の後ろ姿が見えた。目を凝らすように見つめていると、一瞬こちらを振り返った少女は、俺のことを見ていたような気もする。

どこかで見覚えのあるような、その横顔。
それでも、誰なのかは、思い出すことができない。

「待ってくれ、」

歩き出した少女の後ろ姿を追いかけようとして走り出すも、自分の思ったようにうまく足が動かず、まるで鉛でも引きずっているかのようだった。走っても走っても、その少女との距離は縮まることはなく、俺が走った分だけ彼女は遠くへ離れていく。


「…………ここは……」

いつの間にか少女を見失い、次第に息切れがしてきた頃、俺はある場所に出て思わず足を止めた。

そこは、森の中にぽっかりと丸く円を描くように開けていて、その中央にはメリーゴーランドが置かれている。美しい白馬は誰も乗っていないというのに、優雅にくるくると廻り続けていた。

(なぜ、こんなものが……)

不思議に思いながら周囲を見渡すと、生い茂る木々の中、この円になった場所だけは美しい薔薇が地面を埋め尽くすように広がっていた。そうしてそのすべては白薔薇で、花びらは風に揺れながらきらめいている。

この景色は、どこまでも美しく、儚く、そして切ない。
懐かしいメロディーが、柔らかに耳を流れていき、俺はどこか意識のはっきりしないままぼんやりと白馬の廻るのを眺めていた。


そうして、どれくらいの時間が経ったのだろう。
俺は瞬きをして、ふと、メリーゴーランドの馬車の中に誰かが乗っていることに気がついた。
目に映るのは白いワンピース……、さっきの少女だろうか。小さく開いた窓から俺を見つめるその瞳は、どこかで見たことがあるはずなのに。

「……おい、」

急いでメリーゴーランドに近づこうとすると、その少女の姿は次第に薄れていく。またさっきのように、足が重くてうまく動かない。手を伸ばしても、届かない。

「待ってくれ」

まるで永遠を感じさせるような瞳の色に、触れることさえできないまま。

その世界は、霧のように、霞んで、揺れて、幻のように……消えた。







「……輩、先輩」

(…………)

「跡部先輩」

聞き覚えのある声に呼ばれて、うっすらと目を開くと、視界に映るのは少女の姿。それでも、先ほどの彼女よりかはいくらか大人びていて、幼さはなかった。

「あの、起こしてしまってすみません……。でも、先輩すごく苦しそうで……」
「……、か……?」

ぼんやりとしていた意識が、次第にはっきりしてくる。
心配そうな顔をして、俺の顔を覗き込んでいるのは、だった。俺の腕をそっと揺らしていた手を離し、「大丈夫ですか?」とたずねる瞳は今にも泣き出しそうだった。

「ああ……、何ともない。悪かったな」
「そうですか、よかった……。あの、先輩お疲れなんじゃないですか……?」
「いや、大丈夫だ。お前はそんなこと心配しなくていい」
「でも……」
「大丈夫と言っているだろう。少しうなされただけだ」

そう言って、そっとその髪を梳くようになでると、はやっと安心したような顔をして笑う。

俺はいつの間にか、生徒会室の自分の椅子で眠ってしまっていたようだった。窓からは午後の柔らかな光が差し込んでいて、たしかここに来たときはまだ午前中だったことから、だいぶ時間が経っているとわかる。

一瞬、なぜここにがいるのだろう、と少し考えたところですぐに思い出した。
の制服の胸の辺りに飾られた、花。今日は氷帝学園高等部の入学式の日で、はその新入学生だった。とは言っても中等部から上がってくる生徒が大多数で、一応形式上行うだけの入学式だ。

午前中のクラスでのホームルームが終わり次第生徒会室に来るように、俺がに言ったのだった。

「呼んでおいて悪かったな」
「いいえ、そんな……気にしないでください」
「ずっとここで待っていたのか?」
「いえ、あの、ホームルームが長引いたので……私も来たばかりなんです」

「だから大丈夫です」と言って笑うけれど、のことだ、実際には午前中に来ていて、寝ている俺が起きるまでずっとここで待っているつもりだったのだろう。

初めてに会ってから3年が経つけれど、相変わらず彼女はいつも俺に気を使って、なるべく気を悪くさせないようにと考えているのがわかる。

中等部の頃のようなあどけない幼さはなくなり、その表情にも女らしさが見えるようになったけれど、いつまでも純粋で、その控えめで穏やかな優しさは変わらないままだった。

「今日は、樺地先輩はいらっしゃらないんですね」
「ああ、樺地は所用で帰った。まあ、座れ」
「あ、はい……失礼します」

一旦立ち上がって を近くのソファに座らせたあと、自分用の机へ向かうと引き出しから小箱を取り出して、また彼女の近くへ戻った。俺のことを見上げるは不思議そうに俺の顔と小箱を交互に眺めている。

「俺からの入学祝いだ」
「……え?」

ホラと小箱を渡すと、反射的に受け取ったはしばらく驚いたように、自分の手の内にあるその箱をしばらく眺めていた。「どうした」と声を掛けると、はっとしたように慌てて俺に礼を言う。

「え、あ、すみません……!ありがとうございます」
「ああ」
「その、いいんでしょうか。こんな、私がいただいても……」
「ああ、いいんだ」

度々、に何か贈ることがあるたびに、こんな風に驚いて礼を言うのも以前からずっと変わない。そうして、そのたび心が癒されていくように思う俺がいる。

「……あの、開けてもいいですか……?」
「ああ」

少ししておずおずと尋ねる彼女に頷き、それからとなりに腰掛けると、その様子を眺めた。はゆっくり包装を解いて箱を開け、その中にある腕時計を見るなりまたしばらくそれを見つめたまま何も言わなくなってしまった。

その横顔は、夢の中で見た少女に似ているような気もするけれど、それでも違うと思う。
あれが誰だったのかは、目が覚めてからもわからないままだった。

「気に入ったか?」

彼女はゆっくりこちらを向くと、小さく「はい」と答えた。そしてもう一度「ありがとうございます」と礼を言うと、にこりと笑う。


『おにいさま』

(…………)

あのまま成長して、元気になっていれば、と同い年の妹もこんな風に高校入学の日を迎えることが出来たのだろうか……。俺はいつの間にか、に妹を重ねて見ていることに気がついていたけれど、それをどうすることもできなかった。

とくに顔や声が似ているというわけでもないのに、何か感じるものがあった。初めて会ったあの日から。彼女の瞳を見つめる度に、妹のことを思い出すのだ。そして、その度にこの心の隙間が満たされていくような錯覚が起こる。

(手放したくはない。今は、まだ……)

が笑えば、きっと妹も喜んでいるのではないかと、そんな気になる。
柔かな陽射しがを包んで、この空間すべてが優しいように思えた。

「入学おめでとう、









「跡部、もう進路は決まってるの?」
「ん?ああ、萩ノ介か。俺は……少し考えてるところだ」
「そうなんだ。跡部が迷うなんて珍しいね。俺はてっきり、もうイギリスの大学に決めたものかと思ってたよ。みんなそう言ってたし……まあ、それも噂だけど」
「お前は、うちの大学部に行くのか?」
「うん、そのつもりだよ」

一学期も半ばになれば大概の生徒がすでに進路を決めている。このまま氷帝の大学部に進む奴がほとんどで、外部に行く奴はあまりいない。だからなのか校内にはあまり受験ムードといったものはなく、いたって穏やかな雰囲気だった。

「このままうちの大学部に行くか、イギリスに行くか、悩んでるの?」
「……ああ、まあな」

日本に来たばかりの頃は、いずれはまたイギリスに戻るつもりでいた。

それならば大学進学のタイミングで戻るのが一番いいだろうかなどとその頃の俺は考えていたけれど、それから数年経った今の俺には一つ、どうしても気がかりなことがあった。

「もしかして……、あの子のこと?」

あの子、というのはのことだろう。萩ノ介はべつに冷やかすつもりでも何でもなく、純粋に俺のことを気にかけている様子でそう言った。

三年になって同じクラスになってから、萩ノ介は時折のことを話題に出す。いい子だよねと言っては、のことをそれなりに気に入っているようだ。


(……

イギリスへ渡れば、当然お前を手放すことになる。
やっと見つけた心の安らぎが、癒しが、遠く離れていくのは、あまりに耐え難く思う自分がいた。


お前を失ってまで、手に入れたいものなど、今の俺にあるのだろうか。