ラ・ラ・バイ 跡部先輩と出会った春から、いつの間にか夏が過ぎて、気がつけば季節は秋になっていた。 そばにいて欲しいと先輩が言ってくれた、あれから、私は先輩に誘われて度々食事や観劇に出掛けている。 普段私などにはおよそ縁のないような豪華な場所へ行ったり、高級な料理を食べたりするのは未だに慣れず、緊張してばかりだけれど、それでも先輩と一緒にいられれば嬉しくて、とても幸せだった。 ……けれど、そんなことを友達にずっと隠し続けるのはやっぱり心苦しくて、ある時思い切って打ち明けた。 それはもしかしたら友達や、周りのみんなや、たくさんの人を失うかもしれないと覚悟してのことだったけれど、実際には彼女は怒ることも悲しむこともなくて、ただ「すごいね」と言って笑うだけだった。 「……私のこと、怒らないの」 「どうして怒るの?」 「あの、だって……」 私はずっと友達のことを騙し続けていたのに。彼女だって跡部先輩に憧れているのを知りながらも。くだらない嘘までついて、自分さえよければいいと、そう思っていたのに。 「私ね、何となく、ちゃんて特別な気がしてた」 「……え?」 「だから、不思議に思わないの。ちゃんなら、そうかもしれないって」 そう言って、彼女が笑うのを私はただ見ていた。 私が特別だなんて、そんなはずはないと思っても、それ以上に安堵の気持ちが大きくて何も答えられなかった。本当は自分の考えていた以上に、その告白は怖かったのかもしれない。 急にほっとして、何だか、泣きそうだった。 「……すみません、お邪魔します……」 「今日は家族は外出していて俺しかいないから、気兼ねするな」 そのお邸は、噂以上に大きく美しく、まるで映画に出てくる外国のお城のようだった。 玄関を入ったところで、天井から吊るされたすごく大きなシャンデリアや、壁に飾ってある絵画などを立ち尽くしたまま呆然と眺めていると、跡部先輩は少し笑いながら「どうした、こっちだ」と先を歩く。 それから、近くにいた執事さんに「こちらでございます」ともう一度声を掛けられて、私は慌てて歩き出した。 『俺の家に来るか?』 そう、先輩に誘われたのは、いくらか前のことだった。それは信じられないくらい嬉しかったのに、以前に先輩の言った「もう少し」というのは、一体どれくらいの期間のことを言うのだろうかと、あれからずっと気になり続けていたけれど口には出せないまま。 いつかは終わってしまう束の間の幸福に、心のどこかで怯えながら、それでももうこれ以上何も望んではいけないと自分に言い聞かせるような日々が続いていた。 けれど、先輩からは別れを告げるようなそんな雰囲気はまったく感じられなくて、むしろ、一緒に過ごす時間は増え、距離は近づいていく一方のように思えた。 「………」 「珍しいか?」 「え、あ、すみません……」 廊下には美術館で見たことあるような騎士の甲冑や、高価そうな壷が並び、跡部先輩の部屋に案内されてからも部屋の中は外国製の物珍しいものばかりで、私はきょろきょろと見回してばかりだった。 こんなところで、毎日を過ごしているなんて私にはとても信じられない。 だってまるで、子どもの頃に思い描いた、お城に住みたいという夢そのもののようだから。 (ほんとうに、全部夢みたい……) 私が跡部先輩のお家に招待してもらえるなんて。もしかしたら、あの春からずっと、私は夢を見続けているのじゃないのだろうか?川のように長く、海のように深い夢。 ……このまま終わることなく、永遠に続けばいいのに。 「」 名前を呼ばれて、はっとする。「どうした」と少し首を傾げる先輩に、慌てて、何でもないですと笑顔を作って首を振る。 先輩に下の名前で呼ばれるようになってから、いくらか経つけれどまだ慣れない。その度に鼓動が早まるような感覚が続いて、何だか呼吸が浅くなってしまう。 先輩の声で呼ばれる私の名前は、まるで、ものすごく特別なもののような気がした。自分の名前なのに、自分の名前ではないような。 「あ、ありがとうございます」 メイドさんが、私の前に紅茶とお菓子を並べてくれた。綺麗な花の絵が描かれたティーカップはすごく繊細な雰囲気で、これもきっと高級なものに違いないだろうなどと思いながら、私は少し震える手でその細い取手を摘む。 先輩のお家で、今日はドジをしないようにと、いつもより緊張していた。だからなのか、何となく話題が頭に浮かんでこない。しばらくの間、クッキーを摘んでは、紅茶を口に含んで飲み込む、の繰り返しをしていた。 「……あの、とっても美味しいお菓子ですね」 「そうか」 「はい。私、初めてです、こんなに美味しいの食べたの」 「気に入ったのなら、帰りに持って行くといい」 「え、いえ、そんな……」 お気遣いなく、と言う前に先輩はメイドさんを呼んでいて、その旨を伝えるとその人は「かしこまりました」と頭を下げると、部屋を出て行った。 先輩と一緒にいると、私はいつも美味しいものや綺麗なものにばかり囲まれる。そしてそれは人生で初めて食べたり、見たりするものばかりであって、私が喜ぶ度にこんな風に先輩はそれを贈ってくれる。 優しい先輩が私に気を使ってくれるのを、嬉しいと思いながらも申し訳ない気持ちになった。 なるべく、いつも先輩に気を使わせないようにしようと考えながらも、段々と私の部屋の中は先輩に贈られたもので埋まってゆく。 そうなっては、なおさら何を話していいものやら……と、ぼんやり部屋の中を見回しながら考えていたところ、ふと花瓶に飾られた綺麗な白い薔薇が目に入った。いつか、見たことのあるその純白の花びらは、陽の光を浴びてきらきらと輝いている。 「あの……、跡部先輩は氷帝の中等部に入られる前は、イギリスにお住まいだったとお聞きしたのですが……」 「ああ、そうだ。ガキの頃はずっとロンドンにいた」 「そうなんですか。その、以前先輩にいただいた綺麗な薔薇……、フェアビアンカ、という種類で合っていますか?」 「よく知っているな。調べたのか?」 「はい、とても綺麗だったので、すごく気に入って……。あの、イギリスのお花のようなので、もしかしたら先輩がイギリスにいらっしゃった時にお好きだったお花なのかなって」 「……」 「その、ちょっと、思ったんですけど……」 「……」 「すみません……、私、何か変なことを言ってしまいましたか?」 急に先輩が、考え事をするように黙ってしまったので、私は何か気に触るようなことでも言ってしまっただろうかと、慌てて謝った。 「いや、何でもない……。悪かった」 「いいえ、私こそ、勝手に色々と喋ってしまって……。あの、すみませんでした……」 「いい、……お前は気にするな」 「はい……」 気にするなと言ってもらえても、私はもうそれ以上口を開くことが出来ず、ティーカップに描かれた花の、花びらの数なんかを数えたりしていた。時折、先輩のことを上目遣いでちらりと見てみると、少しぼんやりとしたようにソファにもたれている。 私が、余計なことを言ってしまったからだろうか……? 聞くこともできず、どうしようかと思っていると、誰かが部屋のドアをノックする音がした。 「……何だ」 「ご来客中失礼致します。景吾坊ちゃま、少々よろしいでしょうか?」 「入れ」 扉から顔を覗かせたのは、先ほど案内をしてくれた執事さんだった。跡部先輩がミカエルと呼ぶ年配の彼は、耳打ちするように何事かを話すと、先輩はわかったと頷いて私の方を振り返った。 「、俺は少し席を外す。悪いが待っていてくれるか」 「え、あの、ではお邪魔でしょうし、私そろそろ失礼します……」 「いい、そこにいろ。すぐに戻る」 「でも……」 「部屋の中は好きなように見ていていい。何かあったらメイドに言え」 パタン、とドアが閉じて、私だけになった部屋の中はただでさえ広いというのに、もっと広く感じた。改めて見回すと、飾ってる絵画や、時計や、ランプなどはどれをとっても豪華なものばかりで、綺麗な先輩によく似合うなあと思ったりした。 (…………) (……先輩、戻ってこないなあ) しばらくの間は大人しくソファに座ったまま、ぼんやりと眺めているだけだったけれど、思いのほか先輩が戻ってこないので、少し飽きてしまった私は好きなように見ていいという先輩の言葉に甘えて、立ち上がって歩いて見て回ることにした。 ぐるりと一周したところで、重厚なチェストの上に飾られた、綺麗な置物たちが目に入った。キラキラと輝くインペリアル・イースター・エッグや、スワロフスキーで出来た動物たちを眺めていると、ふとそばにジュエリーボックスがあることに気付く。 それは楕円形の深い赤色をしていて、蓋には天使のモチーフをしたカメオがついている。金の装飾が美しくて、綺麗だなと思ううちに、どこからかメロディが聴こえて、自分がその箱の蓋を開けていることに気付いた。 「オルゴール……」 ジュエリーボックスと思ったそれは、オルゴールだった。聴こえてくる音色は、綺麗だけれど、どこか悲しいような感じがする。亡き王女のためのパヴァーヌ……だろうか。以前に、聴いたことがある、この曲。 ふと見ると、蓋の内側に小さく写真が入れられるところがあって、そこに幼い少女の写真が入っている。白いドレスを着ている綺麗なその子は、どこか遠くを見て微笑んで、儚げな印象だった。 (……誰?) 気になりつつも、人のものを勝手に見てはいけない、と思って蓋を閉じると、ちょうど足音が聞こえたので先輩が戻ってきたのだと思って慌てて元のソファの位置へ帰った。 「悪かったな、。待たせた」 「いえ、私のことは気にしないでください……」 「退屈だったか」 「いいえ。お部屋の中を見ているだけで、楽しかったので」 そう笑いながら、まだ耳の奥に残る、悲しいメロディ。緩やかに胸が締め付けられて、どこか、遠く懐かしい場所を思い出すような、そんな気分になる。 やわらかな木漏れ日。髪を揺らすそよ風。 子守唄のように、目を瞑って、そのまま眠ってしまいたい。 (先輩も、あのオルゴールを聴いて、そんな気持ちになったりするんだろうか……) 「どうかしたか?」 きっと、私の知らない跡部先輩なんてたくさんいて。 けれど、それを知ろうとしてはいけない。 だってそんなの、私には許されないことだから。 私はただ、先輩の許してくれる限り、静かにそばにいられさえすればそれでいい。 「……あの、なんでもありません」 何も望んだりしない。これ以上は。 |