凍えるサファイア



ただの平凡な一般生徒でありながら、中等部の頃より跡部先輩に気に掛けてもらっている私のことを、周りの生徒たちは不思議そうに見ていた。

なぜこの子なのだろうと思っている様子だったけれど、それでも誰かに意地悪をされたりするようなことはなかったし、むしろ良くしてもらうことのほうが多かった。

跡部先輩が気にかけている生徒なのならば、とりあえず良くしておけば間違いないだろう、といった雰囲気で、それは跡部先輩のファンの女子生徒たちからも同じことだった。

極めて平穏な生活が送れていることに内心安堵しながらも、きっとそれは、私が先輩の彼女とかではないからなのだろうと知っていた。私などが、絶対に跡部先輩と釣り合うわけがない。彼女のわけがない。とみんなわかっているから良くしてくれる。

ただの一人の後輩として、存在することを許してくれている。


「跡部先輩って、格好いいよねえ。彼女とかいるのかな」
「3年のすごく綺麗な人と付き合ってるって噂、聞いたことあるよ」
「私は、2年の女子テニス部員の人って聞いたけど、でも他にも同じ生徒会の人とか、大学部の人とか……。付き合っても結構すぐに別れちゃって、いつも彼女が違うんだって」
「そうなんだ。本当は誰なんだろう?ああ、私たちにもチャンスないかなあ」

(…………)

校舎の中で、そんな会話を耳にすることは度々あるけれど、なるべく聞こえない振りをする。 たまに、直接私に聞いてくる子もいるけれど、わからないと言って笑うことしかできなかった。

跡部先輩に彼女がいるかどうかなんて、そんなの、本人に聞けるわけもなくて。ただわかっているのは、それが私ではないことと、これからも私ではないであろうことくらいだった。

知ろうとしてはいけない。跡部先輩から話してくれるまでは、私から聞いてはいけない。

私は今のままで十分幸せだから。これ以上を望んだりしない。してはいけない。

……それなのに、先輩の彼女とか、そんなことを頭の中で考えるたびに胸が締め付けられるような思いがする。あの優しい微笑みは、本当は私のものなんかではなくて、もっと美しい誰かのものであって。

いずれはどこか遠くへ行ってしまうのだと思えば、苦しくて、寂しくて、泣きたくなるような気持ちだった。そんな風に思うのもいけないこととわかるのに、どうしたらいいのかはわからないまま。ただ、なるべく考えないようにすることしかできなかった。







一人で校舎の廊下を歩いていたら、少し離れたところから私の名前を呼ぶ声がしたので、そちらを見るとやはりそこにいたのは跡部先輩だった。「はい」と返事をしてから、近づいていって頭を下げる。

「教室に戻るところか?」
「はい、そうです」
「そろそろ、高等部の校舎内も覚えられたか頃か」
「あ、はい……。でも、いつも通る場所以外はまだよくわからなくて……」
「そうか。まあ、ゆっくり覚えればいい」

高等部に入学して数ヶ月経つけれど、跡部先輩は度々こうやって声を掛けてくれて色々と学校生活のことを心配してくれた。今となっては、もうそれに対して「どうして」と聞いてくる人もいなくなった。

見守るように、優しく微笑む先輩の表情を見上げながら、嬉しいけれどどこか切ない気持ちになる。

(跡部先輩に、彼女がいないわけないのに……)

誰だって好きになる。私だけじゃない。跡部先輩は私のものなどではないって、ちゃんとわかっているつもりなのに、いざ先輩を目の前にすると言葉にできない思いが胸の中に溢れ出してくる。

「もうクラスには慣れたか?」
「はい、大丈夫です」
「そうか。何か困ったことがあったら、俺に言え」
「はい……ありがとうございます」

私ではない。

そんなこと、何年も前から知っているはずなのに。







「……イギリス、ですか?」

それは、いつもの様に先輩の家に招待してもらったときのことだった。メイドさんが並べてくれたおいしいお菓子を食べたあと、勧められるままに二杯めの紅茶を飲んでいると、跡部先輩が近々イギリスに旅行をする予定なのだと言った。

「ああ。今度の夏季休暇に行こうと思っている」
「そうなんですか。跡部先輩の、思い出の場所ですもんね。楽しんできてください」
「それなんだが、お前さえよければ一緒に来ないか?」
「……え?」

先輩は外国に出掛けることがよくあって、その度に、気を使ってお土産を買ってきてくれたりする。自分が行ったことも、およそ今後行くこともないだろう遠い場所の雰囲気を感じられることが、私はとても嬉しかった。

イタリア、フランス、オーストリア……だから、てっきり今回もそうなのだと思って、私はただ先輩が何事もなく無事に楽しく行って帰ってきてくれることだけを望んでいた。

「……あの、誘っていただけるのはとても嬉しいのですけど……」
「気が向かないか?」
「いえ、そんな……。でも、私なんかが先輩とご一緒に旅行なんて……」

考えたこともない。だって、こんな風に一緒に過ごしてもらえることさえ、未だに信じられないくらいなのに。それが、まさか旅行なんて。ありえない、と心の中の私が言う。

跡部先輩なら、外国へ行ったとしてもとても見栄えがするだろうし、それに語学も堪能でどんなにかスマートなことだろう。美しい風景も、きっと先輩に似合う。だけど、自分がそうだとは思わない。そんな先輩の隣を歩けるような人間だとは思えない。

「遠慮なら、そんな必要はない」
「……は、あの……」

跡部先輩は優しいから、もしかしたら、気を使ってそう言ってくれているのかもしれない。
きっと、先輩が外国へ行くのだと言う度、私はそれをどこか羨ましそうな顔をして聞いていたのだろう。だから、こうして誘ってくれたのではないだろうか……?

「……」
「少しでも興味があるなら、どうだ?お前がいてくれると俺も助かるんだが」
「……え?」
「旅行なんてのは、案外退屈なもんだ。それがイギリスなら尚更だ。……だが、が一緒なら色々と連れて行ってやりたい場所もあるし、それなりに暇が潰れそうだ」
「……あの、でも私……」
「お前は何も心配しなくていい。必要なものはすべてこちらで手配する。はただ、当日家で迎えを待っていればそれでいい」
「……は、はい」

結局、気が付けば、よくわからぬうちに先輩の誘いを受けてしまっている自分がいた。そんなの、どんなにか厚かましいことだろうと思うのに、それでも先輩が私のことを必要としてくれていることがとても嬉しくて、つい頷いてしまった。

(……先輩)

もう少し、そばにいてほしいと跡部先輩が言ってくれてから、もう3年が経っていた。一体それはいつまでなのだろうと思いながらも、これまでそんな話は出なかったし、終わりが見えるようなこともなかった。

先輩はずっと、いつも変わらずに優しいまま。けれどいくら私のことを気に入ってくれているといっても、結局のところそれが何故なのかはわからずにいたし、聞けずにもいた。

(なぜ私なんですか。それはいつまで続くんですか)

今が幸せならそれでいいと思うのに、それでも私はいつもどこか不安だった。一度手に入れてしまった大切なものを手放さなければならないのは、どうしようもなくつらく感じるから。

……けれどそれはあまりに出過ぎた願い。
そんなの、私には願うことも許されないくらい。

いつ捨てられたって、それは当然のこと。私はそれを受け入れなければならない。つかの間の幸福な夢に、なんてありがたいことであったと感謝しなければない。

ある日突然、「消えろ」と言われれば、すぐにそのとおりにしなくてはならない。


「詳しいことは、また連絡する」
「……あ、はい……」
「どうした、何か気に掛かることでもあるのか」
「いいえ……何も」

無理に笑ってみせても、それはたぶん引きつっていたとわかる。「消えろ」と言う先輩を想像してみたら、何故か急に心臓がどきどきとして苦しくなって、私は思わず胸の辺りを両手で押さえた。

まさか、跡部先輩がそんなこと言うはずはない。……けれど、そんなの、絶対と言えるだろうか。だって、私は本来は、先輩のそばにいることなんてできないはずの人間だから……。

(…………)



「……!」

気が付くと、向かいのソファに掛けていたはずの先輩が私のとなりに座っていて驚いた。

「具合でも悪いのか?それとも、何か心配事か」
「……い、いいえ、何もありません。大丈夫です。すみません……」
「何かあるのなら言え。俺に遠慮する必要なんかねえ」
「ち、違うんです、本当に。大丈夫なんです……」

否定しようと、胸から手を離して左右に軽く動かすと、それを先輩が片手で軽く掴むようにしたので私は全身が固まったように動けなくなってしまった。

きっと以前の私ならこの辺りで泣いてしまったかもしれないけれど、今の私の目から涙が溢れることはなくて、ただ視界に映る先輩の姿を震えるように見つめるだけだった。

『消えろ』

目の前の先輩の青い瞳はこんなにも優しい色をしているのに、想像の中の先輩はあまりにも冷たい、氷のような目をしている。それは絶対に解けることのない、永久凍土。見たこともない、鋼のように痛いブリザード。

それは、本当に跡部先輩なの?

そもそも、私は跡部先輩の何を知っているというの?一体、どれが本当の跡部先輩なのかなんて、そんなのわかりもしないのに。いつの間にか、知ったような気になっていた私。

ちゃんは特別な気がしていた」と言ってくれた友達の言葉を真に受けて、きっとそんな自分に優越感を覚えていたのかもしれない。私は先輩にとって特別な存在なのかもしれないと、思い込んでいたのかもしれない。

(……そんなわけ、ないのに)

跡部先輩なら、彼女の一人や二人、いて当然だもの。それも、すごく美人で性格も良くて、憧れのマドンナみたいなそんな人。先輩のとなりに並ぶならそういう人だと思うし、誰しもがそうであって欲しいと望んでいる。そう、それはきっと先輩自身だって……。

「本当に、何でもないのか」
「……はい、すみません。私、海外旅行なんてあまり経験がないもので……。少し、心配になって……」
「俺がそばにいるんだ、お前は何も心配しなくていい」
「……はい。ありがとうございます」

だから、こんな風に先輩が私によくしてくれるのには、きっと何か事情があるのだろうとわかっていても、3年間、それを聞く勇気などなかった。

私ではないと知りながら、ここを離れることができなかった。

(……跡部先輩……)

先輩のそばにいると、いつもいい匂いがして、とても心地がいい。安らぐような、癒されるような、そんな気分になる。それを知っている人は私の他に何人いるのだろう、なんて数を数えたところで、くだらないことだとはわかっている。

「もしかしたら」、なんてそんな幻想は早く捨てなければと思うのに、それでも、いつもいつまでも、そうすることはできなかった。


跡部先輩の温かな手の温もりを感じながら、この時が永遠になればいいのにと願う。

この世に、永遠なんてものはないと知っているのに。