陽の当たる白い部屋



学校が夏休みに入ると、私は以前跡部先輩に誘われたとおりイギリスへ旅行に来ていた。

2週間程の予定で、こちらに着いてからは有名な観光名所へいくつか連れて行ってもらったり、本場のアフタヌーンティーを味わったりもして、慣れない海外旅行にいくらか緊張しながらも楽しく過ごすことができていた。

「楽しいか?」

走る車の中で、イギリスの街並みや行き交う人々を眺めていると、となりに座っている跡部先輩にそう聞かれて、「はい」と答えると、先輩は「そうか」と言って少し目を細めた。

国が違うだけで、こんなにも別の世界のように感じるのだろうか。

近代的でありながらも、どこかクラシックな雰囲気を保ち続けるその風景。それでも、ここが跡部先輩の暮らしていた場所なのだと思えば、初めてだというのにどこか懐かしいような気さえするのも、また不思議だった。

滞在中に宿泊させてもらっているのは、先輩がイギリスで暮らしていたときに住んでいたというお邸で、こちらのお邸も日本のと同じくらい大きく美しく豪華な建物で、本当のお城のように思える。

初めの頃は綺麗な絨毯の上を靴で歩いたり、金色に光るドアノブを握るだけで気が引けてしまうようだった。跡部先輩は「何も気兼ねしなくていい」と言ってくれたけれど、なかなかそうもいかず、それなりに慣れるのにはだいぶ時間が必要だった。



。俺はこれから、少し用事があって出掛ける」
「あ、はい」
「慣れない場所でお前も疲れただろう。今日はゆっくり休んでいろ」
「はい、ありがとうございます」

大きなダイニングルームで昼食をとっていると、先輩がそんなことを言った。
午前中は近くの公園へ一緒に散歩しに行ってくれたり、色々と私に気遣ってくれていたけれど、忙しい先輩は、どうやらイギリスへ来たのも旅行だけの目的ではないようで、時折用事があると言っては出掛け行くのもしばしばだった。

それではせめて玄関までお見送りを、と思ったけれど、「ついてこなくていい」と言われたので仕方なく食べ終わると私はそのまま自分の部屋へと戻る。

私のために用意してもらったピンクを基調とした部屋は、とても広くて見上げるほど天井も高い。それに憧れていた天蓋付きの大きなベッドや、豪華なソファ、綺麗なインテリアなどばかりでまるでお姫様の部屋のようだと思う。

とりあえずソファに座ってテレビをつけてみるけれど、当然目や耳に流れ込んでくるのは英語ばかりで、私には理解することができなかった。諦めて消すと、今度は近くにあった本を手に取る。だけどこれもまたすべて英語で書かれているため、読むことができずに挿し絵だけをぼんやりと眺める。


(……先輩、早く帰ってこないかな)

イギリスに来てからは、いつも近くに跡部先輩がいてくれて、英語はすべて通訳、翻訳してくれていた。だから異国でも不自由に思うことはなかったし、寂しいと感じることもなかった。

だから今みたいに一人になると、私はなんだか急に不安になる。 自分は先輩がいなければ何にもできない人間なのだと思えば、寂しくなって、泣きたくなった。そばに先輩の姿がみえないと落ち着かない。

(もしも、このまま先輩が戻ってこなかったらどうしよう)

そんなわけはないのに、まるで子どものように不安になる。
私は目を閉じて、先輩の姿を思い出した。どんな時も凛々しく美しいその姿。優しく微笑む瞳は、まるで青く深く澄んだ海のようで……。

(…………)

そのまましばらく目を瞑っていて、いっそ眠ってしまえればいいと思っていたけれど逆に意識は冴え冴えとするばかりで、ちっとも眠れそうにはなかった。

私はソファから立ち上がると、部屋を出た。少しでも気を紛らわせるために、以前に「好きなように見て回っていい」と言ってくれた先輩の言葉に甘え、邸の中を散策して回ることにしようと思った。時折、すれ違う使用人の人たちに会釈しながらあてもなく歩く。

この建物の中はどこを見ても豪華な装飾が施され、所々に高価そうな絵や、壺などが飾られている。


「……ここは、どこなんだろう」

いくつも階段を上ったり下りたり、長い廊下を歩いたりしているうちに、ふと気が付くと私は自分が今どの辺りにいるかわからなくなってしまった。今までに通ったことのないような場所で、ずいぶん遠くまで来てしまったようだ。

邸の中は本当に広くて、私にとってはまるで迷路のようになっている。ドアは数えきれないほどあって、どれが正解なのかわからないし、運悪く通りかかる人もいない。

とりあえず自分の勘を信じてしばらく歩いてみたけれど、一向に見覚えのある場所に出ることはなく、むしろどんどん自分の部屋から遠ざかっていっているように思えた。

「困ったな……、どうしよう……」

迷子の子どものように泣きたい気持ちになりながら、辺りを見回すと、ふと一つのドアが目を惹いた。それは長い廊下の一番奥に佇む、白く大きく、金の装飾が施されているとても綺麗なドアだった。

なんとなく気になって、そろそろとドアノブを掴むと、ほんの小さな隙間を開いてそこから中を覗いてみる。そこは壁も床も一面が白い部屋で、中はシンと静まり返っており、とても誰かが暮らしている様子ではなかった。

この邸の中には空き室など数えきれないほどあるけれど、何となく、この部屋からは少し違う雰囲気を感じた。

そうして気になった私は、そうっとドアを開いて中へ入ってみた。そこは柔らかな午後の日差しが白いカーテンの隙間から漏れて、床を優しく照らしている。

誰かの部屋だったのだろうか?何もかもが白いこの部屋は、まるでいつかから時が止まったままのようだった。こんなにも綺麗で柔らかく、優しいけれど、どこか悲しくて理由もなく泣きたくなるような、そんな気持ちになる。

そっとカーテンをめくって外を見てみると、そこは中庭のようで、美しい白薔薇が一面を埋め尽くし、その中央に置かれた綺麗なメリーゴーランドは、動かないまま淋しそうに佇んでいる。

「お邸の中に、メリーゴーランドがあるなんて……」

これもやっぱり跡部先輩のものなのだろうか。すごいなあ、と思いながらふとコンソールの上に飾られた写真立てが目に入った。そこには、小さな男の子と女の子が映っていて、女の子が椅子に座り、その後ろに男の子が立っている。

スッと鼻筋の通った綺麗な顔立ちをしているこの男の子は、面影から、きっと跡部先輩の小さい頃なのだろうとわかったけれど、だとすると、この女の子は誰なのだろう?

何となく、跡部先輩に似ているような感じもする。同じように美しく端正な顔立ちをしているけれど……。そういえば、以前にどこかで見たような気がする。綺麗だけれど、どこか寂しそうな、青い瞳。

思い出そうとすると、なんだか胸が苦しくなって、泣きたいような気分になるのが不思議だった。 そうしているうちに、少し遠くの方から私を探す執事のミカエルさんの声が聞こえたので、急いでこの部屋を出て声のする方へ向かった。

「ああ、さま、よかった。お部屋に伺ったらいらっしゃらなかったので、お探し申し上げました」
「すみません……ちょっと、迷ってしまいまして……」
「ご無事でようございました。先ほど景吾坊ちゃまがお戻りになられまして、白河さまをお呼びでございます」
「あ、はい。すぐに行きます」

私はその不思議な部屋をあとにして、跡部先輩の元へと向かった。一緒に旅行へ同行してくれたミカエルさんは、以前にこのお邸でも仕えていたことがあるらしく、さすが、内部を把握しているようで少しも迷うことなく目的の先輩の部屋へたどり着くことができた。

、一人にしてすまなかったな」
「いいえ、そんな……」

先輩の顔を見ると、そんなに長い間離れていたわけではないのに、なんだかとても懐かしい気持ちになって、すごく安心する。できれば、片時も離れずにずっとそばにいたいけれど、そんなこと言えるはずもない。

「何をしていた?」
「あの、お邸の中を見て回っていました。そうしたら、迷ってしまって……」
「そうか」

照れ笑いをしながらそう言うと、先輩が優しく微笑んだので、なんだか胸の辺りが苦しくなる。

「この邸はお前の気に入ったか?」
「はい。とても大きくて立派で、綺麗で、……それに、」

あの白い部屋のことやメリーゴーランドのことを言おうと思ったけれど、何だか気後れがして言えなかった。もしかしてあの場所には近づいてはいけなかったのではないかと、思ってしまったから。

「……それに……、あの、ごはんもおいしいですし」
「そうか」
「はい」
「……なら、よかった」

先輩は、イギリスに来てからもいつもどおりに優しいけれど、時折どこか物憂いげな表情をすることがある。微笑みながらも、少し淋しそうな雰囲気。私のせいだろうか?それとも、別に理由があるのだろうか。

「……ずっと、ここにいても構わないが」
「……え?」

どういう意味なのか理解する前に、先輩はすぐに「何でもない」と言ったのでそれ以上のことは聞けなくなってしまった。

それから、ソファに腰掛けて、何か考え事をしながら窓の外を眺める様子の跡部先輩を向かいから控えめに見つめることしかできずにいると、ふと部屋の中の花瓶に飾られた白薔薇が目に入った。

(……あれは)

あれは、いつか先輩が私に贈ってくれた、フェアビアンカ。……そういえば、先ほどの中庭を埋め尽くす白薔薇もフェアビアンカのようだった。跡部先輩によく似合う、とても美しい花。

(……この部屋から、あの中庭は見えないのかな……)

まるで楽園のようなあの場所。時が止まったかのような、静寂の世界。
一体誰がそこに住んでいたのだろうか。あの写真の女の子は誰なのだろうか?
……気になったところで、そんなこと先輩に聞けるはずもない。

ここはなんだか不思議なお邸だ。まるで、ずうっと前から、時が止まっているような。 美しいけれどどこか切ない。訳もなく泣きたくなるような、懐かしさがある。

時折見せる跡部先輩の物憂い気な表情に胸が苦しくなっても、私は、何も言えずにいた。