ラクリモサ



私は、美しい花園にいた。

柔らかな陽の光が包み込む中、まるでレースのように繊細な白薔薇が一面咲き乱れ、その中央では金色の装飾が施された白馬のメリーゴーランドが、優しいメロディとともに廻っている。

あまりにも幻想的で、儚く美しい世界。
天国と呼ばれる場所は、きっとここなのだろうと思う。

誰もいない楽園で、もう、悲しむことも、苦しむこともない。
終わることなく永遠に続く夢。

この上もなく幸福なはずなのに、何故だか涙が零れ落ちる。 その意味を知りたくても、教えてくれる人は誰もいなかった。




(…………夢……?)

瞼をゆっくりと開くと、視界に映ったのは天国ではなく、ベッドの天蓋だった。

まるで現実のように思えたけれど、よくよく考えればそんなはずはない。なんだか違和感を感じて目の辺りをこすると、指に涙がついて、泣いていたのだとわかった。あの、夢の中の自分のように。

(なぜ、あんな夢をみたのだろう……)

きっと、昨日、あの部屋へ行ったからだと思った。

あの、真っ白な部屋。まるで時間が止まったままのような、不思議な部屋。あの部屋から眺める中庭の風景はまるで夢の世界のようだった。中庭を埋め尽くす白い薔薇と、薔薇に囲まれて佇むメリーゴーランド。

見たこともないような美しい景色が印象的で、きっと、夢にみたんだ……。

(…………)

少し考えたあと、ふと時計を見ると、随分と寝坊してしまったことに気づき慌ててベッドから飛び起きる。
それから急いで支度をして小走りに広間へ行くと、そこには私の分の朝食のみが残されていて、すでに跡部先輩の姿はなく、私はさーっと青ざめた。

「あ、あの、寝坊してすみませんでした……っ」

ミカエルさんの姿を見つけて頭を下げると、それを制止して、どうかお気になさらず、と穏やかに笑う。

「お疲れなのでしょう。もっとお休みになられてもようございましたのに……」
「いえ、そんな……。あの、跡部先輩はどちらへ……?」
「景吾坊ちゃまなら、お出掛けになられましたよ」
「……そうですか……」

私が寝坊したから、呆れて出掛けてしまったのかな。少し落ち込んでいると、ミカエルさんがそんな私を気遣ってくれるので余計に申し訳ない思いがした。

反省しながら朝食というよりはブランチであろう食事をとったあと、食後の紅茶をカップに注いでもらうのをぼんやり眺めながら、跡部先輩はどこへお出掛けになったのかな、と考えていると、まるでそれがわかったかのようにミカエルさんが微笑む。

「坊ちゃまは教会へ行かれましたよ」
「……教会……、ですか?」
「はい。お望みであれば車でお送りいたしますが」

勝手に追いかけて行っていいものか迷ったけれど、他にすることもないし、私はお言葉に甘えて先輩のいるという教会まで車で送ってもらうことにした。


運転手さんにお礼を言って車を降りたあと、私は少し緊張しながら教会の中へと入った。すごく大きくて立派な教会で、気後れしながら遠慮がちに進んでいくと、壇上には聖歌隊がいて、美しい讃美歌が聞こえてきていた。

(綺麗な声……)

中はあまり陽が差し込まずに薄暗く、みんな、ずらりと並ぶ横長の椅子に腰かけて静かに耳を傾けている様子だった。跡部先輩の姿を探すと、他の人と同じように椅子に座って歌を聴いているようだったので、私は邪魔にならないように通路を挟んで斜め後ろの椅子に腰かけた。

手を組みながら目を伏せる、跡部先輩の端正な横顔は、やはりどこか悲しそうで、長い睫毛が微かに震えて見えた。

そんな先輩の姿を見て、なんだか胸が苦しくなる。

……やっぱり、来なければよかった、と思った。

見てはいけないものを見てしまったような、そんな気分になる。先輩はきっと、一人でここへ来たかったのではないだろうか。誰にも、触れて欲しくはなかったのではないだろうか。

早々にここを去りたかったけれど、来たばかりで席を立つのはなんだか気が引けて、結局しばらくの間そのままでいた。響き渡る讃美歌の歌声は、透き通るようで、悲しくなるほどに美しい。

薄暗い教会の中で、一際輝いて見えるステンドグラスに描かれた聖母マリア様は、優しく微笑んでいて、それを眺めながら私は胸の中でごめんなさい、と謝った。

それから少ししてタイミングを見計らい、先輩に気づかれないうちに、私は教会を出た。外で待っていてくれた運転手さんに、お邸に戻ってくださいとお願いして、その場所を後にした。

途中、ぼんやりと街並みを眺めながら、跡部先輩の悲しそうな横顔を思い出す。

(……ごめんなさい……)

私は先輩のことを何にも知らない。知ってはいけない。

それなのに。


お邸に戻ってから、私は、お庭をふらふらと散歩していた。部屋の中にいると色々と考えてしまいそうだから、と思ったけれど、庭に出たところでそれは同じことだった。

庭というは、あまりに大きすぎる。どこまでも広がって行く緑と、そこかしこに咲き乱れる美しい花。庭園の中央には、大きな噴水があって、水瓶を持った女神様たちの像が水に濡れてきらきらと輝いて見えるのを綺麗だと思った。

それから少し歩いて、庭の一番端のあたりにベンチを見かけたので私はそこへ腰掛けた。その場所はちょうど日陰になっていて、休憩するのに丁度いい。お邸の建物からも死角になっていて、誰かがゆっくり休むために作った場所なのかな、と思ったりした。

風がふわりと吹いてきて、私の髪を優しく揺らす。木々の葉っぱがさらさらと音を立てるのを聞きながら、私は、あの中庭のことを思い出していた。

あそこへは、どうやったら行けるのだろう。行ってはいけない場所だと思うのに、思い浮かぶのはそんなことばかり。

そうして、時折、跡部先輩のことを思い出しては胸が苦しくなる。

先輩は、昔の話をしたりしない。時々、私が子どもの頃の話題を振ってしまった時には、決まっていつも一瞬、なんだか淋しそうな表情をするし、そのうえ口が重くなる様子なので、これはあまり触れてはいけないことなのだと思ってそれからは気をつけるようにした。

何かあったのだろうか、と思うけれど、先輩は何も言わないので私は何も知らない。

どうして跡部先輩は、私をここへ連れて来たのだろうか。

触れて欲しくはない過去を過ごした場所へ、……どうして。



(…………ん、)

少し肌寒さを感じて目を開けると、いつの間にか私は考え事をしながら眠ってしまっていたらしい。空を見るとすっかりオレンジ色がかっていて、だいぶ時間が経ってしまったことがわかる。

いい加減先輩も戻ってきているだろう。早く戻らなくては、と思ってベンチを立とうとしたところ、私の名前を呼ぶ声が近づいてくるのが聞こえた。

「…………!」

その声の主の姿が見えると、それは跡部先輩だった。少し息を弾ませているようで、私のことを探してくれていたのかもしれない。申し訳なく思って、謝ろうと立ち上がると私の声の出るより先に先輩が私のことを抱き締めたので何も言えなくなってしまった。

「……ここに、いたのか」

優しく、それでも力強く抱き締められた腕の温もりを感じながら、急速に自分の鼓動が速くなっていくのを感じる。こんなにも先輩の体にぴったりとくっついたのは初めてで、どうしたらいいのかわからない。心臓の音がうるさいくらいに騒いでいる。

「……あ、あの、すみませんでした……」

なんとか絞り出した震えるような声で謝ると、跡部先輩は片方の手で私の頭を優しく撫でる。どんなにか心配を掛けただろう。心の底からごめんなさいと思うのに、それから手をつないでお邸の中へと戻る間、先輩は何も言わなかったので、私も何も言えなかった。

お邸に戻ると、ミカエルさんやメイドさんがみんな、急に姿を消した私のことを探してくれていたのだと知った。

「ご無事でようございました」とほっとしたように笑うミカエルさんたちに何度も頭を下げたあと、用意してもらった夕食をとっている間も、先輩は何も言わなかったので、怒らせてしまったかとだんだん不安になってくる。

今日は、寝坊して、先輩の後を勝手に追いかけて、その後姿を消して心配掛けて。自分でも、あんまりだと思った。後でもっときちんと謝らなくては……。

食事を済ませると、私は促されるままに先輩の部屋へとやって来た。そうして私のとなりに並んで豪華なソファに腰掛ける跡部先輩は、どこか気だるそうに肘掛にもたれている。

「あの、跡部先輩……今日は、すみませんでした」

様子を窺うように謝ると、伏せていた先輩の長い睫毛が揺れて、綺麗な青い瞳が私をとらえたので、少し緊張した。

「……
「は、はい」
「俺の、そばにいてくれないか」
「……え?」

気だるげな声で私の名前を呼んだあと、どこか苦しそうな表情でそんなことを言う先輩に、戸惑う。そうしてよくわからないうちに、体を起こした先輩の手がすっとこちらへ伸びてきて、私の左の頬を撫でたので、また胸の鼓動が速まってゆき、うまく思考が働かない。

「どこにも行かずに、俺の……近くに」
「……あ、の……」

しばらくその青い瞳に見つめられて、その時間はまるで永遠にも感じる。私は何も言えないまま、固まったように動けなかった。

「……何でもない。忘れろ」

先輩は手を私の頬から離すと同時に、そう言うと、ぱっと私から離れてそのまま立ちあがった。それから私の方を見ずに、「今夜はもう休め」と言った。

「……はい」

先輩は何かを思いつめている様子だった。それなのに、私には何もできない。何も知らない。聞けない。もしかしたら、その原因は自分なのではないか、と思った。思っただけで、何の根拠もないけれど。

ぼんやりとした柔らかいランプの明かりが灯る自分の部屋のベッドの上で、眠りにつく前、今日の跡部先輩の姿を思い出す。

先輩は、ここへ私を連れてきて、何か伝えたかったのではないだろうか。
それは先輩の過去に関係があるのかもしれない。

『俺の、そばにいてくれないか』

そう言う先輩の瞳は苦しそうで、淋しそうで、胸が締め付けられるような思いが、した。

それから日本に帰るまでの間、私はなるべく自分の部屋で過ごし、先輩に余計な心配をかけないようにした。 先輩は次の日からまたいつもどおりだったけれど、何となく私は緊張してしまっていつものようにできているか不安だったけれど、先輩は何も言わなかった。

出発の日、空港へ向かうため車に乗り込む前、私は一度お邸を振り返った。

もう二度と、ここへ来ることはないのかもしれない。そう思うと急に淋しくなった。初めて訪れたはずなのに、どこか懐かしさを感じるこの不思議な場所で過ごした時間は、まるで全部夢の中の出来事のようで。

記憶の中で揺らめく白薔薇は、いつまでも美しく風に揺れていた。