花の黙示録 イギリスで過ごした夢の様な時間をいつまでも忘れられないまま、秋が過ぎ、季節は冬に向かおうとしていた。 あれから、プライベートで跡部先輩と過ごすことはあまりなくなった。色々と忙しいようで、優秀な跡部先輩のこと、それは当然だと思うのに、厚かましくも寂しいと思ってしまう自分がいるのも事実だった。 「」 校舎内の廊下を歩いていると、聞き慣れた声に名前を呼ばれて、私は嬉しくてすぐに振り返る。 「跡部先輩」 「今日の放課後なんだが、予定は空いているか?」 「はい、大丈夫です」 「お前に、話したいことがある」 (……話?) なんだろう、と少し気にかかったけれど、久しぶりに先輩と一緒にいられることの方が嬉しくて、あまり深く考えなかった。 放課後、言われたとおりに生徒会室へやってくると、そこには跡部先輩だけがいて、座れと促されたので近くの椅子に腰かけた。 それから私の近くに座った先輩は、めずらしく少し口ごもった様子で、すぐに言葉を発しないので、どうしたのだろうかと、気になった。 「……先輩?」 伏しがちだった先輩の目がゆっくりと私の姿をとらえる。この頃はあまり感じなかったけれど、イギリスに滞在していた頃のように、どこか物憂い気な姿がそこにあって、あのお邸の記憶が一瞬にして蘇ると同時に、少しばかりの不安が頭の中をよぎった。 「どうか、したんですか……?」 「……。お前には、まだ伝えていなかったんだが」 「はい」 「俺は、高等部を卒業したらイギリスへ行って、向こうの大学へ入る」 「……え、」 イギリス?大学? 突然の話に思考がついて行けず、ただ言われた言葉を頭の中で繰り返すばかり。 けれど、心のどこかでは思い当たる節があるのも事実だった。イギリスに旅行している間、時々先輩はどこかへ出掛けていくことがあって、今思えばあれは大学の手続きとか何か、していたのかもしれない。 跡部先輩は私のような人間とは違う。 優秀で、才能があって、努力家で。目標とか夢とか、私には想像もつかないような周囲からの期待とか、たくさんのものを背負ってる。ずっと近くにいてくれるはずなんて、なかったのに。そんなこと、初めて出会った瞬間から、わかっていたはずなのに。 「……そう、なんですか」 精いっぱい笑顔作ったつもりだったのに、何だか頬の筋肉が強張ってちっともうまく笑えない。 「跡部先輩なら、きっと大丈夫ですね。頑張ってください」 引きつった笑顔でも、泣くよりかはマシだと思って、私は必死に嘘っぽい笑顔を作り続けた。そんな私のことを黙って見つめる跡部先輩の青い瞳は、どこか揺らめいて見える。 私は先輩にはおよそ相応しい人間ではないと知りながらも、いつのまにか、そばにいられることを当然のように思っていた。 (……ごめんなさい) ずっとこの手の中に握り締めていた宝物は、元々私のものなどではなくて。他の誰かのものだから、いつかは返さなくてはいけないのに、わがままな私はずっとそれを拒み続けていた。 まるで自分のものの様に思っていたそれを手放して、私は、これからどうしたらいいのだろう。 「さん?」 跡部先輩にイギリスへ行くと告げられてから、私はいつもどこか上の空だった。心の整理がうまくつけられずに、思考はぐるぐると着地点を見つけられないまま。 「ぼうっと歩いてると、危ないよ」 「……す、すみません……」 ふらふらと廊下を歩いている私に声をかけてきたのは、3年生の滝先輩だった。相変わらず、綺麗に切り揃えられた髪が、さらさらと揺れている。 「何か考え事?」 「いえ……」 「もしかして、跡部のことかな」 「えっ……」 思わずはっとして、滝先輩のことを見上げてしまった。滝先輩は、やっぱりね、という顔をして少し笑った。 「イギリス行きのこと、聞いたんだ」 「……はい」 「それで、そんな風に浮かない顔をしている、と」 すごいな、滝先輩には何でもわかってしまうんだな、と思った。 横を通り過ぎて行く生徒たちが、一瞬ちらりと私たちのことを見るけれど、すぐに視線をそらしては去っていく。 「きみは一緒にイギリスには行かないの?」 「……え……?そんな、行かないです。行けるわけないです……」 「ふうん。跡部は、きみに一緒に行こうって、言わなかったんだ」 「……言うわけないですよ……」 滝先輩は、何を言っているのだろうかと心底不思議だった。私なんかをイギリスに連れて行って、何の意味があるというのだろうか。でも、滝先輩は、ふざけるでもなく当然のようにそう話す。 「きみ、跡部のこと好き?」 「……な、」 さっきから、さらっとすごいことを口にする滝先輩に半ば呆然としていた。一体、何を言うのだろうか。しかも、こんな人の多い廊下で。そんなこと、口が裂けても言えるわけないのに。 黙秘していると、そんな私の様子を気にする風もなく、滝先輩はそれからもさらりと言葉を続ける。 「跡部は、きみのことを好きだと思うな」 「……そんなわけないです。違います……」 「どうして、違うと思うの?」 「……跡部先輩が、そう言ったんですか?」 「ううん、言ってないよ。俺がそう思っただけ」 本当は……、本当は。そうだったらいいのに、なんて考えてしまう自分が嫌で、必死に否定した。そんなこと、あるわけない。跡部先輩が私のことを好きだなんて、そんなこと、あってはいけないのだと、思う。 「違います、先輩が私のことを気に掛けてくれるのには、理由があって……」 「理由って?」 「……それは……、その」 知らない。そんなこと、私が知るわけない。 当然のように聞き返してくる滝先輩に見つめられて、言葉に詰まる。何も言えないまま、目が泳いでいるのが自分でもわかる。適当な理由を作ってしまおうかと思っても、何も思いつかない。 「知らないんだ」 「……」 図星で何も返せない私に、滝先輩はさらっとそう言った。思わずすみません、と謝ると、何で謝るの?と言われて、それにまたすみません、と返すことしかできなかった。 「じゃあ、跡部に聞いてみたら?」 そんな簡単に、言わないで欲しい。私だって、今まで何度も聞こうとしたけれど、でも、できなかった。怖かったから。臆病な私は、何かが変わってしまうのが怖くて、どうしても聞けなかった。 「……そんなこと、できません……」 「どうして?」 「……どうしてもです……」 「ふうん」 滝先輩は、長い睫毛を何回かパチパチとした後、「きみって、変わってるね」と言った。それは今、自分でも思っていたところなので、同感ですと心の中で相槌を打った。 「跡部に聞けないなら、樺地にでも聞いてみたら」 「……樺地先輩に……?」 突然樺地先輩の名前が出てきて、思わずきょとんとする。果たして、樺地先輩にそんなことを聞いたところでわかるはずもない、と思いながら、何年も前に一度質問したことがあるのを思い出した。 あの時、樺地先輩は何かを言いかけていた。結局そのまま聞けずじまいだったけれど、一体、何て言おうとしていたのだろう……? 『……サンは、……跡部サンの……』 (……私が、跡部先輩の……?) …………。 ……でも、もうすぐ、跡部先輩は遠くへ行ってしまう。 今さら、その理由を知ったところで、何の意味も……ない。 「いいんです。そんなこと……聞いても、もう、意味ないですから」 「……本当に、そう思ってる?」 「……」 そんなわけなかった。でも、もう、跡部先輩のことを考えるだけで胸が苦しくて、泣きそうになる。涙で、視界がじわりと視界がにじんでゆく。 『俺の、そばにいてくれないか』 先輩は、あの時そう言ったのに……どうして。 どこにも行って欲しくない。ずっと、そばで見つめていられたらいいのに。 覚悟はしていたつもりでも、本当はそんなのちっともできていなくて、いざその時になると、こんなにも心が乱れて今にも張り裂けそう。 「きみはそんなにも跡部のことが好きなのに、どうして隠そうとするの」 「……違います……」 滝先輩は眉間にしわを寄せて、私のことを不思議そうに眺めていた。こんな所で泣くなんて、と思いながらも堪え切れずにこぼれ落ちた一粒の涙が、すっと、頬をつたって下へ落ちてゆく。 あの人のことを好きと思うのは、まるで何かの罪悪のように感じた。 お前などが好きになってはいけない人だと、いつも、誰かに言われているような気がしていた。 きっと神様には、私が心の奥で跡部先輩を好きなこと、わかってしまったんだ。だから、先輩が私から離れていってしまうのはその罰なんだ。 (……ごめんなさい) なるべくそういった思考にならないようにしていたけれど、以前に先輩に抱き締められてからというもの、好きという感情は胸の中でどんどん膨らんで、大きくなっていくばかり。自分ではもう、止めることができない。 跡部先輩の柔らかな香り。胸の鼓動。温かい腕の中。優しく髪を撫でる手。 思い出すたびに胸が締め付けられるような思いがして、体が熱くなる。あれには深い意味はないと自分に言い聞かせても、心の中に棲む自分は、そうは思ってはくれない。 「好きになっても、いいんだよ。好きだって言って、いいんだよ」 滝先輩は痛ましそうに、私を見て言う。 「……いいえ、……だめなんです……」 それは私には決して手の届くはずのない、強く美しい人。 望んではいけない。願ってはいけない。 ……そう、思うのに。 |