面影



、話を聞いてたか?」
「……えっ、あ、すみません……」

跡部先輩と話しているというのに、私はいつの間にかぼんやりと考え事をしてしまっていた。

廊下を歩いていたところを先輩に呼び止められて、何事かを話しかけられたけれど、先輩の顔を見た瞬間に私の心臓がどきりと跳ねて、それからはもう違うことばかりが頭に浮かんでしまっていた。

『じゃあ、跡部に聞いてみたら?』

少し前に滝先輩に言われた言葉が、今も頭の中をぐるぐると駆け巡っている。滝先輩の言うことは正しい。わからないのならば聞いてみればいい。だけど、方法は何かわかっていても、この数年間、どうしても私はそれを聞くことができなかった。

結局、聞けないまま。知らないまま。私の大切なものは、もうすぐ遠いところへ行ってしまう。

「どうした、具合でも悪いのか」
「いえ、大丈夫です。すみません……」
「その割には顔色がよくねえな。午後は保健室で休んでいろ。樺地」

平気です、と言う前に、跡部先輩が樺地先輩の方を振り返って、私を保健室まで連れて行くように言うと、樺地先輩はそれに対していつもの様に「ウス」と返す。

「あの、私本当に……」
「樺地、頼んだぞ」

跡部先輩は軽く私の頭に手を置いたあと、立ち去っていってしまい、後には私と樺地先輩が残されてしまった。 私は焦って、大丈夫ですと言おうとしたけれど、その前に樺地先輩は「行きましょう」と言って歩き出してしまい、結局その後を追いかけることしかできなかった。

跡部先輩は、いつもすごく私の身体を気に掛けてくれる。少し具合が悪くなっただけでも、すぐに休めと言って、とても心配されるし、風邪をひいたときなどは先輩の主治医の先生に診せてもらったりしていた。

跡部先輩が私に優しくしてくれる度に、私はこの上もなく幸せに感じていたけれど、もうそんなこともなくなってしまうのだと思えば、急に胸が苦しくなって、また、涙が出そうになる。


「……着きました」

いつの間にか保健室の前についていたらしく、樺地先輩の声で慌てて我に返る。中に入ると、先生にどうしたのか尋ねられたので事情を話すと、ベッドに横になって休むように言われたのでそのとおりにした。

(……本当に、大丈夫なんだけどな……)

次の授業のこと考えながらも、今さら断ることもできずに、大人しくベッドへと横になった。

樺地先輩はすぐ戻るのかと思いきや近くの椅子へと座ったので、戻らないのかなと思いつつ、何となく口に出せずにいると少しして先生がカーテンの向こうから、用事があるので少し留守にすると言って出て行ってしまった。

この時間他に休んでいる生徒はいなくて、この部屋には私と樺地先輩の二人きりになった。

「あの……ありがとうございました。私一人で大丈夫なので、先輩はどうぞ戻ってください」

そう言ってみたけれど、樺地先輩は「ウス」とは言わず、椅子から立ち上がることもなかった。

(……?)

不思議に思ったけれど、それ以上は言えなくて、私は仕方なくとりあえず目を瞑る。

もしかして、跡部先輩に頼むと言われたから、私が休んでいる間ずっと付き添ってくれるつもりなのだろうか……?

シン、と静まり返った部屋の中では、壁掛時計の音だけが聞こえる。しばらくしても寝つけず、まぶたを開けて横を見ると当然そこにいる樺地先輩と、目が合った。

『跡部に聞けないなら、樺地にでも聞いてみたら』

急に、そんな言葉を思い出してしまった。
でも……もう、そんなこと知ったところで、跡部先輩はいなくなってしまう。

知りたいと言う自分と、知らなくていいと言う自分が、頭の中で主張し合う。先輩のことを考えると、また胸が張り裂けそうな気分になって、涙がにじみそうになったので慌ててこらえた。

(でも、もう、こんなにも苦しい……)

そうして、私は、気がつくと口に出していた。

「……あの、私、樺地先輩にお聞きしたいことがあるんです……」

ああ、もう今さら後には戻れない。こうなったらもう言ってしまうしかない。
樺地先輩は何も言わないけれど、静かに私の次の言葉を待ってくれているようだった。

「いつか、どうして跡部先輩は私に良くしてくださるのかお聞きしたことがあったんですけど……あの時、樺地先輩は何て言おうとしていたのか、ずっと、気になっていたんです……」

心臓がどきどきしているのが、苦しいくらいにわかる。

やっぱり、そんなことはもう忘れてしまっただろう。急に居たたまれなくなって、何でもないですと謝ろうとしたところで、樺地先輩はゆっくりと口を開き、静かな声で言った。

「……さん、は……」
「……」
サンは、跡部サンの……妹さんに、似ています……」
「……」
「……」
「……妹……?」
「はい……」

よくわからなくて、私は言われたことをただそのまま繰り返すことしかできなかった。

「跡部先輩には、妹がいるんですか……?」
「いました……」

……いました?過去形?

「今はいないということですか?」
「はい……」

いない……?何故?

樺地先輩の言っていることがすぐには理解できなくて、私は混乱していた。跡部先輩に妹がいるだなんて、一度も聞いたことがないし、他の生徒も誰もそんな噂など話していなかった。

けれど、私は少しして、ふと先輩のお部屋にあったオルゴールと、イギリスのお邸にあった写真のことを思い出した。あそこに映っていた、儚げな、美しい少女。もしかして、もしかしたらあの子のことなのだろうか……?

よみがえる、あの切なく美しいメロディ。

亡き王女のためのパヴァーヌ……。


「……その、妹って……オルゴール、の……」

心臓がどきどきしていて、何だか呼吸が浅くなっていくような気がした。

「私……その、見て……写真……」

訳も分からず泣きたくなって、視界がじわりとにじんでゆくのを止められない。自分でも何が言いたいのかよくわからなくて、頭の中に浮かんでくる言葉を、ただひたすらにそのまま口に出していくことしかできない。

そんな私を、樺地先輩は何も言わずに見つめていた。

「……私、……知りませんでした……」

跡部先輩が時折見せる陰った表情も、昔の話になると途端に口が重くなるのも。
すべてそうだったからなのだと悟った。

(きっと、跡部先輩の妹は、もう……)

先輩は、ずっと、私のことを妹に重ねていたのだろうか……?

長い間疑問に思っていたことの答えがやっと見つかったような気がしたけれど、それは想像していたよりももっとずっと、釈然としない。もやもやしたものはどんどん大きくなっていって、ちっとも、嬉しいとは思えなかった。

「……似てなんか、ないです……」

目の端から、たまった涙が下へとつたってゆく。

思い出す、あの少女の姿。可愛くて、綺麗で、まるでお人形のようだった。


やっとわかったはずなのに、また、わからないことばかりが増えてゆく。
なぜ私……?あの少女になんて、ちっとも似ていないというのに。似ても似つかないというのに。

(……苦しい)

泣き続ける私のことを、樺地先輩は心配そうな顔で見つめていた。

「樺地先輩、は……知ってるんですか?妹……のこと……」
「はい……」

小さい頃からずっと跡部先輩と一緒にいた樺地先輩は、当然妹のことも知っているのだろう。私は到底知り得ないようなことも、みんな、全部知っているのだろう。

私は跡部先輩のことを何も知らない。知ってはいけないのだと、思っていた。だから、聞かなかった。それでいいと思っていた。……けれど、どうして今こんなにも苦しい思いがするのだろう。

「イギリスの、お邸で……暮らしていました」

ぽつりぽつり、と話し始めた樺地先輩の言葉を、私はぼんやりした意識で聞いていた。ぽろ、とこぼれてゆく涙はそのままに、ただ、樺地先輩のことを眺めていた。

「跡部サンは、妹サンのことを……とても、大切にしていました……」

やっぱり、あの白い部屋はあの少女の部屋だったのだろう。
白薔薇の中庭も、美しいメリーゴーランドも。

あの日、イギリスで、跡部先輩を追いかけて行った教会で。先輩は、静かに目をつむって祈っていた。きっと、妹……のことを想っていた。

私は、知らなかった。何も。……何も。


「跡部サンには……サンが、必要……です」

……必要?なぜ?
何を言っているのだろう。

「……そんなわけ、ないです……。私なんて、必要ないですよ……」

必要なんてないから、だから、イギリスに行ってしまうのだから。
樺地先輩は、何も言わなかった。

なんだか頭が痛くなってきて、少し眠りたいと思った。
そうしたらちょうど先生が戻って来て、まだ残っていた樺地先輩にもう戻っていいと言うと、先輩は、少し考えた様子のあと椅子を立って、部屋を出ていった。


目を瞑ると、浮かんでくるあの写真。幼い跡部先輩と一緒に映る、妹の姿。

やっと先輩の過去のことを知れても、嬉しいとは思えなかった。
この、言葉にできない感情は何なのだろう。

(……くるしい)

『好きになっても、いいんだよ。好きだって言って、いいんだよ』


そんなこと、できるわけない。

だって、私は……。