天使の標本 『さんは、跡部さんの……妹さんに、似ています……』 私が、跡部先輩の妹に……? あれから数日の間、ずっとそのことばかりが頭を離れなくて、もうこの頃はぼんやりとし続けていた。 「ちゃん。跡部先輩、大学イギリスに行っちゃうんだってね。聞いた?」 「……え、?あ、うん……」 「大丈夫?最近ずっとぼうっとしているね」 「ううん、平気……。ごめんね」 跡部先輩がイギリスの大学へ進学するということは、いつの間にか、校内中に知れ渡っているようだった。そして先輩の名前が耳に入る度に、私の心臓はどきどきと苦しくなる。 「寂しくなっちゃうね」 「……うん……」 私にそう話しかけてくる友達を、また別の友達が「ちょっとやめなよ」と肘でつつくと、つつかれた方の子ははっとした顔をしてごめんと謝る。彼女たちなりに、気を使ってくれているのだろう。申し訳なく思って、無理に笑顔を作った。 「平気だよ。ありがとう」 本当はちっとも平気なんかじゃない。寂しくて、悲しくて、今すぐに泣いてしまいたい。 世界で一番好きな人が、遠くへ行ってしまうなんて、とても耐えられない。けれど、私にはそれを止める権利なんてないし、そもそも私は先輩に必要な人間なんかではない。 『跡部サンには……サンが、必要……です』 (……妹、……だから……?) なぜ、私なの……? 「」 帰ろうとして校門へ向かっている辺りで、跡部先輩に呼び掛けられたので足を止めた。 まだそんなに遅い時間ではないのに、辺りはもう夕暮れで、オレンジ色がかった先輩のことをとても綺麗だと思ったけれど、まっすぐに顔を見られなくて少し俯きがちになってしまう。 「体調は、もういいのか」 「……はい。大丈夫です」 目を合わせられないまま、私は頑張って作り笑いをした。 「少し、話したいことがあるんだが……これから、時間はあるか?」 「……話、ですか……?」 何の話だろう?まさか、イギリス行きはなくなった、なんてことはないだろうし。早めの別れの挨拶だろうか?それとも、誰かと、婚約が決まったとか? マイナス思考ばかりが頭の中を駆け巡るけれど、断ることもできずに、私はそれにただ頷いた。それから車に乗せてもらって、先輩のお邸へと連れて行ってもらった。 メイドさんに注いでもらった紅茶を飲んでいる間も、先輩は何も言い出さないので不思議に思ったけれど、私から切り出すことはできなくてただ同じように黙っていた。 そうしてしばらくすると、連れて行きたい場所があると言うので、言われるままについて行き、お邸の中をずっと歩き続けた。どこまで行くのだろう?と疑問に思い始めたとき、着いた場所は、おそらくお邸の一番奥の辺りだと思う。 数メートルはある、木と鉄の装飾でできた重厚な扉を開くと、その中には小さな教会になっていた。何本ものろうそくの灯りが揺らめいていて、薄暗い中にも怖さは感じなかった。 (どうしてこんなところに、教会が……?) 木でできた長椅子が何列か連なっていて、先輩はその一つに腰掛けて私にも座るよう促したのでそのとなりへ腰を下ろした。 ろうそくの炎が先輩の横顔を照らすのを綺麗だと思いながらも、視線に気付いたのか、ふと目が合ってしまったので慌てて下を向いた。 「」 「……は、はい」 先輩が私の顔を覗き込むようにしたけれど、今顔を見たら泣いてしまいそうだったので、そちらの方を見られないままだった。 「以前に、俺はイギリスへ行くと言ったな」 「はい……」 「向こうの大学は秋からだが、高等部を卒業したらすぐに日本を発つつもりだ」 「……そう、ですか……」 やっぱり先輩はイギリスへ行ってしまうのだ。当然のことだと思うのに、胸が苦しかった。やめて欲しいなんて、言えるはずもなくてただ頷くばかりだった。 「……」 急に先輩が黙り込んでしまったので、どうしたのだろうかと顔を上げると、ふと目が合った。先輩の青い瞳の中で、ろうそくの炎は揺らめいている。まるで時間が止まったように、しばらく、そのままでいた。 「」 「…………はい」 跡部先輩が、伏し目がちに私の名前を呼ぶ。少しかすれたような声で、私の胸がきゅんと音を立てて苦しくなる。そうしてまた視線を上げた先輩の瞳と目が合った。 「イギリスに、一緒に行く気はないか……?」 「……え……?」 突然、何を言うのだろう。 私はそのまま固まってしまって、何も答えられないままだった。 「お前には、俺の……そばにいて欲しい」 以前にも、同じことを言われたことを思い出した。先輩は、あの時も、今みたいに苦しそうな表情をしていた。どうしてそんな顔をするのか、その時はわからなかったけれど、今ならば、わかるような……わかってしまうような、気がした。 しばらく沈黙が続いたあと、私は浅い呼吸の中、恐る恐る口を開いた。 「……私、が……。妹……、に似ているから……ですか?」 先輩の瞳は一瞬はっとしたように見開いたけれど、すぐに元に戻った。やっぱり言わなければよかっただろうか。でも、頭で考えるよりも先に口に出してしまっていた。 「樺地に、聞いたのか?」 「……ごめんなさい……」 「いや、謝らなくていい。話していなかった俺が悪い」 「……」 否定しない。やっぱり本当なんだ。跡部先輩には、妹がいたんだ。 そう思ったら、呼吸はもっと浅くなっていって、どんどん胸は締め付けられていく。 「そうだな……お前は、どこか妹に似ている。自分でも不思議だが、初めてに会った時、そう……思った」 「……似て、ないと思います……私……」 「妹を知っているのか?」 「写真を、見てしまいました……。先輩のお部屋で……」 「そうか」 「私には、似てません……」 「いや、容姿じゃない」 容姿じゃない……?じゃあ、一体どこが似ているというのだろうか。疑問は口に出せないまま、先輩は言葉を続けた。 「に初めて会った時、背中に翼が見えた。妹は……天使だったから。だから、妹のことを思い出した」 「……翼?私、に……?」 「ああ。そんな気が、した」 天使……?翼……?よくわからないけれど、真剣に話している先輩に何も言えなくて、ただその揺れる長い睫毛のあたりを眺める。先輩はそれからも、懐かしい記憶を辿るように、静かに話し続けた。 「妹はと同い年だった。生まれつき病弱で、俺が中学に上がる前に病気で亡くなった。必ず守ってやると言ったのに、俺にはそれができなかった」 「……」 「それから、頻繁に妹の夢を見るようになった。何年間も。まだ妹が生きていた頃の……イギリスの邸で暮らしていた頃の、夢だ」 まるで時間が止まってしまったかのようなあのお邸は、かつて先輩が妹と共に過ごした大切な思い出の場所だったのだ。だから、私を連れて行ったのだろうか。妹のことを思い出すために……? 「といると、妹と一緒にいるような気がして……懐かしかった。お前が笑えば、妹も笑っているような、そんな気がしていたんだ」 「……」 跡部先輩のような人が、私に優しくしてくれるなんて、何か理由があるのだと思っていた。何の取り柄もないこんな私が、理由もなく良くしてもらえるはずがない。 私に翼……が見えて、だから先輩は天使になった妹のことを思い出して私に重ねていた。だから優しくしてくれていた。妹を助けてあげられなかったから。妹にしてあげられなかったことを、私にしていた。 この数年間、先輩はずっと、私越しの妹の姿を見ていたのだ。 (………) 「……私は……」 先輩の目を見つめているうちに、涙がじわりを湧き上がってきて、堪える間もなく、それはぽたりとこぼれて頬を伝っていった。 「……私は、妹の代わり……ですか……?」 必死にしぼりだした声は、最後の方震えていた。涙は、次から次へとこぼれてゆくけれど、どうして泣いているのか、自分でもわからなかった。 本当は、心のどこかで、先輩は私のことを好きだと思ってくれていればいいのにと願っている自分がいた。そんな考えはいけないと思う一方で、きっといつも期待していたに違いない。 でも、先輩が見ていたのは私ではなかった。 先輩の大切な、妹に重ねていただけ。……私じゃない。 「……、黙っていてすまなかった。お前を傷つけるつもりはなかったんだ」 私の質問に、先輩は「違う」とは言わなかった。そうしてその手が、そっと私の頭を撫でるけれど、行き場のない悲しみは収まらない。この感情は、一体何……? 『跡部サンには……サンが、必要……です』 違う。先輩に必要なのは私じゃなくて、妹の方だ。先輩は妹のことが大切だから。私はただの身代わりだから。 私のことなんて、先輩は見てくれない。 きっとこの先も……ずっと。 「……私、……私。……イギリスには、行きません……」 あんなにも優しくしてくれて、大好きだった跡部先輩のことが、急に嫌いになってしまいそうな自分のことが本当に嫌だった。だけど、渦巻く自分の感情を止めることができない。 先輩はこれまで、妹を亡くして、どれだけつらい思いをしただろう。私などには到底知り得ない、悲しみや寂しさ。 なのに、自分はなんて最低だ、とそう思うのに、我儘な私は、どうしても受け入れることができなかった。先輩は寂しそうな顔をしていて、それを見ると胸が苦しく心が引き裂かれるようだった。 「……、すまなかった」 炎が揺らめいて、美しい先輩の顔を照らしだす。私と同い年の先輩の妹なら、生きていればどんなにか美人だったろう。先輩やご両親に大切にされて、幸せに暮らしていただろうに。 「私は、……先輩の妹にはなれません……。だから……イギリスにも行けません」 私は泣きながらそう言った。そうしてしばらくの沈黙の後、先輩は静かに「そうか」とだけ答えた。 きっともう今後先輩に会えることはないのだろうと思えば悲しくて、でも自分にはそんな風に思う権利もなくて、一体どうすればよかったのだろうと考えてもわからない。 なぜあの日、あのテニスコートで出会ってしまったのだろう。 どうして、私に翼が見えたりしたのだろう。 聞かなければよかった。知らなければよかった。 テニスコートには行かずに、あのまま、いっそ出会わなければよかったのに。 そうすれば、こんな風に優しい跡部先輩を傷つけることもなかった。 (ごめんなさい) いつの間にか、自分の中でこんなにも先輩に対しての独占欲が大きくなっていただなんて、自分でも知らなかった。もう妹はこの世にいないのに、私は、先輩をとられてしまったような気がしていた。 「……ごめんなさい……」 先輩の寂しそうな青い瞳が、まるで胸を突き刺すように、苦しくて……。 私はただ泣いて謝ることしかできなかった。 |