追憶、花に埋もれて



イギリスへ渡ると決めてからの時間は、まるであっという間に過ぎていったように感じた。 夜、自分の部屋で荷造りしながら、ふと壁に掛っている氷帝学園の制服に目をやる。

(……これを着るのも、明日で最後か)

明日は高等部の卒業式。
挨拶はすでに考えてある。式後の謝恩会の段取りもすべて整えた。
それなのに、心の中にはなにかやり残したことがあるような気が、ずっとしていた。

(…………)

一緒にイギリスへ行かないかと言ったあの日から、と話をすることはなかった。校内で見掛けても、俺に気づくとは避けて行ってしまうので、無理につかまえることもできなかった。

『……私は、妹の代わり……ですか……?』

の涙を思い出すたびに、胸の苦しくなるような思いがする。

(…………)

いつ頃からか、を妹の身代わりにして、記憶の隙間を埋めようとしている自分がいることに気がついた。 妹に何もしてやれなかった分、に何かをしてやれば、赦されているような気がしていた。

赦されるつもりなど、なかったはずなのに。

それが間違っていることとは知りつつも、自分ではどうにもできないまま。
やっと手に入れた、思い出を満たすものを手放すのは、苦痛に思えた。

このまま日本で進学することも考えたが、将来、跡部財閥を継ぐために学びたいことがたくさんあるし、今のうちに色々な経験を積んでおくべきと考え、最終的にイギリスへ行くことに決めた。

俺は一体、をイギリスへ連れて行って、どうしたかったというのか。

結局は、自分のエゴにを付き合わせていただけなのだろう。だから、ずっと妹のことも伝えないままでいた。

……俺は、ただ、そばにいてほしかった。

に泣かれて、どうしたらいいのかわからなくなって混乱した。傷つけるつもりなんて、微塵もなかった。けれど、結果俺はを傷つけて、泣かせて、そして失ってしまった。

もう二度と、この手には戻らない。
も……妹も。



「跡部先輩、ご卒業、おめでとうございます!」
「……ああ」

卒業式の後、校舎前で大勢の下級生女子生徒に囲まれながら、の姿を探したが見当たらなかった。壇上からのクラスの位置を眺めた時にはいたはずだが、もう帰ってしまったのだろうか。

……せめて最後に、もう一目姿を見たかった。

代わる代わる俺に挨拶をしていく女子生徒たちを眺めながら、俺はただ一人の姿だけを思い浮かべていた。



「向こうの大学は秋からだけど、もうイギリスへ渡るのかい?」

謝恩会で、俺のとなりに座っていた萩ノ介がそんなことを言った。

「ああ。早めに慣らしておきたいし、やっておきたいこともあるからな」
「ふうん、そう。何だか寂しいな、跡部がいなくなっちゃうなんて」

萩ノ介はべつにふざけている風でもなく、本心なのか、ぽつりとそう言った。

苦楽を共にしたこいつらと離れることは、寂しくないと言えば嘘になる。けれど、俺にはそんな風に口には出せないから、素直に言える萩ノ介のことがどこか羨ましかった。

「ところで、最近さんと一緒にいるところ見ないけど。何かあった?」
「……何、」
「今日も姿見えなかったよね、卒業式なのにさ」

突然の話題を振られて、少し動揺した。そう言えば、萩ノ介は何かにつけてのことを気に掛けていたことを思い出す。

「べつに、どうもしねえよ」
「……ふうん」
「何だよ」
「だって、跡部って、いつも彼女出来ても素っ気ないし、すぐに別れちゃうのに。あの子のことは、随分と気に入って可愛がってるみたいだったから」
「……」
「俺はてっきり、イギリスにまで連れていくのかと思ってたよ」

萩ノ介の言葉に、あの日のの涙が記憶によみがえって、一瞬フォークとナイフを動かしていた手が止まる。

「うるせえ。お前には関係ねえことだろ」

これ以上の話はしたくなかったので、突き放すようにきつく返しても、萩ノ介の表情は少しも変わらなく平気な様子でそれに続けた。

「俺は、さんと一緒にいる時の跡部好きだったけどな」
「……何言ってんだ、テメエ」
「すごく幸せそうに見えたよ、俺には」
「……」
「事情は知らないけどさ。……跡部には、彼女が必要なんじゃないかな」

がそばにいた日々は確かに幸せだったように思う。柔らかい笑顔や、穏やかな心地良い声。一緒にいると、心が癒されていくようだった。失ったものを取り戻せるような気がした。

けれど、そんなものは錯覚に過ぎない。はもういない。妹も、過去も、すべていなくなってしまった。

「……ごめん。余計なお世話だったね」

黙り込んでいると、萩ノ介は何かを察したのか謝った。そうしてそれから謝恩会が終わるまで、二度との名前を口に出すことはないまま、最後には元テニス部の奴らと一緒に俺のことを送り出してくれた。

その他諸々の用事を済ませた後、やっと家に戻った頃には俺は疲れ果てていた。
制服から着替える力もなくベッドへと倒れ込む。眠るつもりはなかったけれど、次第に瞼が重たくなって、うとうととしてしまった。




「……さま。おにいさま」

白薔薇に埋め尽くされた中庭で、白いドレスを身にまとった幼い少女が俺を見つめて、微笑んでいる。色素の薄い髪が風に揺れるの見て、綺麗だと思った。

「おにいさま。おとうさまが、まわるお馬さんをくださったの」
「そうか、よかったな」
「わたくしが、お馬さんを好きなこと、ご存じだったのね」

廻るメリーゴーランドのメロディは、どこまでも優しく心地いい。

「わたくし、はやく元気になりますから。おにいさまも一緒に、お馬さんでたくさん遊びましょうね」
「ああ」

少女の頭を撫でてやると、にこにこと嬉しそうに笑っていた。
この上もなく幸せだった。これ以上何も要らないと思えるくらいに、満たされている気分だった。

けれど、気がつくと目の前に少女の姿はなく、見ればただ、誰も乗っていなメリーゴーランドの白馬たちだけが廻り続けていた。

どこへ行ったのだろうと、少女の姿を探して辺りを見回してみても、誰もいない。ただ、風に吹かれた白薔薇たちだけが、さわさわと音を立てるだけだった。



「……、夢……か?」

瞼を開いたとき、一瞬夢と現実の区別がつかなかったけれど、少しして気分が落ち着くと夢なのだとわかり、自分に言い聞かせるために口に出して言った。

時々夢に現れる、妹の姿。何かを伝えたいのか、それとも俺自身がいつまでも過去に捕らわれているだけなのか。

何回か深呼吸をした後に立ちあがり、チェストの上のオルゴールの蓋を開けた。
中から流れてくるのは、亡き王女のためのパヴァーヌ。悲しげなメロディが、沈黙する部屋の中で静かに震える。

蓋の裏側に入っている写真には、在りし日の妹の姿。が俺の部屋で見たと言っていた写真は、これだろう。それ以外の写真は俺の部屋には置いていない。

(……

お前を失ってまで。
俺は一体、何が欲しかった……?




日本を発つ日の朝、俺は邸の中にある教会にいた。日中でも薄暗いこの部屋の中では、キャンドルの灯りがいくつも揺らめいてる。

俺は祭壇の前に立って、手を組み祈りを捧げた。祭壇の上には、毎日きちんと白薔薇が飾られていて、今日も儚くも美しく祭壇を埋め尽くすように咲いている。

この教会は、日本に来てから、父親が妹のために邸を改築して建てた。いつでも祈りが捧げられるように、と。

(…………)

お前は、幸せだったのか?
あの短すぎる時間の中で、俺は、お前に一体何をしてやれただろう。

お前は……俺を、赦してはくれるのか……?


夢の中で微笑む少女の姿を思い出し、問いかけてみても、当然答えはない。
祭壇の白薔薇が、金色の燭台のキャンドルの灯りに照らされて、淡く色づくのを静かに眺める。

その時、ギイ、と扉の開く音がして後ろを振り返ると、そこには樺地がいた。腕時計に目をやると、もうじき邸を出る時間になっていた。ずいぶん長い間、ここにいたらしい。

「悪かったな、樺地。俺を探したか?もう出ないとな」
「……」
「……どうした?」

ここを出ようと扉に近づいたところで、何も答えない樺地を不思議に思い、立ち止まってそちらを見ると何か言いたそうにしている。

「何だ、何かあるなら言ってみろ」
「……」
「……?」
「……サン……には……?」

急にの名前が出て、どきりとした。おそらく樺地としては、「最後にに別れの挨拶をしなくてもいいのか」ということを言いたいのだろう。

今まで、のことを口に出したことなどなかった樺地が、突然その名前を出してきたことに少し驚いた。

には……会わねえし、連絡もしない」
「……」
「それが、どうかしたか」
「……いえ」

それきり、樺地は何も言わなかった。

樺地には、とのいきさつを話していなかったから、何故突然がいなくなったのか、不思議なのだろうが。いずれ話そうと思っていたつもりだが、結局、話せないまま今日になっていた。

樺地なりに、のことを気に入っていた様子だった。けれど、もう会うことはないだろうし、事情をいつ話せるかもわからない。どこか寂しそうな樺地に心の中で悪いとは思いながらも、何も言えないまま、俺たちは日本を発った。


自家用ジェット機から見下ろす景色はどんどん小さく、遠く離れていく。

あの中のどこかにがいるのだと思えば、何だか、急に名残惜しい気分になって、俺は未練を断ち切るために窓の日よけを下ろした。

『……ごめんなさい……』

最後に見たの顔は、悲しそうで、涙に濡れていた。
瞳を閉じてどんなに記憶を巡らせても、笑った顔を思い出せない。

あんなにそばにいたのに。何年間も、ともに過ごしたのに。
今はもう、泣いた顔しか思い出せない。

ふと視線を上げると、向かいの席に座っている樺地が心配そうに俺のことを見ているのに気がついたので、軽く笑って「何でもねえよ」と言った。


ロンドンに着くと、雨が降っていた。

行き交う人々の表情は傘に隠れて見えず、車の窓をうつ雨は、次第に強さを増していく。静かに雨に濡れる街並みは、なんだか寂しそうで、泣いているようにも見えた。

(……

もう、二度とこの瞳に映すことはできない。
あいつの、微笑みも……涙も。


俺は、祈るように、そっと瞼を閉じた。